S/仮面の女

 ここ一週間ほど毎日のように、女を犯す夢を見た。

 自分だけではない、大勢の男が大勢の女を抱いている。

 そういう夢だ。


 暗くだだっ広い部屋の中で、無数の男女が交わっている。

 裸の人間が、汁をまき散らしながら周囲で盛んに蠢いている。


 みな一様に、布袋のような白い仮面を被っていた。

 素顔を隠し、誰が誰かもわからずに互いの身体をむさぼっていた。

 自分だけが、ありのまま顔をさらしている。

 それが、ひどく恥ずかしい。


 目の前には、二人の女が淫猥に股を開いている。

 見覚えのある身体だった。


 ああ、眠い。

 めまいに似たひどい眠気で、ぐらぐらと視界が揺れている。

 意識がぷっつりと途切れ、目覚め、また途切れた。

 朦朧とした脳みそには、

 自分が誰なのか、

 目の前の女たちが何者なのか、

 この射精が何度目なのかさえ、わからない。


 ——だが何にせよ、

 おそらく自分は、この女を抱くためにここにいるのだ。


 二人の女を代わる代わる犯した。

 暗い部屋に、

 無数の裸と白濁した精液だけが、

 辛うじて輪郭を保っている。


 ごうん、ごうん、ごうん、ごうん——


 不意に、天井から耳鳴りに似た鐘の音が聞こえる。

 くらり、と一層強いめまいがあって、


 やっと、

 今晩の夢が終わりを告げた。


   □□□


 起床時刻を報せる鐘が部屋の外から聞こえてくる。膀胱に響くような重い音色を耳にして、桜田は今日も目を覚ました。

 悪夢のせいだろう、脇だのふくらはぎだのが汗でベタベタと粘ついている。扉の内側に据えられた鏡は、いかにも不機嫌そうな彼の表情をそっくりそのまま映し返した。皺だらけの老人が、鏡面の中からじっと桜田を睨めつけている。

 ここへやって来て、もう何日になるだろう?

 施設の中にこもりっぱなしでは、今が昼か夜なのかさえ判然としない。部屋にも廊下にも窓はないし、天井に据えられた電灯も年中煌々と輝いている。外部から隔絶されて、どこか異界に閉じ込められでもしたかのような……そんな心持ちにさえなってくる。

 もっとも、案外と教団にしてみれば狙い通りなのかもわからなかった。なにもかも白色に塗りつぶされ、ろくに人通りもない空間にただ一人ぽつねんと暮らしていれば、信仰心を育む以外にすることなどなくなってくるのだ。

 桜田はベッドから腰を上げ、壁の中段にしつらえられた戸棚の中に手を差し入れた。支給された諸々の生活品が、乱雑に積み上げられている。歯ブラシだの儀式用のアクセサリーだのと一緒になって、文庫本ほどの大きさをした上製の日記帳が置いてあった。

 起床から朝食までの合間に昨日の夢を書き込むのが、ここへ来てからの習慣である。日記帳の表紙には、箔押しで小さく教団の正式名称が刻まれている。戸棚からボールペンを取り出して、彼はいつものように書き始めた。書き出しは昨日とも、一昨日とも変わらない。


 ——また、女を抱いた。


 ここへ来てから、どういうわけか同じ内容の夢ばかり見る。布袋のような仮面を被った二人の女を犯す夢だ。舞台は真っ暗い部屋の中で、周囲にはいつも裸の男女が蠢いている。誰も彼もが一様に仮面を被っていて、桜田ただ一人だけがありのままに顔をさらけ出している……それが……それが、恥ずかしくてたまらないのだ。

 なにもかもまるきり虚構の風景だとはとても思うことができなかった。女の肌といい、精液が管を抜ける感覚といい、記憶はあまりにも生々しく想起される。

 ひょっとすると——と、桜田は思う。自分は欲情しているのかもしれなかった。あの猫そっくりにしなやかな女を、もう長いこと抱いていない。

 だが、もう少しなのだ。

 もう少しで、取り戻せるに違いないのだ。

 彼はペンを置き、日記帳を戸棚に戻した。それから寝汗に湿った法衣を脱ぎ捨て、戸棚から新しい衣を取り出した。服を取り替えるだけで、気分はずいぶんと様変わりする。

 朝食までは、あと一時間ほどあるはずだった。

 扉を開けて、人通りのない真っ白な回廊を、浴場へ向かって歩き始める。パタパタと頼りない足音が、だだっ広い空間にどこか寂しく響き渡った。円い建物の外縁に沿ってしばらく進み、やがて現れた階段をゆっくりと下へ降りていく。建物の地下には、運動場や大浴場、談話室など主たる娯楽用の空間がひとまとめに設けられているのだった。無論、禁欲的な信徒の中にそれらを利用する者はほとんどなく、ただ閑散とたたずんでいるばかりなのだが。

