七瀬杏の迷宮配信
それと相対した時、死というものをかつてなく知覚した。
私は死ぬ。刺されて死ぬ。斬られて死ぬ。食われて死ぬ。千切られて死ぬ。潰されて死ぬ。壊されて死ぬ。
どうあがいても私は死ぬ。
何十通りの死に様が脳裏をよぎる。それはあまりにも鮮明な絵図だった。濃密な予感は、もはや未来予知にも等しかった。
本能が叫んでいる。今すぐ逃げろと。あるいは抗えと。もしくは諦めろと。
どれを選んだとしても、末路は何も変わらない、と。
「あ、う、あ……」
山田はその場に倒れ込んで、言葉にもならないうめき声を上げていた。
きっと、こいつにも似たようなものが見えてしまったのだろう。
「山田」
呼びかける。私の体もこわばっているが、動けないってほどじゃない。
長くソロをやっていると、理不尽なまでの危機的状況ってやつにも免疫がつく。
それに、私はよく知っている。自分の人生なんて、こんなもんだということを。
「山田ッ!」
「……! は、はいっ!」
強く呼びかけると、弾かれたように山田は動いた。
「山田、今すぐ立て。逃げるぞ」
「で、でも、七瀬さん。こ、腰が、抜けちゃって……」
「なんとかしろ、できなきゃ死ぬぞ!」
「無理ですよぉ……!」
舌打ちをする。そんなこと言ってる場合じゃないだろうが。
極限状況では選択一つが命運を分かつ。そういう意味では、山田の取った行動は最悪だった。
「お、お願いします、七瀬さん。見捨てないでください……! 私、美少女なんです、美少女が死ぬことは世界にとっての損失なんですぅ……!」
「んなこと言ってる余裕あるなら、さっさと逃げろ!」
「努力は、してます……!」
はっきりしているのは返事だけだった。山田は震える足腰でなんとか立ち上がろうとするが、うまくバランスが取れずにその場に転んだ。
本当に、呆れるほどの間抜けっぷりだ。生きるか死ぬかの瀬戸際で、こんなことをしているやつ、見捨てたって誰も文句は言わない。
「……クソが」
……それを見捨てられるくらい、非情になれたなら。
私はもっと、上手に生きられたんだろうな。
:七瀬……?
:七瀬お前、やるんか……!?
:逃げろっておい!
:お前だけでも逃げるしかないじゃん……
:いいから逃げろよ、しょうがねえだろ!
うるさいな。黙って見てろよ、安全圏。こっちにはこっちの事情があんだよ。
剣を抜く。二千万ちょっとのショートソード。白石楓が使っているものと同じモデルだ。
彼女のそれは、リスナーたちとの絆の結晶らしいけれど。私の剣は、羨望と憧憬と劣等感の塊だった。
呪禍の殺意に、戦意を返す。
呪禍は、黒々とした瞳で私を見ていた。
一歩ずつ、山田から歩いて距離を取る。せめて彼女が巻き込まれないように。
呪禍は動かない。黙って私を目で追うだけだ。
もしかしたら戦う意思はないのかもしれない。ただ自分の獲物を取り戻しに来ただけだとか、あるいは縄張りに踏み入れた私たちの様子を見に来たとか。何にせよ、向こうにその気がないのなら、山田を連れてここから静かに殺意。
殺意。
まず、膨れ上がった殺意が、思考を暴力的に塗りつぶして。
一拍遅れて、呪禍の爪が振るわれた。
「……っ!」
巨大な鈎爪は、私の体を模した幻影を一刀のもとに斬り伏せる。
地属性魔法・砂楼。砂塵の幻影を生み出して、身代わりにする魔法だ。
:あっぶねえええええええええええええ
:砂楼ナイスうううううううううううううう
:いや今の速すぎだろ、見えなかったんだけど
:砂楼仕込んでなかったら終わってたよな、今の
:反応できるわけねえだろあんなもんバカかよ
初撃は凌いだ。だけど、そのために奥の手を切らされた。
砂楼は何度も通じるような手じゃない。一度や二度は防げたとしても、乱用すればいつかは幻影も見破られる。できることなら、ギリギリまで隠しておきたかったカードだ。
一方呪禍は、まだその気にすらなっていない。
今の攻撃だって、ヤツからすればほんの小手調べだったのだろう。追撃だってしてこない。様子見の一撃を放った後は、またさっきと同じように黒い瞳で私を見ているだけだ。
……ひどく居心地の悪い視線だ。感情のない瞳は、まるで観察しているようだった。
:なんなんだ、この魔物……
:襲ってくるのかこないのか
:不気味すぎでしょ
ヤツの目的は不明だ。だけど、一つだけわかったことがある。
この殺意は嘘じゃない。あいつは、間違いなく、私たちを殺すためにここに来た。
山田を連れて逃げるなんて不可能だ。かと言って一人で逃げるのはありえない。となると、私がやるべきことなんて一つしかない。
一秒でも長く生き残って、少しでも多くを遺そう。
私にできることは、もうそれしかないから。
「山田が逃げてくれりゃ、それが一番いいんだけどなぁ……」
:お前も逃げろ!!!!
