F/治療済

 おぞましい赤ん坊の泣き声が、うわんうわんと反響した。乳白色に統一された藤宮家の浴室が、じっとりと鮮血に染められていく。プラスチック製のシャワーヘッドが、藤宮の小さな手から離れて、お湯をまき散らしながら床をのたうち回っていた。

 ——制服が、濡れてしまうな。

 綾瀬はボンヤリとそんなことを考える。家へ帰る道中でクリーニング屋へ寄っていくべきなのかもわからない。一張羅のスカートには赤い斑点が貼り付いているし、何よりも浴室に充満する濃厚な『臭い』が衣類のことごとくに染みついて、容易には落ちてくれないだろう——それこそ、あの汚らしい母親の臭気と同じように。

 浴室の床に広がった朱を、温かなシャワーが覆っていく。粘ついた血液が渦を巻きつつ排水口に姿を消した。残されたのはビシャビシャに濡れた藤宮の裸体と、真新しい命だけ。赤ん坊の泣き声が、うわんうわん、と耳鳴りのようにしつこく響く。生まれたばかりの脆い身体で、どうしてこれほどまでに力強く泣けるのだろう——と、綾瀬は素直に感心した。

 ポケットからカッターを取り出し、赤ん坊のへその緒を切る。ゴムめいた感触がいくらかの不快感を呼び起こした。へその緒がまさに切れようというところで、小さな四肢がびたんびたんと床を叩き何事かを訴えているような印象をもたらす。

 綾瀬には、赤ん坊の心がわかる気がした。

 悲しいのだろう。生まれてきたことが、辛く苦しいに違いない。なぜって、生きることは遺伝子へかしずくことである。本能に突き動かされ、感情に飲み込まれ、汚らわしい動物のように交尾し子を成さねばならない。あるいはまた、こうも考えらるだろう——赤ん坊の存在そのものが親の奴隷性を証明するのだ、と。町を歩いているだけで、周囲の人間に両親の交尾を喧伝していることになる。通りすがる誰も彼もが、じっといやらしい視線を向けながら考えるのだ——そうか、この子供の両親はかつてセックスしたのだな、と。欲望のまま懸命に腰を振ったのだな、と。生そのものが恥なのだ。そしてその宿命からはきっと何人も逃れられない……。

 床に寝そべる赤ん坊をしばらくじっと観察したあと、視線を藤宮の身体へ移した。華奢な手足が、力なく水に濡れている。下半身にバスタオル一枚を乗せたきりで、ほかは布一つ身につけていない。先ほどまで青ざめていた表情は、今や黒ずみ、以前のような艶っぽさなど欠片も残ってはいなかった。

 ——これのどこが仙人だろう。

 綾瀬は嘆息し、自嘲する。思えばつまらない期待だった。妄想に駆られた一介の少女に、ありもしない幻想を重ねて……その結果がこれ。何が『清潔な汚れ』だ、何が『時間を超越している』だ、そんなものはただの錯覚だったじゃないか。妄想にもほどがある。

 湯に流されそびれた粘っこい血が、壁のあちこちにまだ残っていた。綾瀬は人差し指でそれを撫で——口に、含んだ。塩辛く生臭く、しかしどこか甘ったるい。汚らわしい雌の味だ。どこの誰ともしれぬ男と本能のままに交わった、裏切り者の味がする。

 結局のところ、彼女は遺伝子の奴隷だった。

 ——ただそれだけが、確かな事実だ。

 綾瀬はシャワーの栓を捻る。まき散らされていた湯が、止まった。寝転がったままぴくりとも動かない藤宮の身体を、それから思い切り踏んづけてみる。ぐにゃり、と足の裏に柔らかな肉の感触を覚えた。肋骨がひしゃげ、圧迫された両の肺から空気がひょう、と吐き出される。藤宮は動かなかった。再び踏んだ。今度はへそよりもいくらか下を——ちょうど子宮のある辺りを狙って、足を降ろした。ゴムまりを踏むような感触。けれどかえって、それが心地よくもあったのだ。びりびりとした快感が頭の奥で弾けている。何度も踏んだ。復讐なのだ、これは。遺伝子への反逆なのだ。これは、これは。

