突然で悪いが遊びは終わりだ
この迷宮は、今日のところ六層までの存在が確認されている。
潜れる層の深さは、そのまま探索者の実力を示す指標となる。一層探索者はまだまだ新米だが、二層に潜れるなら初心者は卒業。三層探索者ともなれば一人前とみなされ、四層にたどり着けば立派なベテランだ。五層を探索できるのなら、それはもう一流と言っていいだろう。
しかし、六層探索者に与えられる指標はない。
六層を満足に探索できる人間なんて、まだ一人もいないからだ。
「…………っ」
私たちの目の前にいるそれは、紛うことなき深淵の魔物だ。
かつて、六層に足を踏み入れた探索者たちが遺した映像に、これに似た魔物の存在が記録されていた。
迷宮六層にある未知の文明の遺跡を徘徊する、影のような魔物たちの一種。
忘れられた魔女・リリス。
そう名付けられた魔物が、私の前に佇んでいた。
「白石、さん……」
蒼灯すずが構えた剣は、切っ先が震えていた。
無理もない。こんな格上の魔物なんて、私だってそうそう見たことない。蒼灯さんにとっては初めての経験だろう。
彼女を戦わせるわけにはいかない。蒼灯さんは三層探索者だ。深淵の魔物が相手では、いくらなんでも分が悪い。
私が、やるしかない。
「逃げて」
「……っ」
「早く!」
これでも私は五層探索者だ。このレベルの魔物と切りあった経験だって、なくはない。
それでも、勝つという選択肢は即座に棄却した。
あんな化け物、負傷者を庇いながらじゃ戦えない。こんな状態で勝てるような相手ではない。
だから、やるべきことは一つだけ。
時間稼ぎだ。
:あれって六層の魔物だよな?
:忘れられた魔女リリス
:映像記録は? 弱点かなんかないのか?
:今漁ってるけど、交戦記録が少なすぎる
:頼むお嬢、なんとか逃げてくれ
うちのリスナーは優秀だ。こうしている今も、可能な限りの情報を集めてくれている。もしかしたら、何か突破口を見つけてきてくれるかもしれない。
右手に剣を、左手にシリンダーを構えて、一歩前に出る。
リリスは動かない。強者としての余裕か、何か考えがあるのか、純黒の魔女は箒に腰掛けたままその場にふわふわと漂っている。
先手はくれるらしい。なら、遠慮なく。
風走りのシリンダーに魔力を通す。両の足に旋風を纏って、爆ぜるように飛び込んだ。
床、左手の壁、右手の壁、天井。順番に蹴ってジグザグに移動し、視線を振り切って背後に回る。
まずは挨拶代わりの一刀。
「……っ」
剣は、するりとリリスの首を通り抜けた。
歯を噛む。手応えがない。振るった刃は確かに首を捉えたはずなのに、まるで空を切るような感触だった。
:え
:は?
:速すぎ
:なんだ今の、まったく見えなかった
:でも効いてないっぽいぞ?
:もしかして物理無効持ちか?
物理無効。一部の魔物が有している、稀な特質だ。
非実体系の魔物は存在している次元の位相が異なり、物理攻撃の一切が通用しない。魔物が持つ特質の中でも、際立って面倒なものだ。
:物理無効持ちってどうすりゃいいの?
:魔法で殴るしかない
:攻撃用の魔法がなけりゃどうにもならんね
:なんやそれ
:交戦記録を確認した、物理無効持ちで確定だ
やっぱりか。面倒だな。
バックステップで距離を取り、ポーチから二本目のシリンダーを引き抜く。
:弱点属性は?
:火は有効、水も通るが火には劣る。雷属性は効きが悪いように見えた
:風はどうなん?
:わからん!
