S/人権委譲契約書

 熱帯夜である。雑草の繁茂する空き地を横目に、桜田はのんびりと道を進んだ。背後にはあの大福めいた〈なかよしセンター〉の威容がある。雲をまとったおぼろな月が、桜田のまとった白い法衣にチカチカと光をまぶしていた。

 本来、体験入信とはいえ滞在を決めていた期間中に施設から出るのは容易ではない。洗脳の最中に外部と接触されては困るのか、単に近辺の治安状況が芳しくないせいなのか。受付の人間を説き伏せなければ、扉を開けてすらもらえないのだ。

 散歩に行かせろ——と、それでも三時間ほどごね続けた結果である。

 あの、常軌を逸した空間から少しでも遠ざかっていたかった。無数の叫びがこだまする黄金の鐘を脳裏に思うと、平静を保っている信徒たちが狂っているとしか思えない。いったい何人が、密閉された暗闇の中でうごめき、窒息していくのだろう。おぞましい、と思った。吐き気を催しさえした。耐えられなかった。

 ——お帰りの際は、カードキーを使ってください。

 桜田は、懐にしまっていた白い板きれを取り出した。就寝時刻を過ぎてしまうと、受付の者さえみな引っ込んでしまうのだという。入り口を入って正面にあるあの白いカウンターに、自分でカードキーを差し込みなさい——と、とどのつまりはこういう話だ。セキュリティ上あまり歓迎されたことではあるまい。桜田が不審な人間をぞろぞろ連れて、施設に案内する可能性だって決してないとはいい切れない。

 カードキーを差し出すときに、受付嬢が見せた表情を桜田はふと思い出した。苦渋の決断、といった面持ちである。

 自分の勝手に振り回される下端の人間を眺めていると、何とも得がたい快感を覚えた。日頃、会社で薄ら笑いを浮かべていてはとてもありえない感覚である。あの若いデスクはこんな気分を毎日のように味わっているに違いない——と、桜田は考えながらいくらかの腹立ちに舌を打った。


 兎にも角にも、夜道である。

 周囲はほとんどが空き地か、草地か、はたまたうち捨てられた廃墟だった。青白く頼りなさげな街灯が、道の端にぽつねんと一つ立っている。さほど気持ちのいい風景ではない、だが真っ白く塗られ閉鎖された〈なかよしセンター〉と比べれば、空が多少開けているだけどれだけましかわからない。

 深呼吸した。ぬるま湯のような温かな空気が、どんよりと肺を満たしていった。夏は始まったばかりである。昼間に比べればずいぶんと過ごしやすくはあるものの、それでも脇から足の付け根から粘っこい汗が噴き出してくるのは、どうしようもなく不愉快だった。ここ数日、施設にこもりきりで働いていなかった汗腺が、全身で息を吹き返している。


 ——?


 ふと、前方に妙な人影を見た。

 この辺りに住人などそう多くいないはずだ。

 では、あれは何だろう?

 安っぽい野球帽を目深に被り、赤い上着に青ジーンズといった出で立ちである。背丈は桜田と同じくらい——歳をとるにつれずいぶんと縮んだことを思うと、男にしてはやや低い程度——で、ふっくらとした腰つきをしている。女だろうか、と思った。その人影が、青白い街灯の下に淡い輪郭をしてたたずんでいる。

 にわかに、胸の奥で性欲が渦を巻き始めた。妻子など探すより、手っ取り早く若い女を買ったほうが簡単だ——と、自ら口にした言葉が蘇る。

「お爺さん、何か用?」甲高い声と共に、野球帽の下からぎょろりと二つの目が覗く。「クスリが欲しいの? でもあなた……」じろじろと、桜田の格好を頭から足の先まで舐め回すように観察した。「教団の人でしょう? だったらいくらでも手に入るはずじゃない……」

