第10話

「おおおぉぉぉぉおおおい!!瞳ちゃぁぁぁん!!」

 視界の果てのほう、パンダの展示のその先カーブを曲がったところで見知った顔が叫んでいた。驚いた僕の隣で、彼女は状況の理解に時間がかかって驚きまでまだ達していないようだ。ゆっくりと理解してから僕のほうを見た。彼女と目が合うと、笑みがこぼれた。彼女の表情にも同じように笑みが現れたことに安心した。

 周囲からの痛い視線が兄に向けられる。兄の傍にいる小学校低学年くらいの子供と手をつないだ家族が急ぎ足で通り過ぎていく。少年は親に連れられながらパンダの展示をまだ見たいとしがみついていた。兄は先ほどから少し近づいて、先ほどと変わらない大声で続ける。

「ゆうたは、きっと瞳ちゃんのことを幸せにしてくれるぞ!俺と違って真面目に働くぞ!安心して将来任せてええぞ!あとは、、、小学生の頃からいろんな女に告白されてたぞ!!」

 小学生のころから学校で起きたことを何でも兄に話していたことを後悔した。恐る恐る彼女のほうを見ると少し微笑みが薄くなっている気がする。

「俺はもうゆうたの家にはいかん、、あんまりいかんから!別れちゃダメやあ!!!後悔するぞ!!」

 僕は兄に電話した時の妙な沈黙を思い出し、そして兄のこの行動が僕と彼女の関係を終わりに近づけているような気がして焦って隣を再度見た。彼女は真っ直ぐ僕のほうを見つめていた。

「ねぇ。私、ゆうたと別れるつもりなんて少しもないんだけど。」

「、、、え?」

「え?って何よ。聞きたいのは私のほうよ。なんでゆうたと別れるってことになってるの?」

「いや、だって。前から連絡少なくなってたし。動物園も最初のデートだから最後にしようとしてるのかなって。」僕はほっとしたような、拍子抜けしたような感じがしつつ、先の展開を早く知りたいかのように早口になっていた。

「天王寺と上野は別って言ったでしょ。それに、、、」彼女は目をそらし、少し口ごもった。

「、、、親が同棲に反対するから、口喧嘩しちゃって元気なかったの。」

「え、、同棲?」

「同棲。一緒に住むってこと。私の親、過保護なの知ってるでしょ。ずっと同棲反対されてたの。それでこの前喧嘩しちゃってさ。言ってなくてごめんね。」

「いやいやいや、全然。全然。」

「瞳ちゃん!」まだ離れたところにいる兄から声がかかる。

「ゆうたと別れるつもりなんやろ?それはしたあかん!!」今にも泣きだしそうだ。

彼女はさすがに気まずそうにしている。代わりに僕が答えることにした。動物園で大声を出すのは初めての経験だったし、家族連れがいる前で大きな声を出す人に好印象を抱いたことは無かったから躊躇ったが、兄が今会話に混じると余計面倒なことになるし、彼女が恥ずかしい思いをするよりは僕がするほうがいいと思ったから仕方なかった。

「兄ちゃん!大丈夫、別れないよ!だから今日は帰って!!大丈夫!!」

兄はさっきまでの僕がしていたような、拍子抜けされた顔をしていた。

「お兄さーーーん。大丈夫ですよぉぉぉ!!!」

僕より大きな声を出した彼女に驚いて、そちらを見る。両手をメガホンの代わりにしている彼女と、その先で興味深そうに僕たちをみている集団が見えた。

 兄は彼女の言葉を聞いて、納得したのかしなかったのかは分からないが、走って視界から消えていった。

「お兄さんに別れそうって言ってたの?」彼女は僕にいたずらをする時の顔に戻っている。

「いやあ、まあ。兄のせいにしかけてたっていうか、ね。」

「そうなんだね。別れなくてよかったね。」

「うん、本当に。」

そこから二人は何も言わずに歩いた。パンダの展示を見終えると出口に向かい、そのままお土産は買わずに外に出た。夕方が近づいた上野の街並みは、やはり人で溢れていた。ふと、彼女と一緒に暮らしたいと思った。


「帰ったら、同棲のことちゃんと話そう。」


「いいよ。」

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