T/結局、ニルワヤとは何なのか

 寝室で眠りこけている妻を置いて、一人自家用車のハンドルを握る。毎月この日は、署へ向かう前にちょっとした用事を済ませていくのが自分で決めた習慣だった。ほんのりと空が明らみ始めた頃合いで、本格的な灼熱の時間はまだ当分先である。やがて訪れるだろう蒸し暑い昼に思いを馳せると、早くも出勤が憂鬱になった。

 とはいえ、夏はじき終わる。

 このところようやく、日の出が目に見えて遅くなり始めているのだった。

 薄ぼんやりとした紫色の空の下には、覚醒前の町並みが無気力な様子でたたずんでいる。道路には車も人の姿もない。ただ神崎一人だけが、騒々しいエンジン音を閑静な風景に響かせていた。

 昨日に散々町を濡らした雨は、もうどこにもその気配を残していない。

 神崎はぐい、とアクセルを踏む。

 はるか遠く——立ち並ぶ高層ビルの一柱に〈戸籍省〉のシンボルを見つけた。壁面に描かれたその図案は、人間の脳を模した球にちょうど天使の輪のごとく『歯車』がひっついたという珍妙なものだ。誰のものかもわからないあの巨大な脳みそは、件の憲法改正以来ずっとあの場所に鎮座している。町を睥睨するような〈戸籍省〉のビルディングが——その威容が——神崎はどうしても好きになれない。

 道順は適当で構わなかった。どこをどう走ろうと、前方にあの図案を睨んでいれば、自ずと目的地に近づいていく。なんだかよくわからない交差点を折れ、なんだかよくわからないトンネルを抜けて、なんだかよくわからない駐車場に車を駐めた。すぐ目の前に、〈戸籍省〉と記されたビルがすぅっと空高く伸びている。入り口にはガラス張りの自動ドアが設けられ、三人の警備員がじっと空を見つめて突っ立っていた。

 これで地方支分部局だというのだから、本庁の建築はよほどのものに違いない——と、神崎は半ば呆れつつ思う。警視庁にもこのくらい豪勢な予算が降りれば、どれだけ仕事が楽になるだろう?

 自動車を降りて、鼻歌を歌いながらのんびりとビルの入り口に向かう。憂鬱だった。陽気な音楽を口ずさめば口ずさむほど、かえって気分が落ち込んでいく。それでもまだ、昨日の雨が続いていないだけずいぶんとマシなのかもわからない。溢れ出るため息を飲み込んで、彼はガラス張りの扉をくぐった。

 まず目に入るのは、大理石をふんだんに用いた灰褐色の風景である。直角と直線で構成された、簡素で上品な設計だった。入ってすぐ目の前に職員用のゲートがあって、虹彩認証を済まさなければそれ以上先へは進めない。神崎はゲートの脇にあるこぢんまりとした外来受付へ足を向けた。

「どういったご用件でしょうか?」

 三十かそこらの痩せこけた男が、受付カウンターからにこやかに迎える。

「面会です、申し込みは済ませてありますが」身分証をいくつか取り出し、カウンターにばらまいた。「神崎といいます」

「ありがとうございます。ご予約の確認が取れました」カウンターの向こう側で何やら機械を操作しながら、男はにっこりと笑顔を崩すことなくいった。「四〇八号室で面会の準備が整っています。どうぞ、」

 ——どうごごゆっくり。

 最後の一言を耳にして、神崎はまた一層憂鬱になった。ごゆっくりも何も、面会時間の上限をたった十五分に定めているのは〈戸籍省〉のほうではないか——と。

 とはいえ、受付相手に文句をいっても仕方がない。

 ゲート脇に設けられた外来客用の通路を抜けて、神崎はエレベーター・ホールへ向かっていった。指示されたのは四階の四〇八号室である。朝早いこともあってか、人の姿はほとんど見えない。夜勤明けの職員がくたびれた様子でふらふらと時折うろついているくらいなものだった。彼らは白衣を着ていたり青色の作業服を身につけていたり、統一された格好をしているわけではないものの、ただ一つ『臭い』という特徴を共有していた。

 獣の臭いである。

 すれ違うたび、鼻をつく臭気で思い切り顔をしかめたくなる。

 神崎が実際にそうしなかったのは、ただ『失礼であろう』という常識と、その『獣臭さ』が決して他人事でなかった——という点に尽きるのだった。自分の母親『だった』ものが同様にそのような臭いをまとっていても、何ら不自然ではないのだから。

 エレベーターが上昇する。二十人は入れるだろうだだっ広い箱の中で、神崎は一人ぽつねんと立ち上昇の負荷を内臓に感じた。カチン、と硬質なベルが鳴り響き目的の階への到着を報せる。扉が開いた。大理石に囲われた灰褐色の廊下が見えた。両脇にずらりと並んだ扉には、金色の塗料で番号が刻印されている。

 彼は深呼吸して——四〇八号室の扉を開けた。

 瞬間、室内に置かれたスピーカーからひび割れた自動音声が騒がしく流れた。

 曰く——


 長時間の面会は業務に支障をきたすすため、十五分までとなります。

 制限時間の計測は扉が開いた瞬間から始めさせていただきます。

 面会の様子は監視カメラで録画・録音させていただく決まりです。

 録画・録音されたデータは警察等に提供される場合があります。

 面会中に反社会的な行動があった場合は即座に退出処分となります。


 そしてお決まりの締め台詞——『どうぞごゆっくり』。バカにしているのだろうか、と神崎はいい加減にいらついていた。無論、自動音声に反論したところで何にもならないのは分かりきった話であるが。

 彼は部屋に足を踏みいれ、後ろ手にそっと扉を閉めた。大理石に囲われていた灰褐色の廊下とは異なり、室内には弾力性のある白色のタイルがびっしりと張り詰められている。感触だけで比べるのなら、マシュマロなどに似ていた。壁を殴っても蹴ったとしても、やんわりと押し返されて終わりだろう。面会中に暴れ出す者が無視できない割合でいるために、このような内装が用意されたのだ、と噂に聞いたことがある。

 その気持ちは、神崎にもわからないではないのだった。

 部屋は綺麗な立方体だった。それを真っ二つに切り離すように、分厚いアクリル板が天井から床まで堅牢に設置されている。そしてこの板を挟み、床に置かれたスピーカーや部屋へ入る扉など、室内の一切が線対称に作られていた。透明なアクリルの向こう側には、神崎が入ってきたのと同じ扉が、神崎に呼びかけたのと同じスピーカーが、そして神崎と同じようにボウッと突っ立った母親の姿が——あった。

「久しぶり、母さん」

「……」

 母親は答えない。

 ノコリジカンハジュウヨンフンデス——と、スピーカーから声が流れる。

「また、産んだんだってね」

「……」

 やはり、答えなかった。じっと押し黙ったまま、その場に突っ立っているだけだった。身につけているのは薄っぺらい病院衣で、マトモに洗濯もされていないのか襟元が垢に染まっていた。両手両足には鎖のついた枷がはめられ、無用な動作を妨げるようキツく関節を固定している。この様子では、多少身じろぎをするだけでも骨が軋んで辛かろう。神崎は泣きたくなった。表情を見るのが恐ろしく、首より先へどうにも目が上がらなかった。

 だが——と、彼は考える。

 本来、顔などよりもずっとおぞましいのは、あの腹だ。

 だらしなく膨れ上がった腹の中には、いったいいくつの命があるのか? すり切れ薬漬けになった彼女の子宮はあと何回の妊娠に耐えるか? 帝王切開の痕跡は、もうどれだけになるのだろうか?

