第31話 『今だけは、私のもの』その2
「はいこれ、チケット」
ガヤガヤとした人混みの中で、聞き慣れた声に顔を向ける。
「おう、ありがと」
チケットを受け取ると、紗季はふふっと鼻を鳴らした。
「もしかして隼人、こーゆーところ、あまり慣れてないでしょ」
彼女の下から覗き込むような視線にこくりと喉を鳴らして、視線を逸らす。
「なんでわかんだよ……」
「えー、だってなんかソワソワしてるし、てか、普段渋谷なんて来ないでしょ?」
どうやら俺がこの場所の雰囲気や、集まる人の傾向に緊張していることは、すべて幼馴染にお見通しらしい。
「ほら、私がいてあげるから、行こ」
そう、俺の左手にじんわりとした熱と柔らかさに、どきりと心臓を速くする。
彼女に引かれるようにして地上14階、『渋谷スカイ』チケットゲートをくぐった。
その後、俺たちを乗せたエレベーターは、遥か上空。
地上229メートルへと誘った。
スタッフに誘導され、自動ドアから外へと出た俺たち。
瞬間吹きつけてきたのは、初夏特有のじめっとした風だった。
スタッフ曰く、屋上を開放できるギリギリの風量らしい、それに、紗季は「んっ」と首をすくめ、髪の毛を抑えた。
「大丈夫か?」
「うん。てか意外と風強いね、髪、ボサボサになっちゃうかも」
そう、恥ずかしそうにフヘっと笑みをこぼした彼女。しかし俺は、髪の毛なんかよりも、そのスカートが風量で捲れてしまわないかの方が心配だった。
「まぁ、大丈夫だろ。もし気になるんだったらタオル貸すから、それで頭隠せ」
「フォローの仕方、サイアクなんですけど」
短く、いつも通りの会話をしながら、エスカレーターを登っていく。
透明な窓の外には、白や黄色のビー玉を机の上にばら撒いたような光景と、その中ですっぽりと抜け落ちたように真っ暗な代々木公園。
それだけでも十分幻想的な風景だったのだが、約10メートルほどのエスカレータを上り切った先の光景に、思わず目を見開く。
眼下に広がる夜景という名の、光の海。
遠くに見える東京タワーやスカイツリーが、青と赤に輝いて、まるで、色がついたキャンドルみたいだった。
不意に手の甲に触れた、温かい感触に顔を向ける。
視界の先では、大人っぽい目を細めた紗季が、やんわりと唇の端を持ち上げていた。
「もうちょっとガラスに近づいてみようよ」
彼女の言葉に、こくりと頷き足並みを揃える。
そして、ガラスの手前で足を止めると、足元に視線を落とした。
「へー、思ったより高いね」
「まぁ、200メートルあるわけだからな」
そう、平然を装って彼女に返したものの、なんだか足がすくんだ。ガラスの透明度が高いせいか、まるで、バンジージャンプのような感覚に陥ったから。
ふと顔を上げると、夜景の明かりでぼんやりと照らされた、紗季の顔がガラスに反射していた。
大人っぽい切長の目とか、小さく整った鼻とか。
本当に、綺麗だなって。改めて思う。
「ね、隼人あれ見て」
突然、ガラスの向こう側を指差した彼女に驚いて、思わず肩をびくりとさせる。
ガラス越しに見てたの、バレてないよな。
そんな不安を誤魔化すように、「どれ?」と口を開いた。
「ほらあれ。バニラのトラック」
「探すな、そんなもん」
「えー、いいじゃん。うちらの住んでる所には来ないんだし」
「ほら、高収入だよ、高収入」と、あの聞き慣れたフレームをいいながら、視界からバニラが消えるまで見送った紗季。
なんでこういうところは子供っぽいのだろうか、なんて、思っていたが。
「まぁ、そうかもな」
「ふふっ。隼人なら分かってくれると思ってた」
ガラス越しじゃなくて、俺の視界の先でやんわりと微笑む。
「次、あっち側見てみよう。何か面白いものあるかも」
そう、無邪気な足取りに合わせて揺れた髪の毛に、思わず鼻を鳴らす俺だった。
「都内の夜景なんて、どこもそんなに変わらないだろ」
「えー、ロマンチックじゃないなー」
その後、再び室内に戻ってきた俺たちは、預けていた荷物を取り、ガラス張りの廊下を歩いていた。
さっき上で見ていた夜景を横目に、薄暗い廊下を進んでいく。
ちなみに、その途中にバーカウンターみたいなところがあったのだが、メニュー表の看板を眺めて、お互いに「高いね」と苦笑いして通り過ぎた。
あれはきっと、大人向けのものなのだろう。
クラフトビールやおしゃれなカクテルを持ったお姉さんたちが、椅子に座って楽しそうに笑っていた。
その席から少し離れたところで、お酒を飲んでいた、長い金髪のお姉さんを見て、ふと思い出す。
詩帆さんに何かお土産、買わないと。
まぁそんなわけで、俺たちは物販エリアへとやってきた。
品揃えは色々で、渋谷スカイ限定のお酒から、ステッカーまで。
思わず手に取りたくなるようものがいっぱい陳列されている。
