1ー3 NO-002
何かが変わったらしいことは分かった。
日々が少しずつ違っていったからだ。
やるべきことは変わっていない。
敵を壊す。
壊し続ける。
そこは変わらない。変わるはずもない。
ただ、その間隔がずれた。少なくなった?
自分で数えたりしていなかったので、詳しくは分からなかった。
住む場所も変更になった。
別にどこでもかまわないけれど、何の意味があるのか。
最近、体の動きが今までとはどこか違う気がしている。調子がいいのか悪いのか、そういう違いでもない。ただどこかが、それまでとは異なっているということだけが分かった。気になってはいたけれど、誰にもは話していない。
定期診断でも特に異常値は出ていない。
多少違和感があっても、それが悪い方向には出ていない以上気にしなくてもいいと思っていた。
身体の本でも見てみようか。構造的にどうなっているのか分かれば、気づくことがあるかもしれない。
いや、無理か。以前に一度眺めてみたが、さっぱり分からなかった。字は最低限読めるようになっても、世の中の言葉はあまりにも多い。知らない単語の意味は辞書を引かなければ分からない。その辞書も色々と専門分野があるらしくてごちゃごちゃしていた。適切なものを選ぶことすら難しい。
誰かに習うのが一番早いと言われたこともあったけれど、そんな相手はいない。
もう、いない。
不意に脳裏に浮かぶ顔をかき消す。
無意識に煙草に火をつけて煙を吐き出した。その灰色のもやが消えるのを見つめる。
自然と消えていく。何かもそうやって、曖昧になって失われる。忘れてゆく。
それでいい。
それがいい。
ぼんやりと煙草を吹かしていると、教官がやってきた。担当も変わったらしい。
「お前にはもっと敏捷性が必要になる。来い」
言われるままに付き従う。
否はない。
一見、普通の戦士にしか見えない教官の名はギィーズ。伝説の
正直、特に考えたことはなかった。
強いとされる先達の名はいくつもあったけれど、実際にやり合うこともないので事の真偽は確かめようがない。
生き残っていれば強いのだろうけれど、それには運も絡むために判断は難しい。
たとえ仟号持ちであろうと、それが本当の強さなのかどうかは疑わしい。
しかし、こうして目の前に現れて上官となった今、何も考えないというわけにもいかなくなっていた。
ちょっとした体の動き、仕草からにじみ出る覇気、どこか重く沈むような声、そのすべてが別物であることを物語っているように感じた。
百聞は一見に如かず、という諺があることを本で読んだ記憶がある。
いくら噂を聞いても、目にするまでは分からないというようなことらしい。初めて知った時は良く分からなかったけれど、今は違う。
なるほど、格言というものは確かに含蓄があるようだ。
ギィーズの背中を追って歩きながら、戦場で誰よりも戦ってきたその歴史に思いを巡らせる。
最近、ナルコは常に考えてしまうのだ。
強さとは何なのか、と。
その答えの一端をギィーズは知っているのではないだろうか。
それを尋ねてもいいのだろうか。それに意味はあるだろうか。
そんな逡巡を続けている間に、見知らぬ建物の中に入っていた。
訓練所の敷地内には無数の建物がある。それぞれが何のために存在するのか、考えたこともない。求められていないし、無駄なものだと教えられている。
ただ、そこにあるという認識だけ。それですら、おそらく極一部でしかない。それらを不思議に思うこともなかった。
だけれど、これはおかしいと感じた。
ここまで誰ともすれ違っていない。
幾つかの扉を挟むような廊下やら、長い通路、ちょっとした広間などを抜けて歩いてきたのに、人の気配がまったくなかった。
廃墟であるならば分かる。けれど、ここには最近手入れされた形跡が見られた。どんな場所であれ、現在の環境を観察するのは魔兵士として当然の行為だ。常に警戒して戦うための準備を整えておくのが務めだ。その感覚に間違いはない。この場所が無人なことに違和感がある。
教官はただ無言で先を行く。
煙草の匂いが道標の如く漂っていた。
そして。
「さて、お前にはここで三日間生き延びてもらう。それまでここから出ることは許さん」
命令が下った‘。
なぜ、という疑問は湧いても口には出さない。代わりに必要なことを尋ねる。
「ここ、とは具体的にどの範囲を指してるんだ?」
「今まで歩いてきた建物全部だ。ちなみにお前の他に個体はいない。いるのはケモノが数十匹だ」
教官はそこで新しい煙草に火をつけた。
「そのケモノは壊してはならない。お前は逃げ回ることになる。食料については三部屋にのみある、補充はないから早めに確保しろ。何か質問は?」
