第6話

 夏休みが終わり、二学期が始まった高校生たちを出迎えた残暑も身を引いたころ、僕は覚悟を決めていた。隣のクラスの大八木瞳をデートに誘う覚悟を。高校生活が始まったころから彼女に思いを寄せていた気がする。思いを募らせるきっかけは彼女との談笑の心地よさかもしれないし、放課後に偶然見かけた彼女がユーフォニアムを吹く真剣な表情かもしれない。思い返せば、1年次に同じクラスだった彼女の自己紹介で見せた笑顔かも知れなかった。しかし、デートに誘う口実を探す僕にはそうしたことはおよそ関わりのないことだった。

 永遠にも感じられるほど長い授業がすべて終わると、友人たちとともに部活に向かう彼女を呼び止めた。

「ちょっと、いい?」

「うん?どうしたん?」

「あ、いや、ちょっと来てほしい。」焦点の外側に移る彼女の友人たちが色めき立つのが分かった。

「わかった。二人とも、ちょっと先行っててもらってもいい?」彼女は振り返って友人たちに告げた。

 部活の開始時刻が迫る中、早足で歩く。もっとも、早足になる理由は部活の開始時刻とは別にあった。下駄箱とは反対側の普段は職員しか通らない出口に向かい、そこを出て校舎に沿うように歩くと校舎のいかなる窓からも運動場からも見えないスペースに行きつくことができる。これから告げられることを何となく予想したかに見える彼女は浮かない顔をしていた。目的地に到着するが早いか、僕は口を開いた。少しでも間が開いてしまうと、言葉を発することができなくなると考えたからだ。

「、、!、、えっと、、!、、今度の部活のオフっていつ?」

「部活のオフ?ちょっと先になっちゃうけど、10月28日にコンクールがあって、その翌日ならオフかな。」

少し拍子抜けされたように彼女はかすかに笑いながら答える。

「動物園にいきたいんやけど、その日一緒に行ってくれん?」

一緒に行くことではなく目的地を強調しろ!というネットで見かけたデートに誘うテクニックを意識して僕は言った。

「動物園?、、、まあ、いいよ?」

彼女は先ほどよりわかりやすく笑いながら言う。しかし、当の僕は言い方など気にしていられなかった。そのまま叫んでどこかに駆けてしまいたいような喜びと安堵が一緒になだれ込んできた。

「ほんまに!ありがとう、じゃあ、またLINEする!」

彼女を誘った後のことを考えていなかった僕は、あろうことか彼女を置き去りにして部活に向かって行ってしまった。このことは、後に彼女が僕をからかう一つの武器となる。

 当日は、昨夜決めたはずの着る服がおかしな組み合わせに見えてきて再度悩み始めたことで大急ぎで駅へと向かう羽目になった。

「聞いたことないよ、一緒に動物園に行くって言って現地集合って。」

そう話す彼女に怒っている様子は見られなかった。

「確かに、言われてみればそうかも。ごめん。」

「別に謝らなくていいけどさ。」



 動物園は家族連れで賑わっていた。左手を父親と、右手を母親とつないだ男の子が跳ねるように歩いている。男の子の視線の先には柵の中に広がる野生空間をダチョウが闊歩している。

「動物園の匂いだ。」隣の彼女が言う。

「独特やもんね。」

 会話はそこで終わった。駅から動物園の入り口までも含め、うまく会話が続かず「会話 続けるコツ」と昨日のうちに検索しておかなかったことを後悔した。

「緊張してるの?」

「えっ緊張?いや、いや全然やで。はは」

 余裕のないところは見せたくなく、思わず嘘を吐いたが最後の消え入るような笑い声で嘘だとばれているだろう。緊張して話す内容を考えている間に多くの展示を通り過ぎ、気が付けば一番奥のアフリカサバンナのエリアに到着していた。動物を見に来たのに、覚えているのは男の子の肩越しに見たダチョウの凛とした立ち姿だけだ。こんなに緊張して何も考えられなくなるなら、ダチョウの小さな脳みそがむしろうらやましい。

 アフリカサバンナのエリアはしかし、圧倒的だった。動物園特有の獣の匂いも一段と強まり、数メートル先には雄大な草原が広がっている。足元から見上げるキリンの大きさは圧倒的で、危うく踏みつぶされるような気持ちになった。先に進むと、肉食動物が姿を見せる。木の陰で休むライオンは王の品格を漂わせている。ライオンの雄はたてがみが邪魔でうまく狩りができないと聞いたことがあったが、自分ならその目に睨まれただけで動けなくなり無残にも彼らの昼食になってしまうことを確信した。彼女は隣で「ライオンって一夫多妻なのかな?」とつぶやいていた。

 すべてのエリアを見終えると、まだ明るいうちに動物園を出た。日曜夕方の天王寺の路上は人で込み合っていた。ベビーカーをひいた女性や数人のおば様集団がゆっくりと歩く隙間をスーツ姿の人たちがすり抜けるように早足で歩いていく。禿頭でスーツ姿の男性が彼女の肩に触れるか触れないか辺りをスッと通り過ぎて行った。ふと、彼女のことを守りたいと思った。


「彼女になってくれないですか?」


 およそ告白には適さない路上で口に出した。気づけば口に出していたのではなく、彼女を守りたいという思いに確信を持ち、すべて自分の意志で口に出した。それまでの緊張が嘘のように、僕の心は動物園で見た木陰で休むライオンのように穏やかだった。ただでさえ大きい彼女の目は一段と大きくなり、ついでに後ろで驚いた顔で振り返った男性も目に入った。

 彼女がスッとこちらに向き直り、その大きな瞳で僕を見透かすように見つめてくる。

「いいよ。」

 たった三文字の返答で寄せ返す波のように緊張が返ってきた。心臓が大きな音をかき鳴らす。

「ほんまにいいの?」

「嘘つかないよ。」

 彼女はそう言うと顔を横にそらし、歩き出した。少し遅れて早足で追いついたときに見た彼女の耳が赤くなっていたことに気が付いたが、僕の耳はきっともっと真っ赤になっていただろうと思う。

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