T/ペットショップ

 夜も更けた頃、赤尾はタブレット端末を携えながらパトカーの助手席から降り立った。目的のアパートはすぐそこである。築六十年は下らない、二階建てのマッチ箱めいた建築だ。薄汚れた灰色の壁が、夜闇の中にボウッと亡霊めいて浮いている。

「それじゃ自分は」運転席から顔を覗かせ、制服姿の石沢がいう。「近くの駐車場に駐めてきますんで、ちょいと待っていてください」

 パトカーは、するすると音もなく走り去った。夜半の住宅地に人の気配はまるでない。ただ、秋の気配を多分に含んだ冷涼な夜気がごう、と吹き抜けるばかりである。家々の窓にはまだ辛うじて明かりがあった。道の両端に等間隔で並ぶ街灯が、頼りない様子でチカチカと妖しく明滅している。

 赤尾は腰を痛めないよう細心の注意を払いながら、目の前にそびえるアパートを見上げた。外に張り出したベランダを一、二、三、と数えていく。部屋番号がはたして左右のどちらを起点につけられているのかがわからない——以前、神崎が事情聴取に向かった部屋は左右の両端どちらだろうか? 周囲の家々と同様に、明かりの消えている部屋はそう多くない。

 目的の部屋を探し当てた。

 一見して、主照明は消えている。しかしモニターか何からしい弱々しく灯った明かりが、ガラス越しに揺れていた。目当ての人間はまず間違いなく在宅である。ならば、別段ことを急ぐ必要もないだろう。石沢が戻るのを待ってから、二人して呼び鈴を鳴らせばいい。何なら彼にすべて任せて、自分は車内に寝転んででもいたいのだが……しかし今回ばかりはそうもいかない。なにせ、この場に居合わせている刑事といえば自分ただ一人なのだ。捜査の一番肝心なところを、一介の巡査に任せきりではさすがに上から叱られてしまう。神崎がしゃんとしてさえいれば……と、今さらながら休職させたことを悔い始めていた。

 だがまあ、仕方あるまい。

 赤尾は嘆息し、タブレット端末の電源を入れる。

 ——九月十八日。

 画面には日付と現在の時刻が表示された。捜査資料にアクセスし、諸々の情報を再三に渡って総ざらいしたあと——やはり、と彼は確信を強めた。間違いない。

 端末から視線を逸らし、周囲を見回す。アスファルトの細い道が、夜気に冷やされ黒々と横たわっていた。石沢が戻ってくる気配はない。いったいどこまで車を駐めにいっているのだ——彼は呆れつつ、ポケットから携帯を出した。

 休職中の相方に気を遣ってやろうかと、不意に思い立ったのである。

「あー……神崎、どうだ調子は」スピーカーの向こうから、ぶぅぅぅぅぅん、とうなるような低音が途絶えることなく聞こえてくる。「元気にしてるのかよ、おい」

 自動車の走行音だろうか。ポツポツとノイズが混じりつつ、やがて「……どうでしょう、あまり元気じゃないかもしれません」と、やつれた声が聞こえてきた。「でも……でも! 不眠症はちょっとだけマシになったんですよ!」不自然に高揚した口調である。あまり安定した精神状態とは思えない。「だからほら、今日は元気いっぱいなんです。休暇をいただいたおかげで、久しぶりに妻とも楽しくやってますよ。……ははは、ふふ」うふふふ、などと気持ちの悪い笑い声が騒々しく聞こえてくる。

 赤尾はため息をついた。労働を押しつける相手がなくなったとはいえ、やはり休職させたこと自体は正解であったらしい。このような調子で現場に出てこられても、かえって要領の悪さに磨きがかかるばかりだろう。いないほうがいくぶんマシだ。

「そうか、そいつは結構」

「で、赤尾さんのほうこそどうなんです?」神崎が尋ねた。「事件ですよ、事件。犯人は捕まりました? 目星くらいはついたんでしょう?」それから、と彼は続ける。「そろそろ〈戸籍省〉の通達が出る頃合いなんじゃありません?」

「これから解決するところだよ」端的に答える。「一応、お前にも伝えておこうと思ってな。休職中とはいえ、気になるだろう?」

「そりゃご親切にどうも」気のない返事と共に、鋭いブレーキの音が聞こえた。次いで乱暴なクラクションと、舌を打ったらしい細かい音。「クソ!」と、神崎が悪態をつく。「のろのろ歩きやがってあの婆さん……」