三日間この建物の中で生き延びる。ケモノを壊すことは禁止。
ルールの原則は理解した。単純だ。
「ケモノを壊さずに撃退するのはありか?」
一切手出しができないのか、振り払う程度の攻撃は可能なのか、それによって行動基準が変わってくる。
「所要時間が5秒未満なら許可する」
ニ、三発お見舞いするのはかまわないということか。その意味するところが分かった。
教官は敏捷性のテストだと言っていた。ケモノもおそらくは素早さのあるタイプがいるのだろう。
素早く動き、迅速に処理するための訓練。壊させないのは、力任せではなく速度を維持しつつ適正な力加減でペース配分を学ばせるため。
戦闘に関する限り、その意図と意義は明確に理解できる。
基本的に力に頼って敵を壊す傾向があると、分析官か何かに言われた記憶がある。歴代の教官にも常に言われ続けていた「力任せにぶん回すな」と。だから、魔暴走も頻繁に起こす。
その是正と修練も兼ねているのだろう。
「他に何もないならすぐに始めろ」
教官の合図が出た。
任務を遂行することに迷いはない。そう教えられてきている。
「了解。これより破壊を――回避を開始する」
いつもとは少し違うけれど、戦いの時間の始まりだった。
もう何度その襲撃を交わしたのか、回数は覚えていない。
この建物内のケモノはやはり狼型だった。俊敏な動きと群れで獲物を狩る習性がそのまま色濃く残っている。
領域内ならば手近な個体から壊すのがセオリーだが、今回それは許可されていない。
壊さずに無力化するのは難しい。
一撃で暫定的な停止状態に持っていく方法が未だに見つかっていなかった。力加減の調節の大切さを身をもって感じる。
そのコントロールが必要な時があるのか疑問に思うものの、今は確実にその技術が必要だった。
「後から気づいたって遅すぎんだよ、バカが……」
そんな幻聴が聞こえた気がした。
何気なく聞き流していた言葉が、時折耳に蘇ることがある。不必要なものだと捨て去ったはずのものなのに、未だに記憶にへばりついている。
無駄なものなどない。
そういった話も聞いたことがある
何が真実で偽りなのか。ケモノの牙を交わしながら、もっと機敏に動くための友好的な足運びを考える。いらない思考は切り離す。
よりよく戦うためには、己の身体を鍛えるだけでは足りない。どれだけ無駄なく筋肉を使えるか、敵との間合いを詰められるか。力を伝達するための最適な角度。最大限のダメージを与えるタイミングの見極め。その隙を、油断を作らせるための間の取り方。
あらゆる要素を計算し、総合的に的確な攻撃を加えることが理想だ。
それができて初めて、手加減というものも可能になる。
まだその域に達していない。まだまだ自分は足りていない。
すれ違いざまに狼の右足に痛打を与えて怯ませる。
次の一匹が来る前にその場から離脱する。
今なら追い打ちで壊せたのに、もったいない。壊すことができないのは残念だ。
そう思っている自分にどこか違和感を覚える。
まるで考えもしなかったことだけれど、壊さずに戦うことで違う何かが見えてきた気もする。
そもそも、これは戦いのなのか。
壊さなければ戦いとは言わないのではないか。
いや、ここは戦場ではない。これは訓練だ。
ケモノを使っているから戦いだと勘違いしているだけか。
色々なものが分からなくなってくる。
建物内は薄暗い。窓もたいしてないし、あっても開いていない。
外はもう夜だろうか。
この場に時間の区切りはない。撤退の鐘の音、骨笛の不快な呼び出しはないのだ。
どこかで休息は取らなければならない。
延々と連続稼働して動けはしない。そういう風にはできていない。
無理をすればまた魔暴走しかねない。
と思ったけれど、逆にないのだろうか。いつもは壊そうとして、壊しすぎて、我を忘れている気がする。
今回は壊さないようにしているわけで、真逆の行動だ。
これはいける、そう思った矢先。
どこからかケモノが飛び掛かってきたので、反射的に反撃してしまっていた。完全に無意識だ。
「…………」
視線の先にはピクリとも動かないケモノが横たわっている。幸い、斬れてはいない。刃の腹に当たっただけだろうか。あれなら大丈夫だろう、多分。
急いでその場から離れる。
改めて確認するのが嫌だったわけではない。戦略的撤退だ。
戦いの最中に油断しすぎた。訓練といえど、考え事をしている暇はない。気を引き締めることにする。
先程のは不慮の事故だ。忘れるのがいい。それがいい。
ナルコは見つけた食料の中から、煙草を取り出して火をつける。
まずは一服して落ち着く必要があるようだった。
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