 ただ、露わになっていないだけだ。

 代理出産の道具となったあの腹こそが、本当は一番醜悪なのだ。

「なあ、母さん。母さんは……」特別の話題も見当たらないまま、漫然と口を開けて——ふと、昨日のことを思い出した。石沢が語っていた気がかりな話。勃起していたのだというあの少年と、目の前の母の姿とが否応なく重なって見える。「母さん、今なにを考えてるんだ?」わからなかった。「なあ、教えてくれよ」

「……」

 答えはない。

「何とかいってくれよ。母さん……あんたひょっとして……まさか……」醜悪な空想に息苦しくなった。呼吸すると喉がひゅっ、と甲高く鳴った。「まさか『幸せだ』なんていうんじゃないだろうな……!」

 母親は黙っていた。

 いくら待っても返答はなかった。

 神崎はアクリルの向こうから目をそらし、じっと柔らかな床に視線を落とす。重苦しい沈黙に喉が何度もひゅっ、と鳴った。胸が苦しい。鼓動が過呼吸めいて不健康に高まっていく。静寂がじっとりと耳を濡らした。

 何でもいい、何か——何か話をしなければ。

 この沈黙を破らねばならない、と神崎は思った。無音の中にじっと立ち尽くしていると、耳の奥にこびりついたあの日の音が否応なく蘇ってきてしまう。いやだ、と彼は小さくうめいた。ここへ来るといつもそうだ——面会のたび、精神が不安定に揺らめいてどうにも収まりがつかなくなる。落ち着こう、ゆっくりと息を吸ってまたゆっくりと吐き出すのだ。額から溢れ出る冷や汗を早く引っ込めてしまわないと。

 深呼吸する。

 鼻から口から肺の奥へと、濃密な潮の香りが流れ込む。

 ごう、とどこからか海のざわめきが聞こえる気がした。

 波がすぐそこに迫っている。


 ——ああ、まただ。

 また、この幻覚だ。


 今でも鮮明に覚えている。

 幼少の頃に見たその風景が、音が、悲鳴が、脳の奥深くに刻まれていた。

 地面が揺れる……視界がめまいに似てぐらつき始める……海が動く……警報が鳴り響く……遠く押し寄せる巨大な波は蜃気楼のように現実感を欠いている……家が流れる……ちぎれた誰かの片足が濁流の中を浮きつ沈みつ……あれは水を吸った青い死体だ……油の浮いた真っ黒い波が腐臭を放ちながら町を飲み込む……。


 津波だった。

 母の心はそれきり戻ってこなくなった。


 十年前の憲法改正は、経済上の必要によって断行されたといわれている。経済の衰微に伴って呈された『国家に益さない人間をどれだけ合理的に排除できるか』という問い——それをとことん突き詰めた先につまり〈戸籍省〉の設立があった。

 動かない人間——鬱病を患った青年、重度の精神病者、あるいは脳死状態の入院患者——を『不良在庫』と考えたとき、有効に活用する方法は何だろう? 議論が複雑になる原因は、ひとえに不良在庫を『人間』と定義する点にあった。では『人間』を分割したら? 構成要素に分解し、筋肉の一つ一つ、内臓の一つ一つ、細胞の一つ一つを別個の資源と捉えたら? 脳が機能しなくても内臓は有効に活用できる——たとえば臓器や血液の移植、あるいは不妊女性の代理出産、動かなくなった人間たちをそれら『肉体労働』に従事させるのはどうだろう?

 文化的文明的に生きていくことができない者は、そうして『人間』から『資源』へと変わる。自ら進んで国家に利益をもたらさないなら、国家の手によって運営し利益を生んでやるほかないのだから。

 省の施設に収容し、四肢を切り取ったり内臓を抉ったり、はたまた子種を植え付けるための苗床として飼育したり……。

 そうして人権を奪われた一人に、神崎の母親も名を連ねていた。


 ノコリジカンハジュップンデス——と、スピーカーから声が流れる。


 ひび割れた自動音声が、海のざわめきをかき消す。喉がひどく渇いていた。あれほど巨大だった波はもうどこにもない。べったりと額に浮いた汗を拭い、視線を上げる。

 そしてようやく、

 母親の表情を——部屋に入ってから初めて、見た。

 頬は痩せこけ、青白い皮膚には醜いできものが——フジツボに似て——びっしりと貼り付いている。かつて黒かった髪の毛は全体に灰色を帯びながら、あちこちに円形の禿げを覗かせていた。唇は不健康な紫をしている。両の鼻から数本の毛が飛び出している。美しかった記憶の中の母はどこにもなく——ただ、ゴミバケツのように無数の胎児を詰め込まれては産み落とし続けた女の姿が、亡霊のようにたたずんでいる。

 ただ、きっと彼女は『恨めしや』などとはいわないだろう。

 唇は歪み、鼻の穴はぷっくりと膨らみ、焦点のずれた目はとろりと垂れて——


 笑っていた。


 心の底から『幸せなのだ』といわんばかりに、

 今にも溶けてしまいそうなほどの、

 満面の笑みを浮かべていた。


 拘束具に溶接された金属の鎖が、カチン、と小さな音を立てる。

 ノコリジカンハゴフンデス——と、スピーカーから声が流れた。


   □□□


 太陽はすでに空高く、粘っこい光線を車内にだらだらと垂れ流している。

 めまいがした。

 くらくらと、不随意に頭が揺れる。

 ハンドルを握る手にもアクセルを踏む足にも、どういうわけだか感覚がない。ともすれば不意に意識を失って、どこか民家にでも突っ込んでしまうのではないだろうか——と警官にあるまじき不安が胸をよぎった。それでもいつの間にか署のそばへ到着しているのだから、日々の習慣というのは不思議である。

 近隣の駐車場に自動車を駐めて、舗道をのんびりと歩いて行った。昨晩の睡眠不足がたたったのか、食生活に原因があるのか、あるいはやはり面会が心労になっているのか……何にせよ、ともかくやや貧血気味であるらしい。足下がふらふらとおぼつかない。

 道中のコンビニで栄養ドリンクを三本買った。何か特別のこだわりをもって選んだわけでは、無論ない。商品棚から一番高いものをいくつか見繕っただけである。どの銘柄が旨いだのどの成分が効くだのと、同僚の中にはやけに詳しい者が大勢あるものの、神崎にはついて行けない。どれもこれも似たようなパッケージに似たような煽り文句で、とても区別などつかないのである。

 だから、三本なのだ。

 何を買うべきなのかはよくわからないものの、いくつか試せば一つくらいは効くだろう、という至極いい加減な考えである。

 やがて署に到着する頃、意識はさっぱりと明瞭になった。

 案の定、どれかがうまい具合に効いたらしい。

「おう、神崎。待ってたぜ」赤尾は喫煙室で、やはりふんぞり返っていた。室内に置かれたプラスチック製の古いベンチは、どれもこれも空っぽで寂しげな雰囲気を醸している。「何だ、やけに青い顔してるじゃねぇか」いかにも不本意といった様子で、彼は片手に火のついた一本をつまんでいた。反対の手には官給のタブレット端末があって、何かの動画が再生されているらしい。「昨日の失敗がそんなにこたえたか?」

