第4話
「乾杯しよう!乾杯!」
およそ午後9時を過ぎている時間の音量ではない兄の声が、リビングで響く。
「乾杯~」
「乾杯。」
僕は彼女の声に少し遅れた。
「瞳ちゃんは、何の仕事してるん?」
「普通に、OLをしています。」彼女が笑顔で答える隣で、僕はその返答が聞こえるのと同時に焦った。兄は顔にほのかな侮蔑の色を浮かべながら言った。
「OLかあ~。OLなんかテキトーに働いてる人ばっかやろ?」
「あ、いや、そういうわけでは。。。えっと」
「兄ちゃん、そういうことを言いたいわけじゃないよ。」
「瞳ちゃん、OLってのはテキトーに仕事をしてるでしょ?それに比べたらさ、パートでも日々真面目に働いている人のほうが立派で偉いもんだよ。世間がもてはやしてしてるから調子乗ってる人多いやろ?」兄は理解の遅い生徒を諭す教師のような口ぶりで言う。
「いやあ、まあ、そうですかね。。。」
「そうやねんて。OLなんかみんなそんなもんやろ。」
兄はそう言いながら、自分の美しい論破に酔いしれるように「あ”あ”~~」と大きすぎるため息を吐いた。乾杯から3分と経たずに気まずい沈黙が部屋にのしかかった。
「お兄さんは普段なにをされているんですか?」彼女は、兄が定職につかずフリーターをしていることを知っている。
「俺ね、ほんと就活してる人らの気が知れんのよ。みんな大したことないくせに自分が一番すごいみたいな顔して嘘ついて。俺にはちょっと平気な顔で就活してる奴らの気が知れん。」
「まあ、そうですよね。でもそうしないと生きていけないからみんな我慢しながらやってるんじゃないですかね。」
「そうかね。みんな周りに合わせて生きてるだけやろ。」
二人の会話は、対立する二国の首脳会談が持つ言葉にならない張りつめた空気を纏っていた。会話に入ることでどちらかの敵になることを恐れた僕は報道記者のように中立的な立場を保っていた。
時計に目をやると午後11時25分を指している。兄は30分ほど前に空き缶やお菓子のごみはそのままに軽い足取りで自宅へと帰っていった。
僕は兄の置いて行ったごみを片付け、彼女は自宅へと帰る準備をしていた。片づけをしている間、二人の間には沈黙だけが流れていた。10分もかからないうちに缶とお菓子の空いた袋を片付け終わると、彼女は既に玄関へと続く扉をあけるところだった。
「送ってくよ。」
「大丈夫。」
そのぶっきらぼうな物言いに僕の心臓は大きく跳ねる。何か起こらせることをしただろうか。いや、兄のことか?たしかに酔った兄の物言いは彼女の機嫌を損ねても無理はなかった。しかし、兄の言動について怒りを覚えてもそれを僕にぶつける筋合いはない。彼女は八つ当たりをするような女性ではない。
「大丈夫?」
「大丈夫。」
「そっか、気を付けてね。家に着いたらLINEしてね。」
「うん。」
彼女は僕の目を見ることもなくそう答えた。
彼女が帰った家の中、僕は思案していた。彼女を駅まで迎えに行ったところからの自分の行動を振り返り、一つひとつ彼女を怒らせるようなことをしなかったかと検討する。彼女を迎えに行き、カレーを食べて食器洗いを彼女に任せて休憩している内に兄が家に来た。そして一緒に飲むことになり、、、。やはり何度考えても怒っているとすれば兄の言動に違いなかった。どちらかが料理をすれば、していないほうは食器の片づけをするというのは僕と彼女が二人で決めたルールだ。思い返せば、兄が「OLはテキトーに働いている人ばかりだ」と非難した時から、彼女の顔に力が入っていた気もする。やはり原因は兄にあるのだろう。「ピロン」という通知音が鳴った。スマートフォンの画面を確認すると彼女から「家、ついたよ。」と連絡が入っていた。僕はすぐさまロックを解除し、「よかった、今日は兄ちゃんがごめんね。」と打ち込み、送信ボタンを押した。シュボッ、という情けない音とともに自分のメッセージが吹き出しに入る。
兄のことは、いつか話さなければならないと思ってはいた。彼女には兄がいることは伝えていたが、性格や容姿は伝えていなかった。もちろん、不眠症のことも。ただフリーターだという事実だけを伝えていた。考えてみればいつも連絡なく僕の家を訪れるのだ。いつ鉢合わせてもおかしくなく、むしろ深夜1時に彼女と寝ているところにチャイムが鳴り響かなかっただけ良かったとさえ言える。しかし、いくら状況を整理してみても彼女を怒らせてしまった事実は変わらない。スマートフォンの画面に目を移すと、僕のメッセージの吹き出しの隣に小さく「既読」とついていた。
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