第34話 『汗とリンス』

「……」


 自然と持ち上がった瞼。


 窓の外から差し込んだ日光。


 枕元のスマホに手を伸ばし、画面に指で触れると、もう一度瞼を閉じる。


 時刻は午前6時30分。


 本来なら、やや寝坊気味の時間なのだが、今日に関しては全くと言っていいほど、焦りはなかった。


 なぜなら。


「……夏休みだから、もう少しだけ……」


 そう、今日はもう夏休み。


 寝坊だって二度寝だって、合法中の合法だ。


 だから、誰であろうと俺の二度寝を妨げる権利はない。


 そう、たとえ神様であろうと、隕石であろうと……。


 ……。


 —— ピンポン。


 ……。


 —— ピンポン……ピンポンピンポン、ピポピポピポ!


「あぁー! やかましい! 誰だよこんな朝早くから……」


 はぁ、とため息をついてベッドを降りる。


  クーラーに冷やされていたせいか、ひんやりとした床に思わず、背中の方までぞくりとする感覚が走った。


 玄関まで足を進めると、ドアの鍵を開ける。


「……何かご用」


 そんな言葉とため息を一緒に吐き出しながら、そっとドアを開く。


 すると、生暖かい空気と共に、柔軟剤のような匂いも一緒に流れ込んできて、俺は言葉の途中にも関わらず、「え?」と、声を漏らした。


 視界のすぐ先で、大人っぽい目と視線がぶつかる。


「ん。やっと出た。おはよ、隼人」


「おう。おはよ、紗季……てか、何だよ、そんなにインターフォン鳴らす必要ねえだろ」


「あー、ごめんね。なんか隼人のことだから、『二度寝を妨げられる権利は誰にもない』とか思ってそうだったから」


 そんな彼女の言葉に、思わず唾を飲み込む。


 エスパーかよ、お前。


「……そんなわけねえだろ。てか、用件は?」


「あ、うん。それなんだけど……」


 そう言って、ふと、通路側へと視線をやった紗季。彼女に釣られるように俺もドアを大きく開けて、外に出ると、


「……あ、あはは〜。おはよ〜、隼人くん……」


 運動着姿の紗季の後ろで、膝に手をつき、ぎこちない笑みを浮かばせていたのは、詩帆さんだった。


 汗で張り付いたTシャツ。彼女の細い線の顎を伝って落ちた汗が、廊下を黒く染めていく。


「え、詩帆さんも? てか、めっちゃキツそうだけど、大丈夫?」


「あ、あはは〜、へーきヘーき! っ!」


 そう上体を起こした瞬間、彼女は苦痛に顔を歪めて、左足をピクリと動かす。


 どうやら、左足に痛みを抱えているらしかった。


 すると、ふふっと鼻を鳴らしたのは、紗季。


「さっき一緒にジョギングしてたら足、攣っちゃったみたいでさ。だからごめん、ちょっと休ませてあげてもいい?」


「あぁ、構わないけど……、でも、スポドリとか何もないから、ちょっと買ってくるわ」


「え、ううん! そこまで気を遣わないで大丈夫だよ隼人くん!」


「いや、そんなこと言ってる場合じゃない。攣ってるって事は、とりあえず水分が足りてないんだよ」


 ドアを大きく開けて、中に入るように催促する。


 すると、詩帆さんはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべながら、ゆっくりと前に進んだ。


 しかし、次の瞬間。


「……っ!」


 左足が再び攣ったのか、驚きと苦痛の表情を浮かべながら、前方へと体が傾き始めた。


 はらりと舞う金色の髪の毛、すぐ後ろで聞こえた、紗季の息を呑む音。


 そして。


「っと……、大丈夫? 詩帆さん」


 彼女の体を、前から抱えるようにして受け止める。少し遅れて、俺の着ていた衣服にも、じんわりと冷たい水気が広がるのを感じた。


 それほどまで彼女の体からは水分が出てしまっているのだ。


 場合によっては軽度の熱中症の線だって考えられる。


「あ、ご、ごめん。……いてて」


「まだ攣ってる? それじゃ、ちょっとごめん」


 ゆっくりと彼女の体を床に下ろすと、ピクピクと震える華奢な左足を持つ。


 そして、つま先をぐーっと彼女の方へと押し込んだ。


「……んっ。いてて……」


「ごめん詩帆さん。とりあえずもう少しだけ耐えて」


 しばらくふくらはぎを伸ばしているうちに、筋肉の痙攣も治まったのだろう。詩帆さんの表情が元に戻った。


「ごめん。ありがと、隼人くん」


「ううん。てか、立てそう?」


 俺がそう聞くと、彼女は自身なさそうな表情で、「これ以上迷惑かけられない」と、握り拳に力を込める。


 そして、立ち上がろうと床に手をついた詩帆さん。


 ……。


「詩帆さん。ちょっとごめん」


 そう呟いて、彼女に膝の裏と背中に腕を回す。


 ふと、リンスと汗の混じったような匂いがして、思わずどきりと心臓を早める。


 そのままゆっくり持ち上げると、詩帆さんは「へ?」と素っ頓狂な声をあげた。


「は、隼人くん!?」


「あぁ、汗のことは気にしなくて大丈夫。とりあえずこのまま運ぶね」


 やんわりと微笑んで、ゆっくりと歩き出す。


 玄関の先では、既に上がっていた紗季が、コップに水を汲んできてくれていたらしく、詩帆さんの華奢な体を廊下に下ろすと、コップを差し出した。


「……ありがと、隼人くん……。紗季……」


「ううん。どーいたしまして。それじゃ、ごめん隼人、この後頼んでいい?」


 そう紗季が言うと、彼女は小銭を俺に渡した。


「あぁ。とりあえず着替えの場所は分かんだろ。シャワーは使っていいから」


「うん。ありがと」


 紗季と短い会話を交わして、靴に足を通す。


 再びドアを開け外へ。


 ドアが閉まる瞬間、ふと見えた詩帆さんの表情は、どこか悔しそうな、恥ずかしそうな、複雑は表情を浮かべていた。


 


 


 




 


 

 

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