「ただの寝不足ですよ」何でもありません、といいながら「それよりどうしたんです、あの騒ぎは……」神崎は入り口のほうを顎で示す。「またデモか何かですか?」

 ここからでも、門前にたむろした数十人の話し声が騒々しく聞こえてくる。みな純白の服——インドの修行僧や古代のギリシア人などが着ていそうな形をした法衣——を身につけ、座ったり立ったり歌ったり話したりくしゃみをしたりしながら署をじろじろと眺めているのだ。

 中に立ち入るわけではなく、かといって敷地から出るわけでもない。

 警備の連中は忙しそうに奔走し、とても事情を聞ける様子ではなかった。

「デモならまだ対応も楽なんだがな」赤尾は小さく苦笑いする。「敷地内に入った時点で全員まとめてしょっ引きゃそれでいいんだから。……あれはね、例の〈ニルワヤ教〉さ」

 少年の腕に刻まれていた『ニルワヤ』という単語を連想する。

 無関係、偶然の一致——などという話ですむわけがない。

「もしや」刑事課で幅を利かせているエリート連中であれば十分にやりそうなことだ、と神崎は思った。「誰かが教祖様を逮捕でもしましたか?」

「ありえる」だが、と首を横に振る。「今回に関しちゃ連中にとっても想定外だったろうよ。こっちから話を聞きに行く前に、教祖様とやらが自分で訪ねてきやがったんだ」

「自分で? しかし、」

 いったいどこから情報を仕入れたというのだろう? SNSに投稿された事件現場の画像や動画に、件の文字は果たして写り込んでいただろうか?

「信者の中に関係者がまぎれ込んでいたか……ま、材料もないのに考えたってろくな答えは出てこねぇよ」いいながら、タブレットの画面を神崎に示す。「事情聴取が始まってるぜ。もっとも、どちらが聴取されているのかには一考の余地があるだろうがな」

 表示されているのは、取調室に据えられた記録用カメラからの映像だった。コンクリートの壁に囲われ、テーブルを挟んで二人の女性が向き合っている。灰色のスーツを身につけているのは、神崎も見知った刑事だろう。そしてもう一人、門前にたむろした有象無象と同じような法衣——といっても、白色ではなく安っぽい金に染められていたが——を着たのがおそらくは〈ニルワヤ教〉の教祖だった。

「若いですね。二十代後半ってところでしょうか」それに女の人だ、と神崎はちょっとした疑問を口にする。「前にネットか何かで見かけたときは、中年男の冴えない顔が出てきた気がするんですけど」

「つい一年くらい前だったかな」赤尾はいう。「お前が知ってる前任の教祖様はお亡くなりになったそうだ。名目上、今はこいつが教団のトップだっていうぜ」

「名目上?」

「そりゃ、こんな小娘が実権を握ってるわけないだろう。一般の信者はともかくとして、あの団体の上層は信仰よりも経済のほうに偏ってやがるからな——教祖の血縁だから、なんて単純な理由で、先代からの幹部連中を従えられるほど純粋な組織じゃないだろう」

 端末のスピーカーからは、ぼそぼそとした話し声が辛うじて聞き取れる程度に流されていた。神崎は耳を澄ませ——なるほど確かにどちらが聴取されているのかわからないな、と関心した。

「切れますね、この教祖様は」

「かなりのもんだ」赤尾は愉快そうな面持ちでいった。「見物だったぜ。こいつが信者を引き連れて来たとき、そそっかしい間抜けが事情も聴かずに取調室に案内しちまった——で、教祖様は開口一番いったいなんていったと思う?」

 少し考えて面倒になり「正解は?」と音を上げた。

「何の用件かお聞きにならないのですね、刑事さん——だそうだ。神崎、お前はこの言葉から状況をどう考える?」

「そうですね」また考えて、今度は答えることにする。「前提として、教祖様は例の事件についてどこからか情報を仕入れていた。何らかの形で事件と教団が関わっていることを耳にして、こちらが呼ぶまでもなく出頭したに違いない……自分から署にやって来た以上この点は明らかでしょう。そして詳しい事情を話す間もなく取調室に案内された。なら教祖様は、事件に『ニルワヤ』が関わっているという情報が間違いないことを確信できる。自分が重要な参考人であることは、警察の対応が何より雄弁に物語っているのだから……」

「及第点だな」だが、と彼はにやつきながらこう続けた。「それだけじゃない。うちの刑事課は優秀だからな、負けていられるかってんで教祖様にこう返したんだ」

「と、いいますと?」

「曰く『お急ぎのようでしたから』『今日の午後にでもこちらから伺おうと思っていましたのに』ってな。あそこの教祖様にしちゃずいぶんとお供の信者連中が少ないし、いくら『ニルワヤ』が事件に関わっているとはいえ、こんな朝早くから自分でやって来るのも妙な話だ。よほど急いできたと見える」

 つまり、と神崎はうなった。

「待っていられない事情があった——?」

「そしたらあの教祖様は、ああ忙しい、なんてわざとらしくぼやきやがった。『なにぶん、先代が亡くなったばかりですから』『引き継ぎに手間取ってなかなか応対の時間が取れないのです。何よりあまり刑事さんが出入りしていると信徒が不安になって困ります』と」

「それは……本音でしょうか?」

「どうかな」赤尾は眉間に皺を寄せる。「先代の死亡は事故だってことになっちゃいるが、どうもきな臭い噂があっちこっちに流れてる。方々から圧力がかかって捜査はほとんどなされなかったが——まあ、あの教団のことだから上にも下にもパイプを持っていて不自然はない。不承不承に手を引いた捜査員にしてみれば、今回の事件はことを蒸し返すうまい口実になるだろう。となると……教祖様にしてみれば、こちらが出向く前に出頭することで教団へ刑事が介入する余地をできるだけ潰しておこう、なんてのはごく自然な成り行きだろうな」それからまた少し考えるような素振りを見せて「別の可能性としては」とこう続けた。「事件の関係者が教団内部にいて、教祖様がそれを把握している——なんてのも考えられる。この『関係者』が犯人だった場合、警察に突き出さねぇってことは幹部級の首だろう。教団側としては大事件さ。だから、即座に捜査状況を偵察にくる必要があった」

「でも、いくら何でも教祖様が直々っていうのはなんだかおかしな話じゃありません?」

「おうよ、確かに」赤尾は頷く。「ちょいと仰々しすぎる節はある。幹部級に任せられない事情があるのか……やはり引き継ぎがうまくいっていないのか……」ブツブツと、言葉が独り言めいてよく聞き取れない。「……いや……教祖と幹部側との対立が……?」

「それで」黙考し始める赤尾に、神崎は先を促した。「会話はどうなったんです?」

「ああ、今度は——」女性刑事の声を真似て、「引き継ぎなど完璧でしょう?」などと口にする。「こんなにお耳が早いんですから、なんて少し嫌みっぽくいってたっけね。その通りなんだ、いくら上層部にパイプがあったって事件の翌日てのはちょいと情報の漏洩が早すぎる」それから今度は教祖を真似て「何のことでしょう?」と、とぼけてみせた。

 曰く、刑事は首を傾げ、

 ——何かご用件がおありなのでは?

