第一章 兆
1-1 NO-001
実戦任務ではなく、訓練だけの一日。
食堂で昼食を取っていたときに、ポンと小気味いい音がして炎が爆ぜた。
その音だけですべてを悟る。
またか、と思ってそちらに目を向けると、誰かが火だるまになっていた。それも一瞬のことで、その個体は悲鳴を上げる暇もなく消し炭になる。大量の煤けた何かが床に落ちた。
それまで動いていた生命が、あっけなく黒い何かに変わるのはいつも不思議に思う。
生きるも死ぬもそこにはない。黒い物体があるだけだ。吐息でも吹き飛ばされそうなくらいの取るに足らないもの。あまりにもちっぽけでつまらないもの。
価値なんてない。あんな終わり方はない。
鈍い思考が巡る。あの塊を誰が掃除させられるのだろうか。自分に来なければいいが。
「あれが過剰症?」
誰かの囁き声が聞こえる。新任だろう。初めて見た時の反応だ。皆同じように思うらしいが、自分がどうだったかは覚えていない。
覚える必要もないので当然だ。
「ああ、うまくコントロールできなかったんだろう。見習いじゃあるまいし、恥ずかしい奴だ」
吐き捨てるように違う誰かが言う。
これもまたよくある反応だ。
「気にしないで食事を続けろ!この件に関して私語は慎むように!」
慌ただしく食堂に入ってきた教官の一人が、面倒くさそうに声を張り上げる。
それで騒ぎは収まった。
ナルコは残りのスープをかき込むと、食器を下げに席を立った。
もう先程の煤は気にも留めていなかった。
それよりも、手にしたトレイが気になっている。微妙に平らじゃない。どうしてきちんとフラットにしないのか。凸凹しているのは歪だ。歪みというのは何か気持ちが悪い。
剣で敵を斬って、断面がねじ曲がっていたらどう思うのか。不快だろう。綺麗に水平に斬れていて欲しい。それと同じことだ。
そのくらいの技術はあるはずだと思うけれど、誰にもそれを語ったことはない。たかがトレイでもある。
話すのは苦手だった。いや、嫌いなのか。
そもそも話すには相手が必要だ。そんなものを欲しいと思ったことはないので、結果的に話すことがない。
そのロジックが合っているのかどうかすら分からない。
やれやれ……何を考えているんだか。
戦っていないとやはり無駄な思考が巡ってしまう。それは淀みだ。滞って、まとわりつく。
もっと綺麗に流れる水のようでありたい。
そうすれば、ただ上から下へと落ちるように、敵を壊すもので在り続けられる。
食堂を出たところで、「おい」と声をかけられた。
いつもなら自分に対するものではないと気にもかけないのだけれど、さすがに真正面に立つ男から発せられたものである以上、無関係ではないだろう。
何だ、と返事するのも煩わしいので視線だけで答える。
目の前の顔の無精ひげで誰だか気づいた。
他の個体に興味はないけれど、面倒臭い奴のことは一応記憶の片隅に留めてある。避けるためだ。
今回はそれが叶わなかった。
「お前、また魔暴走してたらしいな。それでくたばらないのがいちいちお前らしい」
わざわざ呼び止めて、何が言いたいのか不明だ。
無視して横をすり抜ける。
「ちっ、まただんまりか。性根がひん曲がった野郎だぜ」
男が何か言って周囲にいた誰かが笑った。何が可笑しいのか。
他の個体は理解不能だ。同じように教育されたはずなのにまったく違う。
戦っている間は少しだけ自分と同じ匂いをさせるのに、そうでない時の落差がありすぎる。あまりに違い過ぎる。
いや、自分がおかしいのか。よく言われている気がする。
その違いはけれど、魔兵士であれ人間であれ誰にでもあるもののはずだ。どの部分が違うのだろうか。具体的に指摘して欲しい。
そう考えたけれどすぐに否定する。
指摘されたところで、同意できるとは思えない。同意する必要性も感じない。違うのなら違っていい。同じである必要はない。
そして、不意に今の男の言葉が脳裏に響いた。
真っすぐに伸びていた廊下がぐにゃりと曲がった気がした。
ひん曲がっているのはどっちだ?