 これは——。

 新鮮な死体だったから、だろう。綾瀬の暴行に反応してか、裸体のあちこちに薄く痣が浮いている。

 踏みつけられた衝撃で両足があられもなくぱくりと開き、大きく裂けた股をさらした。

 赤ん坊をひり出す過程で、とうとう耐えられなくなった少女の器官。

「あーあ、あーあーあーあ」残念だなぁ、と綾瀬は呟く。「裏切られるなんて、思ってもみなかったな」あーあ、と声を上げる。「好きだったのにな……死んじゃったなぁ……」

 せっかく、遺伝子の奴隷から抜け出せるかと思ったのに。どうしてか、気力と希望をごっそりと削がれてしまった気がする。死体を蹴飛ばして復讐を気取っていた自分の姿が、早くも滑稽に思い出された。惨めだ。失望は自分で思っているよりもずっと深いようだった。

 赤ん坊は狂ったように泣き続けている。その首根っこを捕まえて、ひょい、と腰の高さまで持ち上げた。大きさから思っていたより、いくぶん重いような気がする。命の重さだろうか、などと自分にしてはやや洒落た問いを考えついた。ちっぽけな手足が弱々しく蠢いているのが、ほんの少し可愛く思える。赤ん坊は驚くほどの力強さで、偶然触れた綾瀬のスカートをぎゅっと右手で握りしめた。

 浴室に背を向け、リビングへと足を向ける。電灯の消えた空間に埃っぽい大気が充満していた。空は紫に染まっていて、窓から差し込む陽光はひどく頼りない様子で揺れている。ああ、もうすぐ冬なのだ——と、綾瀬は思った。

 ひと気はない。

 物音一つ聞こえない。

 藤宮の両親はいつ頃帰ってくるのだろう? この状況を前にしてどのような感情を抱くのだろう? 知らぬ間に妊娠していた自分の娘が、浴室で出産し死んでいる——妄想の種には事欠かなかった。

 さて——と綾瀬は呟きながら、赤ん坊を食卓に乗せた。空っぽの椅子に囲まれながら、小さな命はきょとん、と戸惑った顔でこちらを見ている。

 その首を、捻った。

 雑巾を絞る要領で、喉を思い切り締め上げた。

「よくも——」綾瀬はうめく。「よくも、あの子を殺してくれたな」

 復讐なのだ、と内心に独り言つ。あるいは『反逆』といってもいいかもしれない。藤宮京子の子孫など誰が生かしてやるものか。一つには遺伝子の法則に逆らうということ、生殖を決して許さないこと。そしてもう一つには約束を違えた藤宮を徹底的に貶めてやること、彼女が自分を犠牲に遺した命をこの手で捻り潰すこと。無論、今さらにこんなことを試みたところで、死んでしまった藤宮は生きて還ってくるわけじゃないし、ましてや明らかになった裏切りが撤回されるわけもない。どん詰まりなのだ、どうしようもなく。

 そういえば——


 あの子は、ニルワヤに到達することができたのだろうか? 自分を連れて行くと口にしながら、裏切ってただ一人本当の自由を手に入れることができたのだろうか?


 わからない。

 本人が死んでしまった以上、答えなどはなから期待していない。

 しかし——

 ただ一つ確かなのは、藤宮が死の間際に見せた表情だった。

 恍惚として、苦悩から解放されでもしたかのような……そういう顔。

 一見して、

 幸せそうだ——と綾瀬は思った。

 それがどうにも、我慢ならない。


   □□□


 不意に、綾瀬は妙な感覚を覚えた。

 息絶えた赤ん坊の肉体が、妙に美味しそうに見えたのである。


   □□□


 四方をコンクリートで囲われているせいだろう、部屋は殺伐とした表情を見せる。中央には木製のちっぽけなテーブルが置かれ、それを挟むように二脚のパイプ椅子が配されていた。空調に不具合が生じているのか、あるいは電力の節約か、はたまた拷問のまねごとなのか……室内は少し肌寒い。天井の隅から、監視カメラの黒いレンズが悪びれる様子なくこちらを見ている。両手にかけられた金属の手錠が、ずっしりと重く冷たかった。

「こんなおっさんが相手で悪いな、お嬢ちゃん」無愛想な壮年の男は、綾瀬の向かいに腰掛けて気怠げな口調でこういった。「ほかの連中はどうも忙しくしてるそうでね。本当は年齢の近い、若い婦警がいればよかったんだが……」高齢化に人手不足で云々かんぬん、と場違いな愚痴を垂れ流した。「相棒に押しつけようにも休職中、だからまあ、我慢してくれや」

