第17話 風邪と追憶①
森林区画での研修を無事に高評価で終えたその翌朝のこと。
私よりも少し早くに起きるのが常であるリンカが起きようとしない。あのクロスの使用によって疲労感が抜けないのかと思って、こっそりと彼女の寝顔をうかがう。
思わず「えっ」と声をあげてしまった。安らかな寝顔ではない。そっとその額に手を当ててみると熱い。彼女の平熱を把握してはいないが、つらそうな面持ちからしてこの熱は異常だと察する。
「ひんやりして、気持ちいい……」
うっすらと目を開いたリンカは私が額に置いたままにしていた手を弱々しく掴んで微笑んだ。
「リンカ、もしかして」
「あー……風邪、引いちゃったみたい」
まいった。看病の経験なんてない。
それに自分自身の多少の体調不良は購買部で売っている市販薬で乗り切ってきた私だ。
「ねぇ、ドロシー。ダメ元で聞くけど、治癒魔法の適性って……」
「もちろん、ない。学院内でも片手におさまる人数しかいないと聞いているわ」
治癒魔法の適性はそれほどに希少だ。自身の自然治癒力向上や倦怠感の緩和程度の魔法であれば使える生徒は少なくないが、治癒師として公認されるレベルの人材となると、アリオト魔法学院からは年に一人輩出されるかどうかだ。
「解熱剤なら持っているわ。食欲はある?」
「起きたばかりだから、そんなに」
「そう。……適当に用意しておくわね。吐き気はどう?」
目を閉じて「大丈夫」と言ったリンカは、私がその額から手を離そうとすると掴む力を強くして「学校行くの?」と不安げな声を出した。
「いいえ、今日は休むわ。濡れタオルを持ってきたいから手を離して」
「そばにいてくれる?」
「信用ないのね、私って。しかたないとはいえ、傷つくわ」
「行きたいなら行っていいんだよ? 真面目なドロシーは授業を休みたくないよね?」
「真面目だからじゃないわ。不出来だから、欠席が多いと進級に差し支える立場なの」
「だったら……」
「こんな状態で放っておいて学校に行っても集中なんてできるわけないでしょ。逆にいつもはしない失敗をしてしまうわよ。……そばにいさせて」
リンカは目を丸くして、それから「えへへ」と笑って私の腕を解放した。なんだかこっちまで熱くなってくる。今のところ容態はただの風邪なので学院医療室への連絡は不要だろう。
午前八時半、軽い食事を終えて薬を飲んだリンカが、そばで椅子に座って本を読んでいる私をちらちらと見てくる。
「何かしてほしいことがあるなら言って。お手洗いにならさっきみたいに肩を貸すわよ」
「う、うん。あのね、汗でベトベトなのが気持ち悪くて」
「ごめんなさい、気が回らなくて。そうよね、汗の始末をして着替えるべきだわ」
「……手伝ってくれる?」
「そのためにいるのよ」
私は横になっている彼女が身体を起こすのを手伝い、そしてその寝巻きをゆっくりと脱いでいく様を眺めた。彼女の汗の匂いに頭がくらりとする。決して強い匂いでないのに、やけに私の心をざわつかせる。そして露わになった肌もまた私の内側に熱を湧き上がらせている。風邪、うつったのかな。いやいや、そうではないだろう。
「替えの下着は、これでいいの?」
備え付けのチェストから特に考えずに取り出したそれらを示すと彼女が肯く。通学を始める前に学院街で何セットか彼女が選んで買ったものだ。機能性重視、安価なもの。
「こういう時を見越して、もっとセクシーなものを選んでおけばよかったかな」
「馬鹿なこと言っていないで、とるものとって。自分で拭けるところは拭くこと。背中は私が拭くわ。とっとと済ませましょう」
それは私自身に言い聞かせてもいた。時間をかけて彼女の身体を隅々まで拭くなんてことしたら、どうにかなりそうだ。リンカは魅力的だ、そう感じている自分自身を誤魔化せなくなってきている。
他の誰にもこの肌を晒して欲しくないと思っている自分がいるのに気づくと、手が止まりそうになる。
この綺麗な背中に口づけしたなら、どんな反応をしてくれるだろうと考えが浮かんで、なんとか振り切った。
「ねぇ、ドロシー」
「汗拭き、着替え。次は何をご所望?」
「何か話をしてほしいな」
再び横になったリンカがそう言ってくる。朝一番で目にした彼女と比べると顔色が良くなっていた。この分なら午後には元気になってくれそうだ。
「そうね……この世界の昔話はどう? 知らないでしょう? 小さい頃に母が私を寝かしつけるときによく聞かせてくれた話があるのよ。うろ覚えだけれど」
「それはまた別の機会に。私、ドロシーのこと、もっと知りたい」
私だってあなたのことを、と言葉を飲み込む。そうすることができたのにリンカは「私のことは、元気になってからね」と笑いかけてくる。お見通し。私、思っていることが顔に出るタイプではないはずなのに。こんなにも容易く見透かされては恥ずかしい、そしてなぜだか少し嬉しい。
「具体的に何か聞きたいことが?」
「うん……聞くか迷っていたことがあるの。確かめるのがちょっと怖くて。でも、今なら聞けるかなって」
「楽しい話じゃなさそうね」
「……訊ねないほうがいい?」
「今ここでやめられたら、中途半端でもどかしいわ。教えて。何を確認したかったか」
そしてリンカは私にとって忘れられない名前を口にするのだった。
「紙魚咲ドロシーの、幼少期から十四歳の冬まで共にいた使い魔。ソウセキについて」
私は膝の上に開いて置いたまま頁をめくらずにいた本をぱたんと閉じる。それからそれをサイドテーブルに移すと、彼女の顔を見やった。緊張している。そんなの知らないわ、と答えでもしたらどんな顔になるんだろう。でも、そんな嘘つけない。つきたくない。
「知っているのね、あの子のこと。未来の私が話したの?」
「ちょっとだけ。名前と最期しか知らない」
「そう……。言ってしまえば、初等部から中等部にかけて私の唯一無二の友達であった子よ。人語を話せずとも私の言いたいこと、思っていることをわかってくれていた。ソウセキは魔物学上の分類としては、精霊に近い存在だったわ」
紙魚咲の名を継ぐ人間に代々仕えてきた魚型の魔物だ。大きさはちょうどサイドテーブルに置いた本ぐらいしかない。水場は必要なくて宙にふわりと浮かんで私についてきてくれた。その体表には鱗とともに花が咲いており、季節によって色や形が異なっていた。精霊図鑑には花咲魚として類似の存在が記録されている。
十歳の春、学院に入学するその日、母から離れて私を新たな主人としてソウセキが選んでくれたのだ。「これで寂しくないわね」と母は笑い、私も笑い返した。
「ずっといてくれると思っていたわ。精霊の寿命は百年以上、長ければ千年以上だと聞いていたから。実際、ソウセキに存在の消失の兆しはなかった。なのに私は……あの子を死なせてしまった」
「ドロシーを庇ってくれたんだよね……?」
そうだ、私のせいで死んだのだ。
十四歳の私はあの日、学院街へと一人で向かい、そして何を思ったのかどんどん奥地へと踏み込んでいった。どこまで行けるか確かめたかったのだと思う。
その日の直前に私は魔法の実技テストで何度目かの落第点を取ってしまい、教員から叱責を受け、周囲から嗤われもした。それで私は自分に自信を取り戻したい、ただそんな理由のために学院街を突き進み、そして……とある露天商で足を止めたのだ。
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