F/治療後

 曰く——寄生虫はどこにでもいる。どこにでもいて、誰の身体にでも入り込む。口から目から鼻から耳から……あるいはちょっとした傷口から、寄生虫は体内に侵入し、肉の合間や血管の中を何時間かかけて泳ぎ回る。脳みそまで到達するのに、一週間もかからない。

「みんな、知らない間に寄生されているんだよ」

 藤宮京子はうっとりとした口調でいった。

「そう、なんだ」

 布の一枚も身につけないまま埃っぽいソファに寝転び、綾瀬はボウッと言葉に耳を傾けている。さほど珍しい話題ではない。これまで藤宮家を訪れるたび、何度も何度も繰り返し聞かされているのだった。

 それでも飽きが来ないのは、いったいどういうわけだろう?

 不思議だった。

 思うに——

 この少女の声は、どこか人を夢中にさせる。

 心を躍らせるわけではなかった。熱狂、というのとは少し違う。淡々として静謐で、世俗の時間を超越しているかのような……いうなれば『仙人のような』声色なのだ。心地よく穏やかな夢の中にずっとまどろんでいたいと願う——藤宮の言葉はそういう類いの色をしている。

 あるいは、と綾瀬は思った。藤宮家全体の雰囲気も、そのような感覚をひっそりと支えているのかもしれない。

 何気なく周囲を見回してみる。

 電灯の消された広い居間に、二人を除いてひと気はない。壁に飾られた抽象画も、四人がけのテーブルも、ピクリとも動かない柱時計も……何もかもが薄暗がりに深く沈み、表面に埃を被っている。

 この家は、死んでいた。生の気配がしないのだった。もう長いこと人が暮らしていないかのような——ありえないと知りながら、そんな妄想に駆られてしまう。

 そして綾瀬にしてみれば、こんな場所に暮らしている藤宮京子という少女もまた、どこか人の世から隔離しているように思えてならない。食事も排泄も、あるいは老いでさえ、藤宮とは無縁なのではないだろうか?

「ねぇ綾瀬さん」藤宮が問うた。「あなたは『ウオノエ』って知っている?」

 何だろう、それは——記憶を辿ろうと試みるも、意識が妙にはっきりしない。以前ここを訪れたときにも、やはり聞いていたはずなのに。夢の残滓が頭の奥で渦巻いていた。この家へ来るといつもこうだ、と綾瀬は思う。学校のプリントを届けたあと、どういうわけだかポッカリと記憶に空白ができる。気がつけばいつも、風呂上がりのような真裸でソファに寝転んでいるのだった。

 藤宮が『治療』を宣言するところまでは、確かに覚えているのだが——だがその先がおぼろげだった。この家に飾られた絵画のように、抽象的な色彩のイメージばかりがふわふわと残っているだけである。乳白色……温かさ……柔らかさ……黒くて赤い……なめらかで粘ついている……そういうイメージ。

 自分の意識は、まだしばらく寝ぼけたままであるらしい。

 ふと見ると、部屋の隅でテレビがチカチカと明滅している。スピーカーからあふれる音は、ひどくざらつきひび割れていた。先ほどまで画面にあった動物園の風景は、とうの昔にビールのコマーシャルで上書きされてしまっている。過剰な笑顔を浮かべた役者が、グビグビと缶ビールを傾けていた。

「……何なの、その『ウオノエ』って?」

「寄生虫だよ——といっても、あなたの脳みそに取り付いていたのとはぜんぜん違う種類だけどね」藤宮はにっこりと微笑んだ。濡れそぼった黒髪が、艶っぽく夕日を反射している。つい先ほどまでシャワーを浴びてでもいたのだろうか、バスタオル一枚を羽織ったばかりで、柔らかな身体の曲線がくっきりと目に飛び込んでくる。「この虫はね、魚のエラから口の中に入り込むんだ。それで、宿主の舌を食べてしまう」