 粗雑な運転をしているらしい。

 やはり、以前とは様子が違う。

「どこから話したもんか……」まずは、と赤尾は構わず話を続けた。「一家惨殺事件からいこう。確かな事実は、まず父親そして母親が殺されたこと。二人の遺体はバラされてリビングに散らばっていたということ。二人分の死体にしては肉の量が足りないこと。犯人は大手新聞社の記者だった男で、二人を殺したあとに風呂場で自殺。おそらくこのときに長男は脱走。警察に保護され、胃洗浄を施されたところ、胃の中から『母親の肉』が見つかった。一方で次男はなぜか家に残り、飢えをしのぐため犯人の遺体を食べながら、結局は栄養不良で死亡している」そしてもう一点、と彼は付け足す。「犯人が押し入ったばかりの頃、長男は大量の食物を買い出しに行かされ、ここを中学校教師の田辺涼子に目撃された。警官が家へ突入した時点でも、この食料はまだ残っていたらしい……」

「問題は——」神崎が口を挟んだ。「肉の量が足りないのはなぜか、次男が脱走しなかったのはなぜか、でしょう? 前者は『食べた』からで、後者は『調教されていた』から……」いいながら、ふふふ、と愉快げに笑う。「やな事件ですよ、まったく」

「まだだぜ、まだ話は終わらねぇ。たとえば肉の件でいえばな、」赤尾が続ける。「長男の腹からは母親の肉が見つかっているし、次男は犯人の死体を食った。だから犯人が押し入ったあと、あの家の中で食人が横行していただろう——と想像するのは難しくない。だが、」

 だが、それではまだ足りないのだ。

 たとえば、『誰が』食べたのか。

 たとえば、『なぜ』食べたのか。

「そりゃ、子供らの腹から肉が発見されている以上、彼らが食べたわけでしょう? 理由は……まあ、わかりませんがね」それにしても、と愉快げにいう。「旨いんですかね、人間の肉ってのは。医者になった友人なんかは、電気メスなんかで人間の身体を焼き切ったあと一週間くらいは焼き肉を食べられないって、この前いっていたんですが……匂いがそっくりらしいですよ。いっぺん、」

 ——いっぺん、嗅いでみたいものですがね。ははは……

「子供が食ったのは間違いない。しかし『犯人が食ったかどうか』はわからんさ。最初に殺された父親は別として、その遺体を『母親が食ったかどうか』もまた不明瞭だ」赤尾は、神崎の浮ついた調子にいくらか苛立ちを覚え始めた。「見つめるべき点は二つある。第一に『殺された順番』と、第二に『長男が買い出しに行かされた』ことだろうな」

「順番……ですか? 抵抗する親を、それも力の強い男の側から殺していくってのはごく常識的な判断じゃありません?」

「無論、それが『殺すこと』を目的とした殺人ならな」だが、食べるとなれば話は別だ。「さて神崎、仮にお前が人肉嗜好の持ち主であったと仮定しよう——目の前に、父母と二人の幼い息子からなる四人家族が並んでいる。誰から殺す?」

 神崎は、ふふふ、と笑った。

「食べるんなら、女ですかね。エロティックだ」

 誘導した通りの解答だというのに、どうしてか腹が立って仕方がない。病的な精神の持ち主というのは、なぜこうも人の神経を逆なでするのか。きっと論理が通じないからだ——と、彼は内心に結論づけた。いくら説得的な言葉を向けても、病んだ精神には届かない。赤尾が他人と相対するとき、多かれ少なかれ感じる『人間的』な厄介さが、極限まで煮詰められてでもいるかのような……そういう、イメージ。

「たとえば、中国元代の学者陶宗義は『輟耕録』の第九巻で人肉についてこう記している——曰く、『小児を以て上となし、婦女これに次ぎ、男子またこれに次ぐ』とね。あるいは宋代の荘綽『鶏肋編』を開いてみれば、人肉はその味や調理法を評して色々の隠語で呼ばれたらしい。小児は骨ごとよく煮るべしという意味で『和骨爛』、女は羊より旨いと『不羨羊』、男は——不遇なことに——たいまつよりマシだと『饒把火』だとさ」無論、と赤尾はいう。「こんなものをわざわざ引用してこなくたって容易に想像はつくだろう? 男より女子供の肉のほうが柔らかく旨いだろう、とね」

