最終話 『小さな恋のうた』
ドンドンと、轟音が響く。
夜空を彩るはずの花火は、白煙の向こう側で鮮やかに霞んでいた。
それでも、所々から歓声やスマホカメラの、シャッター音が聞こえてくるのは、きっと、この花火が誰かにとって特別だから。
「……花火、綺麗だね」
「うん。でも、下駄は残念だったね」
「ううん! 気にしないで! それに私は……こうしてるだけで、幸せだから」
えへへ。と、気恥ずかしそうに微笑むと、男性らしい腕にキュッと腕を回す。
「……っ! そ、そっか」
「えへへ……。また、来年も一緒に花火見ようね」
「うん」
嬉しそうに微笑みあった両者。
きっと、それを色で表すのなら、間違いなく『青』なのだろう。
理屈でも、なんでもない。
ただ、目の前の青春に、心臓の音を早めている。
……。
「花火、綺麗だなぁ……」
そんなカップルの後ろを、流されるように歩いていた私は、ふと、頭上に目を向ける。
白煙の切れ間から除く、青と赤。
ピカっと光って、すぐに溢れて。
儚さと、切なさ。
イヤホン越しのくぐもった轟音は、お祭り後の、誰もいない屋台群とちょっとだけ似ていた。
聞いていた曲が終わり、次の曲が勝手に流れ出す。
ちょっとだけ音質の古い、ギターとベース。
『広い宇宙の、数ある一つ』から始まった、あの有名な歌。
……ほんと、どこもかしこも青春ばかりで、困っちゃうな。
私は音量を少し下げると、ゆっくりと鼻から息を抜く。
スマホに表示された『20:05』。
もう時期花火も終わる。
……。
私はさっきまで彼と繋いでいた方の手で、缶バッジをキュッと握り締めた。
その瞬間。
「きゃっ!」
という声と同時に、何か柔らかくて大きなものにぶつかった。
私がスマホに気を取られているから、前から来た人とぶつかったのだろう。
咄嗟に、「す、すみません」と頭を下げる。
すると。
「いえいえ、私も……って、詩帆ちゃん?」
そんな、聞き覚えのある声に、私は「へ?」と素っ頓狂な声で、顔を上げる。
そこには、綺麗な黒髪で、おっとり系美人の、見覚えのある顔があった。
すぐに、あのランニングの日のことを思い出して、私はハッと息を呑む。
「え、ふみちゃん先生?」
「篠崎だよぉ〜もう……ふふっ。なんか久しぶりだね」
やんわりとした微笑みに、私は息を吸う。
浴衣姿の彼女は、以前見た時よりも、色気がすごかった。
イヤホンを外すと、私も微笑みを返す。
「お久しぶりです。先生は1人で来たんですか?」
「ううん。一応彼と来たんだけど……私が焼きそば食べてる間に、どっか行っちゃって……。いい年して迷子なんて、ホント信じらんないよー」
そう言って、ため息をついた先生に、私は苦笑いを浮かべた。
「でも、まさかここで会うなんて、ホントに偶然だね。詩帆ちゃんも花火見に来たの?」
彼女の言葉に、小さく息を吸う。
「……はい。花火を見に来ました。でも、帰ろうと思います」
私が言うと、文乃さんは「え……」と、息を漏らす。
いつも笑顔な彼女の、表情のトーンが落ちるのがわかった。
……いけない。せっかく楽しんでる文乃さんまで、落ち込ませちゃう。
これは女子校に通っているゆえの、共感認知力のせいだろう。
私は、咄嗟に笑みを作ると、片方の足を前に出す。
「じ、実は下駄の鼻緒が切れちゃって……歩きにくいんで帰ろうかなって! それに、今バスに乗った方が混んでないし、一石二鳥……かなって!」
あはは。と笑って、足元に一瞬目を向ける。
赤色の鼻緒に結ばれた、白いタオルが揺れて、思わず、目頭が熱くなった。
「……だから、先生は花火を楽しんで」
それじゃ。と、心配そうな表情を浮かべる、彼女の横を通り過ぎる。
どうか、今日ここで私と出会ったことを、忘れてくれますようにって、思いながら。
……。
「待って」
そんな声と共に、袖を掴まれ、私は振り返る。
そして次の瞬間。
「——っ!」
私は、柔らかくて温かいものに包まれた。
ムスクだろうか、甘い匂いを吸い込むと、私は口を開く。
「……先生? 急にどうしたの? てか、先生も彼氏さんのこと探さないと……」
だけど、返ってきたのは。
「頑張ったね」
そんな、突拍子もない言葉だった。
思わず目を見開いて、口を開く。
——急にどうしたの先生。あ、もしかして頑張って歩いたねってこと? もぉー。こう見えても私、運動得意なんだから。
……なんて。
そんな事を言えればよかった。
小さく開いた口が、やがて震え始める。
「あ、あはは……」
視界の先で、ぼんやりと花火が滲んできて、私は唇をキュッと結ぶ。
だめ……。
だめだよ私。
泣いたら……全部終わっちゃう。
……。
「……がん……ばった。初めて……こんなに緊張した……」
「うん」
「……でも……でも……っ!」
そこまで言って、とうとう涙が溢れてしまった。
止めどなく頬を伝う涙に、嗚咽が漏れる。
きっと、駄目だったとか、本当に好きだった。とか。
そんな事を、わんわん泣きながら、ずっと文乃さんにぶつけていたと思う。
でも、その度に。
「そっか。頑張ったね。えらいよ」
と、頭を撫でてくれる彼女に、涙が止まらなくなった。
遠くの祭囃子と、すれ違う、幾つもの浴衣姿。
視界の先のぼやけた花火。
……。
