T/不眠症、冷たい雨

 密室殺人の事件以来、眠れない日が多くなった。明け方になってようやくまどろみ始めたと思えば、遠のきかけた神崎の意識を目覚まし時計がたたき起こす。隣のベッドに眠る妻がむっくりと健康そうに身体を起こし、バタバタと騒々しく朝食の準備を始めるのである。こうなれば、とても安らかに夢を見てはいられない。彼は仕方なく顔を洗って、郵便受けから新聞を取るのだ。

 決まった時間に眠らない分、一日中どこか脳みそは夢うつつだった。ちょっと油断すれば意識が飛ぶし、ふわふわと地に足の着かないような浮ついた感覚が抜けないのである。今日が昨日なのか明日なのか、それさえわからなくなることがしばしばあった。

 いったい、捜査はどの程度進展したのだろう?

 わからない。

 ベッドの上で眠い目を擦り、自動車のハンドルを握りしめ、捜査会議に出席し、自動販売機で茶を買いながら、どういうわけだか部長に叱られ、気がつけば夕暮れの公園に突っ立っている……彼ははっと我に返って今日の日付を確認し、自宅へと足を向けるのだった。脳裏には終始、檻で死んだ件の少年と〈戸籍省〉で目の当たりにした母の微笑とが焼き付いて、いくら忘れようにも離れてくれない。

 朦朧としている。

 だからその日も神崎は、なぜ自分が車を走らせるのか、また何のために車を駐めて喫茶店へ歩いているのか、店内に踏み入れ周囲を見回し誰の姿を探しているのか——それさえも、はっきりとはわからなかった。何か約束があった気がする。しかし中身が思い出せない。足下がふらついて、意識にはモヤがかかっている。記憶がふにゃふにゃと頼りなく揺れ、視界は眠気に犯されていた。店内に充満する客同士のつまらない会話が、騒々しく耳に響く。無数の声がぐらぐらと頭の中に反響し残響する——うるさい、うるさいうるさい、うるさい。

「刑事さん、ここですよ」

 ほんの一瞬、凜とした声に眠気が飛んだ。

「ああ……」そうだった、と神崎はようやく思い出す。「失礼、遅くなってしまって」

 店の最奥に配置された二人用のテーブルで、女性がコーヒーを片手に微笑んでいた。

 住宅街にぽつねんとたたずむ、古くちっぽけな純喫茶である。店の規模に比べると客足はずいぶんと多いようで、並んだ十数組のテーブルがほとんどいっぱいに埋まっていた。木目を基調とした内装は全体に落ち着いた雰囲気を醸し、店内を漂うコーヒーの香りがのんびりとその趣を裏付けている。何気なく天井を見上げれば、巨大なファンが音もなく緩慢に回転していた。橙赤色の柔らかな色をした電灯が、寝不足の瞳に心地よい。

「こちらこそ、わざわざすみません」

 駅から遠かったでしょう? 神崎に椅子を差し出しながら、こう口にする。

「いえ、車ですから」腰を下ろし、店員にコーヒーの注文を済ませた。ここのところの寝不足はもはや多少のカフェインで解決できる代物ではない——が、やはりないよりはずっとマシだ。「ここには、よく来られるのですか?」

「田辺です」と、柔らかい語調で女性は名乗った。「田辺玲子といいます。週に一度は来るんです。……ほら、すぐ近くに教団の施設があるでしょう? 〈なかよしセンター〉っていう名前をした大福みたいな建物ですよ。週末はそこに一泊して、月曜の朝にここでご飯を食べてから出勤するのが習慣なんです」

 店員がやって来て、神崎の目の前にコーヒーを置いた。真っ黒い液体に自分の顔が鏡めいて反射している。肌は荒れ、いかにも不健康そうな面持ちだった。目の下にくっきりと刻まれた青い隈は、たとえ不眠が治ったとしても簡単には消えないだろう。

「田辺さん……ご職業は、確か私立中学校の教員でしたか」

「ええ、そうです」こっくりと頷いた。「社会科を」

「大変でしょうね、教師というのは」神崎はコーヒーを飲み干した。酸味と香りの際だったそれなりにいい豆であるらしい。「ことにあなたの場合、信仰と教育との間に葛藤を抱えることもあるでしょう? ……つまり、生徒に『ニルワヤ』を教えられない、という」

「……どう、でしょうね」田辺は少し困った風な表情をした。「そういうことを考えたことは、実をいうとあまりないんです」なぜなら、と彼女は続ける。「正直なところわたしにとって『ニルワヤ』はさほど大事ではないので」

「ははあ……いや、しかし、」

 なんだか腑に落ちない物言いだった。

 事件に巻き込まれ即座に教祖へ一報するなど、いかにも敬虔な信徒ではないか。だというのに『ニルワヤ』をないがしろにする道理など、いったいどこにあるだろう?

