第19話 『汗と柔軟剤と、ネットカフェ』
「よーし、だいぶ撮れたかな」
満足げにため息をついた紗季。
彼女のスマホの画面に映る、触手が絡んだ白いクラゲ。
その被写体が、ゆらゆらと隅田川を流れていくのを見送って、俺は口を開いた。
「川って、クラゲいるんだな」
「ね。私もなんかびっくり」
普通クラゲというのは海にいるものだと思っていた。
だけど、紗季と出かけると、普段は気にも留めない事に気が付けたり、知らなかったことを知れるので、やはり面白い。
さてと。と、一息ついた紗季。彼女はスマホをしまう。
「せっかくだしメロンパン食べて行こっか。なんか有名らしいし」
「お、珍しくミーハー」
「あはは。ミーハーなのは悪い事じゃないよ。それだけ世の中でウケてるんだもん、きっとそっちがフツーなんだよ」
私と違ってね♪ そんな風に、すんと鼻を鳴らした紗季。その表情はどこか、少しだけ誇らしそうな感じがした。
そんな彼女に、鼻を鳴らす。
「なんだよそれ。まぁ、知ってるけど」
「えー、知ってんのかよ」
そんな風に、お互いに小さく笑い合って、歩幅を合わせる。
「メロンパン、何個食う?」
「んー、5つぐらい?」
「アホか」
「ふへへ」
そんな風に、ジャブみたいな会話を交わしながら、再び浅草寺の方へと戻ってきた俺たち。
しかし、浅草を代表する『ジャンボメロンパン』を買いに、香月堂本店へ来たのだが……。
「わ、すっごい人……これは買えなさそうだね」
「だな……」
本店を飛び出し、どこまでも続く行列に、思わず呆気に取られた。
きっとこういう時に役に立つのだろう。その長蛇の列は、まさしく『壁サー』並みである。
列に対して、思わず嫌悪感を抱く俺がいる一方。紗季はスマホを取り出して、何かを調べ始める。
そしてしばらくした後「うん、やっぱり」と呟き、画面をこちらに向けた。
「なんかね、ここ以外に支店がいくつかあるみたいだから、そっち行こ」
そう言って、早速足を進める紗季。
少し遅れて歩き出した俺の、少し先で揺れる髪の毛に、こう言うの紗季っぽいなって、思わず鼻を鳴らした。
「メロンパン美味しかったね」
隣を歩く紗季が、満足気に息を吐く。
人の顔程の大きさのメロンパンを3つも食べたからだろう、彼女はお腹をさすりながら、
「でも、全身メロンパンになっちゃいそうだね」
そう、にへらと笑った。
その一方で、メロンパンから手足が生え、その真ん中に紗季の顔があるキャラクターを想像して、俺も思わず鼻を鳴らす。
「ん、どーしたの?」
「いや、なんか似合ってるなって」
そんな俺の返答に、更にきょとんと首を傾げる紗季。
「まぁ、気にすんな」と俺たちは足を進めた。
そうして、しばらく街中を歩き、お互いに、そろそろ帰ろっか。なんて話し始めた時だった。
「あ。雨」
紗季が手のひらを上して、ボソリという。
その瞬間、俺の手の甲にも冷たい感触がして、空を見上げた。
「今日は雨の予報、なかったんだけどな」
「うん。けどまぁ、雨は雨で面白いから、私は好きかなー」
「まぁ、傘があればな。つーか、雨強くなる前に早く帰ろうぜ」
「うん」と頷き、早歩きで駅へと向かっていく。
おそらくコンビニでビニール傘を買えばいい話なのだが、正直その場しのぎで700円は高いような気がした。
だが、天気とは本当に気まぐれなもので……。
「あー、とりあえずここから動けそうにないな、これ」
突然強くなった雨足に、逃げ込んだ雑居ビルの入り口。
「だね」と雨で白くなった道路を眺める紗季のTシャツは、彼女の肩に張り付いていた。
ザーッという音と、吹き付ける冷たい風。
「なんか寒いね」
そう言って、胸の前で腕を組んだ紗季は、少しだけ震えている気がして、ふと、この前の彼女のセリフを思い出す。
—— 女の子って、冷えるとなかなか温まらないんだよね。
俺は周りを見渡し、少し先にコンビニの看板を見つける。恐らくここに戻ってくる頃にはびしょびしょかもしれないけど、まぁ、いいだろう。
カバンが閉まっている事を確認して、一歩踏み出す。
しかしその瞬間だった。
「ね、隼人。ここ、ネットカフェだって」
そんな紗季の声に振り返る。
「ネットカフェ?」
そんな俺に、ほら。とエレベーター横の電子看板を指差す。4Fという文字の横には確かにネットカフェの店名が表示してあった。
すると、紗季はクイっと俺の袖を引き、
「せっかくだしさ、少し休憩してこ? 漫画も読めるし、ドリンクも飲み放題らしいし。おまけに眠れるし」
「絶対最後のが本音だろ」
俺の返答に、フヘっと息をこぼした紗季。
まぁ彼女の言うとおり、傘を買ってこのまま帰るよりも、ゆっくりしつつ、漫画を読みながら雨が上がるのを待つのもいいだろう。
「まぁ、そうだな」
そうして、エレベーターに乗った俺たちは、いざ受付へ。
……しかし、その数分後。
「おー、結構狭いね」
完全個室の、座敷の部屋。
本来なら寝転がっても十分すぎるスペースなのだが……。
「まぁ、一人部屋らしいからな」
目測で畳一枚よりは広いぐらいの部屋。
そんな部屋に、俺たち二人で入ることになった。
理由は簡単。
「いや、しかし……まさかここ以外満室だとは思わなかった」
「ねー。それだけここにも需要があるんでしょ。ま、とにかく」
そこで一息つくと、彼女は革靴を脱ぎ、「お邪魔しまーす」と部屋に入る。
紗季の後に続いて靴を脱いだ俺は、壁を背にして腰を下ろした。
その後は、お互いに好きな漫画を持ってきて読んだり、飲み放題のジュースを飲んで過ごした。
肩がぶつかりそうなほど狭い部屋で、時々、隣から漏れる紗季の小さな笑い声を聞きながら。
そして、30分が経過したあたりのこと。
「……ん」
隣に座る紗季の、静かに吹き込んだ、風のような息遣いと、漫画がぼとりと落ちる音に顔を向ける。
俺の視界の先では、コウコクと頭を揺らしながら、紗季が目を細くしていた。
「眠いのか?」
俺の問いに、消えてしまいそうな声で「うん」と頷く彼女。
しかし、そんな姿勢で寝ると、きっと首や肩を痛めてしまうだろう。
「寝るなら、横になったほうがいいぞ。俺のことは気にしなくていいから」
「……でも、隼人はどうするの?」
うっとりとした顔を向け、そんなことを聞いた紗季。
彼女の言うとおり、このスペースで一人が横になってしまうと、もう一人は奥の方に追いやられ窮屈に座るか、外に出て漫画を立ち読みするしかないだろう。
けどまぁ。座ったまま寝て、紗季が首を痛めるぐらいだったら、俺は外でも良かった。
「いいよ。俺は外で漫画読んでるから気にすんな」
そう言って、彼女に微笑んだ俺。
しかし、どこか納得行かなそうに眉を寄せた紗季。
彼女は視線を外すと、赤ちゃんのように両膝と両手をつき、ハイハイで俺の前に移動する。
俺と向き合うように座り直した彼女。
「……だったらさ」
すると次の瞬間。
一瞬、ニヤリとイタズラな表情を浮かべたと思ったら、彼女の華奢な腕が俺の首に巻き付いて、ゆっくりと視界が傾いていく。
やがて、俺の側頭部が床の程よい硬さの感触を感じる頃には、
「こーすれば、隼人もここに居られるね」
そんな風に、魔性的に微笑んだ紗季の綺麗な顔が、目の前にあった。
柔らかい柔軟剤の匂いと、ちょっとだけ鼻を掠めた、紗季の汗の匂い。
じんわりと伝わる彼女の熱や、華奢な息遣い。
そのどれにも、ドキドキする要素はあるのに、
「……こう言うのさ、なんか久しぶりだね」
綺麗な形の唇を動かして、小さく息を吐く。
俺は何よりも、見慣れたはずの大人っぽい目が、魔性的に細くなっていたことに、一番ドキドキしていたのだ。
見つめれば見つめるほど、どこまでも引き摺り込まれてしまいそうな、その瞳に。
そんな彼女に何も言えないまま、しばらくすると、紗季はゆっくりと目を閉じた。
華奢な息遣い。きっとここで力尽きたのだろう。
ドキドキと鼓動する心臓と、視界のすぐ先の幼い寝顔。
「……はぁ」
小さくため息を吐くと、彼女を起こさぬよう、自分の背中側に手を伸ばしてブランケットを手に取る。
そして、ゆっくりと紗季にブランケットをかけると、
「……アホか。ホント」
思わず、そう鼻を鳴らした。
幼い頃からずっと変わらない寝顔。何回も見ているはずなのに、どうしてこうも、心臓が高鳴るのだろう。
昔もこうやって、一緒に昼寝をしていたこともあった。それなのに、なんで今はこうも、恥ずかしくて仕方がないのだろうか。
ついさっき彼女が言った、『久しぶり』というセリフを思い出して、俺の手が自然と動き出す。
紗季の頭をゆっくりと持ち上げ、その下に腕を伸ばす。
幼なじみとの、数年ぶりの腕枕。
こうすれば、少しだけ、昔と今の違いがわかるような、そんな気がした。
……。
しかし、そんなことは一切なく、なんでこんなことをしたんだろう。なんて、若干の後悔を奥歯で噛み締めながら、ゆっくりと目を瞑る俺であった。
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