:頼むから逃げてくれ七瀬
:七瀬が囮になったところでどうにもなんねえじゃん……
:あいつはもう無理だろ、お前だけでも逃げろって
諦めにも似たつぶやきに、リスナーたちは好き勝手に騒いだ。
こいつらはいつだって勝手だ。こっちの都合もお構いなしに、独り善がりを一方的に押し付けようとする。
うるさいな、黙ってろよ。私が何をするかなんて私の勝手だろうが。
そしてまた殺気が膨らんで、刹那の内に死線が広がった。
初撃、爪での斬撃。視認すらできない速度で振るわれたそれを、殺気からの読みだけで回避する。
追撃、牙での咬撃。回避行動の後隙に、理不尽なまでの速さでの追撃が降りかかる。これは砂楼の幻影を身代わりにすることで切り抜けた。
連撃、尾での槍撃。薙ぎ払うように振るわれた広範囲の攻撃。回避など不可能な範囲でのそれは、知覚するだけでもやっとだった。
「ぐっ……!」
とっさに剣を盾にして、ムチのようにしなる尾を受け止める。
直撃は避けた。しかし、防げたわけではない。勢いよく吹き飛ばされた私の体は、後ろの木に強く叩きつけられた。
息が詰まるほどの衝撃。肺から空気が絞り出され、視界が歪む。
そして、終撃。
大きく口を開き、ヤツは私の首筋めがけて飛びかかった。
「……ッ!」
それに反応できたのは、ほとんど奇跡のようなものだ。
死力を尽くして体を横に倒す。それで直撃は避けられたが、完全に避けられたわけではない。
ぷつりと。
樹から、果実をもぎ取るように。
右腕の、肘から先が、なくなった。
「う、あ、あ……っ」
まず、途方もない喪失感。
次に腕がない違和感と、血が流れ落ちる感覚。
最後に、焼け付くような痛みが濁流のように押し寄せて。
「あああああああああああああああああああああああああああっ!」
叫んだ。
激痛という激痛。気を失ってしまいそうなほどの凄まじい痛み。
思考も視界も、瞬間的に赤く染まる。とっさに左手で傷口を抑えると、痛みがさらに広がって、手のひらにじゅくじゅくとした生々しい肉の感触が伝わった。
:****!!!
:****************!!!
:***、*******
:***************!