 赤尾と名乗った眼前の男は年齢の割に筋骨隆々とした体格で、一見、口ぶりほど気怠げな印象は感じられない。達観したような淡泊な眼差しは、どこか藤宮を連想させた。粗雑なようで、同時に賢しらな雰囲気もあり……なんだか、得体の知れない人物に思える。

「父親は——」綾瀬は問うた。「あの赤ちゃんの父親は、いったい誰だったんでしょう?」

「さあ、どうだろうな。はっきりしたことはわからんね」返事はひどく素っ気ない。当然だ、こちらは赤子殺しの犯人として聴取を受けているのだから。愛想のいい対応をされたらかえって面食らってしまうだろう。これでも自分で通報しただけ、まだ穏当な扱いに違いなかった。「大福みたいな宗教施設がすぐ近くにあるだろう? あの辺りの空き家を根城に、浮浪者だのチンピラだの胡乱な連中がたむろしてる。そいつらとあの子とが付き合っているのを、近隣の住人が何度か見ていた……だから、」

 その先は聞かずとも察しがついた。

 自分の知っていた藤宮京子は、なるほど、実態からほど遠いらしい。停学中、部屋に引きこもって食事を摂らず排泄もせずに瞑想している……ニルワヤに思いを馳せ、寄生虫に思いを馳せ、宗教的な境地へ至ろうと朝から晩まで忘我する……そんな人間は初めからどこにもいなかったわけだ。藤宮はただ育児放棄のさなかにあって、夜な夜な町へ繰り出しては破滅的な火遊びにふける、妄想癖のある少女だった。

「刑事さん……もう一つ」問いを重ねた。答えを期待したわけではない。ただ、尋ねずにはいられなかったというだけの話で。「もう一つだけ、聞かせてください。あの子は……藤宮さんは……『ニルワヤ』に行くことが、できたのでしょうか?」

 む、と赤尾は眉をひそめる。

「本人に聞け——なんていうのが一番誠実な答えだろうがなぁ」そういうわけにもいかんか、と困った風に頭を掻いた。「まあ、個人的な考えをいうならまず『できなかった』だろうと思うぜ」

「そう……ですか」

 残念だとは感じなかった。

 唇が歪み引きつっていくのを、自分では止めることができなかった。

 くつくつと、我ながらいやらしい笑みが溢れ出る。

「少なくとも、その子は積極的に『ニルワヤ』を目指していたわけじゃない。単なる逃避だったんだ」

「逃避?」

 よくわからない。

 藤宮がいったい何から逃げ出すというのだろう?

 怪訝な顔をする綾瀬をよそに、赤尾はつらつらと話を続けた。

「現実から逃げ出すことを第一義とするのなら、重要なのは実際に『ニルワヤ』へ行き着くことじゃない。『目指す』というその過程だろう? 見たくないものから目をそらすために、夢中で見つめられる『何か』を探した……それが『ニルワヤ』だったのはおそらくただの偶然だ。たまたま家に教団の本があったから……たまたま両親が〈ニルワヤ教〉を信じていたから……だから、自分も『ニルワヤ』を見ることにした。ただ、それだけ。『修行』に満足しているやつが『悟り』を開けるわけがねぇ!」

 逃避、という言葉が頭の中にこだましている。

 逃げた? 何から? 赤ん坊から? わけのわからない胡乱な連中と毎夜火遊びにふけった挙げ句、孕んでしまった子供から? それとも……

「逃避とは、いったい……」

「まあ、待て」綾瀬を遮り、「今度は俺の質問に答えてくれや。こっちも一応、仕事だからなぁ」と、いかにも面倒げな様子で口にした。「まずは、」

 ——クスリの入手先に、覚えはあるか?

「薬……とは、」

 何のことだろう、首を捻った。

「そうか、知らないか」やれやれ、とため息をつく。「気がつかなかったかなぁ。お嬢ちゃん、あんた逮捕されたとき警察官にいってるだろう? 藤宮京子が寄生虫の幻覚を見ていた……皮膚の下にたくさんの虫が蠢いている、なんて空想をして……無茶苦茶にかきむしった痕跡があった……。それから、それからだな、」歯切れ悪く顔を逸らして、また困った風に頭を掻いた。「なぁお嬢ちゃん、本当に覚えていないってんだな?」

 覚えていない——いったい、なにを?