 とこう口にしたらしい。

「教祖様はな」赤尾はにんまりと口元を歪めた。「こうおっしゃったんだ——用件といっても取調室で取り調べるのは刑事さんの仕事ではありませんか、わたしとしては立ち話でも構わなかったのですけれど」クツクツと、言葉の端々で笑いがこぼれた。彼にはおかしくてたまらないらしい。「まったくたまらねぇや。どうやら、こちらが一本取られた形だぜ」

「ははあ、なんというか——」自分にはとてもできない会話だな、と神崎は思う。こうして腰を落ち着けて、ゆっくり考えでもしなければとても文脈につていけない。「激烈な応酬ですね」

「会話一つでも情報戦だな。ここまでで向こうは、①事件と教団との関連を確信し、②刑事の訪問に先んじて出頭することで、教団に対する公権力介入の口実をいくらか抑ええることができた……」

「一方で」と、言葉を継いだ。「こちらとしては、①教祖様が事件の情報をどこからか得ていることを確信し、②朝早くお供も少なく自分から署に出頭するような事情があることを推察できた。この二点以外は確信に至らない『可能性』の段階にとどまったまま……」神崎は渋い顔をする。「そもそも、事情も聴かないまま取調室に引っ張ったのがまずもって痛恨のミスでしたね。さすがにこちらの負けでしょう」

 画面の中では、女性刑事と教祖との会話が尚だらだらと続いていた。互いの胸の内を探るような、迂遠で捻くれた応酬である。

「教団が出てくると面倒だぜ……にしても、『ニルワヤ』か……」赤尾は憂鬱そうに呟いた。「……少年を殺した犯人が死体に文字を刻んだのか……一家惨殺事件の中で少年がそうするように『調教』されたか……犯人のどちらかが教団の関係者だったのか……あるいは少年自身が……?」いや、と喉の奥からうなるように言葉を吐いた。「問題は『誰が』じゃない……そうだ、重要なのは『なぜ』だ! なぜ、」


 ——なぜ、文字が刻まれたのか?

 ——なぜ『ニルワヤ』の文字だったのか?


「あの、そもそも」神崎は問うた。「僕にはどうもよくわからないんですが、つまるところ『ニルワヤ』っていうのはいったいどういう意味なんですか? 宗教の名前ってだけじゃないわけでしょう?」

「おいおい」赤尾はため息をつきながら言葉を返した。「正確なところをいうんなら『宗教の名前』ですらないんだぜ。〈ニルワヤ教〉ってのは正式じゃない、単なる俗称だ。宗教法人として登記簿に載っているのは……」ええと、と記憶を探るようにゆっくりと続ける。「確か〈人類調和のための宗教学および総合哲学研究会〉だったかな」

「う、」

 うさんくさいですねぇ、と天井を仰いだ。

「わかってねえな、お前は」などと、赤尾は物知り顔で鼻を鳴らす。「今どきはそういうのがウケるんだよ。ポイントは『人類調和』なんていうキラキラワードと『宗教科学』『総合哲学』『研究会』なんていう伝統格式権威あふれる言葉が組み合わさっている点だろうな。荒唐無稽な理想を示し、同時に堅実な足場で安心させる……完璧だろう?」

「そういうもんですかね」

「そういうもんだ」と、事もなげに口にした。「もっとも、『研究会』なんて名前を標榜してはいるものの学術からはほど遠い。本来は由緒正しき仏教の一派だったとかで、例の『ニルワヤ』もサンスクリット語の『ニルヴァーナ』から変形したとされているが……」

 仏教用語で『涅槃』の意味、だっただろうか。学生時代にたしなんだ宗教史のおぼろげな知識を、神崎はあれこれと掘り返す。

「でもまさか、完全に『ニルヴァーナ』と一致するわけじゃないんでしょう?」

 少なくとも名目上は違う宗教なんですし、と問うてみる。

「おうよ、名残はあるが別物といったって過言じゃない」そもそも、と彼は顔しかめながらこういった。「歴史を見りゃ明らかだ。〈ニルワヤ教〉は大陸から伝来した北方仏教——いわゆる大乗仏教——の一宗派に、西洋の観念論だか虚無主義だか個人主義だかが合わさって生まれた。いや、正確にいえば開祖とやらが『混ぜた』んだろうが……問題はそこなんだよ。会を創始したこいつがまるでド素人みたいな大間違いを犯してやがる。原始仏教と比較したらもはや別物だよ、別物」たとえば、と続けた。「仏陀の教えを上っ面だけ眺めれば、悟りの境地であるところの涅槃——ニルヴァーナ——は確かに虚無主義者の精神と似ていないこともない。欲求やエゴイズムといった煩悩からの脱出——つまり仏教が『涅槃』へ至る方法として示す『自我の破壊』としての『悟り』には、あらゆるものを無意味だとして自分の存在にすら虚無感を抱くニヒリストの連中も、きっと共感するだろうからな」

 だが、と赤尾はいうのだ。

 曰く——仏教的なエゴの『破壊』は決して『虚無』を意味しない。それは虚無主義者が思うような消極的な自我の『死』というよりも、むしろ積極的な、


「愛、ですって……?」


 神崎は目の前の巨漢をまじまじと見つめた。この男の口からそんな言葉が飛び出してくるなどとは思ってもいなかったのだ。小難しい理屈をこねくり回し他人を働かせてばかりの粗雑な男に、『愛』などという繊細な言葉は、まったく似つかわしくないことこの上ない。

「そう、『愛』だ。……矮小な『個人』の枠組みから脱出し世俗を俯瞰すること……現実で他者から分断されている無数の『主観』が、結局はアフリカに生まれたある原始人の子孫でしかないと知ること……自分を愛するように他人を愛し、他人の苦しみを自分のものとすること……そしてこの苦渋に満ちた世界に生きるあらゆる人間を、貴卑の別なく愛し、救おうとすること……! こうして初めて、仏教徒は真の『涅槃』に到達できるって寸法だ」

 なるほど、と神崎は呟く。

 確かに、虚無主義とは似ても似つかない救世的な精神である。

 利他的な、慈愛に満ちた、正義の味方のような境地に思えた。

「もっとも、宗派によってこの辺りの解釈はかなり揺れちゃいるわけだがな。たとえば中国唐代に創始された法相宗が依る『成唯識論』という書物の中には、大乗仏教における『涅槃』には四つの形態があるとかなんとか……。しかしともかく、まともに仏典を眺めたことのある信徒であれば仏教思想と虚無主義とがいかに相容れないか理解していることに変わりはあるまい。北方仏教ばかりじゃないぜ、インドから南に伝播した『普遍性がなく』『保守的で』『実践にばかり寄っている』と揶揄される諸宗派の僧侶にだってやはりこの程度の認識はある。自ら新派を開くほどの者なら、なおさらな。……だっていうのに〈人類調和のための宗教学および総合哲学研究会〉の開祖様は、あろうことか遠慮もなく涅槃と虚無を『混ぜた』んだ!」信じられるか? と赤尾は大げさに肩をすくめた。「間違いから始まった思想がいくら先へ進んだところで、間違った場所にしかたどり着かない。この教団が多少の伝統を持ちながらも今やうさんくさい『新興宗教』とばかり目されているのだって、俺にいわせりゃ必然だね」