ちなみに紗季は、写真がプリントされたポストカードに目が入ったらしく、「へー」とか、「エモい」なんて、つぶやいていた。
そんな彼女に鼻を鳴らすと、俺はすぐ横に並べられていた、犬のぬいぐるみに目を向ける。
「このぬいぐるみ、なんかいいな」
俺の呟きに、「ん?」と紗季が反応する。
「どのぬいぐるみ?」
「この星空っぽい柄の布首に巻いたやつ、なんか可愛いなって」
俺がそのぬいぐるみを持ち上げると、紗季も「へー」と興味を示す。
「いいじゃん。なんかベッドの枕元に置きたいかも……買うの?」
「あぁ。詩帆さんのお土産にしようかなって」
しかし、そう言った瞬間だった。
「……そっか」
ボソっとつぶやいて、ぬいぐるみから視線を外した紗季。
彼女の声のトーンは一段と低く感じた。
再びポストカードを手に取り、まじまじと眺める紗季。
その横顔はどこか……。
「……ばか」
「なんか言ったか?」
「……別に」
不機嫌を具現化して、ぷくりと頬を膨らませているような気がした。
「おー、香水なんてあったんだな」
一通り買うものを決め、レジに向かおうとした時。『渋谷スカイ 限定香水』というPOPに興味をそそられ、そのコーナーへと回った。
ほうじ茶、薄紅、紙石鹸。
どうやらここの香水は『和』をイメージして作られたものらしい。テスター用のラベルに書かれた名前は確かに、綺麗な名前のものが多かった。
「なんか、
なんて、正直紗季のツッコミ待ちで言ってみたのだが。
「……ふーん」
彼女は相変わらず、反応が薄いままだった。
まぁ、何年も一緒にいれば流石にわかる。
詰まるところ、彼女は拗ねているのだ。
多分理由は、さっきの詩帆さんへのお土産の件だろう。
手元のぬいぐるみに目を落とし、小さく息を吐く。
まぁ、来月バイト増やせばいいか。
「それで、紗季はどういう匂いが好きなんだ?」
「……え?」
そう、驚いたような表情を浮かべた紗季。彼女に言葉を続ける。
「せっかくここに連れてきてもらったわけだし、そのお礼っていうか、まぁ気に入ってものがあれば、一つプレゼントするよ」
それに、と一息つく。
「香水なら、普段使いもできるだろ?」
そう、彼女に言った。
すると紗季は、俺から視線を外して、くすりと鼻を鳴らす。
再びこちらに顔を向け、彼女は言った。
「私の機嫌、取ろうとしてるでしょ?」
「マジか。バレたか」
「ふふっ。でもまぁ、仕方ないから取られてあげようかな」
どこか嬉しそうに微笑むと、紗季は備え付けのリトマス紙みたいな紙を手に取り、香水を吹きかけていく。
紙をパタパタと振って、鼻に近づける彼女の横顔は、どこか楽しそうだった。
そんな様子をしばらく、傍から眺めていると。
「ね、隼人はどんな匂いが好き?」
紗季から唐突に聞かれた。
全く考えてもいなかった質問に、「えーっと」と、思考を巡らせる。
りんごとか、レモンのような甘く、瑞々しい匂いが好きなのだが、それをなんて伝えたら良いのか、いまいち思い浮かばず、「特にないな」と言葉を返す。
すると。
「そっか。それじゃ……」
そう息を吐いて、彼女はテスター用の香水を手に取ると、右の手首に小さく吹きかける。それを白い首筋に当てがった。
何やってるんだ? そんなことを聞こうとした、次の瞬間。
「……っ!」
紗季が腕を広げ、抱きついてきたのだ。
彼女のしっとりとした体温を全身に感じて、心臓が速くなる。
「紗季っ……。いきなりなんだよ」
だけど、帰ってきたのは。
「……教えて」
そんな短い言葉だった。
俺の胸元から見上げるようにして、その大人っぽい瞳がこちらを覗き込む。
「隼人が好きな匂い……教えて欲しい。普段私からどんな匂いがしたら、ドキってしてくれるのか、教えてほしい」
……。
「今だけは、私のことだけ……考えてほしい」
そう言って、少しだけ顔を逸らした瞬間、彼女の首元から、りんごともローズとも言えるような、甘く透き通る匂いがして、心臓が速くなる。
そしてそのことは、体が密着していた紗季にも伝わっていたのだろう。
俺の胸元で、「あっ」と、小さく息を漏らすと、再びこちらに顔を向ける。
「……ふふっ。そっか。それじゃ、この香水にするね」
そう言って、わざと首元を近づけるように、背伸びをする彼女。
照明が妙に薄暗いせいか、それとも、この香水の魔力か。
「……」
背徳感を覚えながらも、小さく鼻から息を吸った。
だけど、どうやらその事もバレていたみたいで。
「……変態」
ボソリと耳元で呟いた彼女は、俺から離れていく。
半歩後ろに下がった紗季の頬は、どこかほんのりと上気しているような気がした。
「じゃあ今日は甘えちゃおっかな」
そう言って、彼女が手に取った香水。
そのラベルには『恋雨』と書かれていて、なぜかどきりとする俺であった。
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