「わたしは今の生活に満足していますから。だから、人類の調和とか『ニルワヤ』だとか、そんなものにはこれっぽっちも興味を持ってはいないんですよ」彼女はいって、刑事さんはいかがですか? と尋ね返した。「あんなのは、理屈に見えて実はただの言葉遊びでしかないんです。わたしはただ、生きていくのにちょっとした指針が欲しかっただけで……」

「どうかな……」神崎は問いを咀嚼した。「人類の調和、というとなんだか大げさな気はしますけれど、『治安を守る』といい換えるなら重大なことだと思いますけど。……しかし、となるとあなたは」何か穏当な言葉がないものだろうか、彼は少し思案して、寝不足の頭ではどだい無理だとあっけなく投げやった。「あなたは、嘘をついているということになる。それはなんというか……本当に信じている人たちに失礼なのではありませんか?」

「ああ、確かにそういう考え方もできるでしょうね」でも、と彼女は続けた。「人間というのは、きっと嘘をつく生き物でしょう? 社会を成り立たせるのは『嘘』なんです」

「それは、どういう……」

「以前、憲法の授業をしていたときに、生徒の一人から指摘されたことがあります。例の十一条には欠陥がある——って。当然ですよ、あんなのはみんな嘘なんだから。『人間は他の動物と違う、そういうことにしよう』『人権というものがある、そういうことにしよう』『経済が苦しいから人権の定義をちょっと変えよう』みんな嘘なんです。方便なんです。でも、そんな嘘を信じているから誰もがうまく生きていける……。だから『ニルワヤ』なんてものを目指さなくたって、みんなが固く『嘘』を信じれば人類の調和なんて簡単です。『戦争してはならない』『他人を傷つけてはならない』そういう風に信じればいい。信心が足りていないから、戦争を起こしたり他人を傷つけたりするんです。『道徳』を信仰すればいいのに。人殺しはいけないことだと思い込むように、戦争をしてはいけないと思い込んでしまえばいいのに。……悟りを開くより、きっとずっと簡単でしょう?」

 そうかもしれない、と神崎は思う。

 しかしいささか話の規模が大きすぎる。田辺という女はただ単純に、自分の嘘を正当化するために理屈をこねているだけではないのか?

「何というか、僕にはあなたのことがよくわからないんです。端から見ていて、あなたがどういう気持ちでいるのかちっとも想像することができない」まるで口説き文句だ、と内心に自嘲した。「あなたは檻の中を覗き込んだ。木陰に隠れて見えなかった少年が、実は死んでいたのだとあとになって伝えられた。どういう気持ちだったんでしょう?」事件への関与は、それだけではなかった。「さらにあなたは〈ニルワヤ教〉を信仰し、そして死体の右腕には『ニルワヤ』と文字が刻まれている。奇妙な一致です。偶然でしょうか? これを知って、あなたは何を思ったんでしょう?」

「関連しているというのなら、それだけではありませんよ」田辺は悪戯っぽい表情でいう。「檻の中にいた男の子は、以前にあったあの事件の生き残りだというじゃありませんか」

