蛸盤談(たこばんだん)
太川るい
蛸盤談
親分肌のタコ八には腕が八本はない。
それはどう猛なサメから仲間を守るために身を挺したからだとも、絶えざる自己鍛錬の末の事故によるものだとも、度胸試しに自分で自分の腕を千切ってみせたのだとも言われている。本当のところは誰にも分からない。だが、彼の腕が八本ではなく七本であることは、彼の勇敢な気性と分かち難く結びついていて、自然周囲はこの一本気なタコに一目置いていた。
ある日、タコ八はタコ壺の親父に呼び止められた。この親父は今までも何回か飲み屋で一緒になったことがある。もう誰も好んで住む者などいないのに、あんまりにもタコ壺のことについてうるさいので、まわりはこのタコをタコ壺の親父といい、本人もその呼び名に満足していた。
「おう、親父。久しぶりだな。」
声を掛けられたタコ八はこの年輩の友人に気さくに応じた。
「どうだ八公、いいタコ壺を見付けたんだが、一緒に見に行かないか」
タコ壺の親父は、誰にも言わないでいた秘密を漏らすように、タコ八にささやいた。その顔には恋しい人に会いに行くような喜びの色があった。
タコ八はタコ壺自体にはさして興味がない。だが、この親父がタコ壺について話すのを見るのは好きだった。彼は面白そうだと思って、同行するのを承知した。
物見遊山の楽しみは、道中の会話にある。タコ八は聞くともなしにタコ壺の親父のタコ壺談議に耳を傾けていた。
この親父はことタコ壺の話となると人が変わったように生き生きとしだす。目には生気が宿り、語る口調は熱っぽい。タコ八はそんなタコ壺の親父のことが大好きだった。
今回も、自分が見つけたタコ壺がいかに近年稀に見る良い出来かということを、微に入り細に入り、この親父は説明した。タコ八にはよく分からなかった。だが、この親父が良いというくらいなんだから、よほどいいのだろうという気はしてきた。
ほどなくそのタコ壺がある地点までやってきた。
「どうだ、あれがそのタコ壺だ。」
見ればなるほど、入るのに具合の良さそうな壺が四つほど転がっている。親父とタコ八は更に近付いていった。
「この壺の厚みを見ろ、穴の深さを見ろ。どれをとっても最近じゃあなかなかお目にかかれない、いい出来だ」
親父はうっとりとしながらタコ壺をなでた。
タコ八は幼少の時分、祖父の形見として置かれていたタコ壺に入ったっきり、今までタコ壺には縁のない生活を送ってきた。こうして親父に誘われて再びタコ壺を見ると、いささか不思議の感に打たれる。
自分もタコ壺を触ってみる。少しザラザラしているが、きめは細かく、しっとりとした触り心地だった。
「おい八公、ちょっとでいい。入ってみないか。きっと気に入る。俺はもう、入りたくてウズウズしてるんだ」
こらえきれないというように、タコ壺の親父は言ってきた。
タコ八の返事を聞く前に、親父はそそくさとタコ壺の中へ消えていった。
取り残されたタコ八はしばらく外から壺を眺めていたが、やがてゆっくり別のタコ壺の中に入っていった。
生まれ持ったタコの本能というものがあるのだろう。また、このタコ壺の具合が良いこともあるのだろう。タコ八は一も二もなくこの場所を気に入った。そうしてできることなら、ずっとここでこうしていたい、というような気持にさえなった。
ところがその時、異変は起こった。
あっというまに壺が引き上げられていく。タコ八と親父はにげだす暇もなく、実に様々なところを移動した。その間のことはタコ八たちも混乱していたことではあるし、ここには書かないでおく。
最終的に、彼らはある水槽の中へとあけられることになった。
広い水槽だ。水質も適度に調整されており、快適そのものである。
ただタコ八と親父は、その中にいる魚たちが一様に澱んだ眼をしているのに気づかないではいられなかった。
「また新入りがやってきやがったな。片輪のタコに、老いぼれのタコか。しけてやがる」
水槽のどこかからそんな声が聞こえてきた。タコ八は声のした方に目をやる。一匹のブリがこれもまた澱んだ、やさぐれたような目でこちらを見つめていた。
「ふん……」
ブリは遠慮なしに、こちらをじろじろと見つめてくる。
「お前たち、ここがどういうところか、まだ分かってないだろう」
「ああ、いきなり連れてこられたんだ。ここは一体、どこなんだ?」
タコ八はたずねた。ブリは答えない。
「まあ、そのうち分かるさ」
そう言って、ブリはそのまま行ってしまった
「なんだ、自分から言っておいて教えないとはけしからん奴だな」
短気なタコ壺の親父は、そう言いながらプリプリと怒った。
タコ八はこの無愛想な魚を興味深そうに眺めていた。
しばらく過ごしていると、少しずつだが水槽の中のことも分かってきた。
エサは定期的に上から降ってくる。食べるには十分な量で、味も悪くない。絶えず水は浄化がされているようで、常に清潔感が漂っている。魚たちは、そこここで話をしながら暮らしているようだった。
「慣れてしまえば、結構居心地のいいもんだな。あのタコ壺がないのが残念だが……」
「そうだな」
ただ、日に何度か、水槽の中に網のついた棒が入れられることがある。水槽の魚たちは単純にそれを「網」と呼んでいる。網はやってくると、中にいる魚をすくい上げてどこかへ行ってしまう。そんなときは一様に、水槽の中の空気が少し静かになる。