どうしようもなく苛立ちが募って、ナルコは振り返った。
自然と身体が動く。そうすべきだと空気が震える。口元から短い息が吐きだされる。それは綺麗な直線として伸びてゆく。
思い切り片足を振り上げ、男の背中に叩き込んでいた。
一番最初の記憶は何だっただろうか。
眩しさを認識した?
何かが光の中に見えた?
それは……
光が見えたわけじゃない。ただ、闇ではなかっただけ。
霧がかかったように曖昧だ。
声が聞こえた気もするし、痛いほどの静けさがあった気もする。
ただ、何もかもがそれまでとは変わっていたことは覚えている。
そして、「それまで」というもの自体がすべて消え去っていることも。
いや、それは後付けの回想だろうか。
次に覚えているのはどこかを走らされている自分だ。
同じように、他の何かが走っていた。どれもが皆やはり同じようなかたちをしていた。
「止まるな、走り続けろ!」
教官が叫んでいた。いつも怒鳴っていた。気に入らない個体だ。
けれど、口答えは許されなかった。しょうがないからじっと睨んでいたら、顔を張り倒された。
「オレをそんな顔で見るんじゃない!」
視線すら合わせなくなった。
やがて戦い方を覚えた。
「あいつ、魔法が使えるんだってよ」
真夜中に誰かがこっそりと秘密を打ち明けるように言った。あれは誰だっただろう。
自分には魔法は使えないと知った。正確には苦手だと分かった。
炎。それは不思議な明かりだった。闇に揺らめく赤い光。ただの火とは違う何か。特別だけど、特別じゃないという。
それは辺りを照らすと同時に熱かった。温度が高すぎると、害になることを知った。
左肩をひどく火傷したことがあった。
火傷とは炎によって引きこされる。眩しいだけの存在ではなかった。
熱さと痛みは別だと知った。
「気持ちいいか、いいだろ?あん?これから良くなるんだよ」
異物が自身の中に入る感覚。初めてのときは少し不安だった。思えばあれが恐怖だったのだろうか。
気まぐれか、諦めか。なぜ、許したのだろう。
あの時も熱を感じた。あの男を感じていた。
殴り倒した時よりも強く。
あらゆる記憶はあまりにも間欠的、飛び飛びにすぎる。刹那に通り過ぎて消え去る。消えたかと思うと、また巡ってくる。そういうものなのだろうか。
僕はまだ弱かった。
僕?
くすくすと笑い声が聞こえた。
笑ったのはいつだったか。いつから笑わなくなったのか。笑うとは何だったか。
知ってどうする?
別にそれで何が変わるというわけでもない。
熱さがぶり返してくる。
体の内側から燃えるようだ。メラメラという聞こえもしないあの音がなぜか脳内で響く。
単なる表現だとか、オノマトペだとか、どうしようもない説明が風のように通り過ぎて遠ざかる。聞こえているのかいないのか。
それも、いつものことだ。
不要なものはただ流れて、流されてゆく。
留まることはない。
ただ、熱さはそこにまだあった。
これは何度も経験してきた気がする。初めてではない。
僕にとっては……
違う。
アタシにとっては。
一気に光が弾けた。
意識が覚醒する。
ぼやけた視界に土壁。濁った匂い。硬いシーツの手触り。使い古されたベッドの軋み。
独房にいることが分かった。
そうか。
あの無精ひげを蹴り飛ばして、徹底的にぶちのめしたらしい。
過剰攻撃とやらで罰則になったのだろう。何度か経験したことがある。
その時の記憶はあまりないけれど。
身体の火照りを感じて、魔暴走が起きていたのかもしれないと気づく。
「またやっちまったか……」
乾いた声が思わず出た。
無意識に魔器を確認する。そこにちゃんとある。ただし、完全にロックされていた。
体を起こして鉄格子を見る。
薄暗い廊下には誰もいない。
向かいの牢にも誰もいない。
いた試しがない。
独房なのだから当然だ。いや、だとしたら向かいに他の房があるのもおかしいのか。
どうでもいい。
ぴとっ、とどこからか水滴が落ちる音がした。
その音をなんとなく数えていたい気分だった。
次の戦場まで、まだ遠い。
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