「そんなことをしたら」綾瀬は顔をキュッとしかめて、藤宮に問いかける。「魚は、餌を食べられなくなるんじゃないの?」

「大丈夫なんだ」なぜって、と彼女は続ける。「代わりに、ウオノエが舌の代役を務めるんだから。元々ね、魚の舌は動かないし、味を感じるためにはできていない——むしろそれは髭なんかの役割なんだよ。舌には、捉えた獲物を逃がさない程度の機能しか与えられていないのさ。それならよそからやって来た寄生虫にだって十分務まる道理だろう?」

「じゃあ」あまり気持ちのいい話ではない。「魚の舌を食べたあと、ウオノエはそこにずっと住んでいるってこと……」

「そういうこと」満足げに藤宮は頷く。「そしてそれは、わたしたちを苦しめている『あの寄生虫』とよく似ている」

 テレビの画面が切り替わり、ワイドショーが再開された。

 芸能人が並ぶ舞台も、背景に張られた壁紙も、ニュースを報せるテロップも、流れてくる色々の声も……何もかもが騒々しい。女性アナウンサーの笑い声が、耳の奥にキンキンと響くようで不愉快だった。藤宮の声とは、まるで正反対の俗っぽさ。

 下らない人間が、下らない話題で盛り上がっている。

 ため息が出た。

 まるで——と、綾瀬は思う。これではまるで、自分の家と同じではないか。粗雑で、乱雑で、落ち着きのない低俗な風景。藤宮の家だけが、唯一自分のそんな出自を忘れさせてくれるというのに。

 テレビから目をそらした。

 またあの家に帰らなければならないと思うと、胸の奥にズブズブと黒いモノが湧き上がった。いやだ、いつまでもここにいたい。永遠にこの少女と暮らしていたい。

「藤宮さん、お願いだから」藁にすがるような心持ちで、綾瀬は願う。「わたしを、きっと『ニルワヤ』に連れて行ってね」

 藤宮のまとったバスタオルが、愉快そうに揺らめいた。

 仙人の衣によく似ている——綾瀬は思う。

 自分を救ってくれるのは、きっとこの人だけなのだ。


「ああ、もちろんだよ」


 けれど——

 本当のところをいえば『寄生虫』も『ニルワヤ』も、綾瀬にとって別段重要ではなかったのだ。いくら藤宮の話を聞いても、なんだか小難しくて理解できない——というのがごく正直な感想である。

 自分は、ただこの少女を愛している。

 いや、

 愛さねばならない。

 それが恋心からは遠く離れた、己の欲求を満たすための強迫観念であることくらい、綾瀬自身、自覚している。不誠実ではあるかもしれない。だが、切実な必要であることは確かだった。あるいはその『必要』をこそ、愛と呼んで差し支えないのかもわからないけど。

 この愛がついに叶わなければ、きっと綾瀬は死ぬしかなかった。


 ——奴隷として生きるなど、とても耐えられそうにないのだから。


   □□□


「藤宮さん、あなたは」一度だけ、自らの苦悩を彼女に明かしたことがあった。「いったい『自分』というものが、本当にあるんだって思ってる?」

 初めてこの家を訪れたとき——玄関先で『寄生虫』などと剣呑な言葉を聞かされたあとだ。薄暗い家へと足を踏み入れ、急な階段を上った先にちっぽけな私室の扉をくぐる。髪の毛だとか埃とか、そうした汚れが幾重にも積み重なった空間だった。不思議に嫌悪の念はない。放棄された廃墟のように——ここでは食べ残しの腐敗などなく、ただ『乾いた汚れ』ばかりがたまっていく。排泄も病ともきっと無縁な、清潔な汚れ……年月の堆積……廃墟めいた……。

 もしかすると、部屋全体に充満する隠世めいた雰囲気に当てられてしまったのかもわからない。

 そこで、ふと口をついた。

 いうつもりなどなかったのに、どうしてか、言葉が出てきた。

 ——本当に『自分』などあるのだろうか?