「あーわかりますよわかります」神崎は呂律の回らぬ口調で、ぺらぺらとしゃべった。「僕も妻の尻なんか見てると、かじりたくなっちゃうもんなぁ」

 ここへ来て、神崎の様子がどうも寝不足だの精神不安だのばかりでは説明できないのではないだろうか——と、考え至る。よもや酒でも飲んでいるのではあるまいか。ありえない話ではない。大学から警察へ移ったばかりの頃、交通警備などに当たっていたときに、こういう連中を大勢相手にした記憶がある。休職中とはいえ、警官が飲酒運転などと——とてもしゃれにはならなかった。

「……加えていえば」顔をしかめながら、半ば義務感で話し続ける。「統計的に考えても——本来こんなレッテル貼りは認識の『手抜き』であるわけだが——個人的な人肉嗜好によって引き起こされる猟奇犯罪の被害者は、その多くが女や子供だ。食人の動機はしばしば性願望と重ね合わされ、被害者に一定の傾向を生むのが大半だよ。今回のように『成人した男女』を無節操に殺す例は正直なところ多くない……皆無といったって過言じゃないね」つまり、と彼はいう。「犯人が自分で『食べる』にしては、ちょいと順番がおかしいんだ。なぜ最初に父親を殺した? なぜ子供を食べずに死んだ? 矛盾があるならその答えは間違いだというほかない。となれば、」

 もはや選択肢は一つしかなかった。

 犯人は人肉を食べなかったのである。ただ、一家に共食いを強要したのだ。長男が買わされた食料はすべて犯人の糧となり、被害者はそれを食べぬよう『調教』されていたに違いない。動物が人間の食い物に手を出すべきではない——と。だから犯人が自殺したのち次男は遺体を口にしながら、しかし冷蔵庫の中身にはまるで関心を寄せなかった。

「へぇ……筋は通りますね」

「そう。筋は通る、証拠はないがな。そして——」第二の疑問だ、と彼はいった。「犯人の自殺後、なぜ長男は脱走し次男は家にとどまったのか。正直これはよくわからん。ただまあ、個人的な推測をいうなら……どの程度『調教』されていたのか、って違いなのかな。長男は外へ買い出しに行かされていた、だから次男と比較して脱走への心理的障壁が低かった。餓死寸前の状態で、生存本能と『調教』とがせめぎ合い、二人の選択を分けたんだろう」

「しかし、犯人はなぜそんなことをしたんです?」

「それなんだがなぁ」と、赤尾は歯切れ悪く口にする。「なあ神崎、お前はどう思う? 父親を殺し、遺された一家にその肉を食わせる……母親を殺し、遺された子供たちにその肉を食わせる……一連の犯行に、どういう意味が見いだせると思う?」

「……さあ、僕にはちっとも」

「見つかった『人権委譲契約書』を念頭に入れると、俺にはどうも『尊厳を貶めたかった』としか考えられねぇ」いやな考えではあった。気分の悪くなる、どこまでも人道をバカにした動機としか思えない。「荒唐無稽かもしれんがね。力の弱い者が強い者の肉を食う——ここには家父長的な秩序とか親子間の権力関係だとか、そういうものを逆転させてしまおうという象徴的な意味があるんじゃないか、ってな」

「そいつはなんだか、推理というより空想ですねぇ」

 けっけっけ、という笑い声と共に、ビニール袋を探るような騒々しい音が聞こえてくる。やがて、缶のプルタブを開けるような小気味よい金属音がこだました。

「神崎、お前飲んでやがるな」

「へへ、ちょっとくらいいいでしょうよ」それに、と彼はいう。「飲んでなきゃやってられませんって……こう、しらふでいると……」言葉の途中から、妙に真剣な語調へ切り替わった。先ほどまでの軽薄さや、不安定さからはほど遠い。「酒に逃げなきゃ、死んじまいそうな気がするんです。ふっ、と眠気が来て……意識が遠のいて……夢遊病みたいに眠ったまんま歩き回って……いつの間にかビルのてっぺんから飛び降りて……きっと気がついたら死んでるんだ……死んで、死んでるんだ。死んで死ん死んでる」