 階層を一つ、また一つと降りていくたびに、フロアの中心に据えられた黄金の釣り鐘が見え隠れする。表面には教祖の姿が浮き彫りになって、電灯の明かりを派手派手しく反射していた。滞在を始めて数日の間に、何度か近づいて触れてみたものの、あれが本当に黄金なのかそれとも単なるメッキであるのか……実際のところはよくわからない。

 やがて、地下にたどり着いた。最上層と類似して、居住用のフロアとはやや異なる構造をしている。黄金の鐘を中心にして直線の通路が十字を描き、ほかのフロアでは三重になっていた回廊がここでは外縁にただ一つある。つまりケーキを四等分したような扇形の部屋が、互いに少しずつ間隔を開けて四つ配置されているのだ。

 一つは大浴場。

 一つは談話室。

 一つは運動場。

 そしてもう一つは、立ち入り禁止の札が掛けられ中を見ることが叶わない。大方、倉庫か何かであるのだろう。

 疲労に震える両膝を抑え、桜田はゆっくりと浴場へ向かった。この施設はやけに巨大な作りをしながら、エレベーターだのエスカレーターだのといった移動を補助するために設備が非常識なほどに欠けている。階段には手すりさえない。最上層で毎日三度開かれる食事の風景を見る限り、足の悪そうな老人も少なからずいるようであるのに。

 廊下を出歩く人がないのは、こういう理由もあるのかもしれない。あまりにも不便なのだ。日がな一日部屋にこもって座禅でも組んでいるのなら、確かに風呂など多く入る必要はない。桜田自身、こうも悪夢ばかり見てひどい寝汗を掻くのでもなければ、とうの昔に同じような生活態度へ落ち着いていたに違いなかった。

 大浴場への入り口は、扇形の弧の部分に二つ設けられている。片側は青く、もう片側は目の覚めるような鮮やかな赤をした横開きの木戸だった。

 桜田は鼻歌を口にしながら、青いほうの取っ手を握る。

 湯は、白濁した天然の温泉水である。


 ——白。

 思えば、ここでは何もかもが白い。

 清潔な、純粋な『白』をしている。


 汗と垢にまみれているのは、きっと桜田ただ一人だった。

 それが、我慢ならない。

 自分だけが醜く卑しい姿であるなど、とても自尊心が許さなかった。

 だから——

 彼は半ば偏執的に、タオルで自分の身体を擦る。汗を拭い、垢を削り、しわくちゃでたるんだ下腹をガリガリとかきむしるように洗うのである。

 拍子に爪で引っ掻いたのか、

 元は白かったはずのタオルが、赤黒くまだらに汚れていた。


   □□□


「夢、ですか?」村井は怪訝そうに首を傾げる。「不眠症というわけではないのですね?」

「さて、どうでしょうね」桜田はぽりぽりと頭を掻いた。「夜中に目が覚めることはありませんし、ベッドへ横になればすぐに眠れはするんですが。しかしどうも寝起きがよくない……疲れが取れないし、なんだか毎朝腰が痛い。寝具が合わないのか、こうも慢性的だとちょいと困りものですね」

 カウンセラー・ルームは最上階の一つ下、釣り鐘のすぐそばに位置している。居住用の部屋と比べておよそ五倍もの面積があり、そのだだっ広い空間にベッドが一つ、カルテをしまう戸棚が一つ、そして患者と村井が座るための安っぽいパイプ椅子がただ二つあった。青みがかったLEDが純白の壁を照らしている。

「いったい」と、村井は尋ねながらカルテに何やら書き込んでいく。「どういう夢をごらんになるのです?」

「ははあ、それが……」どういったものか、と思案する。内容が内容であるだけに、そのまま伝えては互いにいい気分ではいられまい。「何というか……人肌恋しい、というのか……そのう、女と抱き合うような夢で……」

「そうですか」村井は口元に微笑を浮かべた。「ここでは、あまり人とお会いになれないでしょうからね。初めて滞在なさる方は、よく『寂しい』と嘆かれるのです」それから妙に鋭い目をして、「誰か、お会いになりたい人がいらっしゃるのでは?」とこう問いかける。

 どきり、とした。

 心の内を見透かされているような、居心地の悪い感覚があった。

「なぜ、でしょうか?」

「ふふふ」村井は悪戯っぽく微笑んで「ただの勘ですよ」とこう答えた。

 ——誰か、お会いになりたい人がいらっしゃるのでは?