 当人たちからすればはなはだ不本意な話だろうが、などと赤尾は言葉の端に付け加えた。

「確かに」神崎は頷く。「本来は『新興宗教』って、七十年代に台頭し始めた自己啓発系の神秘主義団体を指す言葉でしょう? 一緒にされちゃたまらんでしょうね。……それで、」結局どうなんです? と話の先を促した。最初の質問に対する解答を、赤尾はまだ口にしていない。「仏教ではなく〈ニルワヤ教〉の掲げる『涅槃』は、いったいどういうものなんでしょう?」

 ふむ——赤尾はつまんでいた煙草を咥えて、ゆっくりと吸う。閑散とした喫煙所に煙が細く長くたなびいて、消えた。

 外からは、信徒たちの話し声が混然と騒々しく聞こえてくる。

 タブレット端末の画面には相変わらず取調室の映像があった。女性刑事と教祖とが向かい合って腰掛けながら、互いをじっと睨めつけている。激烈な応酬はなおも続き、二人の顔にはいくらかの疲労が見え隠れしていた。

 事情聴取が始まってからもう三十分が経過している。


 ——みながニルワヤに至らなければならないのです。


 スピーカーから、教祖の涼やかな声が聞こえてきた。

 ——人類調和のために、ですか?

 刑事はうさんくさそうに首を傾げる。

 ——詐欺師の口にするような綺麗事だ、などと思われるのなら、それは単なる先入観か偏見ですよ。国家も法も倫理も、当然ながら警察でさえも、すべての『秩序』が目指すところはそれ自体の安定でしょう? より具体的にいうのなら、自然状態で人間が繰り広げる無制限の争いや混乱に何とかして歯止めをかけること、つまり『調和』です。わたしたちは、あらゆる秩序の内側で無言のまま共有されるこの理念を、公然と口にしているに過ぎません。

 む、と女性刑事は顔をしかめた。自分の内心を見透かされることが不愉快でたまらない、といった面持ちである。

 ——勘違いしないでください。理念そのものではなく、自明な事柄をわざわざ標榜する点がいかにも胡乱だと感じただけです。

「連中の教義によれば」椅子から立ち上がり、喫煙室の中央に据えられた灰皿スタンドで煙草の火を消しながら、赤尾はこう口にした。「人類の調和を実現させるには、二つの方法があるらしい」

 いわゆる〈ニルワヤ教〉の教義において、争いの根源は『分断』とされる。国家や民族、あるいは性別といった『分断』は『形而上の分類概念』といい換えても構わない。無数に存在する『個人』を一つ一つ別個に認識するのではなく、


 彼は日本人だ/He is Japanese.

 彼はアジア人だ/He is Asian.


 と、実体を持たない概念によって理解しようと試みること——あらゆる争いはここに端を発していた。個人は『ある一人の人間』でなくなり、ほかの日本人と共に『日本人』の枠へと半ば強制的に収容されていくのである。そうして『日本人』たちは、やがて『外国人』すなわち『争うべき他者』に目を向け始める——開祖曰く、こうして調和が失われるのだ。

「そうはいっても——」神崎はいくらか不服そうな様子で言葉を返した。「日本人だの外国人だのそんな言葉がなかった頃から、それこそ原始人だってケンカくらいしたでしょう? ただ単純に規模が拡大しただけですよ。なのに『分類』が原因だなんて……」

「バカだな、お前は」赤尾がふん、と鼻を鳴らした。「その昔『日本人』なんて言葉がなかった頃には、『外国人』との戦いもなかったわけだろう? その事実が証明してるじゃないか、分類の発生と争いの発生は、確かに相関しているんだよ。『日本人』『外国人』などという言葉が生まれたから、分断が生まれやがて争いの発端となる……。分類のない争いなどないさ。わけもなく集まった烏合の衆が、おなじくわけもなく集まった烏合の衆と争うなんて、不条理以外の何物でもない」

 ルイス・キャロルなら好んで書いたかもしれないが、と彼はいう。

「いや、それは……」

 詭弁の臭いがした。

 なにもかも、因果がまるきり逆なのではないだろうか?

 そもそも争う相手である『外国人』がいなければ、『日本人』などという言葉も生まれないだろう。仮に宇宙人の存在を想定でもしなければ、『地球人』などという言葉を使うことがないように。争いの起源は『分類』というより、むしろ『分類』される対象である『他者』の存在にあるのでは——。

 だが、あっさりと赤尾は否定した。

「違うな、こればっかりは俺も教祖様に賛成だぜ。仮に宇宙人が現れたとして、人間にその気がなけりゃ『宇宙人』なんて呼ぶ必要はねぇんだからよ。ただ『そういう存在』がそこにあるだけ……宇宙からやって来た命と大阪からやって来た命をことさら区別する理由なんかこれっぽっちもありゃしない。ある個人にとって、大阪人も宇宙人も同じように『他者』なのだ——と、こういう『分類』だってできるわけだろう? なのにそれをしないのは、何かしらの意図や先入観があるからだ」それから少しの沈黙を挟んで、いや、と多少の訂正を加えた。「このいい方はちと性悪説に寄りすぎだな。もう少しフェアな言葉遣いをするのなら、いけないのは——」

 いけないのは、『自分』と『他人』をわけることだ。

 赤尾はこう口にした。

 曰く——そこからすべての分断は生まれる。『分断』というのは何も『言葉』を伴うとは限らない、人間が生まれながらに一つの肉体を持っていて、ほかの肉体と溶け合うことがなく、明確な『自分』の輪郭を持っていること——ここに、もっとも原始的な『分断』の種が埋まっている。人間には生まれながら物理的な『他者』がいる、そして『他者』がいるから争いは生まれる。争いの発生する条件は、第一に『争う相手』の存在なのだ。

 国籍などという、あるいは性別などという分類は、みな『自己』と『他者』の変形にすぎない。『わたしたち』と『あなたたち』の争いは、もっとも原始的な争いである『わたし』と『あなた』の対立を少し複雑化しただけなのである。

 そして何を理由『わたしたち』と『あなたたち』を分けるかには、さして重要な意味がない。ただ『同じ/違う島に住んでいたから』『同じ/違う皮膚の色だったから』『同じ/違う言葉を話していたから』などという適当な理由を恣意的に使ってもっともらしく定められる、というのが実態である。二つの言語を操れるのなら二つの『わたしたち』に所属できるし、似たような外見をしていれば実際の国籍など関係なしにみなひっくるめて『あなたたち』に分類できる。

 以前にも教えたことだろう? と赤尾はいった。


 ——分類などというのは、みな一様に嘘なのだ。


 この恣意的な、まるで根拠薄弱な『分類』は、人類の歴史が古代から中世を経て近代に近づいていくにつれ、やがて戸籍制度の形を取り一層『もっともらしく』なっていく。父と母が日本人であった、故に自分も日本人だ——こうした制度は確かに説得的であったろう。だが『正しい』とは限らない。自分が『日本人』である根拠を先祖が『日本人』であることに求めるのなら、その先祖が『日本人』であることを確かめるためにさらなる先祖へ遡る必要が生まれてしまう。行き着く果てに『日本人』が出会うのは、アフリカに足跡を刻んだ見も知らぬ一人の原始人である。その時代に、果たして『日本』はあっただろうか?