「もしかして、」思い当たる節は、一つだけあった。「藤宮さんに……『治療』してもらっているとき……に……?」

 すっぽりと記憶から抜け落ちた空白の時間——何か妙なことが起こっていたのなら、あのとき以外では考えられない。

「藤宮京子の携帯端末に、たっぷり映像が残ってたんだ。あんた盗撮されてたんだぜ」彼はポケットに手を突っ込んで、数枚の写真を取り出した。「あの子の部屋から、大量の薬物が見つかった……」写っていたのは、一見してあめ玉かと思うような色とりどりの錠剤である。「あんたこいつを飲まされて、理性も記憶もぶっ飛んでいたんだろう。藤宮京子はあんたの服をひん剥いた挙げ句、その映像を売りさばいてチンピラから薬物を買った」要するに、と赤尾はいう。「藤宮京子は、逃げ続けていたんだ。育児を放棄気味な両親のせいで、まず孤独から逃避した。胡乱な連中と付き合って、子供を作りクスリを覚えた。薬物による幻覚から逃げるために『寄生虫』なんていう妄想をした。不道徳な妊娠からは、特定の誰かの子供ではない……ニルワヤの子供なのだ、なんていう聞きかじりの下らない宗教的オブラートで逃げおおせたわけだろう。お嬢ちゃん、あんたはそのダシに使われたんだ」

「同情、してくださるんですね」

「その余地はあるだろうな。望みもしないクスリを飲まされ、わけもわからんままポルノ女優にされてたんだから」彼は目を細め、だが、と続ける。「仮に薬物で錯乱していたと考えたって、赤子殺しはやり過ぎだぜ。一線を越えちまったとしかいいようがねぇ」

 ことの真相は、とどのつまりそういうわけだ。

 なるほど、と綾瀬は呟く。不思議に、藤宮への怒りは湧かなかった。とうの昔に感情は麻痺して、まともに働かなくっていたから。藤宮が子を宿していたと知ったときから……いや、もっと以前に、我が家がゴミにまみれた頃からおかしくなっていたのかもしれない。

 ——おや?

 ふと、思い出した。このまま逮捕されてしまったら、畜生となった母親を毎日世話する人間がいなくなってしまうではないか。餌も水もなしにして、人は何日生きられるだろう? もっともあの有様では、元より死んでいるも同然ではあるのだが。

 父親と暮らす羽目になるのは歓迎されたことではない。かつて母親だったあの畜生がどうにか息をしているうちに、家へ帰りたいものだなぁ——などと、綾瀬は自分の楽観に我ながら苦笑する。赤ん坊とはいえ、殺人は殺人である。そう簡単に解放されるものだろうなどと、はなから思ってはいなかった。

 仕方ない。

 畜生のことは諦めるとして、せめて、

 恋した男と——あの、藤宮京子に突き飛ばされ猿山に転落した青年と——もう一度会うくらいは、望んだって構わないだろう。結婚もセックスもいらないのだ、本能から発生したつまらない性衝動はゴミだらけの海にでも放り捨ててしまうがいい。ただ純粋に会うだけで……視線を少し交わすだけで……何かが救われるような気がしてならない。

 きっと彼は、畜生の苦悩を知っている。

 きっと彼は、畜生の喜びを知っている。

 藤宮京子は最初から最後まで奴隷のままに人生を終えた……おそらくは自分も、同じように一生を過ごす。動かない母親に振り回されて、奴隷のように食事を運んで……遺伝子に急かされ子供を生んで、そうやって老婆になっていく。

 だったらせめて、その生涯を喜びたい。恍惚として、喜んで、奴隷の身を受け入れたいのだ。笑みを浮かべながら猿山のボスにかしずいていた、あの青年のように……。

 綾瀬は件のフレーズを想起して、口ずさむ。


 一、奴隷になりたくてもなれない時代

 二、しばらく安全に奴隷でいられる時代


「ああ、魯迅か」赤尾は嬉しそうに唇を歪めた。「センスいいな、お嬢ちゃん」

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