どうか、花火が終わる前に、2人が間に合いますように。
悔しさと、切なさ。
片手に握り締めた缶バッジに、ふと、そう願ったのでした。
頭上の花火が、ばらばらと落ちる。
もう、何回見たのか分からないスマホの画面。
表示された『20:25』の文字。
視線を少し上げて、川下を見る。
—— 隼人は、詩帆を選んだ。
もうこの時点で涙は出なかった。
いや、枯れた。の方が本当かもしれない。
何はともあれ、私は詰まるところ、負けたわけだ。
そう考えると、なぜか妙に納得できた。
友達のままなら、勝ちとか、負けなんてなかった。
でも、隼人が1人に対して、ヒロインが2人もいる。
もうこの時点で、『勝ち負け』の世界じゃないか。
どっちかが隼人と結ばれて、どちらかは結ばれないまま。
本当は、そんな賭け事みたいな事、しなくてもよかった。
それでも、私たちはそっちを選んだんだ。
後悔はしてない。
だけど。
「……もう少しだけでも、隼人との時間を大切にできてれば……ちょっと違ったのかな」
ふと、彼との数年間を思い出して、そんな悔いは残った。
スマホの、デジタル時計が1分進んで、私は小さく息を漏らす。
「……もう、帰ろ」
そう呟いて、踵を返す。
もうこの花火も、このお祭りも。来年は来ない。
だって私、特段、花火が好きでも、お祭りが好きなわけでもないから。
ただ毎年、隼人が誘ってくれるから、一緒に来ていただけで。
もう、1人なら来る意味もない。
そう思えば思うほど、世界から色が抜けていくような感覚がした。
私は、花火の音を遮るようにイヤホンをつける。
スマホも何かしらの意思があったのか。
偶然にも『夏祭り』が流れて、私はふふっと鼻を鳴らす。
あぁ、ほんと……。
……。
その瞬間。
俺は、小さく背中を丸めた、青い浴衣の袖を引っ張った。
特に躊躇はしてない。
だって、この人物が『幼馴染』である確証が、俺にはあったから。
見慣れた綺麗な黒髪が、ピクリと揺れて、華奢な耳から白の有線が外れる。
ゆっくりと振り返る。
そして、彼女はパチパチと、切れ長の大人っぽい瞳を瞬きさせると。
「……え、なんで」
目を見開きながら、そう呟いた。
紗季がこうして、驚いたように目を見開くことは、あまり見たことがない。
詰まるところ、ここ数年間の中でも相当驚いているのだろう。
だから俺は、小さく息を吐いて。
「すまん。待たせた」
いつも通り、紗季に言った。
だが、それでも何かしら、納得のいかない点でもあるのだろうか。
「え、ちょっと待って……何でここに……てか、詩帆はどうしたの? その前に、なんでそんなに汗びちょびちょなの?」
そんな風に、紗季らしからぬ早口で息を吐く。
彼女のどこか不安そうな瞳の中に、パッと咲く花火。
昔から、ずっと綺麗だなって思っていた瞳、俺は言う。
「詩帆さんとは会ってきた」
「え、それじゃ、なおさら訳わかんない……。なんで……なんで詩帆の所に言ったのに、こっちきちゃうの! それじゃ、最後まで花火……」
「だから、走ってきたんだろ」
そう、言葉に被せると。紗季はまた、「え……」と目を見開く。
白くて綺麗な頬が、花火でぼんやりと照らされる。
綺麗な黒い前髪。その奥でうるうると揺れる、大人っぽい瞳。
「最後は、紗季と花火を見るために……走ってきたんだよ」
だから。そう息を吐いて。華奢な手をにぎる。
ちょっとひんやりしていて。
こうして掴んでいないと、ふと、どこかに行ってしまうんじゃないかって。
心配になってしまう、愛おしい手を。
「まぁ、その結果、汗がびしょびしょな訳なんだが……」
「……な、なにそれ……。ほんと……バカなんじゃないの」
いいじゃん、花火ぐらい。そう呆れ気味に息を吐く紗季。
刹那、視界の先の綺麗な顔が花火で照らされる。
白い頬の一筋を、花火が照らす。
「いやいや……つーか、いくら何でも遠すぎだろ。ほぼ駅じゃねえかよ」
「えー。でも……ふふっ。なんだかんだで、やっぱり、来てくれたね」
そう、大人っぽい瞳を細めると、紗季は俺の首の後ろへと腕を回す。
「おい、そんなにくっつくと、汗が」
「汗ぐらい気にならないよ。今は……こうしてる時間のほうが大切だから」
……。
本当の意味で、目と鼻の先。
大人っぽくて、でも、よく見ると、ちょっとだけ幼い輪郭の、顔にどきりとする。
……いや、ずっと昔から、心臓がドキドキしてる。
「ね、隼人」
「ん?」
「これって、そう言うことでいいんだよね?」
「……まぁ、この状況で違います。とは言えないよな」
「えー、なにそれ。でも……ふふっ」
……。
花火の音が、一瞬消え去る。
きっともう、花火も終わる。
「ね、隼人」
「ん?」
……。
「ずっと、隼人のことが好きです」
……。
「これまでも、これからも。ずっと隼人のことが、大好きです」
自然と近づいていく、両者の顔。
ゆっくり、ゆっくりと。お互いを探るように。
小さな鼻息と、ぼんやりとした顔の熱。
嗅ぎ慣れた。でも、昔から好きな匂い。
そして。
「……んっ」
柔らかい唇と、艶やかな息遣い。
静かな、2人だけの世界。
刹那、大きな花火が打ち上がった。
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