 ガチガチと歯を噛み鳴らしながら、神崎は『死んでる』『死んでる』とうわごとのように繰り返す。

「今、車だろ」妙な胸騒ぎがした。「どこに向かってる? どこに行くつもりで走ってる?」おい答えろ——と、赤尾は怒鳴る。

「さあ? どこでしょう? どこ、なんでしょう……」

「ふざけてる場合じゃ、」

 いや違う、と思い直した。口調からして、おそらくふざけてなどいやしない。いたって真面目に、いたって真剣に、この男は首を捻っているような気がした。自分の向かっている先を、自分でもわかっていない気がした。

「家を出た記憶はあるんですよ。ただ、どうしてなのかはよく覚えていなくって……」でも大丈夫です、はっはっは、などと神崎はかすれた笑いを上げる。「カーナビには目的地が入ってますから。いつ設定したんだか、どこに設定したんだか、まるで覚えていませんがね。……怖くて見る気にもなれませんよ。ともあれそのうち、着くべきところに着くんでしょう。そしたらどこに向かっていたのかいやでも思い出しますよ、多分ですけど……」

 不意にスピーカーの向こう側から、悲鳴に似たブレーキ音が雑音混じりに聞こえてきた。今度のは、先ほどのものよりずっと差し迫った音色である。

「どうした、何があった!」

「……すみません、眠くて眠くて、うまくハンドルが回らないんです」弱々しい声だった。「話の続きは……密室殺人のほうは、復職してから聞かせてください。運転に集中しないと……ちょっと洒落にならないんで……それじゃまた、」

 また今度——。

 プツリ、とあっけなく通話は切れた。

 いやな予感がする。仕事柄、凄惨な事件を目の当たりにして心を煩う同僚を、赤尾自身それ相応に見てきたが——しかし今回は少しばかり特異だった。単に気分が鬱屈としているわけではない、焦燥感に突き動かされているかのような、切羽詰まった必要に駆られてでもいるかのような、そういう印象を受けるのである。

 凄惨な現場から遠のけば、大抵の場合は緩やかな回復に向かうはずだ。そうでなくとも、それなりの安心は起こって然るべきだろう。自室にこもって鍵をかければ、トラウマティックな現実から扉が保護してくれる。だというのに——

 神崎はわざわざ自分から、家を飛び出し車をどこへか走らせている。

 だが、どこへ?

「……馬鹿野郎」赤尾はうめく。「世話の焼けるやつだ、クソ」

 明日にでも見舞いに行かねばなるまい、と思った。特に神崎の場合、細君と同居しているぶんだけ、事態の厄介さが容易に推察できてしまう。なにせ、一見してわかるような病み方であれば細君が医者に連れて行き、夜更けに一人で出かけに行くのを放っておくはずがないのだから。となれば、彼は日頃に病的な振る舞いを取り繕って、しかし内心には得体の知れない病巣を抱え込んでいることになる。

 赤尾は携帯をポケットに落とし、再び目の前のアパートを見上げた。先ほどと変わらず、目的の部屋には煌々と明かりが灯っている。

「赤尾さん!」背後から声が聞こえた。車を置いてきた石沢が、道を駆けてくるのが見えた。「どうもすみませね……へへ……」駐車場がちっともないもんで云々、と何やら言い訳めいたことを口にする。「それで、どの部屋に行けばいいんです?」

「あそこだよ、ほら——」

 ガラス越しに揺れるモニターの明かりを、指さした。

「ええっと、部屋番でいくと……一、二、……」

 アパートに踏み入れ、階段を上る。二階に上がって一番奥に『二〇八号室』と書かれた扉が見えた。以前、神崎が尋ねた部屋だ。涼とした夜気に、二人分の足音が響く。

「犯人は」赤尾がいう。「飼育員だった」

「へぇ。となると、死体を見つけたあいつですか。となると、アリバイは偽物だったわけだな」石沢が首を傾げる。「収容に立ち会ったときちょいと話はしましたがね……そうか、あいつが……」

「いいや、違うんだ。お前は勘違いしてる……といっても、仕方ないことだろうがな」赤尾は呼び鈴に手を触れる。ポーン、と陽気な音がこだました。「犯人は第一発見者じゃない。もっとも、『収容に立ち会っていたやつ』ではある。そして事件発生の当日八時に、朝食を持って檻に入った……」少年に関わった飼育員は二人いたのだ、と。


 ——二〇七号室の扉が開いた。


「どちらさま、でしょうか?」

 ふっくらとした面持ちをした、いやに背の高い女である。扉の隙間から訝しげに顔を覗かせ、赤尾を、そして石沢を見た。暗い部屋を背景にして、部屋着らしい真っ白いシャツを身につけた様子がどこか亡霊めいた印象を与える。