:わからんのかい
:記録にはその三属性しか映ってなかった
:そもそも風属性使い自体少ないからなぁ……
なら、試せばいい。
風研ぎのシリンダーを発動し、刃に烈風をまとう。これも一種の攻撃魔法だ。
体勢を立て直して攻め直そうとした時、リリスは私に指先を向ける。次の瞬間、私の頭の数センチ隣を、蒼炎が突き抜けていった。
「…………」
一拍遅れて、壁に激突した蒼炎は爆発を引き起こす。轟音と共に、坑道は激しく揺れた。
:うわうわうわ
:おいちょっと待て
:ノーモーションでそんな攻撃撃つヤツがいるか
:そいつ、強力な魔法を使ってくるから気をつけて
:知ってる
:ちょっと遅かったな
:惜しいな、もう少しで有能リスナーになれたのに
まるで、光線のような魔法だった。
特筆すべきは攻撃速度だ。こちらに指先を向けたと認識した次の瞬間には、すでに攻撃は終わっていた。威力だって並じゃない。まともに食らえば間違いなく即死だ。
リリスは口元に手を当ててくすくすと嗤う。おそらく今の攻撃、わざと外したのだろう。
:あいつ、遊んでやがる……
:化け物かよあの魔物
:頼むから逃げてくれ
それは無理だ。あいつの顔が言っている。逃がすつもりはない、と。
眼前に立ちふさがる絶対的な強者。肌で感じる死の恐怖。それでも私は前に出た。
再度飛び込んで距離を詰める。今度は翻弄などしない。真正面からまっすぐに突っ込んだ。
対してリリスは、ただ指を向けた。
指先から放たれる蒼炎。今度は当てるつもりらしく、炎はまっすぐに私に飛んでくる。レーザーのように照射されるそれを、私はステップ一つで軸をずらしてすり抜けた。
光線の速度に反応することはできずとも、指の動きから予測はできる。これくらい避けられないようでは、探索者はやってられない。
肉薄し、四撃。風を纏った刃はリリスの体を的確に切り裂いた。
さっぱりと、水面でも切っているかのような淡い感触。さっきよりは手応えがあるが、命を削った実感はない。
:え、ちょっと、速いって
:なに今の、避けたの? で、斬ったの?
:いちいちレベルが高い
:風魔法はどうなん? 結局効くんか?
:ちょっと待って、クリップ撮ったから検証してみる
検証するまでもない。私の手に残った実感が答えを示している。
こいつに、風魔法は通じない。
:スローで見たけど、火ほどの効果はなさそう
:まったく効いてないってわけじゃないみたいだけど
:雷よりちょっとマシってところか?
:そもそも風魔法って攻撃向きの性能じゃないし
:きちぃな、これ
物理攻撃はまったく効かず、風魔法もあまり効かない。それ以外の属性魔法は、あいにく持ち合わせていない。
有効打がまったくない。難しい相手だとはわかっていたが、その上相性も最悪だ。
「……くそっ」
口汚い言葉が口をついて出る。時間稼ぎをするにしたって、こんな相手にどうすればいいんだ。
一つだけいい材料があるとすれば、ヤツがまだ本気じゃないということ。
戦う気があるのかないのか。箒に腰掛けてふよふよと漂い、純黒の顔でくすくすと嗤う彼女の手のひらには、桜の花びらのようなものが、こんもりと一山生み出されていた。
「……?」
突如として出現した、桜の花びら。
リリスは手のひらにふーっと息を吹きかける。風に舞った桜の花びらが、ひらひらと宙に踊る。
それが何なのかはわからなかったが、探索者としての直感が、最大級の危機を叫んでいた。
:なにあれ
:花びら?
:逃げろ
:雅やねぇ
:逃げて
:来るぞ!
直感が叫ぶまま、私は即座に行動を取った。
風走りを使って宙を駆け、この場から離脱しつつある蒼灯さんと初心者たちの側に着地する。
「白石さん!?」
「来るよ!」
ポーチから非常用のシリンダーを引き抜く。
シリンダーに魔力を通すのと、ひらひらと舞う花びらが床に落ちるのは、ほとんど同時だった。
桜の花びらに封じられた魔力が解き放たれ、蒼炎が生まれる。炎は坑道の床を這い、壁を昇り、天井をなぞる。
蒼い炎が舞い踊り、坑道は炎に包まれる。まるで、空間そのものが燃えているかのように。
:!?
:なにあれ!?
:最上位クラスの火属性魔法、火桜
:ほとんど観測記録のない魔法だぞ
:とんでもねえ貴重映像だ
:言ってる場合か!
迫りくる蒼炎は、私が展開した嵐の壁に阻まれた。
防護用風魔法、風巡り。シリンダーを中心に暴風を展開し、敵の攻撃を防ぐ結界型の魔法だ。
私が持つシリンダーの中でも、切り札とも言える一本。よほどの緊急時にしか使わない魔法であり、私にできる最大限の防御手段でもある。
:風巡りでいけるか!?