「そうです。あなたは——」

 密室殺人の捜査資料で田辺の住所を見つけたとき、神崎は妙な既視感を覚えた。町名番地の配列に、記憶野のごく浅い部分が騒々しく反応している。

 ああ、そうだったのだ——一時間ほど考えてから、ようやく符号が一致した。

「三連休の、月曜日でしたっけ」遠い思い出を探るように、ぽつり、ぽつり、と彼女はいう。「学校がお休みでしたから、家の近くを散歩していたんです。そしたら……」

 少年が道を歩いているのを見つけてしまった。殺人犯に指示されて、カップラーメンだの缶詰めだのと雑多な品物を鞄一杯に詰め込んだ少年——名前は葛城隆、だったか。

 この女性は事情聴取で、肝心なことをなにもかも秘匿していた。

 聞かれなかった大切な事項を、明かすことなく平然としていた。

「彼と何を話したんです?」

「雑談ですよ。とりとめのない話です。たとえば……そうですね、あの子は『ニルワヤ』に興味を持っているようでしたから、ほんの少し話して聞かせてあげましたっけ」

 以前に教祖が自ら署へ出頭したとき、『自殺が可能であったのは動物の段階を越えニルワヤに到達したからなのだ』などと珍説を口にしていたが——なるほどまるきり根拠のない話ではなかったわけだ。教義の内容を知っていたなら、ありえないとはいい切れない。

「なるほど。事情聴取のとき、なぜ話していただけなかったのでしょう?」

「面倒ですから」

「面倒、ね……。では、なぜ教祖様には事件の概要を伝えたのです?」

「立ち回りですよ。教団の中で生きていくのに、恩を売るのは大切でしょう?」

 神崎は店員を呼び、コーヒーのおかわりを注文した。眠い。早くもカフェインが切れかけている。めまいがした。ゆらり、と視界が大きく揺れた。眠気の波に一瞬飲み込まれた彼の意識は、テーブルに置かれた二杯目の香りでまた現実に浮上する。

 コーヒーを舌の上で転がし、嚥下した。

 田辺はその様子を、じっと無表情に見つめている。神崎よりも早くからこの喫茶店にいただろうに、どうしてかカップの中身は一向に減る気配がない。

 ふと、彼女の左手に目を留める。

 おかしいな、と首を傾げた。捜査資料には未婚と記されていたはずだ。

「ご結婚なされたのですか?」

「ええ、先日。といっても、まだ籍は入れていないんですけれど」

「おめでとうございます。ええと……」神崎はまた、寝不足で回らぬ頭に控えめないい方を模索させ、やはりあっけなく諦めた。「お相手の方は、教団の……?」

「いえ、よそで出会ったのです」田辺は事もなげに口にした。「ニルワヤのことは、彼にはまだいっていません。刑事さんにいわせれば、これも嘘ということになるのでしょうか」

「さあ、どうでしょう」部外者の自分が口を出すのも、なんだか筋が違っているような気がしてならない。「話したほうがいいのではないか、と個人的には思いますけどね」二杯目を飲み干し、カップを置いた。「あなたはどうして、そんなに嘘ばかりつくのです?」

 ありもしないことをべらべらと口にしているわけではない。しかし他人に肝心なことを話さないのは、きっと消極的な意味での『嘘』だった。欺いているという点で、一般の虚偽と本質はさほど変わらない。

「昔から、こういう生き方しかできないんですよ」仕方ないでしょう? と悪びれもせず首を傾げた。「刑事さんだって少しくらいは同じ経験をしているはずです。伝えるには煩雑な話を、面倒だからと端折って語る……それだって立派な『嘘』じゃありませんか。わたしはただ、それをほんの少し極端にしただけ。面倒なことになるくらいなら、最初からすべて隠し通せばいいんです。それでなにもかもうまくいく……」

「うまくいっているのですか?」

「ええ、もちろん」吐き気を催すような、幸福な表情である。田辺は、たとえば、と自分の腹部に手を当てた。「六週目なんです、この子」

「それは、おめでとう……ございます……」

「でも、夫の子ではないんです」

「……………………は、?」

 神崎はうろたえ、両目を見開く。

 田辺はうっとりと唇を歪めた。ほうれい線が、深くなった。

 ぞっとするような彼女の笑顔は——

 どこか、〈戸籍省〉で会った母親に似ている。

「では、それでは、」誰の子だというのか。「誰の子だというんですか!」

 田辺は、ふふふ、と妖艶に笑った。

「ニルワヤの、子なんです」


 ——————!


