第42話 『2人だけの秘密。』



「っと。ごめん、私ちょっとお手洗い行ってくるね」


 そう言って、レジャーシートを立ち上がったのは、紗季。


 私は、「うん。行ってらっしゃい」と返すと、彼女は下駄を履いて人混みの中へと消えていった。


 誰かの笑い声や、子供のはしゃぐ声。


 お尻に伝わる、レジャーシート越しの芝生を感じると、対岸の明るい屋台群に、はぁ、と息を漏らした。


「本当に、今日なんだ……」


 まるで、エスカレーターで、逃れられない何かに向かっていくような。


 そんな、緊張にも、後悔にも似た何かが私の胸の中に広がっていく。


 時刻は、夕方の6時半。


 あと、1時間もないうちに花火の打ち上げがはじまる。


 そして、花火が打ち上がってからおおよそ、75分の間に全てが決まる。


 詰まるところ、2時間後には、もうこの話の答えは出てしまっているのだ。


 そう考えれば、考えるほど、なんだか怖くなってくる。


 今更弱音なんて吐きたくはない。


 だけど、


「……やっぱり、やめようかな」


 1人になると、ふとした時にそんな言葉が漏れてしまうのだ。


 だから、これ以上弱音が漏れないうちに、早く帰ってきて。


 ……。


 すると、こちらに近寄ってくる足音が聞こえ、私はそっちの方へと顔を上げる。


 私たちのために、買い出しに行ってくれた隼人くんが、帰ってきた。


 そう思って視線を向けた先には、顔の知らない男性が2人、こちらをニヤニヤしながら見ていた。


 うわ、やっちゃった。


 なんて思って時にはもう遅い。


「ねぇ、君。めっちゃ美人じゃん! もしかして芸能人?」


「……いえ」


「えー! じゃあ、普通の一般の子なんだ。てか、もしかして1人だったりするの?」


「……いえ、友達と来てるんで」


「そっかそっか。ね、俺もここで一緒に花火見ていい?」


 すると、私が返事をする前に、レジャーシートへと腰を下ろし始めた茶髪の男性。


 それに対して、やめてください。と言いかけたところで、その隣の、お酒を片手にした金髪の男性も腰を下ろした。


「っ! あの、ほんとにっ!」


「えー、いいじゃん。ね、お友達ってことは、女の子? その子も可愛い?」


「あははっ、じゃあ、俺この子もらうわ〜」


 そう言った茶髪の男性が突然、肩に手を回してきて、思わずひっと息が漏れる。


「ね、名前なんていうの?」


 この人もお酒を飲んでいるのだろうか、アルコールのような匂いがつんと鼻を突く。


 だけど、その手を払いのけたいはずの私の腕は、まるで身を守るための殻みたいに、ぎゅっと縮こまって動かない。


 右肩の手の感触に沸く嫌悪感。


 やだ、怖い、気持ち悪い……。


 それでも、どうにもできない私は、やっぱり。


 助けて……隼人くん。


 彼を、頼ってしまうのだった。

 