「しかし、しかしそれは」

 どうしようもないことではないか、と神崎はうめく。

 人間が一つの肉体と一つの魂を持つ限り『自分』であることは覆せないし、であれば当然の結果として外部を『他人』と呼ぶしかない。他人がいれば争いが生まれる。

 だが、赤尾のいいたいことはおぼろげながらわかった気がした。争う相手が存在する以前に、まず『自己と他者とが分断されざるを得ない』という人間の特性があるのだろう。生まれたときから内在している、分類の種……一つの肉体と一つの魂……。

「ま、概ねそんなところだな」赤尾は旨そうに煙を吐いた。「もっとも、『生まれたときから』という文言にはやや語弊があるだろうがね。自他の区別は生まれたときから備わっているわけじゃない、成長のごく初期の過程で段階的に備わるものだ」しかしともかく、と彼は続ける。「こういうわけで、『人類の調和』を目指すには二つの方法で『分類』を消し去らなければならん、って話に展開するんだ。無論、『自己』と『他者』とは赤ん坊以来人間に内在する概念だから、示されるのはあくまでも対症療法でしかないわけだが……」


 ——分類を、


 と、タブレット端末から教祖の言葉が聞こえてきた。

 女性刑事との応酬はなおも続いているらしい。とはいえさすがに疲労したらしく、最初の頃よりもやや弱った声色をしていた。映像を見れば、身体の重心はややうつむき加減に傾いていて、背中がぐにゃりと丸まっている。金色の法衣がいかにも重そうだった。

 当然ながら、相対する女性刑事も同じような有様なのだが。


 ——分類を、徹底的に広げるんです。それが『ニルワヤ』へ至る唯一の方法です。人類を調和させる、もっとも確実な方法なのです。胡乱などとおっしゃられては困ります。


「赤尾さん、彼女がいっているのは……」

「二つの方法がある、と開祖は語った」手近の灰皿に煙草を置いて、彼はいう。「一つは、自由主義者だか左翼だかリベラルだか……そういう連中が標榜する方法だよ。『日本人』だの『アジア人』だのといった大きな分類に見切りをつけて、徹底的な細分化を図るわけだな。すると、やがて人間は『個人』という概念のみで自分と他人を見るようになる。この理念を実現した人間にとってしてみれば、あらゆる『他者』はみな一人の『他者』でしかない。存在する分類は原始人と同じように『自分』と無数の『他人』だけで、ここに『わたしたち』など生まれる余地はこれっぽっちもありはしない。火星人大阪人もみな同様に『他人』でしかないのさ」

「確かに、それなら国家間の戦争やなんかはなくなるような気がしますけど……」

「そうだな、これでは個人同士の争いが起こるのを止めることができないんだ。いわゆる個人主義は、だから得てして『利己主義に陥っている』と揶揄される」そしてもう一つの方法は、と赤尾は続けた。「教団の連中が掲げている、いうなれば『分類をひたすら拡大する』やり方だよ」

 自己認識を『日本人』から『個人』へと縮小するのではなく、より大きく包括的な概念へと拡大していく——つまりはこの自分とあの他者とを、まったく区別不可能な同一の『存在』と定義すること。

「そんなことが、いったい本当にできますか?」

「理論上は可能だろうな。第二次世界大戦中、日本人は『日本人』として団結する限りにおいて同胞間の争いをやめた。戦う相手は、常に『非国民』だっただろう? こいつをもう少し大規模にすると、たとえば『人類』などという主語になる。『日本人』も『外国人』もなく誰もが自分を『人類』とだけ認識すれば、つかの間の世界平和は実現できるかもしれない……いわゆる世界市民主義というやつだ」だがこれでも、と彼はやや冗談めかした口調でいった。「人類と猿、あるいはイルカやなんかとの戦争は止めることができないだろう。だからもう少し規模を……」

「なんだか、話が大きすぎますよ」少しうんざりして、赤尾の話を遮った。このまま順を追って聞いていたのでは『人類』『動物』『生命』『地球』などといつまで広がり続けていくのかとてもわかったものではない。日が暮れてしまう。「結局、主語を大きくしていった先には、いったい何がどうなるっていうんですか?」

「自分と他人との区別がつかなくなる——と、教団は主張している」

 そんなバカな。

 神崎は首を捻った。

「なんだかな……本当ですか、それ」

「知らねぇよ、俺だってとても実際的だとは思わんがね。そういう教義なんだから信じてる連中に聞いてくれ。……ともかく、あらゆるものを包括して争う他者を持たない『もっとも大きな究極の主語』が『ニルワヤ』なんだ。いってみれば『全体主義』の延長線上とも取れるかもしれん。仏教の涅槃と通じるところもやはりある……だがまあ、ここまで味付けが違えばやはり別物といっていいだろうよ」

 うさんくさいなぁ、と神崎はぼやいた。

 理屈の上では納得でいないこともない。だがどことなく……明確にこれとはいえないものの、胸の奥に何か違和感がわだかまっていた。

 それに——何より話が極端なのだ。教団が否定する『分類』というのを『レッテル貼り』と読み替えるなら、赤尾が口にしていた『まず目の前の事件を観察すること』などという癪にさわる、しかし実践的なアドヴァイスのほうがずっと腑に落ちやすい気がする……。

 おや?

 いったいなぜ小難し理屈屋なぞを褒めなければならないのか。

 なんだか、悔しくなった。

 神崎はため息をついて、またタブレット端末に視線を放る。


 ——自殺、なのではありませんか?


 教祖が、そんな言葉を口にした。

 赤尾の話を傾聴するあまり、どういう話の流れなのだかさっぱりわからないものの——しかし話題が昨日の事件であろうことくらい、神崎にも察せられる。

「自殺……そんなバカな!」いったいなにをいっているのだろう? と画面に向かって身を乗り出した。「できっこないでしょう。自殺するのも、はたまた文字を刻むのだって『動物』にはできるはずがないっていうのに……」


 ——その自己暗示が第三者から確かに観察されていたのは、亡くなった方がかつて警察に保護されていた期間中と、動物園への収容時、そして事件当日の朝に飼育員が餌を持っていったとき、だけなのでしょう?


「なるほど、な」赤尾は喉の奥から低くうなるような声を漏らした。「なあ神崎、お前や俺の進めた推理は、例の自己暗示を恒常的な条件だと仮定している」つまり、と続けた。「死亡当時にその暗示が解けていたら……被害者の自認が『動物』から『動物ではない何か』に変化していたのだとしたら、理論上は自殺が可能ということになる」

「でも、そんなのって合理的じゃないですよ」神崎は口先をとんがらせて、いう。「理屈がないじゃないですか、あれだけ強力な暗示がなぜ解けたのか……そこにはきっかけがあるはずでしょう? 何より下剤の件はいったいどう説明するんです?」

「確かに」とあっさり頷く。「クソのことを考えりゃ『自殺』では説得力に欠けるだろう。今のところは『他殺』とするのがまず妥当だ。だが少なくとも——」


 ——遺体に、文字が刻まれていたと聞いています。


 なぜ『ニルワヤ』などという言葉が残されたのか?