ある日、タコ壺の親父がその網に捕まった。
親父は最初、網を避けていた。しかし、網は明確にタコ壺の親父を狙っていたようで、とうとう最後には捕らえられてしまった。
タコ壺の親父は網の中から、怯えた目でタコ八に訴えた。
「おい、俺は嫌だ。引き揚げられたらどうなるんだ?なんで誰もそれを教えてくれない?八公、助けてくれ」
タコ八はなんとか網を破ろうとしたが、無駄だった。親父は、そのまま上へと引き上げられていった。
呆然とするタコ八の背後から、ブリが声を掛けてきた。
「あの老いぼれには、網に捕まったらどうなるのかは伝えなかった。どうせ教えても、余計に怯えさせるだけだと思ってな」
タコ八はブリの方を振り向いた。ブリはタコ八の顔を見てから、水槽の外側に顔を向けた。
「あそこで人間が食っている食べ物があるだろう。あれはお前、ここにいた連中が混ざってるんだ。」
「なんだって?」
タコ八は改めて外を見た。
そこではたくさんの人間が賑やかそうに飲み食いしている。赤や白や緑、茶、様々な色の物を食べている。タコ八にはそれが、いままで水槽にいたタイやヒラメ、そうしてタコ壺の親父だとはあまりすぐ想像できなかった。
「ほら、いま皿が出てきた。あの中にあの老いぼれが入っている筈だ」
ブリにそう言われて、タコ八は新しく出てきた皿に注目してみた。
「ああ!」
信じたくはなかったが、確かにその皿の中には、彼が日頃親しく見知っていた親父の腕が、ブツ切りになって盛られていた。それを、外にいる人間達は実においしそうに食べるのだった。
「つまり、親父は殺されたのか」
「そうだ。網に捕まって、帰ってきたやつはいない。奥でさばかれているんだろう」
「………………」
「怖くなったかい」
「怖いもんか、俺はしっかりと覚悟を決めておくぞ」
タコ八はいつ自分が網に捕まってもいいように、日々決心を固めているようになった。
だが、タコ八は長く水槽にとどまった。その間、新しく来た魚もあれば、引き上げられていく魚もあった。
「なんで俺は引き上げられないんだ?」
ある日、耐えられなくなったように、タコ八はブリにたずねた。
「そりゃあお前が、そうするに値しない奴だからさ」
ブリはせせら笑うように言った。
「何故だ。俺はりっぱに死んでみせる。ここにいるどの魚よりも、男らしい最期を迎えてやる」
「ふん、口ではどうとでも言えるさ」
「なんだと」
「嘘つきになりたくなかったら、行動で示してみるんだな」
ブリはちらりと上を見上げた。
「ほら、また網がやってきた」
二人が話している間に、網はいつものように水槽の上方にあらわれた。
「ようし、見てろよ。ちゃんと捕まってやるから」
タコ八は決心して、網に近付いた。しかしいくらまとわりついても、網はすげなくタコ八を追い返した。
網はなかなか目当ての魚を見付けられないようだった。
「おい、あの網は、ひょっとしてお前を探しているのではないか」
戻ってきたタコ八はブリにそう言った。
「そうかもな」
ブリはさほど興味がないように答えた。
網はしばらくさまよっていたが、最終的にブリを捕らえた。
「とうとう俺の番か。ようやく来てくれた」
ブリの顔には、どこか安心したような色があった。
「じゃあな。もう会うこともないだろうが、達者でやれよ」
網に入れられたブリは、タコ八の方をじっと見た。
「俺はずっと死ぬ勇気がなかった。いつもいつも、連れていかれる仲間たちを尻目に、のうのうと暮らしていた。……最初のうちは辛くてたまらなかったが、そのうち感覚がマヒしてきたんだ。連れていかれる魚が俺じゃないことに、ほっとしている自分がいた。タコ八、お前がうらやましい。俺は、お前のようにはなれなかった。
念を押しておくが、ここから生きて出られる方法は万に一つもない。これは俺の予感だが、お前はなかなか引き上げられることもないだろう。お前は一体、この水槽の中でどう生きるつもりだ?……いつか、あの世で俺に教えてくれ」
そう言って、ブリは上へと引き上げられていった。
タコ八は、自分がそう簡単には引き上げられないだろうというブリの予測を、奇妙な実感を持って受け止めていた。だからと言って、ブリのように、すべてを諦め生き永らえることもタコ八には考えられなかった。
タコ八は次第にものを食べなくなっていった。定期的に、上から降ってくるエサはある。水槽の魚はそれを濁った眼で食べている。タコ八はそれに断じて口をつけようとしなくなった。そんなタコ八を、水槽の面々は意識しながらも、つとめて見ないようにしていた。ブリがいなくなって以来、タコ八に話しかける者は誰もいなかった。
何日も経ったのち、タコ八はやつれはてて息絶えた。
「店長、このタコ、死んでますよ」
ある日、タコ八の死に気付いた店員が、店長に報告をした。
「ああ、珍しいな、水槽の中で死んだのか。……もったいないが、店の裏に捨てておけ」
「分かりました」
店員によって、タコ八だったものは店の裏のゴミ捨て場に投げ入れられた。それをかえりみる者は、誰もいない。
ただ月の光だけがさし込んでいて、このタコを静かに照らしていた。
蛸盤談(たこばんだん) 太川るい @asotakeyoshi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます