七章 どんな空だって、澄み渡る青空に変えていけるよ。
「わかっていただろう。賽はとっくに投げられたんだ」
「撤退しましょう」
キャンプ場に戻ってきた蒼灯さんは、開口一番にそう言った。
会議場にはいつものメンバーが集まっていた。私とルリリス、協会の双葉さん、学者の御三方、オンライン参加の真堂さん。
来たのは蒼灯さんが最後だ。探索から戻ってそのまま来たらしく、彼女の装備はところどころ汚れていた。
「呪禍の力は想定を大幅に上回っています。もはや様子見などとは言っていられません。早急な撤退を」
探索帰りで疲れているだろうに、蒼灯さんは迷わず判断を下した。
きっと、疲れたなんて言ってる場合じゃないのだろう。ちゅんちゅんという拠り所を失った今、私たちはすぐにでも行動しなければならない。
「日本赤療字社としてもその判断を支持する。学者先生方もそれでよいだろうか」
「ええ、もちろん。安全第一、ですからね」
真堂さんが賛同し、天井さんも同意する。私としても異論はない。
だけど、探索者の直感は今も言っている。私と呪禍は戦うことになるのだと。
「で、でもぉ……。今、研究がいいところでぇ……」
「ゴールドラッシュ……ゴールドラッシュの真っ只中なのにぃ……」
一方、研究漬けで目の下に色濃いクマを作っている生駒さんと、荒稼ぎしまくってツヤツヤしている双葉さんは言いたいことがありそうだった。
「なにか?」
「……あ、いえ」
「なんでも、ないです……」
そんな些細な反抗も、蒼灯さんが一瞥すると即座に鎮火した。
この有無を言わせぬ押しの強さ。こういう時の蒼灯さんは本当に頼りになる。
「探索者たちには情報を周知し、各自撤退を促します。非戦闘員の皆様の護送は、有志を募って――」
「護送に協力してくれる探索者は集めてある。情報の周知もすでに済ませた。合図一つで撤退準備を始められる状況だ」
「……さすがですね、真堂さん」
「いい、こういうのは裏方の仕事だ。それと、日療から貸与したものはその場に留置していってもらって構わない。あくまでも人命を第一に考えてくれ」
「すみません、そうさせて頂けると助かります。皆様も荷物は必要最小限に。ここにはまた戻ってこられます、今は自分の命を持ち帰ることを最優先にしてください」
一度そうすると決めたなら、動き出しは迅速だった。
ここには有事のプロが揃っている。真堂さんと蒼灯さんが主体となって話し合い、撤退計画の仔細が素早く詰められていく。
「いや」
それでも。
迷宮という空間は、人間の尺度では測れない。
「遅かったみたいだぜ」
椅子に腰掛けたまま、ルリリスはテントの外を見る。
外では、ぽつぽつと雨が降り出していた。
迷宮の中にも天気はある。雨が降ることだって珍しくはない。
だけどこれは、普通の雨じゃない。
「黒い、雨……?」
黒い水が、空から糸のように滑り落ちて、大地へと染み込む。
そんな様子を不思議に思って、双葉さんが外の様子を見に行こうとする。
「やめときな」
「ふにゃっ!」
ルリリスがぱちんと指を弾くと、何らかの魔法が双葉さんの首根っこをひっつかんで連れ戻した。
「外、出ないほうがいいぜ。あの雨にゃ呪いがかかってる」
「……呪い、ですか?」
「一つは吸魔の呪い。周囲の魔力を吸収する、あいつの十八番さ。そしてもう一つ、分解の呪い。生命力を魔力に変換する呪いだ」
「せ、生命力を、魔力に!?」
双葉さんが悲鳴じみた声を出す。
ルリリスは頭の後ろで手を組んで、キイキイと椅子を揺らしていた。
「あの雨に触れたらまず魔力が奪われる。そして魔力がなくなったら、体が魔力に分解され、それも奪われる」
「そ、そうなったら、どうなるんですか……?」
「どうもこうもねえ。全部魔力になっちまうんだ。死体も残らねえよ」
「ひいっ!?」
双葉さんは悲鳴を上げて、テントの一番奥まで引っ込んでいった。
全員の顔色が強張る中、蒼灯さんがたずねる。
「ルリリス。その雨は無機物に対して作用しますか?」
「術式見た感じ大丈夫だと思うぜ。あれが作用すんのは生き物オンリーだ」
「となると、テントの中は安全……。真堂さん!」
「もうやっている」
画面の向こうで、真堂さんがラップトップを操作する。その時、私たちのスマホが一斉に通知音を鳴らした。
「この層にいる探索者に通知を出した。雨を直接浴びるのは避けるようにと」
「今、外にいる探索者は?」
「詳細は確認するが、ごく少数のはずだ。君からの第一報が届いた時点で、キャンプ場に帰還するよう双葉くんから指示が出ている」
「となると……。ルリリス、この雨が人体に害を出すまでにはどれくらいかかりますか」
「魔力量に寄るんじゃねえかな。お前ら探索者なら、弱いやつでも一時間くらいなら大丈夫なんじゃねえの? 逆に、そこのちんちくりんみたいな魔力量ゼロのヤツだったら、五分も浴びたらあの世行きだ」
「ちんちくりん!? 五分!?」
双葉さんはぷるぷると震えだす。見ていて可哀想だったけれど、悪いけど彼女に構っているような場合じゃない。
「それならまだ、やりようはありますね。レインコートを着込めば探索者は行動可能。民間人も護送車を使えば濡れないように移動できるでしょう。ですが……」
「危険性は高い。ここから転移魔法陣まで、探索者の足でも二時間はかかる。濡れないよう細心の注意を払ったところで、不測の事態が一つ起きれば破綻するぞ」
「……起きるでしょうね、間違いなく。この状況で何もかも想定するのは不可能です」
キャンプ場には護送用のバンがある。非戦闘員の民間人をここまで連れて来るために使ったものだ。
しかし、護送車を使えば安全に撤退できるというわけではない。樹海の中は走破性が悪く、そもそも車は大きくて音も出る。あれを動かすとなると、魔物との戦闘は避けられない。
「あ、あのぉ……」
どうするべきか考えていると、生駒さんが恐る恐る手を上げた。
「この雨って、迷宮全域に降ってるんですよね。なら、魔物たちは、どうなるんですかねぇ……?」
「生駒。今は、自分たちのことを考えろ」
「で、でも、気になるじゃないですかぁ……」
気持ちはわかるのか、諌めた植村さんも苦々しい顔をしていた。
「死ぬぜ」
一方、当の魔物はシンプルに答えた。
「この階層のほぼすべての魔物が死に絶えるだろうな。すべては魔力に分解され、行き着く先は呪禍の腹の中さ」
「そ、それって、大丈夫なんですか……?」
「大丈夫じゃねえよ。管理者が敗北した以上、この迷宮はもう終わりだ。私としちゃあ、他の層に累が及ばないことを祈るだけだな」
迷宮が、終わる。たった一匹の魔物の手によって。
その言葉はあまりにも現実離れしていて、受け止めきれずに頭の中を上滑りしていった。
だって、終わるなんて。なんとかなるんじゃないかって。
「ルリリス……。なんとか、ならないんですか?」
「なるぜ」
蒼灯さんの言葉に、ルリリスは応じる。
「わかってんだろ。どうすりゃいいのかってことくらい」
わかっている。
その選択肢は、最初からずっと目の前にあったから。
「私が、倒せばいい。だよね」
答えると、ルリリスは短く鼻を鳴らした。
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