「クスリ?」ははあ、と事情を飲み込んだ。近辺の治安は芳しくないと耳にしていたのを思い出す。「何だよ。信者なら手に入るってのは、なぜ?」

「なぜってそりゃ、わたしらがあそこから仕入れてるんだもの……」ぽん、と女は手を打った。拍子に野球帽が傾いて、街灯に表情が照らされる。「そうか、あなた新入りなんでしょう? それで、クスリが回ってこなかったんだ。……ま、あそこも最近は色々厳しいみたいだからね。不況はどこも同じだもの」仕方ない仕方ない、と妙に穿ったようなことをいう。「わたしから買うと割高だけど、それでもいいなら寄ってきなよ。アイスとカクテルはいいのがある。リキッドは今品切れかな……」

「なあ」遮って、問いかけた。「お前さん、高校生か? それとも……」

 ひゅっ、と女が——少女が息を飲んだ。

 野球帽から覗く瞳が、にわかに細く厳しくなった。

「そっちかよ、この色ボケじじい」苛立たしげに舌を打ち、「ほかを当たってちょうだい」とにべもない。「わたしはそこまで落ちてないよ。最近じゃ、そっちを売りにしているやつも一人いるみたいだし……そこら辺を探し回ればお目当ての娘が見つかるだろうさ。まあ、あれはチンピラの玩具になってるからね、あなたじゃ無理かもしれないけど」だって、と嘲笑するように唇を歪める。「勃つかどうかさえ怪しいじゃない?」

 猫に似ている——と桜田は思った。美代子の若い頃にそっくりな言動である。最初はやたら牙を剥き、しかしひとたび飼い慣らせば可愛らしくコロコロと笑い転げるのだ。

 呼び止める間もなく、少女は背を向けて駆けていく。赤い上着がはらりと揺れて、夜闇の中に溶けていく。畜生、と呟いた。膝も腰も十全であれば走って捕まえられただろうに。学生の頃などは、それこそ野良猫のあとを追って町中を駆け回っていたものである。せめて二十年若ければ——桜田は嘆いた。

 ごう、とぬるま湯のような風が吹く。

 遠くから、今どき珍しくガソリン式らしいバイクの音がぶるぶると騒々しく響いてくる。

 桜田はのんびりと歩き始めた。法衣の下で勃ったペニスが、夜風に揺れつつ少ししぼんだ。相も変わらず道には人の姿がない。生き物の気配さえ感じられない。虫の音も、野良猫の足音も、ダンゴムシの息づかいさえまるで聞こえてこないのである。熱中症でみな死んでいるに違いなかった。

 少女の忠告に従って、女の姿はないだろうかと二時間ほど歩き回る。

 誰もいない。

 ただ、夜空を切り取る大福の姿が視界にちらつくばかりである。

 彼はため息をついて、〈なかよしセンター〉へと足を向けた。


   □□□


 就寝時間は過ぎている。先だって忠告されていた通り、受付の者もみな寝付いているらしかった。カウンターの中を覗いて、それらしい差し込み口にカードキーを押し当てる。施設内へと通じる扉が、始めて訪れたときと同様に開いた。

 誰もいない、煌々と明かりのついた回廊である。

 空調から流れ出る風が、火照った身体に心地よい。法衣が汗にびっしょりと濡れ、とにかく風呂へ入りたい気分だった。自室へ向かう前にまず風呂へ寄るべきだろう——軋む膝を叱咤しながら、地下への階段を下っていく。老いて皺だらけになった肉体は、どうにもいうことを聞いてくれない。

 しかし、あまり苦には思わなかった。

 施設を訪れた当初には、無菌室めいた空間とそこに暮らす住人たちに、ひどい引け目を感じたものだ。老いぼれた自分の格好を責められているような錯覚さえした。あらゆるものが清浄なここで、自分一人がのけ者にされているような気がした。だが——

 違ったのだ。

 のけ者は、醜悪なのは、自分ではなく住人たちだ。教祖の命を救おうともしない、恐るべき事故の翌日にもただ平然と食事をする、そういう非人間的な狂人たちの集まりなのだ。これまで実直な人生を思えば、自分の姿をこそ誇るべきに違いなかった。

