第32話 『キミの好きな人』その1
『Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis ?』
まだ私が中学生の頃。
友達ができず、放課後に1人でやってきた、とある街中の書店。
そこで見た何かのワンフレーズらしき、文字の羅列に、私は何だか心打たれた。
意味は……残念だけど分からない。
それどころか、なんで発音するのかも、そもそもどこの国の言葉なのかも分からない。
だけど、なぜかそのワンフレーズに、心を惹かれた。
分からないけど、儚くて、綺麗だなって直感的に思ったから。
でも、その言葉の意味を調べることはしなかった。
別に知りたくなかったとか、そういうわけじゃない。
ただ、何となく、この言葉の意味は将来、知ることができるような。
そんな気がしてたから。
そして、それから数年が過ぎて……。
「……ん」
首の後ろに感じた温かい圧迫感に、自然と瞼が持ち上がる。体はまだ眠っていたいはずなのに。
でも、なぜか寝ぼけているような感じはしない。むしろ、眠気マックスの時に30分ほど昼寝をした時ぐらいの爽快感と、脳がすっきりとした感覚があった。
枕元で私につぶらな視線を送る、ふわふわの物体に手を置くと、ふふっと鼻を鳴らす。
「……おはよ。マシュマロ」
もちろん返事はない。犬の形をしたそれは、以前隼人くんからもらった、ぬいぐるみなのだから。
それから枕元のスマホに手を伸ばすと、画面には『5:02』と表示された。アラームが鳴る1時間前だ。
紗季からもらったキーホルダーがころりと倒れると、私は、ん〜と背伸びをしてベッドから降りる。
今日は隼人くんとお出かけ。
それならいつも以上に、私を作っていきたい。
「……よし」
寝巻きがわりに着ていた、サボテンパーカーを脱ぐと、この前新調したばかりの運動着に着替える。
正直筋トレがきつくて、もうこれを着る機会はないと思ってたけど……。
「着るとなんかやる気出てくるんだよね」
なんかコスプレみたい。
と、1人呟いて部屋を出た。
「あれ、詩帆じゃん」
背中から聞こえてきたそんな声に、ピクリと肩を反応させて、後ろに振り向く。
「ん、おはよ。朝早いね」
そう言って、小刻みに切らしていた息遣いに、私も笑みを返した。
「おはよ。てか、紗季だってめっちゃ早いじゃん」
「あはは、まぁ、習慣? みたいな感じだから」
週一のね。と付け加えると、彼女は顎に伝っていた汗を拭う。
いつもの大人っぽい印象に合わさり、汗で肌が透けている感じとか、何だかちょっとだけセクシーだなって思った。
詰まるところ私は……。
「ん? どーしたの詩帆」
「あ、いや……なんか、色気すごいなぁ〜って……」
そう言った後に、あはは〜。と誤魔化す。
彼女のギャップというのだろうか、ものすごくどきりとした。
最近、同人誌を読み過ぎてるのかもしれない……ちょっと控えないと。
一瞬、ん? と小首を傾げた紗季は、自分のお腹の辺りに目を向けると、
「ヘ〜、詩帆って意外とムッツリさんだったりするの?」
そう、いつもみたいに大人っぽい目を細めて言う。
「い、いや! そう言うわけじゃなくて! ほらなんて言うか……水も滴るというか……同性が惚れる良い女って感じ!」
「ふふっ。めっちゃ褒めてくれるじゃん。でも、今お金持ってないから、何も返せないよ」
ごめんね。と余裕のある笑みを返す彼女。
そんな彼女の首筋を照れていく汗に、またどきりとした。
紗季はあれから、ものすごく変わったと思う。
猫背だった背筋もスッと伸びて、眠そうだった顔も、すごく血色がいい。
それに何というのだろうか、表情にも余裕があって、大人っぽい顔をコロコロと無邪気な表情に変えたりと。
うまく言えないけど、女性としてというよりは、人として、とても魅力的になったと思う。
「それじゃ、もうちょっと走ってくるね」
そう言って、小走りで私を追い越していく。
その背中で揺れる綺麗な黒髪を、
「紗季! 待って!」
私は、思わず呼び止めてしまった。
彼女はその場で足踏みをしたままこちらに振り返る。
「ん? どーしたの?」
きょとんとした綺麗な顔。なんでそんなに大人っぽくなったのか。どうしても気になった。
どうしても聞きたかった。
「急に変なこと聞くかもだけど、紗季が変わったのって、隼人くんの事が好きだから?」
その質問に彼女は一瞬目を大きくすると、足踏みを止める。
「んー、どうだろ」
胸に手を当て、目を細める。紗季の仕草の一つ一つがまるで、何かの作品のよにエモく感じた。
そしてしばらくすると、「まぁでも、気づいちゃったから……かな」と呟いた彼女がこちらに歩み寄る。
そして、私の前で足を止めた。
「気づいちゃった?」
「うん。なんか私って、まだまだ子供だなーって」
そう言って、紗季はふふっと鼻を鳴らす。
「私さ、ずっと、大人っぽく振る舞おうとしてた。こうなんかダルそうにして、何もねだらないのがかっこいいっていうか……それを余裕なんだって勘違いしてた。でも、そんな時に、隼人と詩帆の関係を知った」
紗季の目が少しだけ憂げを帯びる。
「ずっとそばにいると思ってた幼馴染が、実は可愛い子と付き合ってました。って知った瞬間に、なんかさ、全部裏切られたような気がして」
「……そっか」
「それでも、やっぱり隼人が助けに来てくれた。だから、そこで気づいたんだ。何でも1人でできるような気がしてたけど、誰かに助けられなくちゃどうしようもないんだなって」
そこまで言って、再び鼻を鳴らすと、紗季は顔を持ち上げる。
綺麗に整った白い顔に、陽の光が差し込んで、汗がきらりと光った。
「でも、だからこそ。もうちょっとだけ子供でいようかなって思った。好きなものには好きって言って、今を大切に過ごそうって」
……。
「って、なんか自分で言ってみて結構恥ずかしいね」
それじゃ、またね。
そう言って再び踵を返した華奢な体。
私は、胸の内からドキドキとなる心臓に、温かい感触を感じた。
自分はまだ子供で、だからこそ、好きなものは好き。
それってさ。
「……すごい、大人っぽいじゃんね」
そう呟いて、私は前へと駆け出す。
そして、その白い背中に追いつくと。
「私も! 一緒に走る!」
「え。……あはは。そっか」
彼女の歩幅に合わせて、汗を流すのであった。
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