 桜田は問いを咀嚼して、逡巡ののちやっと「まあ、実はいることにはいるのです」と歯切れ悪く口にする。「妻と娘が、家を出て行ったきりなかなか戻ってこないもので」

「……そう、でしたか」村井は悲痛な顔をした。「お二人のお名前は、なんと?」

 反射的に本名を口にしかけ、慌てて適当な偽名をでっち上げる。デスクの名を騙っている以上、あとから足が着かないように細心の注意を払わなければ——最上階での食事を除けばちっとも人と顔を合わせることがないせいで、どうしても緊張感が抜け落ちてしまう。

「母娘そろって生意気な話ですよ、まったく」

 猫のようにしなやかで奔放な妻の姿を、桜田はふと想起した。愉快げにゴロゴロと喉を鳴らし、気が向けば彼にすり寄ってくる。不機嫌なときはもっぱら部屋の隅で寝転びながら、酒だの菓子だのをポリポリと気ままにかじるのだった。家事などまるでしない週があったと思えば、不意に豪勢なフランス料理をひと月もこしらえ続けたりする。ある朝桜田が目を覚ますと、海外旅行に行ってくる旨が置き手紙に遺されていて、半年近くもそれきり音沙汰がないこともあった。さすがに娘ができてからいくらか落ち着きを見せはしたものの、家事の具合が不安定なのはやはり相も変わらない。

 ——やれやれ、仕方あるまい。

 そんなことがあるたびに、彼はため息をついて受け入れた。奔放な女に寛容な態度で付き合うことは、桜田の自尊心を何よりも充足させたのである。自分は誰よりもこの女のよき夫であり、道徳的優位に立つ人間であるのだ、と。

 だが、

 だがどういうわけか、あの女は不意に彼を捨てたのだった。

「娘さんのご年齢は……?」

「今年でもう二十になります。いやはや、出来の悪い娘でしたよ……」

 物心がついたときから、娘はなぜか桜田を嫌った。思えばすでにその頃から、母に何かを吹き込まれていたのかもわからない。自分勝手に振る舞い続けるあの女をこそ軽蔑して然るべきだろうに——不条理にも桜田にばかり反目して、挙げ句の果てには断りもなく男を作った。ひどい裏切りだ、と彼は思う。娘が発情する前に去勢でもしておくべきだったのか——と、今さらながら過去を悔いた。

「奥様が出奔されたことに関して」カルテに何かを書き込みながら、村井はまた問いを発する。「理由に、心当たりはおありですか?」

「あったとしても理屈じゃない、不条理な何かに違いないでしょうよ。これでも、妻の欠陥にはずいぶん目をつむって受け入れてやって来たつもりです」

 あの日、会社から帰ると家が暗く寒々しかった。また旅行にでも行ったのか、などとため息をつきながらリビングへ向かい、いつものように置き手紙を見る。妙な胸騒ぎがした。いつもはチラシの裏などにボールペンで書き散らかされているはずのものが、今回ばかりは便せんである。異様だった。


 ——あなたは、わたしたち母娘をペットのようにしか考えていない。


 だから嫌気が差したのだという。

 だからこの家を出るのだという。

 ひどい侮辱だった。東京の新聞社に五十年近く勤め上げ、妻と子の生活を常に支え、家族の我が儘を寛容に受け入れた『よき夫』が、どうして捨てられねばならないのか。『嫌気が差す』のはこちらの台詞で、向こうからいわれる筋合いはない。許せなかった。内心をひどく傷つけられた気がした。


 ——あなたは、一度だってわたしたちを同じ人間として見ていなかった。


 当たり前だ、と思う。あれだけ利己的に振る舞う女が自分と同じ立場だなどと、いったいどうして思えるだろう? そんな人間の腹から生まれた娘にしたって同じことだ。一家を支える父を差し置き、まるで娼婦のように母にばかりすり寄るのである。