 我に返って、ブレーキを踏む。愛車のタイヤが悲鳴を上げて、雨水を周囲に跳ね散らかした。呼吸が荒くなる。半ば夢に落ちていた意識が、急速に目の前の現実を取り戻した。

 辺りは暗い。夜である。

 カーナビの画面に、今日の日付が示されていた。

 ——九月十五日。

 日の落ちた空から降りしきる雨は、車の天井にぶつかって絶えず機関銃めいた音を鳴らす。ヘッドライトに照らされて、ほんの数センチ先に灰色のブロック塀が浮き上がった。うねうねと曲がりくねった住宅街の一角で、神崎は慎重にハンドルを切る。

「おい、神崎」助手席から赤尾が睨んだ。「この前、俺が目隠ししたとき『死ぬ気なのか』とこう怒鳴ったな。だってのにこりゃいったいどういうつもりだ? 今度はこっちがいわせてもらうぜ——神崎、お前は死にてぇのか? おい!」

「……いえ、」すみません、と小さく答えた。「ちょっと、ボウッとしてたみたいで」

 自動車は再び走り始めた。単調な雨音が、何となく子守歌めいて眠りを誘った。過疎化高齢化の進む住宅街には人通りなどまるでなく、ただ明かりのない家並みが延々と続いているばかりである。時折、ちっぽけな街灯が思い出したように姿を見せた。

「なあ、最近どうした」赤尾の視線が頬に痛い。「様子がおかしいぞ、お前」

 住宅地を抜けたところで、大通りへハンドルを向ける。雨粒にまみれたフロントガラスは、視界を曇らせて厄介だった。閑散とした道路の先に、信号の明かりが小さく見える。赤青黄色、と彩り豊かなLEDがこちらをじっと見下ろしていた。

 ブレーキを踏む。

 道路にたまっていた雨水を、タイヤが勢いよく跳ね飛ばした。

 水だ——と、神崎は思う。

 思い出したくもない思い出が、否応なく蘇る。

 津波。

 母の笑顔。

「赤尾さん……ねぇ、赤尾さん」ほとんど無意識に、言葉が口からこぼれ落ちる。「嘘をつくのって、悪いことですよね?」

「はあ?」怪訝そうな顔をして、それからじっと目を細めた。「そりゃ常識でいえば『悪いこと』だろうよ」

「殺人は……殺人はどうです? 悪いことですよね?」信号が変わると同時に、アクセルを踏んだ。「人の尊厳を踏みつけることも、人間の肉を食うことも、悪いことでしょう?」

「ああ、常識的には『悪いこと』だろうな」

 一台のトラックがすれ違った。運転手の眠たげな顔が、ほんの一瞬目に入った。

「そう、ですよね……」

 大丈夫だ、と神崎は自分にいい聞かせる。大丈夫、自分はきっと間違っていない。他人が狂っているだけなのだ。この事件そのものが、あまりに異常なだけなのだ。落ち着け、常識を思い出せ。自分の感覚は正しいのだから……大丈夫、大丈夫。

「しかしまあ、『常識』なんて言葉ほど信頼できねぇものはあるまい」

 不意に発せられた赤尾の言葉に、ぎくり、と心臓が軋みを挙げた。

「……それは、どういう意味でしょう?」

「なあ、神崎。お前は以前こういったな——『人間とは法を守るものを指す』と。『法』という言葉を『法律』ではなく『社会的な規範』と読めば、確かにそれは常識的だ。ことに憲法改正後〈戸籍省〉が幅を利かせ始めて以来、どうもこういう風潮が強い。社会に仇なすものに人権はない、とね。だがいくら『常識的』であったとしても、真実かどうかには疑問が残るぜ」

 自動車は緩やかなカーブに差し掛かり、ほんのわずかに速度を落とした。左右に立ち並ぶ家々の壁に、一枚のポスターが紫外線で半ば漂白されながらべたりと貼り付けられている。

 反射的に目を凝らした。

 ずいぶんと金のかかった広告らしい、蛍光塗料を用いているのか暗がりでボウッと発酵している。空を穿つような高いビルに、未来を指さす少年のイラスト、ゴチック体で記されたどことなくいやらしい標語の類い……。


 ぼくら日本の美しさは、

 四季、おもてなし

 思いやり

 誰かのために尽くせること。


 端っこに小さく〈戸籍省〉のシンボルがあった。

「いったい何だっていうんですか。だったら、だったら……」神崎はうなるように問いを発する。「あんたはどうなんだ! そうだ、あんたにとって『人間』ってのはいったい何を指す言葉なんだ!」

