第30話 『今だけは、私のもの』 その1
「じゃあね! 紗季ちゃん!」
「ん〜、気をつけて〜」
そんなやりとりを横目で見ながら俺は、カバンを持って立ち上がる。
彼女のやんわりと持ち上がった唇の端を見て、なんだか安心した。
たぶん、心の中ではずっと不安に思っていたんだと思う。今後紗季に友達ができなかったらどうしようとか、俺がいなくなった時、彼女はどうなってしまうのか、とか。
幼馴染みだから。なんて理由づけをしても、あまりにもお節介すぎるこの不安は、紗季の余裕ができたような表情にやんわりと溶けていく。
それに、最近は詩帆さんとも関係は良好らしく、今度2人で出かける用事もあるらしい。
これなら腕の傷も、むしろ安く思えるだろう。
とにかく、最近の紗季が楽しそうで良かった。
昇降口に向かい、靴を履く。
履き慣れたランニングシューズのクッションを感じながら、弾む踵で校門を出た。
すると、背後からコツコツと早足のローファーの音が聞こえてきて、そちら側に振り返る。
サラサラと、歩幅に合わせて揺れる綺麗な黒髪。短いスカートから伸びる、白く健康的な太もも。
紗季は俺の前で足を止めると、ブラウスの胸元を摘み上げ、手で仰いだ。
「なんで先に帰っちゃうかな……おかげさまで、汗べちゃべちゃじゃん」
あっつー。と呟きながらカバンから取り出したハンカチを、鎖骨付近に当てがっていく。
首の側面や頸側の汗を拭き取るために持ち上げた髪の毛から、ふわりとシャンプーの匂いがして、不意にドキリとした。
「あぁ、すまん。予定があるもんだと思ってた」
「えー、私そんなにリア充じゃないじゃん。てかこれ、ふみちゃん先生に渡されたやつ。はい」
そう言って、彼女がカバンから取り出したのは、授業終わりに提出したばかりの、俺の名前が書いてあるノートだった。
紗季はため息混じりに言う。
「この前配った課題のプリント、ノートに貼り付けて再提出だってさ。大丈夫? プリント持ってる?」
「いや、一問も解いてなかったから今朝捨てた。……詰んだな」
「あはは。ヤバいじゃん」
そう、くすりと鼻を鳴らし足を進めた紗季。俺も彼女の右隣で歩幅を合わせる。
「どーすっかなー……。今更ゴミ収集場行っても、全部持ってかれちゃってるだろうし」
「確かに、もう燃えカスかもね」
「まぁ、そうだよな」
てか、今更そのためだけにクリーンセンターに行くのも嫌すぎるだろ。
「こうなったら素直に報告するしかないかもな。すみません、猫に食われましたって」
「あははっ。嘘ばっかじゃん」
「いや、もうこの際、嘘でもなんでもいいわ」
そう言い切ってはぁ。とため息を吐き出す。
すると、隣からくすりと鼻を鳴らす音が聞こえた。
「ちなみになんだけどさ」と、カバンに手を入れた紗季。引っ張り出してきたのは、話題に上がっていたあのプリントだった。
「実はもう一枚持ってるんだよね」
「お、さすが紗季。助かるわ」
「えへへ。私ってナイスでしょ?」
「いや、本当に助かったわ。やっぱり持つべきものは幼馴染みだな」
「えー、嬉し過ぎて照れるじゃん。気分いいからこの後シュークリーム食べて帰ろっと」
そう言って、プリントをカバンに戻し、足早に足を進め始めた紗季。
遠くなる華奢な背中に追いつくと、俺は口を開いた。
「おいおいおい」
「ん、なに?」
「いや今の流れ、完璧にプリントくれる流れじゃないのかよ」
「え、なんで? てか、一言もあげるなんて、言ってないじゃん私」
彼女の言葉に、思わずクッと口を鳴らす俺。
俺のピンチを弄びやがって、と言う気持ちと、確かに一言も言ってなかった。と言う悔しさ半分だった。
すると、隣でふふっと鼻を鳴らした紗季。
「これ、そんなにほしいの?」
そう言って目を細めた彼女の表情は、どこか魔性的でもあり、挑発的でもあった。
きっとここで、いつもみたいに逆張りをすると、本当にもらえなくなってしまうのだろう。
生唾を飲み込んで紗季の言葉に、こくりと頷いた俺。
彼女はまたふふっと鼻を鳴らした。
「そっか。じゃあいいよ」
「……え? いいのか?」
「うん……でーも」
すると、俺の左腕に、彼女の華奢な腕を絡ませてきて、肩が優しくぶつかる。
ベルガモットとシャンプーの匂いの違いがわかるほど、じんわりと紗季の体温を感じた。
思わずドクンと心臓が跳ねて、足が止まる。
紗季の方へと顔をゆっくりと向けると、数学の授業の時みたいに、綺麗な顔がすぐそこにあった。
一瞬か、数秒か。
黒い瞳に吸い込まれるように見つめていると、不意に紗季がやんわりと目を細める。
「この後、ちょっと付き合ってくれたら……ね?」
そう華奢な唇を、楽しそうに動かした。
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