 猫には首輪をつけねばならない。

 いくら自由気ままに振る舞うとしても、人間の所有する畜生である以上はその『しるし』がなければならない。猫の奔放な振る舞いは、あくまでも飼い主に許された範囲でなければならない。家の柱で爪を研いだり、勝手によそへ出て子を作ったり……そんな勝手があってはならない。自分は女の自由を許し生きていく糧を与えるのだから、女の側も従順さによってそれに応えなければならないのである——それこそ婚姻の誓いが語るように、『病めるときも健やかなるときも』永遠に。

 少なくとも桜田家においては、これがあるべき愛の形だ。

「今、お二人はどちらにいらっしゃるのでしょう?」

 村井の問いかけに、彼は「さて、どこでしょうね」と明後日を向いた。「わからないのです、これっぽっちも。妻の実家でもないようですし、交友関係を当たってもまるで手がかりはないようで……この頃は、もう探すのを半ば諦めているんです」

 嘘だった。

 諦めてなどいるはずがなかった。


 妻と娘は——美代子と明子は、

 この施設のどこかに、間違いなくいる。


 そう確信しているから、彼はわざわざ休みなど取ってここまで歩いてきたのである。自宅の本棚に挟まっていた教団関連の書籍類や、娘の部屋にあるパソコンの履歴が『ニルワヤ』一色に染まっていたこと、あるいは妻の友人にその手の信者が数名あること——細々とした符号すべてが〈なかよしセンター〉を暗示していた。

「無事、再開できることを願っています」本心なのだかそうでないのか、微妙な表情で村井はいった。「心労がなくならないことには悪夢も消えてはくれないでしょうけれど、眠りの浅さには何か薬を……」

 やはり——と桜田は自問した。

 自分は妻に欲情しているのだろうか?

 あの女に触れることができないで、ひどい心労を抱えているのか?

 下品な悪夢を見るほどまでに美代子を欲しているというのか——?

 それは、とんでもない侮辱に思えた。

 考えれば考えるほど、苛立ちが湧いてたまらなかった。

 処方をみなまで聞くことなく、桜田は椅子から立ち上がって金属製の取っ手を握る。なんだか、村井に同情されているような気がしてならなかった。それはまた、彼を傷つける一つの要因となりうるのだった。

「夕食まで」と、振り返って口にする。「しばらく休むことにしますよ。少しでも疲れが取れるように。……ついでに瞑想でもして『ニルワヤ』を目指してみましょうかね」

「よい心がけだと思いますよ。この施設の意義はみなさんがそれぞれに、けれど一体感を持って信仰に励める点にあります。せっかくの体験入信ですから、一番大切なところをしっかり経験していってください」

 薬はあとで部屋の前に置いておきます——村井は締めくくり、カルテをしまった。

 廊下に出て、後ろ手にカウンセラー・ルームの扉を締める。フロアの中心部がすぐそこに見えた。黄金色をした巨大な鐘が、時刻を報せるそのときを今か今かと待ち構えている。

「一番大切なところ、か」

 村井の言葉を反芻した。

 確かに、彼女のいうとおりだろう。〈なかよしセンター〉が果たす意義には、信徒の信仰心を確認し補強し『宗教集団』としての結束を強めるという極めて現実的なものに加えて、もう一つより重要なものが考えられた。すなわち、教義を擬似的に体現するという宗教的な本義である。

 同じ鐘の音を聞き、同じ食事を口にし、同じ法衣を身につけ、同じ境地に思いを馳せる……個人的なもの一切を排除した平坦で平静な白い空間は、あらゆるものを包括するただ一つの主語『ニルワヤ』を象徴しているのだろう。個人的な苦悩というものがここにはまるで見当たらない。外界での人生も階級も、〈なかよしセンター〉では一切の意味を持ち得ない。

 そうだ。

 この施設へやって来てから、村井を除けば『他者』というものを見たことがない。ここで人は極端に孤独だ。しかし最上階での食事を思えば、ずらりと並ぶ扉の向こうに、自分と同じような格好をして同じような生活を送る無数の人間がひしめいているだろうことは想像に難くない。ただ一人でありながら同時にあらゆる他者と同化してもいる……ここに、『ニルワヤ』の片鱗を見ることができよう。

 桜田はそんなことを考えながら、フロアの中心部と近づいていった。電灯に照らされた釣り鐘が、じっとこちらを見下ろしている。彫刻の施された黄金の鋳物は一本の鎖で天井に固定されている。桜田から見て反対側には、やはり黄金色をした撞木がワイヤーで吊り下げられていた。どうやら定められた時刻になると、天井裏のウィンチか何かがこれを動かす仕掛けらしい。装飾の趣味は洋風であるが、構造としては伝統的な和鐘である。