リスナーが、なにかを言っている。わけのわからない何かを。
どうせまたくだらないことを言っているんだろう。何を言っていたにせよ、目を通す余裕なんてあるわけがない。
何もかもを放棄したくなるほどの痛みの中、強く歯を噛んで体を制御する。
まだだ。
まだ足掻ける。
痛いってことは、生きてるってことだ。
「地脈、活性……っ!」
血まみれの左手で、乳白色のシリンダーをひっつかむ。力任せに魔力を注いだそれは、私の足元に魔法陣を展開した。
活性化した地脈が、私の体から失われた生命力を補填する。完全な治癒には程遠いが、この状況ではそれが限界だ。
地属性の回復魔法は瞬間回復力に欠ける。白石さんが持つ風祝のように、即座に傷を塞ぐ性質のものではない。
それでも、回復魔法は回復魔法だ。今まさに流れ落ちそうになっていた私の命は、すんでのところで繋ぎ止められた。
「……は」
呪禍は、そんな私を。
一歩退いて、じっと見ていた。
「何、見てんだよ、おい……」
やつの口にあるのは、私の腕だ。
くちゃくちゃとそれを咀嚼しながら、呪禍は私を観察している。
殺そうと思えばいつだって殺せるはずだ。しかしやつはそれをせず、ただ観察を続けていた。
まるで、品定めでもするかのように。
「く、そ……」
ふらつく体で、必死になって立ち上がる。
そんな私の努力は、やつが尻尾を軽く振っただけで無になった。
鉛のような尾が腹に叩きつけられて、大きく吹き飛ばされる。地面を二度、三度と跳ね飛んで、欠損した右腕から激しく血を振りまきながら、最後にはうつぶせになって倒れ伏した。
呪禍はもう、死にかけの私には見向きもしない。私の腕を吐き捨て、くるりと振り向き、活きの良い獲物の方に歩を進める。
山田だ。
「ひえ、ひええ……。まって、それまって、それはナシです! 林檎は美少女なんです! 美少女が死ぬのはナシの方向で! どうか、何卒、何卒ぉ……!」
この期に及んで、山田はそんなことを言っていた。
その理論で言うと、私は美少女じゃないから死んでもいいってことか。あいつ一発、強めにどついてやったほうが良さそうだ。
……まあ。
それもこれも、生きて帰れたらの話なんだけど。
:*******……
:***********
:******、**********?
:******! ***********!!
体に力が入らない。出血は止まらないし、痛みに思考も鈍ってきた。
自分で言うのもなんだけど、私は十分がんばったと思う。本気でやってこれならしょうがない。あんな災害みたいな化け物に立ち向かっただけ上出来じゃないか。
諦めたっていいはずだ。投げ出したっていいはずだ。どうせ結末が変わらないなら、これ以上苦しい思いをしなくたっていいはずだ。
だけど。
こんな時、あの人なら。
白石楓なら、どうするんだろう。
「かかって――」
体中の力という力をかき集める。死力を振り絞って、二つの足で立ち上がる。
ほとんど本能的に体は動いた。もう無理だってことは十分すぎるほどわかっているのに。
急速に死が迫りくる中で、私の体を動かしたそれは。
「こいやあああああああああああああああああああああああああッ!」
――きっと。
憧れってやつなんだろう。
雄叫びを上げると、呪禍は再び私に向き直る。
何か考えがあったわけじゃない。体はとっくに限界だ。戦うどころか、意識を保っているのですらやっとだった。
私にできることはもうない。せいぜい、私が食われている間の時間を稼ぐだけだ。
……これが私の人生か。
あんなバカな女をかばって、こんな理不尽の塊みたいな化け物に食われて死ぬなんて。それこそバカみたいな死に方だ。
だけど、後悔はない。
いいじゃないか。伊達に意地を張ってきたわけじゃない。どうせならこの意地、最後の最期まで貫いてやろう。
ああそうだ。これが、私の人生だ。
呪禍が近づく。やつが一歩進むたびに、死もまた一歩近づく。
人生最後の数秒間は、思ったよりも長くて。恐怖と痛みと、意地と誇りに満ちていて。
呪禍が大きく爪を振り上げた、その刹那に。
――すん、と。
風が、吹き込んだ。
:*******************
:******************!!!!!!!!
:*******!! ************!!!!!!!
:******************
:********! ****************!!
コメントが一気に加速する。何を言っているかはわからないけれど、何が起きたかはよくわかった。
それは、夢に見るほど憧れた光景だったから。
風が吹く。暴風が吹きすさぶ。木々が揺れ、木の葉が吹き飛び、嵐が激しく巻き起こる。
烈風をまとって、遥かな上空から降ってきた彼女は、私と呪禍の間に割り込むように着地した。
「ごめん」
たなびく白衣に真紅の腕章。焦げ茶色の髪は風に揺れ、手にした刃は揺るぎなく。
この少女には、たくさんの異名がある。
撲殺天使。森の赤鬼。白い悪魔。キャンプ場の白猫。命の白風。配信画面ぐるぐる女。
私が彼女にそれをつけるなら。羨望と憧憬と劣等感と、傷ついた自信とひん曲がった自尊と、諦めと誇りと憤りと驕りと、ほんの少しの強がりを籠めて、こう呼ぼう。
“上位互換”。
「飛びすぎた」
彼女の名前は白石楓。
日本赤療字社の、迷宮救命士だ。
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