第3話 地図は正確に頼みたい件

 ヴィセア王国内で豊穣神デメテルを祀る村というのはそれほど珍しくなく、農業に従事することを示すとともに非武装であることの証となっている。アスベルはカツキへそう説明した。


「たとえば魔物が多く出没する地域だと戦神マルティス、交易路の近くだと商売神ヘルメスといった具合にその村の特徴を表しているんだ。今から行く豊穣神デメテルを祀る村は、アイギナ村というのどかなところだよ」


 旅装姿のアスベルとともにようやく振動のひどい馬車から降り、乗り物酔いから逃れようとカツキは周囲を見渡す。柔らかな太陽、緩やかな丘陵、どこまでも続く緑の芝生に時折羊の群れが顔を覗かせる、確かにのどかな風景が広がっていた。


 アスベルの先導で土道を頼りに村へ向かう間、カツキは遠慮なく溜まっていた質問をぶつける。


「アスベルさん、聞いてもいいですか?」

「どうぞ、質問なら何でも」

「アスベルさんは、ルシウスさんとはどういう関係なんですか? 上司と部下というわけでもなさそうな」


 一介の兵士と大臣、ごくごく普通に考えれば直属の関係とはならない。であるにもかかわらず、アスベルはルシウスの忠実な部下のように振る舞っている。それも、かなり重要なことを任されているようにしか見えない。


 アスベルは「あぁ、そのことか」とあっさり答えた。


「前に言っただろ? 俺は祝福ギフト持ちだけど能力的にがっかりされて誰も見向きもしなくなった、って」

「はい」

「でもルシウス大臣は祝福ギフト持ちを鑑定できる。だから城の兵士になってお目見えしたときにバレてな、それ以来よくしてもらってる。そうだな、俺は下っ端で怪しまれないから各部署へ密偵の真似事をしたり、こうやって英雄召喚の儀式に紛れ込んで君を連れ出したりだとかな。ルシウス大臣が動くと大ごとになっちまうから、ほら」

「ああ、なるほど。協力者って感じですか?」

「そうそう、そんな感じ。たまにお小遣いもらえるしな」


 冗談まじりにアスベルは笑った。アスベルのおかげで命拾いしたカツキとしては、アスベルが立場的にも精神的にもただの兵士ではなかったことを心底感謝するしかない。


 吹いてきた風が遠くの鐘の音をカツキの耳へ届ける。アイギナ村が近くなった証だ、とアスベルが言った。どこの村にも必ず鐘楼があり、一日三回、朝と正午、夕方の時刻を知らせるのだそうだ。


 つまり、それ以上詳しい時間感覚は必要なく、この地の農村ではカツキのいた日本では江戸時代以前に相当する流れで生きていっているわけだ。スマホも何もかも元いた世界に置いてきたため、カツキも正確な時間を把握しようがないし、何とか慣れていくしかなかった。


(スマホはまあ、手放したくはなかったけどこの世界で持ってても充電できないからしょうがないとして、衣食住だけはマシだといいな。もらった服はそこそこ着心地もいいし、昨日食べたパンは美味しかったから大丈夫だと思いたいけど)


 カツキが生まれ育った西東京から出たことは、小学六年生のときの修学旅行、ただその一回だけだった。林間学校は奥多摩だったし、修学旅行といっても夏の北海道に三泊四日で行っただけ。それがいきなり異世界へ渡ってしまい、どうにも本やインターネットで見たヨーロッパの原風景に足を踏み入れてしまったのだから、環境が違うどころの話ではなかった。


 ルシウスの庇護を受けたおかげで、カツキの衣食住は保証されている。その上、言葉も特段不自由なく通じていた。唯一気になったのはカツキが最初農耕神クエビコを発音できず、ルシウスが話した音調をそのまま繰り返したらカツキの口からも発音できた——その事実は、言語が通じないというよりもかのようだった。


 まるで自動翻訳が機能していないかのようで、もしそんな機能があるなら誰が何のためにそんな仕様にしたか、ということになる。


(お約束で考えれば、神様がやってくれました、祝福ギフトのようなものですってことになるか……本当にそんな都合のいいものかどうか、だよな。そこもこの世界を知っていって解決するといいんだけど)


 何にしても、カツキには圧倒的にこの世界に対する知識が、理解が足りないと自覚がある。いくら役立つ強い祝福ギフトを持っていても、それだけでは間違いなく効果を最大限発揮できないのだ。ともすれば本来のたった一割しか効果が表れていない、なんてこともありえる。


 しかし、今それを重く受け止めて悩んでも仕方がない。罪悪感を胸の奥へ押し込めたときのように、さらなる重荷はとりあえずしまっておくしかなかった。


 そこへ、アスベルの思いつきであろう疑問で、状況は驚くべき展開を見せる。


「しかし、農耕神の手か……何ができるんだろうな? やっぱり豊作にできるとか? それとも、田んぼ作りが上手いとか」


 ——田んぼ?