 そういえば、最上層の釣り鐘には果たして撞木があったろうか? あまりの大きさに目がくらんで、細部の記憶が定かではなかった。目の前のこれとは比べものにならない巨体であるから、鳴らすには相応の労力が必要だろう。となれば、あの鐘は実用というよりも装飾の意味合いが大きい気がした。

 やがて——

 ぐらり、と撞木が傾いた。

 天井裏で、カリカリとワイヤーを巻く音がした。

 黄金の鐘叩きは勢いよく後ろへ下がり——


 鼓膜が、弾ける。

 音というより『振動』と表現した方が適切だろう。

 ぐわんぐわん、と鐘を思わせる反響に、金属の擦れる甲高い音や何かが崩れる破壊音などが渾然一体となって、脳を揺さぶる。頭蓋の骨が微かに軋んだ。心なしか天井がたわんで、建材が悲鳴を上げている。

 ここへ来てから一度も耳にしたことのない、異様な音だ。

 少し遅れて、目の前の鐘が『ごうん』と弱々しく打ち鳴らされた。

「何が——」

 いったい、何が起きたというのだろう。

 眼前の釣り鐘ではない、頭上から響き今も余韻を残すこの音は——

 考えるまでもなかった。最上層に配置された二つの巨大な釣り鐘のほかに、このような衝撃を生み出せるはずがない。それも、今までにない異音である。


 ——ああ、とうとうやってしまったのですね。


 残響で震える桜田の耳に、背後からそのような声が聞こえた。

 振り返ると、カウンセラー・ルームの扉から村井が顔を覗かせている。不安げ……というよりもどこか悲しげな顔をして、じっと天井を見上げていた。

「あの、これはいったい?」

 どういうことなのでしょうか——などと問いかける間もなく、彼女は桜田の視線に気がついた様子で慌て部屋へと引っ込んでしまった。カチリ、と即座に錠が下ろされる。村井の様子は『拒絶』というより、どこか『逃避』を思わせた。

 残響はなおも天井を揺らし、隅に貼り付いていた蜘蛛の巣だとか剥離した塗料だとかをパラパラと桜田の頭上に落とす。数秒か数十秒かが経過した頃、ようやく建材の軋みが収まり始めた。鼓膜が落ち着きを取り戻す。桜田は一つ深呼吸する。目の前の鐘がまた『ごうん』と鳴って、いつものように時を報せた。

 静寂が戻る。

 一呼吸遅れて、フロア中にずらりと並んだ無数の扉の内側から、困惑の声が微かに聞こえた。やはりここの住人にとっても、これは異常事態であるらしい。それでも戸から出る者はなく、廊下を見回せば相も変わらずまっさらな白い空間なのだが——

 しかし、何となく安心した。

 ここ数日の孤独感が、いくらか薄らぐような気がした。

 たとえこの目で見なくとも、扉の向こうでは大勢の人間が息をしている。悪夢のせいで消沈していた心持ちが、そう考えるだけでいくらかマシになったのである。

 さて、どうしようか——と、桜田はしばし黙考する。

 カウンセラー・ルームの扉を叩いて、村井の発言を問いただすか。それとも最上層へ上がっていって、事の次第を目の当たりにするか。あるいはこのまま部屋へ戻って、面倒に関わらぬよう眠っているか……。

 答えは決まっている。

 老体にむち打って、彼はせかせかと歩き始めた。ほかにも野次馬があっていいようなものを、しかし階段を上るのは桜田ただ一人である。非常事態には各自部屋にこもっていること——と、そのような決まりがあるのかもしれない。

「何か——」最上階にたどり着くと、呼吸を整え汗を拭い、「何かありましたか?」と大声で問う。色とりどりの渦巻きが壁にびっしりと描かれていた。半月型の大部屋が弦を合わせるように配置され、食事などにいつも集うのが左側である。右は——確か、教祖が祈祷に用いるのだったか。そちらに関して、彼は今まで一度も覗いたことがない。一般の信徒は基本的に立ち入り禁止だというのである。体験入信中の身であれば、なおさらだった。