 かつて自分を小馬鹿にしていた『清潔ぶった』この空間を、今度はこちらが見捨ててやろう——地下へと降り立ち、桜田はクツクツと笑みを浮かべる。

 階段のすぐそばに、フロアの地図が貼られていた。もう何度も見た、扇形をした四部屋である。一つは浴場、一つは運動場、一つは談話室、そしてもう一つが——


 ふと、『立ち入り禁止』の札を見た。

 浴室の隣にぽつねんとある、

 今までに一度も踏み入ったことのない、部屋。


 好奇心が首をもたげた。明日には体験入信を終えどうせ帰る身なのだから、今さら咎められたところで痛くもかゆくもないのだし——構わないのではないか、と桜田は思う。件の事故現場を覗いたように、いっそ開けてしまえばよいのだ。

 汗が空調に冷やされ始め、不健康な寒さを醸した。そうだ、さっさと中を覗いてしまって、しかるのちにゆっくり風呂へ浸かるのがいい。

 ぺたり、ぺたり、と自分の足音がいやに響いた。

 周囲を見回し、人の目がないのをよく確かめる。

 目的の扉は、木製の薄汚れた引き戸だった。ちっぽけな木製のかんぬき以外に特段の施錠はなされていない。レールが経年で劣化したのか、何かに突っかかってうまい具合に開かなかった。えい、と体重を掛け——

 中を覗くと、薄暗い四畳半ほどの空間に椅子だの掃除機だのが散らかっている。当初に予想した通り、なんてことのない単なる物置であったらしい。桜田は落胆し、元の通りに扉を閉めようとして——おや、と首を捻った。

 四畳半とは、なんだかやけに狭いではないか。フロアの概略図をそのまま受け取れば、浴室も談話室も運動室も、そしてこの物置だって同じ面積でなければならない。円を四等分した四つの扇——それが各々の部屋を描写するもっともシンプルな言葉なのだ。だというのに、四畳半ではあまりにも小さい。だいたい扇形の外縁を廊下からボウッと眺めただけでも、扉の向こうがさほどちっぽけでないことくらい容易に推測できるのだ。

 あまりにも、不自然である。

 がたつく扉をさらに開いて、桜田は中へと踏み入れる。物置にしては埃っぽさが希薄だった。頻繁に出入りがあるのだろう。電灯のスイッチを手探りで探すが、つるつると指先は滑るばかりである。仕方ない。散らかった物品を蹴飛ばしながら、部屋の最奥にたどり着く。扉の隙間からこぼれる光が、うっすらと壁面を照らしていた。

 ——取っ手がある。

 壁のように見えたものが、また一つの扉だった。心臓が高鳴る。いやな予感と好奇に満ちた高揚とが、グルグルと混ざり合って胸にあふれた。

 ——そうだ。自分は、こういう仕事がしたかったのだ。

 記者を志した学生時代を、その情熱を思い出す。得体の知れぬものを追いかけ、謎のことごとくを解き明かしていく。知的探求者のあるべき姿だ。そういう仕事を、ずっとしたいと思っていた。憧れていた。巨悪を暴き立てる苛烈な記事を、いつか書き上げたいと願っていた。それがどうして、今やネットの三流記事さえまともに任されぬ身であるのだろう?

 なんだか、涙が出てくる気がした。自身を哀れむ意味でも、過去を悔いる意味でも、今を激励する意味でも、あるいはまた——目の前の状況を歓喜する意味でもあったろう。教祖と十数名の信徒を巻き込む釣り鐘落下の凄惨な事故、そして地下に隠された秘密……これだけ大きなネタがあれば、自分の半生を取り戻すのに決して不足はしないはずだ。

 ——帰ったら、記事を書くのだ。熱烈な記事を……

 取っ手を握り、荒くなる呼吸を抑えながら慎重に押し開く。

「………………あ、?」


 たくさんの檻があった。

 錆びついた、鉄製の汚い檻である。

 橙赤色の豆電球が、檻の一つ一つに据え付けられてボンヤリと淡く照らしている。それ以外、室内にはおよそ照明らしきものはなかった。つん、と糞尿のすえた臭いが鼻を突く。

 じっと、桜田は目を凝らした。

 檻には、人間が入れられていた。

 その姿は、みな一様にぐねぐねと歪んでいるように見えた。

 人間?