 その理由に関しては、一応の理屈がつけられる。

「理屈?」

「おうよ。教団の教義が提言する『人類調和』のための方法では、人はみな『人間』を辞めて『動物』になり、さらに『動物』を辞めて『生命』になり……と、このような段階を経て最終的な『ニルワヤ』を目指し生きていくわけだ。殺された少年の状態とこの図式とを、照らし合わせてみるがいい……」


 ——亡くなった方は、檻の中で『動物』の段階にあったと聞きます。これでは確かに自殺するとは考えにくい。しかしもしも、


 もしもその先に到達していたのだとしたら? 死亡する一瞬前に『動物』であることをすでに辞め、自認を『生命』へと変えていたのだとしたら? あるいは『生命』さえ飛び越えて、そのはるか彼方にあるだろう『ニルワヤ』にまで到達しきっていたのなら?

「まさか!」神崎はうめいた。「だからって、自殺する理由がないでしょう!」

「いいや、あるね」断言した。「教団が掲げる一連の教義は、最終的にどうしようもない矛盾を抱えているんだ。そもそも争いと分断の根源にある『自己』と『他者』との区別ってのは人間の『肉体』に起因している。精神的にどれだけ形而上的な境地にあっても、肉体が他者との境界線になっている点は覆しようのない事実なんだ。だからあの教団の信者や僧侶は、しばしば『ニルワヤ』を目指して自殺する……肉体の枷から解き放たれて、本当の意味で『ニルワヤ』に到達するために……」

 ふと、以前に聞いた自殺の三分類を連想した。

 件の話に当てはめるなら、これはきっと『意思による自殺』だろう。信念や信仰のために死を選ぶ殉教……神崎にとってそのような精神性はどこか狂信めいて受け入れがたい。理解できるできない以前に、『したい』とさえ思えないのだ。

 画面の中では、なおも教祖が語り続ける。


 ——論点を密室殺人の『不可能性』に絞るんです。そうすればわたしが聞く限りにおいて、もっとも合理的な解答は『自殺』のほかにないでしょう。


 事件当日の朝八時に、少年は下剤を口にして胃の内容物を排泄していた。しかしその一点をよそに置けば、この事件の条件は主としてただ二つに絞られる。すなわち——

 ①推定される死亡時刻に檻は『密室状態』であった。よって他殺ではない。

 ②自己暗示があることで少年の自殺は不可能だった。よって自殺ではない。

それぞれが相矛盾しながら事件の不可能性を演出している。しかし現実に事が起こっている以上、条件のどちらかに偽が含まれているとするのが——本当のところ犯行は『不可能』などではなかったのだろう、と推測するのが——まず合理的な考え方だ。

 つまり、

 ①死亡時刻に檻は『密室』などではなかった。よって他殺である。

 ②自己暗示によって自殺は否定されなかった。よって自殺である。

真相にたどり着くための推理は、このどちらかに出発点を置くことになる。


 ——遺体に刻まれていたという『ニルワヤ』の四文字が、何よりも教義との関連を暗示しています。亡くなった方は動物を超え、きっと先へたどり着いたに違いありません。そこから逆算すれば、自殺であることは明白でしょう? そして自らの命を絶つ直前に、あとに続く者たちに向けてただ一つの目印を刻んだ……偉大な開祖が弟子に言葉を遺すように、亡くなった方もまた道しるべを遺したのです。


 それが文字を遺した理由だろう、と教祖はいう。向かいに座る女性刑事は話を終わりまで聞いたあと、しかし、と尋ねた。

 ——しかし被害者もその家庭も、あなた方の教団とは一切関わったことがありません。本棚に関連書籍が置かれてもいなければ、親戚の中に信徒の方が含まれてもいなかった。被害者本人が『ニルワヤ』を知らない以上、そのような理論上の宗教的自殺はありえないのではありませんか?

 教祖はその言葉を耳にすると、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。唇が歪んで、半円に近い曲線を描く。ふふふ、と吐息にも似た声が漏れた。こちらの無知を見透かすような、うっとりとした声色である。それから、ついー、と女性刑事に顔を近づけ、

 ——ともかく、あれは『ニルワヤ』にたどり着いた偉大な僧の亡骸ということになるのです。捜査が終わり次第、なるだけ早くこちらに引き渡してもらいたい。どうせ〈戸籍省〉の決定が降りれば『人間』の死体ではなくなるのですから……犬猫の死骸の一つや二つ、警察が保存する意味はないでしょう?

 確かに要請はお伝えしました——などと教祖は満足げに締めくくり、それきり目も口も閉ざしてしまう。刑事がいくら言葉をかけても、聞いているのかいないのか、眠っているのか起きているのかさえ定かではない。

「ふむ、教祖様はどうやら目的を達成したらしい」赤尾は顎に手を当ててじっと画面を睨めつけていた。「亡骸を引き渡せ、なんていうのは単なる口実でしかないだろうな。現場にわざわざやって来るより、縁のある適当な議員にかけ合った方が簡単だ。となれば——」

 捜査の最前線が握っている情報の程度を、おそらくは探りに来たのだろう。

 神崎もその点に関しては同意見だった。

「でも、なんだか腑に落ちないですよ」

「まあな」

 ともあれ——

「これ以上の事情聴取は、ただの睨み合いにしかならないでしょうね」神崎は廊下へ通じる扉を開けて、ついと振り返り「ほら、仕事ですよ。いつまで煙草吸ってるんですか」とこう口にする。「百歩譲って車から出なくたって構いませんけど、せめて駐禁対策に助手席にはいてもわらないと……」

 やれやれ、といかにも気怠げな様子で赤尾はタブレット端末の電源を落とした。


 曲がりくねった廊下を抜けて、署の受付フロアへとたどり着く。カウンターには内勤の制服がずらりと並んで、せわしなくパソコンのキーを叩いていた。ガラス張りの自動ドアからは外の様子が透けて見え、ガヤガヤと騒がしい法衣姿の十数人が昼近い陽光に照らされている。今日の天気予報はどうだっただろうか、と彼は曖昧な記憶を辿った。毎朝起床と同時に気象庁のホームページに目を通すのが習慣だったが、何しろ寝ぼけた脳みそである、正確なところをきっちり記憶できるほど明晰な意識は持ち合わせない。

 ——まあ、傘を持ってきていないということは、さほど不穏な予報ではなかったということだろう。

 背後で、赤尾の気怠げな足音がゆったりゆったりと聞こえてくる。

 神崎は振り返ることなく、自動ドアへと向かっていった。


 陽光に温められた熱風が、ごう、と頬を柔らかく撫でた。昨日よりも、風はいくらか湿り気を帯びているらしい。大気の中には、雨と雪の遠い予感がほんのごくわずかに感じられる。夏はもうほとんど終わりだ。町は半ば秋に足を踏みいれている。

 水を混ぜたような青空には、雲一つ見当たらない。

 晴天の下で、信徒たちの身につけた法衣がゆらゆらと陽炎のように儚く揺れた。絶えず蠢く真っ白い布は、白昼の夢に現れる亡霊の姿を連想させる。何となく、気味が悪い。

 ——大人しくしていてくださいと、何度いったら……!