 ふむ、と赤尾は顎に手を当て、少し考えるような素振りを見せた。

「難しい問題だな。生物学的な分類以外で、人間がいかに他の動物と切り離されるか……この問い自体、どうも人間中心主義的で偏っているきらいはあるがね」平然とした面持ちで、たとえば、とこう口にする。「代表的な説を一つ挙げれば、人間とは言葉を操る霊長類すなわち『Linguistic Primate』だという話がある」

「しかし」神崎は、以前に飼育員から聞いた話しを記憶の底から掘り返した。「ほかの個体とコミュニケーションを取る動物は、人間以外にもたくさんあると……」

「そう単純な話じゃない」赤尾はいった。「まずは事実を見つめることだ。動物は人間と同じように言語を持つか? 答えは明確にノーだろう。両者の言葉には明らかに質的な差異がある……」

「質的な差異?」

「いわゆる『シンボル変換』という機能だな。チンパンジーが口にするのはみな単純な常道の発露……要するに『鳴き声』でしかないんだよ。目の前の現象に対して喜怒哀楽を表現することはできるとしても、昨日の晩飯を論評することは叶わない。何らかの事物を単語で表すことも、またできない。彼らの言語は即時的な『反応』であって、時間や場所、外見といった様々な要素を飛び越えながら何かを『象徴』することがない……」

 ううむ、と神崎は口を閉ざした。

「なら結局、人間と動物を分けるのは『言葉』であるということに……」

「落ち着けよ。まだ話は終わっちゃいねぇ」赤尾はなおも言葉を続けた。「いいか、確かに人の『言葉』と動物の『鳴き声』との間には一見して質的な差異が認められる。だがな、ここで一つの疑念が浮上するんだ。つまり——」

 この差異はどこに起因するのか?

 赤尾が口にしたのは、曰くそのような問題であった。人間と動物との生活を見て、表面に現れるそれぞれの『言葉』に差異を見出すのは難しくない。前者の言葉には象徴的な機能があり、一方で後者はごく単純な『鳴き声』である。だが、なぜ?

「脳に、何か違いがあるからでしょう」

「どうかな」赤尾はにやりと唇を歪めた。学をひけらかすような話題になると、この男はにわかに生き生きとし始めるのだ。「両者の言語を『シンボル的変換』という観点で区別する——これはよしとしよう。しかしこの観察結果は、人間と動物とが『シンボル的変換』を行えるかどうか、という問いの答えにはならない」

 なんだか、話が複雑になってきた。

「ははぁ」

 と、神崎は曖昧に返事する。

「つまりだな、ハートの記号に『愛』を象徴させる認識上の能力と、それを言語に反映させる能力とは、まったく別物だって話なんだ。認識と言語。たとえばチンパンジーの言葉には『シンボル的変換』の機能が決定的に欠けている。連中はあくまで『鳴き声』を上げているだけなんだ。ただ自分の情動を音にしているだけなんだ。だが、その身振り手振りに着目すると……」

 話が違ってくるのだ、という。

 たとえばチンパンジーのある個体は、留守にしている飼い主のズボンを固く抱きかかえ孤独に耐える。ズボンと飼い主との間には何ら本質的な繋がりがない。ここに、原始的な象徴の機能——すなわち『シンボル的変換』を見出すことはごく容易であろう。

「ええっと、それじゃつまり」神崎は、濁流のように押し寄せる赤尾の言葉を咀嚼し、「言葉にならないだけで、チンパンジーの認識能力には人並みなものがある」そういうことでしょうか? と問うてみる。

「ま、『言葉にできるかどうか』に差があるのだ——なんて話にもできるがね。結局は『言語』というのも一つの分類で、分類である以上は『手抜き』で『不正確』な側面を持ってる。結局は『人間とは何か』を考える上で、『ほかの動物との違い』を考え出したら負けなんだ。冷静になって科学的に考えてみろよ、畢竟、人間もまた無数の動物の一員だろう? 動物と動物の間には違うところも同じところもあるだろうし、『違う』と思われた側面にだって色々な解釈の仕方がある。いくら理念の上で『違う』と主張してみたところで、厳密に考えれば考えるほど行き詰まるのは明らかなんだ。『人間と動物は違う』などと堂々と口にしている連中は、ただ漠然とした直感を根拠もなく主張しているだけのことで」