 本当に人間だろうか?

 いや——桜田の倫理観が、その疑問に終止符を打つ。

 あれは人間だ、間違いなく。

 ただ、身体のあちこちが少し歪であるだけで——

 だから、

 だから本来はこんな扱いを受けるべきではないはずなのだ。無論〈戸籍省〉の連中などは、そんな旧式の道徳観念をことごとく否定するのだろうが……しかし憲法改正のはるか以前に人生の大半を過ごした桜田にとって、これはあまりにも耐えがたい尊厳の陵辱である。

「これ、……」桜田はうめく。「これは……これはいったい、」


 ——ニルワヤの子供たちですよ。


 部屋一杯に声が響いた。

 振り返ると、今さっき入った扉から村井が顔を覗かせていた。

「正確には、『ニルワヤの子の出来損ない』と表現した方が正確かもしれませんけど」唇が醜く歪んでいる。細められた両の瞳が、チカチカと妖しい光を宿している。「誰の子供でもあり、誰の子供でもない。あらゆる人が等しく愛し、同時に愛さない子供たち……」

「なぜ、」顎が震えて、うまく言葉が出なかった。それは恐れや驚愕というより、むしろ激しい怒りに似ている。社会正義、という言葉が胸の奥に渦巻いていた。今や彼は、とうの昔に置き忘れていた知的探求者たる記者の義憤を取り戻している。「なぜ、こんな扱いをするのです。こんな……これじゃまるで動物だ。畜生と同じではないか!」

 檻の中から、人間たちはじっと桜田を見つめている。身体が大きいのも、また小さいのもあった。妙なのは、彼らの頭部がみな一様に異常を抱えている点である。逆三角だの円筒だの、はたまたどこか一カ所をスプーンで抉ったような形状をしていた。

「それはそうでしょう」村井はいう。「人間ではありませんよ。〈戸籍省〉のガイドラインをご覧になればよいのです。文化的にも文明的にも振る舞うことができないのなら、人権は与えられないのでしょう?」それに、と続けた。「たとえ檻から出したとして、いったい誰が彼らの世話をするのです? まともな労働など望めない、ただ他人から施しを受けることでしか生きていくことができないというのに。どうせ〈戸籍省〉に保護されて内臓を抜かれるのがオチですよ」

「それは——」世の中が間違っているのだ、と口にするのを桜田はすんでのところでこらえた。「少なくともこんな劣悪な環境は〈戸籍省〉だって容認しまい。だいたい、『ニルワヤの子』というのは、」

 いったいどういうわけなのだ、と問いかけた。

「まだお気づきにならないのですね」

 村井は背を向け、扉の向こうに姿を消す。

 どういうことだろう、と妙な胸騒ぎに立ち尽くした。しかし考えたところで答えなど出てくるはずがない。軋みを上げる膝を繰って、村井の背中を追いかけた。面と向かって、ただ真意をただせばよいのだ。答えぬようなら頬を張ってしまえばいい。女というのは口が達者なぶん力には弱い——というのが、長年の経験からくる彼の持論だ。

 扉を抜けて物置めいた空間に戻る。床に置かれていた掃除機に、右足を引っかけて倒れ込んだ。腰に細かな痛みが走る。明日の夕刻にでも整体へ行こう、そんなことを思いながら真っ白い廊下に飛び出した。

 村井の背中が、ちょうど階段の影に消えていく。なんだか、誘い込まれているような気がした。だが罠でも構わない。『待て!』としわがれた声で叫びながら桜田はよたよた走り始めた。最初にこの施設を訪れたとき、村井に覚えた劣等感がここへ来て再び蘇る——あのするすると滑るように進む足、ぴんと伸びた背中、何よりも艶のある白い皮膚。階段を上ってく女の背中に、自分が見下ろされているような錯覚をした。屈辱である。

 階層を一つ上がり、また一つ上がり、最上層へとたどり着く。全身から汗が噴き出し、膝がケタケタと笑っている。呼吸があまりに荒いせいか、肋骨が悲鳴を上げていた。苦しい。

