第26話 『片っぽ。空っぽ』

「……」


 なんだか久々に涙が止まらなかった。


 学校から帰ってきて、すぐに部屋に篭ると、ベッドの上に寝転がる。


 少しずつ冷たさが広がっていく、シャツの袖。


 ふと、壁に貼られた絵を見て、すぐにまた腕に顔を埋めると、思い出したのはつい先ほどの隼人。


 —— 詩帆さんも、すごく心配してたし……。


 そんな言葉を言った彼の顔は、渋そうな顔をしていた。


 きっと不特定多数の人が見ても、普通のいつも通りの表情。


 でも、ずっと彼の顔を、ずっと近くで見てきたから分かった。


 隼人は、少し困っていた。


 ……だから私は、気づいてしまった。


 もう私は、彼にとって最優先事項ではなくなってしまっている事を。


 もう何をするにも、隼人の思考の中には、詩帆のことが組み込まれていることを。


 よくも悪くも、一緒に居すぎたせいで、分かってしまったのだ。


 スカートのポケットに入れていたスマホがブルリと震える。


 手に取って画面を確認すると、相手は詩帆だった。


 でも、もう何日も彼女に返信をしてない。


 ていうか、既読をつけないために、通知ウィンドウに表示される1行ぐらいしか読んでない。


 でも、だからこそ、詩帆の人間性が引き立って感じて、逆にこんな自分が、子供っぽく、ずり下がって見えた。

 

 だって、今この場に及んでも、


「……ふふっ。なんだ、隼人じゃないんだ」


 さっき、もう関わらないって決めたはずの隼人を、期待してるんだもん。


 思わず鼻を鳴らして、壁の画用紙に手を伸ばす。


 私は隼人が好き。


 でも、詩帆も好き。


 そして、その2人が幸せなら。


「……もう私がいなくなるしか……ないじゃんね」


 壁から剥がした画用紙を両手で持って、仰向けに寝転がる。


 そして、頭上の紫色の太陽を眺めながら、


「……今までありがと」


 好きだよ、隼人。


 右手だけをゆっくりと下に動かす。


 ビリビリという音と共に、涙が滲んだ。






 あれから、早くも3日が経った。


 あの放課後、久しぶりに紗季が泣いているのを見た気がした。


 幼い頃はよく泣いていて、正直彼女の泣き顔なんて、死ぬほど見てきているが、あんなに痛そうに泣いているのは、初めてだった。


 きっと、不特定多数が見たらそれが、どういう泣き顔かなんて、気づくことは出来ない。


 詰まるところ、俺たちは長く一緒に居すぎたのだ。


 だから俺には、紗季に対する何かのセンサーが、曖昧になってしまっていたのだろう。


 痛そうな涙に気づいた俺は、そのもっと奥の、彼女が何に傷ついているのかが、わからなかった。


 そして、放課後。


「あ、隼人くん……」


 お互いの学校のちょうど真ん中に位置する喫茶店。


 雨が流れ落ちる軒下。白いセーラー服の綺麗な金髪が「なんか久しぶりだね」と、しっとりと揺れた。


 俺も傘を閉じて、軒下に入る。


「ごめん。遅くなって」


「ううん。私も今来たとこだよ」


 軽く挨拶を交わして、傘差しに傘を置くと、店内に入る。


 窓際に席に腰掛けて、お互いに注文を済ませた。


 心地のいい香ばしい匂い。


 そのはずなのに、まるで濃すぎるコーヒーを飲んでしまったかのように、俺と詩帆さんの間に流れる空気は苦く感じた。

 

 しばらく無言でいると、お互いに注文していたものが届き、詩帆さんはショートケーキの先端を、フォークで削った。


 俺も、ブラックを一口飲み込んだ。


「……あれから紗季はどう?」


 詩帆さんがフォークをお皿に置いて呟く。


 その青い瞳は悲しそうに、ショートケーキの白を反射させていた。


「……なんか、人が変わったみたいにしっかりし始めた」


 その言葉が詩帆さんにとって意外だったのだろう、「え?」と驚いたような声を上げた。


「しっかり?」


「うん……例えば」


 そう続けて、最近の紗季の様子を語る。


 朝は俺よりも早く学校に行くようになったことや、授業中の居眠りはしなくなったこと。


 以前よりも少し社交的になり、最近の昼休みは仲良くなった同級生と、どこかで昼食を摂るようになったこと。


 そして、何よりも、笑う回数が異様に増えたことだ。


 紗季が一切笑わないかと言われれば、そんなことはない。


 でも、今までの紗季はこう、目を細めるだけの、ニヤリとする笑い方だったのに、今はまるで、パッと咲くような、ラブコメのヒロインがしそうな笑顔だった。


 でもその笑顔はまるで、


「……って感じで、なんか無理やり笑顔になってる感じがする」


「……そっかぁ」


 まさにため息。そんなふうに視線を落とした詩帆さんのショートケーキは、あれからまだ、綺麗な直角三角形を保ったままだった。

 

 時間が経って、冷たく、酸っぱくなってしまったコーヒーを啜る。


 壁がけの時計はもう18時を差し示そうとしていた。

 

 今日は少し集合時間が遅かったな。と内心で思いつつ、カップの半分ほどのコーヒーを一気に飲みこんだ。


 詩帆さんがケーキを食べ終わったら、今日はもう帰ろう。


 天気が悪いせいか、もう既に外は真っ暗であり、何よりも。


「……なんか、だいぶ雨強くなってきちゃったね」


 バラバラと吹っかけるようぶつかる、雨粒の窓。


 そこに反射した詩帆さんと目があって、お互いぎこちなく視線を逸らす。


「詩帆さんは帰り大丈夫? もしヤバそうならタクシーでも呼ぼうか?」


「ううん。バス停すぐそこだから大丈夫かな」

 

 そう言って、彼女はぎこちなく笑みを浮かべる。


 それから数分して、彼女がケーキを食べ切った。


 お互いに気をつけて帰ろう。なんて話していた、その瞬間。


「……ん、電話?」


 ポケットで震えるスマホを持ち上げ、画面を確認する。


 見覚えのない電話番号に眉を寄せ、『通話』の方を指でスライドする。


「もしもし……って、え? 紗季のお母さんですか?」


 思わずそんな声が漏れると、向かい側の詩帆さんも肩をピクリとさせる。


 そして、通話口から聞こえてくる少しだけ不安げな声に、俺は「え……」と、息が漏れたまま口が塞がらなくなった。


 ズキンと心臓がはち切れそうに歪む。


 いや、このままはち切れてしまった方が、むしろ良かったのかもしれない。


 窓の外の雨風と、暗闇。


 背中に流れる冷たい汗。


「……紗季がまだ……帰ってきてない?」


 

 




 

 

 



 


 



 

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