:魔法としてのグレードだと、向こうのが格上だけど
:大丈夫、相性自体は悪くないはず
:炎魔法は推力が弱いから、風魔法なら比較的簡単に散らせる
その数秒は、永遠のように感じられた。
坑道を薙ぐ蒼炎と、循環する嵐の防壁が拮抗する。押し寄せる炎は暴風に散らされ、巡る風は炎が生み出す気流に揺らされる。
大魔法同士の正面衝突。命と魔力のせめぎあい。
永遠にも思える時間が過ぎ去って、炎と嵐は同時に消え去った。
:耐えたか……?
:行けたっぽい
:ナイスナイスナイス!
耐えはした、けれど。
「け、ほっ……」
体の中のエネルギーを絞り出したような疲労感に包まれて、その場に膝をついた。
心臓がばくばくと高鳴る。熱に浮かされたように頭が熱い。その一方で、体の奥底はしんと冷え込んでいる。
たちの悪い風邪を引いたような倦怠感が身を包む。体から、生命力そのものが欠け落ちたかのような寒気がした。
:お嬢?
:大丈夫か、これ
:やばい、魔力欠乏症だ
:そんなに使ったの!?
:風巡りってめちゃくちゃ消費激しいから……
今の攻防で魔力の大部分を消費した。その代償が、これだ。
私の魔力はもう残り少ない。少しくらいなら魔法も使えるかもしれないけれど、少なくとも風巡りは絶対に無理。
一方でリリスには余裕がある。今の魔法も全力ってわけではないのだろう。あの様子だと、まだまだ奥の手の一つくらいは隠していそうだ。
こうなってしまってはもう逃げるしかない。探索者としては、それが正解だ。
……だけど。
「……逃げられる、わけ、ないよね」
助けが必要な誰かを見捨てて、自分だけ逃げるなんて、救助の人間としては大間違いだ。
やるしかないのだ。どんなに過酷な状況だったとしても、要救助者に背を向けるわけにはいかない。
私だって、洒落でこの仕事を引き受けたわけじゃない。真紅の腕章をつけた以上は、日本赤療字社の職員として、職務を全うするつもりでここにいる。
:お嬢……
:まだやるんか
:魔力もないのに無理だって
:逃げてくれよ……
悪いね、リスナー。逃げられない時ってあるんだよ。
魔力はもうない。頭もくらくらする。この状況を覆す妙案があるわけでもない。
それでも、この胸にはまだ一つ、輝くものが残っていた。
「……白石さん。相談があります」
立ち上がろうとすると、蒼灯さんが私の前に出る。
「私、悪運には自信があるんですよ。どんなに危ない目に遭ったとしても、なんだかんだ生きて帰れる。いつものことなんです」
蒼灯すずは、一本のシリンダーを手にリリスへと向かっていく。
「だから、ここは私に任せてもらえませんか?」
待て、何をするつもりだ。
あれは深淵の魔物だ。蒼灯さんが敵う相手じゃない。
彼女を止めようとするが、魔力が欠けてふらつく体は言うことを聞いてくれない。
「白石さん。この命はあなたに救われました。その借り、ここでお返しいたします」
違う。
そんなつもりで助けたわけじゃない。そんなことをしてほしくて救ったわけじゃない。
止めないといけない。何としてでも。
「蒼灯、さん、まっ――」
無理を言わせて体を動かす。引き止めるべく彼女に手を伸ばす。
蒼灯すずはにこりと微笑んで、私の体を突き飛ばした。
「どうか、私のことを信じてください」
そして、彼女の手に握られたシリンダーから青い輝きが放たれた。
氷晶が弾け、雪華が舞う。氷柱と氷筍が無数に生まれ、焼け焦げた坑道を氷床が覆い尽くす。
氷属性魔法、氷結城。自身を中心に大量の氷を生成し、戦場を塗り替える大魔法。
生み出された分厚い氷の壁は、私と蒼灯すずの間を強固に阻んだ。
「あの、バカ……っ」
そんな言葉も、氷の壁に阻まれて。
蒼灯すずとリリスは、共に氷の向こうへと閉じ込められた。
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