「待て、待ってくれ……」

 廊下の壁には色とりどりの渦巻き模様。波打つような色彩に頭が痛くなってくる。教祖の祈祷室を横目に見ながら、左の大部屋へと向かって——


 扉を、開けた。

 暗い。

 濃密な人間の臭いにむせかえる。

 ——ああ、これは、

 ――この、崩壊した多頭飼育を思わせる、

 桜田はうめいた。強烈な既視感にめまいがする。

 ——何度も夢に見た部屋は、もしや、


「誰ともなく交わるのです」暗闇のどこかから、村井の声が聞こえてくる。「生まれてくるのは、誰の子でもなく、誰の子でもある。個人という枠組みを消し去って、みなが親であり子であり家族である……それが『ニルワヤ』です」

「檻の中の、あの子供たちは……まさか」

「ここで生まれたのですよ」いかにも不愉快そうな口調だった。「一部信徒の遺伝子に不具合があるせいかもしれません。あるいはここで生まれたニルワヤの子が二世三世と信徒になったり、揃って入信した親子などが近親で相姦したりして、血が濃くなっているのも原因でしょうね」

「………………形態、異常児……か……」

 自然にも起こりうる悲劇ではある。だがそれを誘発すると知りながらあえて信心を——宗教的乱行を——優先するなど、桜田には生命への冒涜としか思えなかった。健康に生まれたはずの命を思うと、わなわなと胸の内が痙攣を始めた。許しがたい。理解しがたい。いや、ただ『しがたい』ばかりではない——きっと『してはならない』のだ。人道が、倫理が、この状況を見過ごしてはならないと桜田の背中を推している。

「献金も貢献もできない、脳や身体に不倶を備えた子供が少なからず生まれてしまう。殺せばいいのに、教祖様は古くさい道徳観に縛られて『それだけは』とお止めになるのです。だから、」

「殺したんだな」人間の所業ではない、と思った。「人間の尊厳を……あんたは何だと思っているんだ」

「こちらを睨むのはよしてください。……実行も計画も幹部の方々がしたことです」もちろん、と続ける。「わたしとて他の信者とて、あれが殺人だと確証があるわけではありません。上層部にわだかまった確執からして、『そうだろう』と察しているだけですけれど」あんな醜いけだものなんてさっさと殺してしまえばよかったのに、教祖様も変なところにこだわるのだから——などと、悲しげにぼやいた。桜田には、その感覚がとても理解できなかった。「しかし『人間の尊厳』などと、よりにもよってあなたがそれをおっしゃるのですね」

 よりにもよって、という言葉が引っかかる。この女は、自分が同類だとでもいいたいのか。桜田はその人生の大半を確かに不真面目に過ごしてきた——だが、だが、ここまでの非道をした覚えはない!

 覚えはない…………………………はずだ。

 腹が立った。

 自分は——何も後ろ暗いことはしちゃいない!

 桜田の中で、もはや村井という女はカウンセラーでも案内役でもなく、単なる狂信者の一人になった。多少なりとも信頼した自分がバカだったのだ。ここを出たら真っ先に警察へ駆け込んでやる——と、内心に呟く。そして記事に書き立てるのだ。あの癪にさわるデスクの目を驚愕に見開かせてやるのが楽しみでならない。

「ねえ、わたしのいいたいことがおわかりになりまさか? 熊沢さん——いえ、本当の名前は『桜田』とおっしゃるのでしたっけ」


 ——あなたの奥方とご令嬢から、お話は伺っているのです。


 背筋が凍るような錯覚をした。

 違う、と自分に言い聞かせる。違う、妻子が何をいいふらそうと、目の前の非道と比べればほんの些細な話でしかない。あんなのはただの間違いだ。ただ少し気が立っていただけなのだ。そうだ、熊沢のやつが偉そうに見下すからいけないのだ。人間なのだから苛立つことくらいある。ほんの少し手を上げてしまっただけではないか。そういう失敗さえ受け止めるのが、夫婦の、あるいは親子の愛というものではないのか——