 あまりにも今の周囲の風景とは場違いな単語だ、とカツキは首を傾げた。


「あれ? この国って田んぼがあるんですか?」

「へ? そりゃあるよ、麦と並んで米は主食だから」


 カツキは素直に驚く。カツキは田んぼ、稲作なんて元の世界ではアジア圏にしかないと思っていたからだ。


 もちろん実際には遠くヨーロッパ・アフリカ・アメリカ大陸でも稲作は行われているし、主食ではないものの栽培は可能だ。


 だが、この認識の齟齬から、この世界に対するカツキの知的好奇心が堰を切ったように溢れ出す。


「え、お米も食べるんですか? このあたりは? 米か、麦かどっちですか?」

「このあたりじゃ麦のほうがよく食われるかな。南に行くと米がよく食われるし、今は魔物に占領されてるけど西のほうは麦ととうもろこしの一大産地だった。灌漑施設が生きてれば再生できるだろうけどな……まあ、望み薄か」


 多くの日本人の小中学生は、社会科の教科書や地図帳に付随されている『分布別地図』を目にしたことがあるだろう。たとえばカツキが米文化圏を認識していたように、地図上でそれを表したものなどがある。作物、木材、家畜、宗教、言語の別などで地図を色分けし、大まかに表したものは視覚的にとても分かりやすい。


 今すぐに、カツキはこの世界を理解するために、もっとも簡単で、もっとも情報量の多く、かつある程度は正確性を担保されるものとなるがほしいと思った。だが、この世界にあるとは限らない。


 「ならば」とカツキは前のめりになった。なければ作ればいいのだ。


「アスベルさん、さっそくで申し訳ないんですけど、お願いが」

「お、おう。何だ?」

「この国の、いえ、この世界の地理と食物や植物分布について教えてください!」

「へ? ちょっ、ちょっと待て! もう一回言ってくれ、地理と何?」

「分布です。人間が食べるもの、育てるもの、地図上に表したらどうなるかを知りたいんです!」


 おそらく、アスベルはカツキの言いたいことが半分も分かっていない。それでも、「地図だな」と懐から使い古した地図を取り出し、広げてカツキに見せた。


「まず、これがヴィセア王国の地図だ。これはどこでも手に入るもので、大して細かくはない。それでも線引きくらいはできる」


 カツキは地図を見た瞬間、自分の何となく懸念していたことが当たったと苦い顔になる


 元の世界だって、正確な地図というのは本当にごく最近できたものだ。昔の偉い人たちは、地球が丸いことは知っていてもきちんとした地理認識はなく、本気で黄金の国ジパング黄金郷エルドラドがあると信じていた。


 カツキが手にしたヴィセア王国の地図は、ジャガイモみたいな形の島があって、その周りに山や海竜が描かれている。どれがヴィセア王国かと言われれば、ジャガイモの中央らへんにその名前があった。このジャガイモはヴィセア王国の全域であり、その外側に文字がたった一文字ずつで隣国の名前がそれぞれ記されているようだった。


(……思ったよりひどかった。方角も面積も何も指標がないって、こういうことなんだ)


 これでは現在地さえ把握できない、カツキがそう文句を言う前に、アスベルはもう一つの大きめの地図をカツキへ寄越した。


「それと、これが世界地図。多分、正しいと思うんだが……何せ魔王が現れる前のものだ。今はどうなってるか分かったもんじゃない」


 カツキはアスベルが世界地図と称するものを一瞥すると、厳しく指差しながらアスベルに詰め寄った。


「緯度は?」

「井戸? そんなもん村に」

「違います、緯度ラットです。赤道はどこを通ってますか? あとメルカトル図法の地図か地球儀グローブが欲しいんですけど」

「待ってってば! そんな専門的なこと言われても俺には分からないから! 本なら取り寄せるって!」


 噴出した知的好奇心を抑えるために、そして暗闇の荒野で灯火を得て知識を発見するために。


 アイギナ村に着くまで、カツキは慌てふためくアスベルを質問責めに遭わせ、さらにはまだ物足りなさを埋めるために口を開こうとして——ようやくカツキの好奇心の方向は切り替わった。


 丘を越え、アイギナ村が見えると、一面に麦の若芽だらけの畑が広がったからだ。


 その青さが香りとなり、緑色の波が押し寄せるたび、鼻腔をくすぐる。


 あらゆる感覚が新緑を伝えてくる中、カツキは、見たこともないはずなのに懐かしく感じ、なぜだか体全体が動きたがっている気がした。

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