 ——そうだ、円山応挙の幽霊画にこのような女の姿があった。

 赤尾は益体もないと思いつつ、絵の名前を内心に呟く。確か『返魂香之図』とかいうのだったか。白装束に足のない幽霊が、口元に微かな笑みを浮かべ、細い目でこちらをじっと見て……どこか陽気な感じさえ受ける、そういう画である。

「警察の者ですよ」見ればわかるでしょう、と制服の石沢を顎で示しながら、赤尾は懐から手帳を出した。「夜分遅くに、どうもすみませんね」

「………………ああ、そうでしたか」

 特段驚く素振りも見せず、女は二人を招き入れた。窓際に置かれたモニターを除くと、何一つ視界を照らすものはない。何か踏んづけてはいけないと床に目を凝らしはするが、よく整理されているらしく、カーペットの幾何学模様が微かに見えるばかりだった。

「あのう」石沢が居心地悪そうに口を開いた。「電気は、つけないのでしょうか?」

「つけません」ぴしゃり、と女はいう。「電気代がもったいないのです」

 赤尾は部屋の中央で腰を下ろした。モニターの明かりが、チカチカと揺れて目にうるさい。見れば画面に表れているのは、動物園の猿山である。中学生くらいの少年が柵を越えて落下した挙げ句、凶暴な猿に衣類をことごとく剥かれてしまう……おそらくは十五分ほどの出来事が、早回しで一分足らずに圧縮され何度もリピートされていた。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し……。

 真っ暗い部屋で、少年は何度も落下する。衣類を剥がれる。ボス猿の尻にキスをする。そして最後の一瞬に、彼は恍惚と微笑むのである。

「先日の事故ですね」赤尾はじろり、と女を睨めた。「なぜこんなものを?」

「『なぜ』というのは——見ている理由でしょうか、それとも入手経路でしょうか」

「無論、理由ですよ」

 入手経路など聞くまでもない。監視カメラの映像を横流しできる人間など、動物園の関係者でもごく限られているだろう。……しかし、そんなことはどうでもよかった。解決すべき事件に比して、園の裏事情などまるで些事だ。

 ——しかし、解決、か。

 その言葉に、赤尾は我ながら苦笑する。これではまるで、何か大義のために足を運んでいるかのようではないか。自分はそれほど高尚な人間ではありえない。ただ単に自分の推理を最後まで完遂することと、そしてもう一点——これが一番重要なのだが——ある程度働いている素振りを見せなければ、さすがに刑事課を追い出されかねないという危惧とに、突き動かされているだけの話だ。一つの事件が起こるたび、自分名義の報告書を一つくらいはサーバーに放り込んでおきたいのである。

 ——それも、漫然と事情聴取をする程度で満足してはいけないのだ。ただ一つで十分な評価を得られる程度に、核心を突くような内容でなければ。

「理由、ですか」女は少し思案して、「羨ましいから、でしょうか」とこう答える。「だって、素敵でしょう? この男の子は、猿の奴隷になったんです。人間でなく、動物ですらなく、もっと下等な……」

「なるほど」赤尾が頷く。「つまり『ニルワヤに近い』わけだ」

「ご存知でしたか」女は驚いた風に笑みを浮かべた。「ではここへいらしたのは、」

 自分が犯人だとご存知になったからですね——と、核心に満ちた表情でいう。

 妙に潔い女の態度に、赤尾は少しばかり不審を抱いた。

「一つ伺いたいのは」と、問いかける。「動機です。なぜ、あの少年を殺したのか?」

 女は戸惑うように目を瞬かせた。

「……それは、それは……」自信なさげに言いよどむ。「多分、ですけれど……」


 ——嫉妬なのだ、と。


「なるほど」赤尾は頷き、それから手探りで部屋の端へと近づいていった。観葉植物だのヤカンだのを落っことしながら、ようやく本棚を見つけ出す。「失礼、拝見しますよ」何冊かを取り出して、モニターの明かりに掲げて眺めた。「ほう、どれもこれも初版ですね。信仰熱心で何より、ってとこか」