「何の……ことだか……」

「お二人から頼まれていました。いずれあなたがここに来る、そのときは痛い目に遭わせてやりたい——と。いくら偽名を使ったところで隠し事などできませんよ、わざわざこの施設まで体験にいらっしゃる方なんてそう多くはありませんから」

 不意に、

 パチン、と明かりがついた。

 頭上に巨大な鐘が見えた。広い半月型の空間に、ところ狭しと男女の組が寝転んでいた。抱き合って、交わって、愛液だの小便だのといったおびただしい量の粘っこい汁を、床にびしゃびしゃ垂れ流している。つん、と生温かな人間の臭いが部屋一杯に漂っていた。誰もが、あの布袋のような白い仮面を身に着けていた。誰が誰なのだかわからない。いや、誰が誰であろうと構わないというのだろう――ただ、みなが『ニルワヤ』に帰依するのであれば。

「…………………………お、」

 それら醜悪な景色を背にしながら、桜田の眼前に二人の女が立っている。傍らには、彼女らが脱ぎ捨てた白い仮面がしわくちゃになって転がっていた。

 お前は——

 ぽっかりと口を開け、そのまま呆然と立ち尽くした。思考が漂白された。何を思えばいいのか、何を感じたらいいのか、それさえもわからなくなった。

「お気づきにならなかったのですか」いつの間にか、村井がすぐそばに立っている。憐れむような、責めるような目でこちらを見ている。「あなたは毎夜、探していた奥方とご令嬢とを両手に抱いていらしたのに」

「そんなバカな、そんなバカなことが」

 あれは夢のはずだ。

 夢でなければならないはずだ。

 だいたい記憶だって定かではないのに、いったいどうして——

「来客を案内する部屋には」淡々とした言葉が大部屋に響く。「換気口に似せて、特殊な空調が設けられているのです。気化させたある種の薬品をそこから流し込めばいい。あなたは朦朧としたまま最上層に運び込まれ、夢うつつにお二人を抱く……」おめでとうございます、と村井は場違いな言葉を続ける。「そうして、あなたはニルワヤに貢献したのです」

「貢献……?」

 村井から視線を逸らし、眼前に立った二人の女をじっと眺める。下着の一つも身につけないまま、動物のように恍惚とした顔でこちらをじっと見つめている——妻と子。

 そうだ、思えば自分の愛娘には可愛らしいほくろがあった。右の乳首の少し下に、小さな、黒々とした、可愛らしいほくろがあった。ちょうど、夢の中でむしゃぶりついていたのと同じような……。

「ご懐妊ですよ。あなたと、あなたのご令嬢との子供です」

 ふふふ、と妻が羨望に似た笑みを浮かべた。

 ふふふ、と娘が幸福そうな微笑を浮かべた。

 ふふふ、と周囲から嘲笑に似た声が聞こえた——

「いったい、どういう、どういうつもりで、」声が震える。足下がぐらぐらと揺れるような、めまいに似た錯覚をした。狂っている、おかしい、何もかもが異常だ。「どういうつりで、こんなことを、こんな……」

「貶めるためですよ。ちょっとからかってみた、というほうが適切かもしれませんけど」端的に、村井はいう。「あなたは何も偉くない。一家の長を気取ったところで惨めさを隠し通すことはできやしない。落ちこぼれた記者で、妻子に手を上げる老害で……そうして実の娘に一生懸命腰を振る、そういう姿を信徒一同で見て差し上げることになったのです。信徒一人の苦しみは、復讐は、同時にみなのものでもある……自他の区別などない、ニルワヤはそういう宗教ですから」

「………………嘘、だ。こんなのは……」

「ねえ、お父さん」

 ああ、

 娘が笑っている。

 にっこりと、微笑んでいる。

 幸せそうだ……羨ましいくらいだ。

「お、俺は……」

「お父さん。わたしはね、」


 ——道徳なんてない、動物の世界に行きたいんだよ。


 猫を詰め込んだ押し入れの地獄が、今、目の前に広がっている。

 ふふふ、ふふふ、ふふふ、ふふふ、ふふふ……周囲から笑い声が聞こえてくる。嘲笑とも侮蔑とも同情ともつかない、曖昧で主語のはっきりしない、曖昧模糊とした笑い声……そうか、もしかすると——と桜田は思う。