「なんだかよくわからない話ですね」少しばかり苛立っていた。また複雑な理屈を開陳して煙に巻こうというつもりなのだろう。しかし今の神崎の心に、付き合っている余裕などない。「それで、結論は何なんですか?」

「要するにね、問題は『人間とは何か』じゃない——『何を人間とするか』なんだ。人間と動物とを区分するのは、漠然とした『俺たちはみんな同じ種族であるような気がする』という実感と、『あの動物たちとは違う気がする』という直感だよ。いわゆる『常識』というやつだな。『人間』という単語はね、その曖昧模糊とした感覚をちょいと象徴させてみただけのものだ。つまりね、元より探すべき定義なぞどこにもりゃしないのさ。俺たちは『人間とは何か』を探るのではなく、『何を人間とするか』を議論する……ただ、それだけだ」わかっただろう? と彼はいう。「多数派の共有する『何となく』『気がする』によって生み出された『常識』など何のあてにもなりゃしない。お前のいう『法に従うのが人間だ』なんて信念にしても同じことだぜ」

「同じ……?」

 赤尾は、どこか哀れむような目でこちらを見た。

「簡単な話だ。たとえばお前、『法に従うな』って法律ができたらどうするんだよ」

「そんなのは言葉遊びでしょう! あなただって警察官ならこれくらいのことはわかるはずです。規律、規範、あるいは『秩序』といい換えてもいい。あるいは『社会』という言葉を用いたって構わない。理性を持って他人と共に生きていくこと、それが……」

「秩序にも理性にも、実体なんかありゃしない。何をもって『秩序』とするか、何を持って『理性』とするか、基準はいくらでも恣意的に定めることができるだろう? 個人的な殺人と法に基づく死刑との間に、形式以上の違いがあるか? ない! だが俺たちはそこに違いを『定義』している——殺人は無秩序で死刑は秩序だ、とね。そんなのはな、ただ『かくあるべし』という思想に基づいて誰かが定義する『何か』でしかないんだよ」

「………………そ、」

 そんなのは詭弁だ、と口にしかけやっとのことで思いとどまる。赤尾の理屈がどこでどう間違っているのか、指摘しようと試みれば試みるほど、自分の言葉の空虚さが露わになっていくような気がした。おかしい、これではいけない、自分の理想は……信念は……。

 ざあざあと、雨が降り続いている。

 無数の水滴が、フロントガラスをノックする。

 水だ。

 たくさんの水だ。

 アスファルトの道路を、降り注いだ雨水が川のように流れていく。

「悪かったな」不意に、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。「ちとばかし熱くなっちまった。別に、お前のトラウマを否定したいわけじゃない……」ただ、と彼はこうもいった。「最近、どことなく浮ついてるだろ。地に足が着いてない。どんなイデオロギーでも心から『真実』だと信じ込んじゃいけねぇ……それが『方便』だと知りながら、偽物だとわかりながら、その上で何か目的のために『あえて』信じることを選ぶんだ。そうやって、信念と現実とをうまくすりあわせていかねぇと……いつか、」

 ぷっつりと、そこで言葉が絶えた。

 いつか?

 いつか、どうなるというのだろう?

「僕は……」

 雨が降っている。

 たくさんの水がある。

 町を飲み込むほどたくさんの水だ。


 あの日、

 ——災害のカオスをこの目で見た。

 たくさんの悲鳴が、怒号のような水音に吸われて消えていった。

 避難場所に集まった人間と、肩を寄せ合って夜を過ごした。

 警察も行政もない中で、理性だけが拠り所だった。

 だから——

 法を守ることこそが、

 人間の条件だと思いたいのだ。


「お前の論点は、俺が思うに二つあるんだろう」

 車はいくつかの交差点を右に左に曲がって進んだ。

 住宅ばかりの地区が終わって、いつしか商業の明かりが見え始める。

 誘蛾灯めいたコンビニの明かりが、ゆったりと背後に流れていった。

「二つ、ですか?」

「第一に『人間とは何か』、そして第二に『人間であるべきか』。お前は前者に『法』という答えを示し、後者には『あるべきだ』と解答する。自分の答えを盲信できるならまだいいがな、疑い始めたら地獄だぜ。どちらも答えのない問題……というより、自分たちで好き勝手に『答えを決める』べき問題なのだ、とこういったほうが正しいんだろうな。だから考えても無駄……とまではいわんが、根を詰めすぎると心を病むぜ」

 そうかもしれない、と思う。

 だが、考えずにはいられないのだ。

 ……少年は檻の中で勃起していた。

 ……母は〈戸籍省〉で笑っていた。

 いったい何を思いながら?