 よい口実かもしれない、という考えが脳裏をよぎる。

 何事かと心配になってつい覗いてしまったのだ——と、誰かに見とがめられたらこう言い訳をすればよい。一度機会を逃したら、もう二度とこの部屋を覗くことはないだろう。単純な好奇心の誘惑もあったし、何なら妻子の居場所に関してヒントがないとも限らないのだ。できることは、できるうちに迷わずやっておくべきであろう。

 扉を押し開く。

 埃っぽい空気が、むっと鼻を包み込む。

「何をしている!」部屋の中から悲鳴に似た叫びが聞こえた。灰色の法衣を着た齢八十ほどの老人が数名、困惑と焦燥の入り交じった顔でこちらを見ている。「一般の信徒は立ち入り禁止と、あれほど」

 桜田は、構わず足を踏みいれた。

 警告に耳を傾けている余裕などなかった。そんなものよりはるかに重大な光景が、すぐ目の前に広がっている。半月型の部屋、黄金色をした巨大な鐘、壁面に描かれた色彩の渦……それら一つ一つの要素を挙げれば、食事に集うもう一方の部屋とさして変わるところはない。隣室との相違をただ一つ挙げるとするならば、地面に描かれた三重の輪とその中心点から放射状に記された線——ちょうど下層の見取り図に似ている——が、どこか西洋魔術の魔法円を連想させるくらいなものだ。

 だが、

 だがそんなものはどうでもよかった。

「いったい、これは……」桜田はうめく。「どうしたのですか、鐘が、鐘が、」

 ——鐘が落ちているではないか。

 吊り下げられているはずの黄金の鋳物が、魔法円の中心部でまっすぐに床へめり込んでいるのだ。吊していたはずの太い鎖が宙でゆらゆらと揺れていた。落下の衝撃によるものか、鐘は彫刻共々大きくその形状を歪ませている。

 灰色の法衣を着た数名は、落下地点を遠巻きにしたまま「帰りなさい」と桜田にいった。「部屋に戻っていなさい。これは事故です、余計なことは考えないように……」

「事故……」呆然と目の前の光景を見つめた。「そうだ……教祖様は……?」

「余計なことは考えるなと、」

 いっているだろうが、などと口にするつもりだったのだろう。

 その言葉を遮って、


 ——うぉぉぉぉぉぉぉぉん。


 また怪音が聞こえてきた。先ほどのそれとは質の異なる、哀号に似た低い音色だ。胸の内側を抉るような、かすれしわがれたいやな声……。

「もしや、誰かが……」桜田はぎょっと目を見開いた。「教祖様が、中にいらっしゃるのですか……? 鐘の中に、閉じ込められていらっしゃるのですか!?」

「黙れ!」灰色の法衣が、ゆらりと揺れた。「部屋に戻りなさい。何度いえばわかるのだ。部屋へ戻れ、黙って眠れ、余計なことは考えるな!」


 ——うぉぉぉぉぉぉぉぉん。


 哀号が反響し、残響し、幾重にも重なって部屋に響いた。ただ一人の声ではない。十や二十という無数の叫びが鐘の中から聞こえてくるのだ。

「いったい、いったい、」

 落下した鐘の内側に、いったい何人が閉じ込められているのだろう?

 恐ろしい事故だ、と桜田は思った。

 それからふと、

 ——本当に、事故なのだろうか?

 妙な考えが頭をよぎる。

 彼は落下した鐘に目を凝らした。そういえば、天井から垂れ下がった鎖の先端——鐘本体と接触していたはずの部分——には、何やら黒いものが付着しているように見える。経年の劣化や金属疲労によるものというより、

 ——爆薬? あるいは酸性の薬物?

 確証はなかった。

 だが、疑念は芽生えた。

 鐘の中からは相も変わらず、悲痛な声が響いている。

「帰れ! 帰れといっている——————!」

 灰色の衣が一つひるがえり、老人とは思えぬ速度で桜田の眼前に迫り来た。

 速い。

 あの階段を毎日のように上り下りしていると、鍛えられた足腰はこれほどまで俊敏になるのか——などと彼は益体もないことを考えながら、

「あ、」

 老人の拳を頬に感じた。

 桜田を自分より若いと見て取っての暴行か、容赦がない。

 即座に意識が、飛んだ。

 プツリ、と記憶がここで途絶えた。


   □□□


 また、例の夢である。

 歪曲した壁に囲まれながら、数千数百という男女の組が交わっていた。

 暗闇の中で、それだけの人間があえぎながら蠢いているのだ。一つ一つはごく平凡な生殖であっても、ここまで集まればどことなく異様さを帯びてくる。もはやまっとうな光景ではない。子を成すという行為に付されるべき神聖さ、尊さ、そういったものがまるで見当たらないのである。

 ——これでは、畜生と同じではないか。

 ぽつり、と口先に呟いたとき、不意にいやな記憶が蘇った。

 そうだ! そうなのだ!