 これが、ニルワヤというやつなのか。

「………………嘘だ」ただただ恐ろしかった。あまりにも常軌を逸した現実に、理解が追いついていかなかった。このようなことなら、わざわざ女など追いかけてくるべきではなかった。どうせ、代わりなどいくらでもいる。「嘘だ、嘘だ」

「さあ!」にっこりと笑って、村井は叫ぶ。「出産まで見守ろうじゃありませんか……」


   □□□


 逃げられては困るのだ、と彼女はいった。

 ——だから今、桜田は檻の中にいる。

 ニルワヤの子供に囲われながら、暗い部屋に寝転んでいる。

 ……気のいいやつらばかりだった。右隣の綺麗な少女はいかにも旨そうに錠前を舐めるし、左には檻からはみ出すほどの肥満児がいる。寄り目がやたら上手いやつも、鼻が頭にあるやつもいる。唯一の難点は、言葉が通じない点だろう。だがそんな些細な壁は、愛があれば乗り越えられる!

 ひひひひは、と彼らは桜田に笑いかけた。へへへへへ、と桜田もつられて笑い返した。

 獣臭くて、鼻が曲がった。


   □□□


 狭くて苦しい。

 教祖がいなくなってしまったせいか、なんだか周囲の様子がおかしい。


   □□□


 檻に詰められた人間たちが、一人、また一人と死んでいく。

 死臭が鼻の粘膜を焼いた。


   □□□


 餌に毒を混ぜているらしい。

 自分だけが、村井の言葉通り生きている。

 みな檻の中で腐っていくのに、

 自分だけが、生まれる命を待っている。

 何だか、笑いたくなった。


   □□□


 おや?


   □□□


 ここはどこだろう?


   □□□


 熱中症で死んだ蝉が、道ばたで仰向けに転がっている。桜田は、炎天下の住宅街にぼんやりと一人たたずんでいた。いつ檻から出されたのか、どうやったここへ歩いて来たのか、それさえまるで定かではない。

 ……太陽がひどく眩しかった。

 両手には、生まれたばかりの赤子の感触がまだ生々しく残っている。くったりと力の抜けた四肢、真っ青になった顔、羊水にまみれた頬……。死んでいた。死産だった。涙を流したものかほっとしたものか、何が何だか、もうわけがわからなかった。他人の意図も、なされた行動が持つ意味も、それがどういう理屈で自分を貶めているのかも、まるで判然としなかった。尊厳とは何だろう? 人間とは何だろう? いったい自分は目の前の状況にどういう感情を抱けばいい?

 名称のない激情が、胸にわだかまっている。走ってもいないのに、心臓はごうん、ごうん、と早鐘を打ってちっとも収まる様子がない。ごうん、ごうん。

 ただ——

 不思議に、頭だけは冷静だった。ひと気のない住宅街にただ一人ぽつねんとたたずみながら、『ああ、今年も暑いな』と益体もないことを考えている。身体は気怠い。もう一歩も動きたくない。だが座り込んでしまう前に、やっておかなければならないことがただ一つある。

 ――貶められた尊厳を、どうにかして取り返すのだ。

 他人から奪い取ってでも人間の誇りを回復するのだ。

 記事を書くのはそれからにしよう。

 ……ふと、絶妙なアイデアが脳裏に浮かんだ。


 ——人権委譲契約書。


 その想像は、桜田をひどく愉快にした。さて、誰の尊厳をもらい受けよう? 誰を畜生のように『調教』しよう?

 己を動物と信じ込むまで、徹底的に鞭打ってやるのだ。衣類を剥ぎ取り言葉を奪い、共食いさえさせてやろう。……自分の価値を回復するには、もはや他人を貶める以外に道はない。

 ごうん、と〈なかよしセンター〉の鐘が鳴った。

「……ふふふ」

 手頃な家を探して、歩き始める。

 粘っこい日差しにめまいがした。

 夏は始まったばかりである。

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