 ——自分の『意思』などというものが、果たして実在するのだろうか?

「どうして?」

「時々、なんだか不安になるんだよ。自分の意思でやっているはずの行動が、実はそうじゃなかったとしたら……」

「『そうじゃない』? そうじゃないなら、何だと思うの?」

「遺伝子とか、そういう生き物として与えられた役割に、ただ従ってるだけに見える」たとえば、と綾瀬はいう。「誰かを好きになってとして、それが本当に『自分の意思』なんだろうかって。だって、女が男を好きになるのは遺伝子に刻まれたことなんでしょう? ならわたしの恋心は、ぜんぶ遺伝子の奴隷だっていうことになる……!」

 そんなのは、まっぴらだった。

「ふふん」藤宮は愉快げに鼻を鳴らす。「好きな人、いるんだ?」

 綾瀬は微かに頬を染めて、つい、と顔をそっぽへ向けた。

 我ながら、妙な惚れ方をしたものだと思う。その男を見ていると、胸がカチカチと高鳴った。不整脈か何かのように、不健康な高鳴りに思えた。日に焼けた肌、すらりと伸びた指先、胴体についた鋭い筋肉、バットを振るときの柔らかな腰つき……その男をじっと見続けているうちに、とうとう卑しい妄想にまで思考が到達してしまう。こんなにもあからさまな劣情が、本当に自分のものだとは思えなかった。己の意思とはまったく別の『発情せよ』という法則を、あるいは命令めいたもの感じた。

 もっとも今は、彼と顔を合わせることはなかなか叶わないわけだけれど。

「……わからないんだ。恋をしているのが『本当の自分』か……。あの感情は、わたしが生まれた以前からプログラムされていた遺伝子の指示なんじゃないのか……って」

 考えても仕方がないことだろう、と思う。

 それでも、空想は胸にしがみついて離れなかった。

 自分の意思が行動が、すべて遺伝子などという微細なモノに操られているのだと思うと……今まさに遺伝子の陰謀を空想している『自分』までもが、本当に自立しているのか危うく思われてくるのだった。遺伝子に思いを馳せるこの『自分』さえ遺伝子に指示された奴隷ではないのか? 自由意志があるのだと、遺伝子によって思い込まされているだけではないのか? ぐらぐらと、足下が不安定に揺れ始めるのだ。恐ろしかった。夜半にこの空想が浮かんでくると、とても寝付くことはできそうになかった。

「もしもその考えが当たっていたとして」綾瀬の顔をじっと見つめ、どこか興味深そうに微笑みながら「あなたはどうしたいの?」と、こう口にする。

「わたしは——」

 人間は、きっと自由でなければならない。

 自由に思い、自由に語り、自由に歩かなければならない。

 自由に、恋をしなければならない。


「ねぇ、綾瀬さん。こんな言葉を知っている?」

 朗々と、彼女は空でその一説を口にした。


 ——かりに、ある暴力が「人を人あしらいせず」、人あしらいしないばかりでなく、家畜にも劣る、塵芥同然のあしらいをしたとする。そうなれば人々は、家畜をうらやみ、「乱離の人は太平の犬に及ばず」の嘆息を吐くようになるだろう。そうなってから、かれに家畜とほぼ等しい格づけを認めてやるとする。


「どうなるの?」

 綾瀬の問いに、藤宮はまた引用を続けた。

「……そうすれば人々は、この統治に心底から満足して、太平を謳歌するにちがいない。なぜか。たとい人としてあしらわれないまでも、家畜なみには昇格したからだ」この意味がわかる? と彼女はいう。「原始の時代、人間には倫理も道徳もまして理性なんてものもなかった。本能のままにセックスするし、本能のままに他人を傷つけようとする。遺伝子の奴隷だったんだよ。やがて——」

 文化が生まれ、文明が発達し、やがて人間は理性を得た。

「それはきっと誤魔化しなんだよ!」綾瀬は天啓を得たかのように、思わず声を大にする。「わたしたちは自分の意思で動いているし、考えていると思い込んでる。法律も道徳も、ぜんぶわたしたちが作り上げたんだと考えている……でも、それは幻なんだ。根っこには昔も今も変わらずに『遺伝子』がいて、支配している!」

「うん、そうなんだよ」藤宮は静かにいった。「わたしたちは原始の時代に家畜以下の扱いを受けた……それが現代になって、やっと家畜程度に尊重されるようになったわけだね。でも、こんなんじゃいつまで経っても遺伝子の『奴隷』であることには変わらない」

 綾瀬は床に座ったまま、ベッドの上の藤宮を見上げる。

 この人は、自分の言葉をちゃんと理解してくれる——そう思うと嬉しくなった。あの男の代わりにしても、きっと、この子は許してくれるのではないだろうか? この恋心を、みな彼女に投影したって構わないのではないだろうか?

 ああ、そうだ。

 そうしよう。

「さっきのは誰の言葉なの?」

 藤宮は愉快げに微笑みながら、ベッドから床へ音もなく降りた。部屋の片隅に置かれていた北欧風の勉強机に、ついー、と滑るような足取りで近づく。机に据え付けられた引き出しを開けると、中には数冊の大学ノートと綺麗に削られた数本の鉛筆、そして一冊の本があった。

「中国の魯迅という小説家だよ」

「なんだか、聞いたことがあるような気がする」

「そりゃそうだろうね」綾瀬はいいながら、その本を取り上げた。見た目にはずいぶん古い本らしい、表紙が日に焼けているせいで題名がほとんど読み取れない。「有名な作家だもの。この本は一九六六年に刊行された、全集の三巻なんだ」

 差し出された本を片手で受けようとして——思い直し、両手で取ることにした。そんなに改まらなくっていいのにな、などと藤宮は苦笑する。

「でも、大切な本なんでしょう?」

 一節をそらんじることができるほど、読み込んでいる本なのだ。

 きっと、何か思い入れがあるに決まっている。

「そうでもないよ。たまたま古本屋で見かけただけだもの。……確か最初のほうに『燈下漫筆』というエッセイが入っていると思う、それが引用元なんだ」

 本からは、うっすらと太陽の匂いがした。

「ありがとう、本当に。今度来るとき、きっと返すから……」それから綾瀬は少し考え、改めて尋ねることにした。「ねぇ藤宮さん。人間はやっぱり、どうしても遺伝子の奴隷なのかな……わたしの意思が確かに『ある』って、どうしたらはっきりするのかな……」

 ——あなたなら、どうするの?

「それは難題だね、綾瀬さん」仙人めいた穏やかな様子で、再びベッドに腰掛けた。「全身の細胞から残らず遺伝子を抜き取るなんてとても現実的な話じゃない。意思の存在を証明するのは……多分もっと難しいかな。現代科学はいまだに『自我』を定義できない……というよりも、どちらかというとそんなものは最初からありっこないんだよ」

「ありっこない?」

「確かなのは物質だけさ。証明可能なのは脳の中で発生している電気的な波であって、その現象全体に『自我』という名前をつけている。ただ、名前の指し示す範囲があまりにも広く複雑だから、学者の間でちょっとした混乱が生じているというだけの話で……」つまり、と彼女はいうのだ。「最初から『自我』なんてものは存在しない。電気的な信号の総体を直感的にわかりやすく『解釈』するための『言葉』でしかない。……この考え方はほかの事柄にも適用できるよ。『鉛筆』などというものはない、あるのは『鉛筆』と呼ばれている物質だけだ——とかね」