「赤尾さん、こいつは……?」横から石沢が覗き込み、あっ、と素っ頓狂な声を上げる。「例の宗教ですか? あのなんだかうさんくさい」

「人様の信心をそう貶すもんじゃねぇよ」

 表紙には、神秘的な光の奔流や神社仏閣らしい施設の図柄、あるいは医学を連想させる人体の解剖図などが配されている。そしてどの本も、必ずどこか一角に金色の法衣を身につけた男を小さく載せているのだった——確か、一月ほどまえに亡くなったという先代の教祖だったろうか。

「あの男の子は動物でした」女がいう。ふっくらとした頬の輪郭が、モニターの明かりにボウッと照らし出されていた。「どんなに熱心な信者でも、あれほど徹底して人間を辞め『動物』になりきった例はないでしょう。あの子は今までに一度だって『ニルワヤ』を信じたことなどないだろうというのに……」

 それが納得できなかったのだ、という。

 電気代に困るほど多額の献金をしている自分が、どうしてこのような少年に後れを取らなければならないのか。

 ——信心なく『到達』してはいけない。

 女の内心にあった禁忌に触れて、少年は殺害されたのだった。

「最初に気がついたのは、死亡推定時刻を成立させていた『湿ったクソ』が偽物であったろうということでした」赤尾はやれやれ、と伸びをする。陰気で不道徳な今回の事件を、どうやらほとんど解体することができたらしい。「だが問題は、『なぜ』このように下品な手段をもってまで死亡時刻を限定させようとしたのか——という点にある。このクソによって得をするのは誰か? このクソが偽物であるとわかったとき、犯行が可能なのはいったい誰か? このクソは何を隠そうとしているのか? ……いわゆる『チェス盤思考』ってやつですわな」つまり、と続ける。「事件を最初から記述するなら、こういうことになる——あなたはまだ客足のない朝八時に餌を持って檻に入った。殴るか蹴飛ばすかしたんでしょう、少年の頭部には死因とはならないまでも痛々しい傷跡が残っていた……」

「動かなくなりました」女はいう。「死んだと思ったんです。でも、違いましたか」

「確か、死因は」石沢が口を挟んだ。「ええっと、喉の奥に突き刺さった枝が、脳みそに達していたんでしたっけね」

「ああ、なるほど」女が頷く。「ただ、気絶していただけなんですね。それは気がつきませんでした。わたしはただ……」

「檻の外から死体がはっきりと見えないように枝に突き刺しただけ——でしょう? しかし図らずもそれが殺人の決定打となったわけだ。あなたは何事もなかったかのように檻を出て、鍵を返却。そして」赤尾はタブレット端末を取り出して、捜査資料を表示させる。園長から提供された、職員全員分のタイムカードである。「体調不良を装い、早退を申し出たわけだ」ところで、と彼は尋ねる。「天井を覆っていたトタンの板は、殺人を見越してのものでしょうか? それとも……」

「偶然です。暑さをしのぐにはまるで無意味でしたけれど……でも、いざあの子を殺そうと思うと存外役に立ってくれました」

「お隣の二〇八号室に住んでいる男性の……山上さんとかおっしゃいましたか、早退したあなたに代わって彼が昼食を持っていき、そこで不幸にも遺体を発見したわけですな。あなたは彼が来る直前に、格子に足を引っかけて檻の上へと移動し……トタン板の隙間から檻の中にクソを落とした。死亡時刻を誤魔化すために……」

「本当は、あんなことしたくなかったのです」女は、少し恥じらうような素振りを見せた。「トタンのおかげで周りからは見えないといっても、青天井の吹きさらしですから……わたしはこれでも乙女なんです」だから、と彼女はいう。「大勢の職員が檻の中に飛び込んで騒ぎになっている間、どさくさに紛れて粗相の痕跡はこっそり始末しておきました。見苦しいから、とかなんとか言い訳すれば誰も怪しみはしませんでしたよ。DNA鑑定でもなされてしまえば、あの子の排泄物じゃないことくらい簡単にわかってしまうでしょう? だから……」

 石沢が「ははあ」と感心したような声を上げる。「それじゃ遺体に刻んであった『ニルワヤ』の文字は、どういうつもりだったんです? あれも、殺したあとにあなたが書いたものなんでしょう?」

「………………それ、は」不意に、女は顔を伏せた。それからか細い、戸惑うような声色で「わからないのです」とこう口にする。「なぜなのか、自分でも判然としないのです。理屈をつけてみることはできます……たとえば『他の信徒たちに少年の境地を報せたかった』とか、『教祖様に無断で悟りへと向かった彼を、あの象徴的な刻印によって正しく教団に帰依させたかった』とか、あるいは……」


「どうでもいいことですよ、そんなのは」


 赤尾の声が、浪と響く。

 モニターの明かりが揺らめいて、彼の横顔を照らしていた。

「どうでもいいったって」石沢がいう。「動機がわからんきゃどうにも納得できませんよ」

「何もかもが合理的に説明できるわけじゃない。一から十まで言動のすべてを犯人自身が解説できたら——自分の苦悩も欠点もすべてを客観的に理解できているのなら——そいつは最初から殺人なんか犯さないさ。人間は大抵、曖昧模糊とした個別の感情に『喜怒哀楽』というレッテルを貼って、分類し、『ああ、自分は怒っているのだ、悲しんでいるのだ、だったら気晴らしに遠くへ出かけてしまおうか』といった具合に向き合うわけだな。感情の暴走を防ぐために、適度に手を抜きながら画一的な処理を行う。だがまれに、名前をつけ向き合い消化することを許さないような、極めて特殊な感覚が訪れるんだよ——それが殺人の一因だ。この女が体験した『嫉妬』とやらの内実は、まさにそれであったろうよ」だから、と赤尾は締めくくった。「この女自身が『わからない』というのなら、その事実こそが重要なんだ。実態が客観的な分類の何に当たるかは重要じゃない、ただ彼女自身に『わからなかった』こと自体が殺人の理由なんだぜ」

 もし、あの『ニルワヤ』という四文字を無理に解釈するのなら——その動機は『激情』とでも表現するのが適切だろう。少年のことを羨ましく、妬ましく、あるいは同時に聖人として尊く感じていたかもしれない。殺人を終え、ゆっくりと落ち着いていく心臓の鼓動に、ふと——取り返しのつかぬことをした、などという罪悪の感情が芽生えていたかもわからない。極限の感情に駆られ殺害し、不道徳な自身の行為に向き合いながら、しかし自分の正当性を内心で深く肯定しつつ、ことが露見しないようこそこそと工作を試みる……女の心理は、渦巻く矛盾ではち切れんばかりに膨れていたに違いあるまい。

 あらゆる感情が、『ニルワヤ』という四文字を刻む無意味な行為に収斂された。

 だから、名付けられるべき動機などない——。

「そう、かもしれませんね」

「しかしあんた」赤尾がにやり、と口元を歪めた。「よくしゃべるもんだな。大抵の場合、犯人てのはまずしらばっくれるもんだと思うが。……ってことは、」

「ええ、そうです」女は頷く。「先ほど、園長さんから電話をいただいたんですよ。何でも〈戸籍省〉から通達があった、とか」

 なーんだ、と石沢が大げさに肩を落とした。

「赤尾さん、なんだか面白くないですよ。何も聞かされてない犯人に一泡吹かせるって話ならまだしも、これじゃただの徒労ですぜ」

「よくわからんままじゃ後味が悪い」特段気にする様子もなく赤尾はいった。「密室は解かれ、殺人犯は暴かれ、事件の謎はことごとく消え、探偵がみなを集めて『さて、』という——これがお約束ってもんだろう? 自己満足で結構」何より、と彼は笑う。「これで事件を総まとめする立派な報告書が出来上がる。窓際の地位も、守るには苦労が絶えないんだぜ」

 事件を終える爽快感が、すぅ、と鼻を抜けていく。

 もはや気がかりは残っていない——ただ一点、神崎の様子を除けば、だが。

「……そうですかねぇ」

「そうだよ」

 立ち上がり、不満げに舌を打つ石沢を置いてさっさとアパートの廊下に出た。冷涼な夜風がごう、と吹いて少しばかり肌寒い。後ろで扉がばったりと閉まる。

 これで仕事は終わりだ——と、赤尾は一つため息をつく。いつになくまともに働いたせいだろう、足腰が疲労で軋みを上げた。殺人と向き合うということは、ただそれだけで体力の相当を奪っていく——いくら肉体を鍛えても、疲労の度合いは変わらない。いくら無骨を気取っていても、こういうところで見え隠れするナイーブな自分の本性が、赤尾には我慢ならなかった。また、ため息をつく。