 ——うろちょろしないでください!

 ——そこは自動車の邪魔になります、もっとこっちに!

 警備を任されている警官たちが、右往左往しながら蠢く亡霊を統制しようと試みていた。もっとも、彼らの努力はまるで報われる気配がない。法衣の面々はひどい老体か傲慢な顔つきをした若者ばかりで、難聴のせいで指示を了解していなかったり、体制に妙な反抗心を抱いていたりと、厄介なことこの上ないのだ。

「やれやれ」赤尾がため息をついた。「教祖様の取り巻きが『これ』かね」それから神崎の肩を叩いて「おい、見ろよ」と、署の前を通る大通りを指さした。

 道路には車通りがほとんどない。ただ、法衣の集団が乗ってきたのだろう白いワゴン車が、三台ばかり路上に駐められているのが見えた。運転席には黒いスーツを身につけた、おそらくは専属の運転手が退屈そうに座っている。

「ははあ、車ですね」神崎には、赤尾が何をいわんとしているのかが今ひとつわからなかった。「それがどうかしましたか?」

「よく見ろ、前から二台目の窓……」

 見えた。

 ああ、あれか——と、神崎はじっと目を凝らす。真っ白い法衣を身につけた信徒が、ただ一人だけ署の前へたむろすることなく車内にたたずんでいるのだった。車窓のガラスが暗い色をしているせいで、顔かたちははっきりとしない。ただ、もそもそと退屈げに動く白い法衣の輪郭だけは、見間違いようもなくそこにあった。

 いったい、どういうわけだろう?

 なぜあの人物だけは外へ出てこないのだろう?

 信徒はもそもそと動きながら、やがて車窓に顔を近づけ外を伺うような素振りを見せた。退屈で退屈で仕方がない、まだ教祖様は帰らないのか——と、こんなぼやきが聞こえた気がする。信徒の顔が、ガラスに接するほど近づいた。曖昧な頬の輪郭が見えた。

 神崎はしばらくそれを見つめて、ぽつり、と小さく言葉を漏らした。

「赤尾さん、あの人って……」

 見覚えがあるような、そんな気がする。

 錯覚だろうか?

 しかし確かに、どこかで——

「ああ、あいつか!」赤尾は、ぽん、と手を打った。「確か、捜査資料に名前があったぜ」タブレット端末を操作して、何やら女の写真を表示させる。「ほら、飼育員が遺体を発見する直前に檻の前へいたっていう……」

 神崎はようやっと合点した。私立中学の教師だったか——車内に引き込もった法衣の女は、確かに件の人物とまったく同じ顔をしている。

「彼女も、信者だったわけですか」

「そういうこともあるだろうよ」赤尾は事もなげに頷いた。「ともあれ、これで一つ疑問が氷解したわけだ。教祖様の情報が妙に早かった理由はこれだな。あの女、事情聴取が終わったあとにすぐチクりやがったんだ」こちらとしてはいい迷惑だ——などと赤尾はぼやく。「……ま、自分の信仰してる宗教が事件に関わっているらしいとありゃ、当然のことなのかもしれんがね」

 じっと車内の様子に目を凝らした。女性は視線をうろうろさせつつ、やがて自動ドアのほうに目を留めてパッと嬉しそうな顔をする。無邪気な、幼子を思わせる笑顔だった。神崎は一瞬、彼女が自分を見たのだと錯覚した。勘違いに決まっている。事情聴取を担当したのは彼でも赤尾でもなかったのだから、向こうがこちらを知っている道理がない。

 となれば——

 神崎が背後を振り返った直後、自動ドアがゆったりと開いた。

 署の前にたむろしていた信徒の群れが、しん、と一様に口を閉ざした。

「おや、どうかしましたか」金色の法衣が、陽光に照らされてチカチカと輝いている。教祖は神崎に軽く会釈し、それから自動車を睨めつける赤尾の横顔に目をやって、「うちの車に何かご用でも?」とこう問いかけた。「エンジンは切るよう申し伝えて置いたはずですが」

「うんにゃ」赤尾は薄笑いを浮かべながら首を振る。「何も問題はありませんよ。聴取お疲れさまでした——どうですか、うちの刑事は? 一筋縄じゃいかんでしょう」

「まったくです、もう少しお手柔らかに願いたかったものですが」

 いいながら、愉快そうにクツクツ笑った。

 白日の下で眺めてみると、教祖の髪はいくらか赤みがかっているようだ。鼻はツンと高飛車な調子にとんがっていて、細く鋭い目つきにはどこか威圧的な雰囲気がある。浮世離れした宗教者というよりは、狡猾な商売人か軍略家を連想させた。

 少なくとも——と、神崎は思う。これは神だの仏だのという形而上の者ではない。地に足の着いた、あくまで現実を生きる人間であろう。

「ご冗談を」と、軽い口調で赤尾は帰す。「教祖というのは、やはりあなたくらい頭が切れないと務まらんものなのでしょうな」

「それこそ冗談でしょう」教祖は不意に顔をしかめた。何か、差し迫った面倒に苛立っているような様子である。「わたしなぞは所詮、幹部連中の傀儡に過ぎませんよ」ご覧なさい、と目の前にたむろする白い法衣の群衆を示した。「わたし個人で動かせるのは、たかだか十数名が限度です。……まあ、それでも前職に比べれば部下がいるぶん好待遇といえなくもありませんけど。教団の財産も人脈もなにもかも幹部連中が独占しているものですからね。わたしの立場はお問い合わせ窓口兼お飾り兼使い走り、といったところです」

「気苦労が絶えませんな」赤尾はいう。「おたくの経歴は存じ上げておりますがね。商社の窓際社員から教祖様に転職、でしたか。……いつか古狸を追い払った日には、諸々の捜査協力をどうぞよろしくお願いしますよ」

 一度は圧力に屈した捜査員たちも、いまだ虎視眈々と教団を睨めつけているのですから——などと口にしながら、赤尾は会釈して背を向けた。たむろした信徒たちの脇をすり抜け、公用車がずらりと並ぶ署の駐車へと足を向ける。神崎は慌ててそのあとを追いかけた。

「なんか、教祖って感じの人じゃありませんね」

「そりゃそうだ」助手席のドアを開けながら頷く。「先代が死んだあと、唯一の血縁だって理由で引っ張り出されてきただけだからな。元は商社の営業だったが切れすぎるんで窓際行き……教団でも傀儡とはね。つくづく報われない人間だぜ、あれは。だから信心も何もありゃしない……宗教団体も上だけ見りゃ単なる財団に過ぎねぇよ」

 神崎は自動車に乗り込みハンドルを握る。

 エンジンが小気味よい音を立て始動した。

 近所に駐めてある愛車に比べて、ややアクセルペダルが重い気がする。


 やがて、

 法衣の群れを押しのけながら、一台の公用車が町へ出た。


   □□□


 その日の晩も、やはり神崎は眠れなかった。

 檻が、少年が、そして母親の笑顔が、どうにも頭から離れないのだ。

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