 ……。


「……へぇー、面白そうなことやってんじゃん。俺も混ぜろよ」


 そんな声と同時に、私の肩に回していた手が離れた。


 そして、その声の方に顔を向けると、


「遅くなってごめん、詩帆さん」


 隼人くんが、やんわりと微笑んだ。


 すると、金髪の男性がバツが悪そうに舌打ちを鳴らすと、シートの上に置いていたお酒を手に取る。


 なんだよ、彼氏持ちかよ。そう呟きながら男性2人は人混みの中へと消えていった。


 私は、緊張が一気に解けたせいか、上半身にうまく力が入らなくて、シートに手をつく。


 整わない呼吸と、震えの止まらない手。


 痛いぐらい、バクバクとなっている心臓。


 ……本当に怖かった。


 今まで、街中でもナンパみたいなものとか、怪しいスカウトなんかにも声をかけられたことはあったけど。


 体に触れられたのは初めてで。


 こんなにも、下心が痛くて、気持ち悪くて、怖いものだなんて、思わなかった。


 すると、シートに上がった隼人くんが、心配そうに言う。


「本当にごめん。怪我とかない? 変なことされてない?」


 彼の言葉に、私は首を横に振る。


 声が、上手く出せなかったから。


 まだ、恐怖で、喉の奥が痙攣してたから。


 ……上書きしてほしい。


 ふと、彼の顔を見ていたら、そんな渇望にも似た何かが、胸の中に湧いてきた。


 さっきの手の感触も、匂いも全部、隼人くんのもので上書きしてほしい。


 ただそれだけで、今は立ち直れる。


 そう思った。


 でも、そんなこと言えるわけなくて。


 やっと動いた私の口からは、


「あ、あはは……大丈夫……だよ。ご、ごめんね!」


 おかしなテンションのまま、そんな上部だけの言葉が、溢れ出す。


 ただ、こんな日に、隼人くんを心配にさせちゃいけない。


 そんな考えから出てきた言葉だった。


 すると、目から涙が溢れそうになって、彼に背を向け、まだ花火の咲かない空を見上げた。


 だめ、今泣いたら全部台無しになっちゃう。


 隼人くんだって、紗季だって。心配にさせちゃう。


 だから、もし涙を流すとしたら、この後、全部の答えが出てからだ。


 ……。


 だけど。


「詩帆さん、よく頑張ったね」


 優しい声色の後に、私の左手に感じた、温かい感触。


 思わず向けた視線の先に見えたのは、やんわりとした優しい表情。


 初めて会った日からずっと変わらない、私の好きな顔。


 ……あぁ、もう。


 すると、私の視界がじんわりと滲んだ。


 視界の端っこの、屋台の明かりがぼんやりと花火のように滲む。


「すごく、怖かった……」


「本当にごめん。詩帆さん」


「……隼人くんのせいじゃ、ないよ……」


 でも。


 そう、息を吐いて、彼に近寄る。


 そして、彼の胸に額を当てると。


「……ちょっとだけ、こうしてたい」


 私はそう呟いた。


 すると隼人くんは、少し驚いたように息を呑んだ後、私の頭と背中を優しく撫でる。


 暖かくて優しい感触に、とうとう目尻から涙が溢れた。


「こんなので罪滅ぼしになるなら、いくらでもいいから」


「……ありがと」


 その後は、たぶん情けなく嗚咽を漏らしていたと思う。


 きっと、あの男性に触られていたのは、ほんの2、3分程度。


 それでも、まるで何時間にでも感じた不快感を、全て吐き出すように、私は泣いた。


 だけど、その間も彼はずっと、私の背中をさすってくれて。


「泣きたいだけ、泣いて大丈夫だから。今は俺がいるから」


 その言葉が暖かくて、心地よかった。


 ……。


 本当に、この人を好きになって良かった。





 しばらくした後、やっと落ち着きを取り戻した私は、自ら彼から離れた。


 少し心配そうな隼人くんに、「ありがと」と呟く。


「もう大丈夫?」


「うん。……えへへ、なん恥ずかしいところ、見せちゃったね」


「ううん。俺は気にしてないよ」


「えへへ、そっか。……ね、隼人くん」


 私はそういうと、シートに手をつき、彼の方へと上体を前のめりにする。


 少しのけぞった彼の耳に、そっと唇を近づけると。


「この事は、2人だけの秘密だよ」


 そう息を吹きかけて、私は元の体勢へと戻った。


 視界の先の、驚いたような表情と、どこか気恥ずかしそうに散らす視線。


 なんだか、彼らしい反応に、私はふふっと鼻を鳴らした。


「……もちろん。誰にも言わないよ」


「うん、ありがと」


 再び私がふふっと鼻を鳴らすと、隼人くんもこくりと頷いた。


 すると、「てかさ」と、周りをキョロキョロと見渡し始めた隼人くん。


「どうしたの?」


「いやさ、紗季ってどこ行ったの?」


 そう言われて、私もハッと息を呑む。


 そうだ。そういえば紗季もトイレに行くって言ってから、もう結構な時間帰ってきてない。


 すると、私の様子を見て何かを察したのだろう。


「俺、行ってくる」


 そう言って彼は立ち上がった。


「私も一緒に」


 そう言った瞬間。


「お待たせ」


 ふと、聞き覚えのある声がして、2人同時に顔を向ける。


 すると、そこには紗季が怪訝そうな顔をして、こちらを見ていた。


「え、なに?」


「いや……つーかお前、どこ行ってたんだよ」


「え、フツーにお手洗い……てか、聞いてよ、トイレめっちゃ混んでてさ。しかもその帰りに、なんか変な男の人に声かけられるし……はぁー最悪だった」


 変な男の人、そのワードに思わず私が反応する。


「男の人? 大丈夫? 変なことされてない?」


「ううん。なんか一緒に花火見ようって言われたんだけど、あまりにもしつこかったから、こう……えいって」


 すると紗季は、右足を蹴り上げるような動作を見せる。


 すると、隼人くんが「はぁ」と呆れ気味にため息を吐いた。


「蹴り上げてきたのか……つーか、絶対「えいっ」ってテンションじゃないだろ」


「うん。なんか金髪の方の人、倒れちゃった」


 それを聞いた瞬間、なんだか急におかしく思えて、


「ぷっ……ふふふっ。あっははは!」


 私は吹き出した。


 そして、


「紗季は、やっぱり紗季だね」


 そういうと、紗季はどこか不思議そうで、でも嬉しそうな表情をしながら。


「えー、なにそれ」


 と、彼女もまた微笑むのだった。





 


 

 



 


 




 

 




 



 


 

 

 

 


 

 


 

 


 


 


 

 

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