 タブレット端末を取り出して、サーバーについ先ほど上げられた〈戸籍省〉の通達を開く。素っ気ない文体で、ただ『件の少年の人権は警官の保護時点まで遡り無効であったと判断する云々』と、こう書かれていた。被害者は人間ではない、なら殺したところで『殺人』ではない。捜査をしたところで『器物損害』以上に起訴できる罪状は見当たらないし、何より刑事課はそんな微罪にかまけているほど暇人の集まりではないのだった。

 ことに、ここ最近は人手不足が顕著である。定年退職後の雇い直しに頼り切りで、署長などはもう齢九十を越えている。無茶苦茶である。

 赤尾は階段を降りて、アパートを出た。後ろから、バタバタと騒がしい足音を鳴らしながら石沢が追いかけてくる。

「パトカー持ってきますんで」いうが早いか、慌ただしい様子で閑散とした道を駆けていった。「ちょいと待っていてください」

 また一人、アパートの前に取り残された。足腰を痛めぬよう見上げれば、モニターの明かりらしき微かな光が二〇七号室と……その隣室にも揺れていた。照明の消えた暗い部屋で繰り返される映像をただじっと見つめる様子は、どこか『檻』を連想させる。

 ポケットから携帯を取り出し、神崎の番号を入力した。

 ぷるぷると甲高い呼び出し音が聞こえるばかりで、本人が出る気配は一向にない。あの馬鹿野郎——などと毒づきながら、赤尾はポケットから煙草を取り出し、珍しくまともな喫煙を始めた。

 ゆったりと流れる白い煙が、無人の町並みに消えていった。


   □□□


 神崎は電灯の眩しさに目を細めた。ここはどこだろう? 自分は何のためにこんなところへ来ているのだろう? わからない。混濁した記憶の中には、赤尾との会話が断片的にちらついているばかりである。自動車をいつどこに駐めたのか、どこからどうやってここまで歩いてきたのかも、まるで思い出すことができなかった。

 眩しさに目が慣れてくる。床に敷き詰められた真っ白いタイルが、靴底と擦れて甲高くくすぐったい音を鳴り響かせた。神崎はゆっくりと、目の前の通路を歩き始める。大の大人が二人も並んだら狭苦しくて仕方ないだろう、ごく控えめな道だった。天井に据え付けられた電灯がいやに眩しく視界を濁す。過度な光は、頭に刺すような痛みを与えた。

 ——ペットショップ、だろうか。

 通路の両脇に、無数のガラスケースが所狭しと並んでいる。内部には犬だの猫だの猿だのといった動物たちがぎっしりと押し込められていた。ケースの表面には、簡易な血統書や個体の病歴、呼び名に好き嫌いといった事項の書かれた、小さな紙が貼られている。

 鬱病の子犬が吠えた。セックス中毒だというニホンザルが神崎に欲情してひくひく鳴いた。人を小馬鹿にするような目つきで猫がペッと唾を吐いた。……神崎は彼らの様子を眺め、どうしてか、いやに羨ましくなったのだった。

 動物たちは、ふっくらと肉付きのよい格好をしている。目の端が眠たげに垂れ下がり、いかにも幸福そうな印象を与えた。ガラスケースの内部には餌や水が十全に置かれ、小さくはあるが空調まで完備されているのである。ただ毎日を漫然と、好きに過ごせばよいのだろう。将来を考える必要も、他人を憂う必要も、何か信念のようなものを固持する必要もないのだろう。生きることも死ぬことも、彼らにとってはただ与えられるだけのものだ。

 一切の希望を抱くことなく諦念に支配された人間は、いったい何を思うのだろう? 人間であることをやめ、ただ他人にかしずいて『動物』として支配されようというときに、いったいどう感じるのだろう? ただ与えられる生を享受し、また命じられる死を受け入れる。考えることをやめ、あるがままの状態をじっと受け入れるだけの人生……。

 それを——本当に、幸せと呼んでよいものだろうか?

 母親は〈戸籍省〉で笑っていた。

 少年は、檻の中で勃起していた。


 ——知りたい、と神崎は思う。


 左右に立ち並ぶ動物を横目に、当てもなく店内をうろついた。そもそも自分は、どうしてこの店を訪れたのか? よもやペットを飼いたいなどというはずはあるまい。そんな欲求がないことくらい、動物を今まさに目の前にした自分自身が理解している。

 では、何だろう。

 ボウッと神崎は歩き続け、通路の突き当たりで立ち止まった。

 目の前に、大小様々な動物用の『檻』が——


 くらり、とめまいがした。

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