 そっくりなのだ!

 以前に、桜田はよく似た風景を見たことがあった。

 ——崩壊した、多頭飼育だ。

 押し入れの中で飼っていた猫たちが勝手に繁殖し子を成していく……子猫同士が交配し、親と子同士さえ交配し、もはや誰が誰の子かもわからぬ状態で異常繁殖が繰り返される……押し入れいっぱいにまで増えた猫はやがて飢餓から共食いに走り、垂れ流された糞尿は腐臭と病とを引き起こす……。

 大学時代の話だった。

 道ばたで拾った数匹の子猫を、去勢もせずに飼い始めたのがきっかけである。餌やりの自動装置を据え付けて数週間ほど呑気に旅行へ出かけた間に、家中が半ば地獄と変わっていた。見渡す限りの猫と死肉、そして骨。ごく狭い血縁の中で相姦を繰り返した猫たちは、みなどこかしらに奇形や不倶を抱えていた。目がない、片足が極端に小さい、口が三つある、背骨がジグザグに曲がっている……。


 猫が鳴いた。

 猫が叫んだ。

 猫が呼んだ。


 帰宅し惨状を目の当たりにした桜田は、そのまま家を飛び出して——

 町を三十分ほどぶらついたあと、深呼吸して、もう一度我が家の戸を開けた。

 変わらず、そこには地獄がある。

 吐き気をこらえつつ框を越える。

 足の裏に、べたりと湿っぽい感触があった。

 いやな予感がした。


 ——みゃお。


 猫が泣いている。


 桜田は、

 死んだも生きたもみなひとまとめに、

 箱に詰めて川へと流した。

 ……そういう、古い記憶である。


   □□□


 問題は、鐘の中に閉じ込められたのが誰なのか、という点だろう。

 丸一日寝込んだ末、翌朝にカウンセラー・ルームのベッドで目を覚ました桜田は、真っ先に村井を問い詰めた。何が起きたのか。だが彼女は、もっぱら『さぁ……?』ととぼけるばかりでちっとも回答をよこさない。桜田は苛立っていた。あれだけの事件があって、その上思わせぶりなことを口走って置いて、知らぬ存ぜぬで納得するほどもうろくしてはいないつもりである。

 朝食の場でも、どこか欠けている席がないものかとジロジロ周囲を睨み回した。無論そのような痕跡は——ただ一つ、教祖の不在を除いて——見当たらなかったわけなのだが。

 不可解である。

 事故が起こった右の部屋は教祖が祈祷する場所だというのだから、金色の法衣を身につけた彼が鐘の下にいただろうことは容易に了解することができる。教祖が朝食の場にいない点で筋が違っているわけではない。また事故に関しての発表が桜田の知る限り皆無であるのも、余計な混乱を避けるためだとポジティブに捉えられないことはなかった。

 しかし、教祖以外はどうなのだろう?

 あの幾重にも連なった哀号は、とても人間一人の声ではない。十数か、どんなに少なくても五、六人は中に閉じ込められていないと道理が合わない。

 だというのに——

 朝食の席でいくら目を凝らしてみても、欠員があるようには見えないのだった。

「お食べにならないのですか?」桜田の膳を横から覗いて、白々しく村井が尋ねた。「丸一日眠りっぱなしだったのですから、栄養を取らないと倒れてしまいますよ」

「眠りっぱなし、ですって?」彼はわざとらしく腫れた右頬を撫でながら、「ありゃ睡眠じゃなく気絶でしょう、おたくの幹部に殴られたんですからね!」などと語気を荒げる。「大して身体の強くない六十も後半の老体なんですから、もう少し丁寧に追い出してもらいたいものでしたよ」だいたい、と声を落としながらなおも続けた。「どうしたってあれを隠し立てするんです? 教祖が出てこないのを、怪しんでいない信徒なんて一人もいるはずがありませんよ。さっさと鐘をどけて助け出さないと……」