「あなたのように」神崎は、自嘲気味に言葉を投げる。「答えなどない、なんて口にできたらきっとぶれないでいられるんでしょうね」

 自分には、とてもそのような態度はできない。なぜって過酷だ。『人間は何か』『人間であるべきか』、究極のところで両者に解答がないのであれば、いったい自分は何を信じればよいのだろう? どのような理想を胸にして、生きていけばよいのだろう?

 檻に閉じ込められても、畜生のように飼育され資源として扱われても、もはや人間としての尊厳一切を残らず失ってしまったとしても……それでも、不幸ではないというのか? そうあることが、果たして望まれるとでもいうのだろうか? あのような結末を迎えた者に、自分はいったいどのような言葉をかけたらよいのか?

 わからなかった。

 何も、わからなくなってしまった。

 ただ一つ確かなのは——赤尾のいうように『見つめる』べき事実があるとするのなら——きっと、『彼らが幸福に見えた』という一点だろう。

 勃起と、笑顔。

 それこそが唯一、気になって仕様がない問題なのだ。

「なあ、神崎」車窓から外を眺めながら、赤尾がいった。「ここで降ろしてくれ、あとは自分で歩いて帰るよ。エコノミー症候群にはなりたかないしな」それに、と冗談めかしていう。「運転手がボンヤリしてるんじゃ、なんだか不安で仕方がねえや」

 ブレーキを踏んだ。コンビニだのクリーニング屋だのといった商店の明かりが並ぶ中に、自動車はゆるりと停止した。

「最近、どうも寝不足なもので」助手席に向かって、神崎はいった。「すみません、ご心配おかけして」

 謝罪を口にした途端、どういうわけか泣きたくなった。あまりに不安定な精神に、我ながらつい呆れてしまう。

「気にするな、そういう時期は誰にでもある」赤尾は右手でドアを押し開け、もう一方の手で神崎に紙切れを差し出した。「肝要なのはまず、休息だよ。一ヶ月くらい南の島でバカンスでもしていろ」部長にも許可を取っている——と。

 受け取った。

 薄っぺらいコピー用紙に、『休職願』と記されていた。

「バカンスですか」

 悪くない考えだな、と彼は笑う。

 ここのところ、堆積する疲労もあってか妻との会話がずいぶん減った。

 バタン、とドアが閉められる。赤尾の姿が夜闇に紛れ、いつしかすっかり見えなくなる。神崎は一つため息をつき、くらり、とめまいに似た眠気の波に一瞬意識を失った。いけない、と自嘲する。せめて自宅の敷地内に駐車してから眠らなければ。せっかくの愛車が雨ざらしだ。帰ろう、アクセルを踏んで——

 おや? と首を捻る。

 アクセルペダルが見当たらない。

 ハンドルがない。

 ここは、運転席ではない。


「あなた、まだ寝ないの?」


 背後から声を掛けられた。よく知る女性の声だった。

「……あ、ああ」彼は目を瞬かせ、「もう寝るよ。歯を磨くから、先に寝室へ……」椅子から腰を上げた。いつの間に家へ帰り着いていたのだろう。自室である。机を見ると、『休職願』が無造作に置かれているのだった。

 部屋は目算十畳ほどで、彼一人が使うにはやや贅沢なほど広かった。大学の頃に励んだ楽器や筋トレ用の重たい器具が戸棚にぎっしり詰まっている。一つしかない本棚には、漫画やDVDが整理されていない様子で乱雑に放り込まれていた。天井に据えられた電球は先週の頭に切れたまま、面倒でまだ取り替えていない。室内はだから薄暗く、作業机に据えられたちっぽけなスタンドの淡い光が唯一の光源なのだった。

 壁にかかったカレンダーで今日の日付を確認する。

 ——九月十六日。

 あくびが出た。

 不明瞭な意識が、海原のように揺れている。

 それでも、きっと眠れないのだ。

 今晩も、勃起と笑顔が脳裏にちらついて離れないのだ。

 神崎は寝室に向かった。

 気がつくと、朝だった。

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