「それじゃ、それじゃあ、いったいどうしたら良いっていうの?」

「できるのは、ただ遺伝子への隷属から『自由』になることだけなんだ。そこに『自我』があるかどうかは関係ない。そんなのは言葉遊びみたいなものでね」つまり、と藤宮は断言した。「人間であることを辞めればいいんだよ。ある種の自己催眠だ。人間をやめ、まずは動物に退行する。動物であることさえ辞めて、今度はそれ以前の……生命の起源、数個のアミノ酸だった頃に自分の意識を、感覚を戻すんだ」そうすれば、と彼女はいう。「少なくとも精神だけは、遺伝子の支配から逃れられる」

「そ——」

 そんなことができるとは、綾瀬には到底思えなかった。

「わたしたちの『自我』にはね、二重の『仕掛け』が仕組まれている。一つは遺伝子の支配——これは文明を持つ以前、まだ人間が『動物』であった段階ですでに仕込まれていた奴隷の入れ墨というわけだけど。そして二つ目が、遺伝子の支配を誤魔化して『家畜』の扱いをありがたがらせている『理性』『思考』と、ここから発生する『概念』なんだ。ほら、ついさっき玄関の前で話しただろう?」

「………………寄生、虫?」

 綾瀬の理解をとうに超えて、藤宮は淡々と言葉を続けた。

 それはどこか、説法を口にする預言者に似ている。

 話の内容はわからない。

 わからないが、しかし——

 夢中になった。

 うっとりと、心が惹かれていくのを感じた。


 やはり、この人を愛するべきだ。

 遺伝子の法則に従ってする男へのつまらぬ恋などは、不自由の極みに違いない。

 この少女への、生物の規則に逆らった恋心であってこそ、

 おそらくは、自分の本当の『意思』なのだから——


「大抵の人はね、脳みそを寄生虫にやられているんだ。生まれたばかりの赤子は別だよ? でも歳をとっていくにつれ、口から目から耳から鼻から……色々な場所から寄生虫に侵入される。感染から一週間も経てばこいつは脳に到達して、前頭葉なんかをごっそり食い荒らしてしまうんだよ」ほら、と藤宮は右腕を神崎に差し出した。「わたしも昔、散々寄生されたんだ。ここに細かな穴がある、こっちには皮下に細い空洞が見えるでしょう? 寄生虫が脳に向かって進んだんだろうね。……どうかな、小さい痕だからはっきりわからないかもしれないけど」

 綾瀬はじっと目を凝らした。それらしき穴も、空洞も見えない。ほっそりとした柔らかな腕には、むしろ痛々しい切り傷の痕が、小さく細かくあちこちに走っているばかりである。「この傷は?」

「寄生虫をえぐり出そうと思ったんだ」でも、と彼女は肩をすくめた。「動きが速くて無理だったね。今はもうやってないよ。色々と試行錯誤しているうちに、もっと効率的なやり方に気がついたからさ……ともかく」藤宮は自慢げに傷跡を撫でた。「ともかくこうやって虫は人間に寄生する。前頭葉なんかを中心に、脳を無茶苦茶に食べ荒らしてしまう。そして——」ここで再び、『ウオノエ』という言葉を口にした。

 脳を食い荒らした寄生虫は、出来上がった空洞にすっぽりを身体を収めるという。ちょうど『ウオノエ』がするように、脳の機能をそして代替し始めるのだ。寄生された人間は、だから見た目には以前とさして変わらない。歩くし、食べるし、呼吸する。

 ただ——寄生虫の果たす機能は、決して完全な脳には追いつかないのだ。

「さっきも話したでしょう? 『ウオノエ』がほとんど完璧に魚の舌に成り代われるのは、そこに複雑な機能がないからなんだ。でも脳となれば話は別だよ。どんなに進化した虫だって、完全な代替は至難の業だ。だから——」

 だから、手抜きをする。

 早合点をする。

 本来であれば行われたはずの、丁寧な思考を放棄して——雑に、類型的に、物事を型にはめてしまう。

「それじゃあ、ええと」綾瀬は小難しい話が得意ではなかった。飲み込めるのは曖昧模糊とした輪郭ばかりで、そもそも寄生虫の実在ですら信じ切ることができないでいる。「さっきの『概念』が寄生虫だっていう話は……」

「鉛筆を見るとき、『鉛筆と呼ばれる物質』ではなく『鉛筆』として考えること。それそのものを見つめるのでなく、抽象的な概念に当てはめてしまうこと。そういう雑な現実認識は、なにもかもすべて寄生虫の仕業なんだ」

 本当だろうか?