 ああそういうことですか、と村井は小さく微笑んだ。「無理ですよ、そんなこと。あれだけ大きな鐘ですから、人間の力じゃとてもどけることはできませんし……建物の中まで重機を持ち込むわけにもいきません。レーザーか何かで地道に切断する以外やりようなんてないでしょう。あの鐘はずいぶん頑丈にこしらえてあるそうですから……教祖様が姿を現されるまで、きっと一週間はかかるでしょうね」

「そんな、」

 バカなことがあってたまるか、と桜田は叫びそうになる。

 一週間も待っていたら、水だの食料だのという前にまず空気が尽きてしまう。いくら巨大とはいえあの鐘は、地面にめり込んでいるせいでほとんど密閉状態なのだ。

「もっとも、肝心のレーザー機器がこの施設にはありません」平然とした面持ちで、彼女はいった。「警察の方に用意してもらうほかないでしょう」

「では、さっさと通報を……」

「手続きが要るのです」きっぱりといい放つ。「幹部の印鑑が集まらないことには、そういった決定はできません。ですから通報まで、最低で三日はかかります」

 目の前の女は、自分が何を口にしているのか自覚しているのだろうか?

「あなたは——」

 教祖が死ぬのを、見過ごすつもりでいるというのか。それだけではない。宗教者ただ一人が死ぬのであれば殉教と考えられぬこともない。だがあの鐘の中には、他に何人もの人間が閉じ込められているのである。

「バカなことをいわないでください!」彼女は不愉快そうに顔をしかめた。初めて見る表情だった。「あんなのは、あんなのは……」


 ——人間じゃありません。


 人間ではない?

 明らかに聞こえるあの声が、人間ではない?

 では、

 いったいあの哀号は何だというのだ。


 亡霊——という言葉が脳裏に浮かんだ。

 彼は慌てて首を振り、その不吉な考えを追い出そうと試みる。

 くだらぬ迷信に付き合っている暇はない。

 桜田は朝食を早々に終えて、ただ一人大部屋を飛び出した。無人の回廊が昨日と何一つ変わらぬ様子で、二つの半月を囲っている。色とりどりの渦巻き模様が、やはり壁いっぱいに騒々しく描かれていた。

 ただ唯一、以前と決定的に違っているのは、右の部屋——今もなお巨大な鐘が床にめり込んでいる件の部屋——が封鎖されていることだった。扉の四方に釘が打たれ、もう二度と開けるつもりがない、とでもいうかのような対応である。納得がいかない。自分らが担ぎ上げている教祖の命がこうも差し迫って危ないというのに、なぜこれほどまでに冷淡なのか。扉に耳を押しつけると、向こうから微かに——以前よりずいぶん弱々しくはなっているものの——やはり悲痛なうめきが聞こえた。

 ああ、と彼はため息をつく。

 ここで暮らしている連中は、きっと気が狂っているのだ。なにもかも白く染まった空間で、他人と言葉を交わすことなく生活しているせいだろう。だからこのように、まっとうで人間らしい対応を欠いているに違いない。

 そうだ。

 汚れているのは、自分ではない。

 歪んでいるのは、自分ではない。

 白色に囲われ、ただ己ばかりが汚れているような錯覚をしたが——違った。間違っているのはなにもかも、ここに住まう連中のほうなのである。

 もはや勝手に警察を呼ぶ気にもなれなかった。一刻も早く施設を飛び出し、見知った我が家に、あるいはまた、あの気に食わないデスクの元へと帰ってしまいたい心持ちになった。そもそも、このようなわけのわからない宗教団体と関わったのがいけなかった。妻子を発見できなかったのが多少手痛くはあるものの、畢竟、代わりの若い女など探せばいくらでもいるだろう。老い先を楽しむ程度なら、家族などに拘うより、金をばらまき女遊びに傾いたほうがいくぶんやりやすいかもわからない。

 気が楽になった。今まで感じていた心労が、陰鬱な事故のおかげでかえって跡形もなく引き飛んでしまった。

 いくらか軽い足取りで彼は扉に背を向ける。風呂に入ろう、と思った。今日ばかりは、さほど念入りに身体を洗わなくてもいいような気がする。ただ湯船にのんびりと浸かって、悪夢がもたらした疲労感を残らず拭い去ってしまいたい。

 体験入信は、残るところ二日である。

 気分はいつになく爽快だ。

 だが、

 だがどうしてだろう——

 桜田はその日の夜も、あのいやな夢を見たのだった。


   □□□


 翌日、鐘の中から声が聞こえなくなった。

 教祖共々、閉じ込められた人間はみな酸欠で死んだらしい。

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