 藤宮がいうことであればきっと本当なのだろう?

 いや——それが真実『本当』なのかは、この際どうでもいいことなのかもしれない。大切なのは、ただ愛することなのだ。彼女がいうような理屈には、どうしても頭が追いつかない。ならやはり、自分にできるのは遺伝子の支配に逆らうこと——自然の摂理に反発し、この少女に恋をすること……。

 恋というより、信仰といったほうがいいのかもしれない。

 信じよう。

 彼女の言葉を、受け入れよう。

「そう、なんだね」

 綾瀬はこくり、と頷いた。

「そうなんだよ。わたしたちは寄生虫を駆除しなきゃいけない。試行錯誤を繰り返したけど、一番いい方法は『考えない』ことなんだ」得意げだった。他人に自分の考えを話すということが、たまらなく楽しいようだった。「寄生虫はね、自分が脳の機能を代替していないとき多大なストレスを被るらしい——三時間もそのままでいれば、もだえ苦しんで死んでしまう。だから、何も『考えない』でいればいい。わたしたちは人間から動物になる——なぜって、理性がないんだから——そして今度は動物であることさえ辞めてしまおう、ちょっとした自己催眠で『アミノ酸』になりきるんだよ。そうすれば、わたしたちは本当の意味で自由になれる! 肉体に刻まれた遺伝子から、精神だけは脱出できる!」

 藤宮は最後に、付け加えた。


 ——人間でも動物でもない、自我さえもないその世界こそ、


   □□□


「わたしを、きっと『ニルワヤ』に連れて行ってね」

「ああ、もちろんだよ」


 綾瀬はソファから起き上がり、うん、と小さく伸びをした。今から自宅へ向かっても、いつもの帰宅時間に間に合わないのは確実だろう。だがそれでも構わない。あの汚らしい、腐臭に満ちた家にいる時間など、少なければ少ないほど幸福に違いないのだから。

「もう帰るの?」

 などと寂しげにいう藤宮を見ると、カッターで刺したような控えめなへそがタオルの向こうに見え隠れしていた。あられもない格好を恥じる様子一つないのは、自信があるのか、客人を信頼しきっているのか……。藤宮自身の言葉通り、確かに下腹部がぽっこりと丸く膨らんでいた。仙人も、運動不足ばかりはどうしようもないらしい。

 ——服はどこだろう?

 あちらこちらを探して回り、藤宮の私室にぽいぽいと脱ぎ散らかされているのをやっと見つける。拾い上げると、あちこちがしっとりと湿っていた。汗だろう。『治療』の最中に汗を掻いて、それを流すために風呂を借りた——これなら一応、筋が通る。記憶にかかった白いモヤがどうにも鬱陶しく思えて仕方がない。

 鞄を携えて玄関に向かった。藤宮はタオルを羽織った姿のまま、どこかうっとりと微酔を帯びたような表情で、けれど同時に物足りないような雰囲気も醸しつつ綾瀬を見送りについてくる。背後から、ぺたり、ぺたり、と彼女の湿っぽい足音が聞こえた。

「それじゃまたね」綾瀬はいつものように別れを告げる。「学校に来るの、待ってるから」

 本当だろうか?

 自分は本当に、復学を待ち望んでいるのだろうか?

 この少女を愛するのなら、自分が彼女を独占しているこの状況をこそ永遠にしたいと願うべきなのではないだろうか——?

 不意に、そんな自問が脳裏に湧いた。

 わからない。

 にわかに、自分の気持ちがわからなくなった。

「ねぇ、綾瀬さん。ちょっとしたお願いがあるんだけどさ」

 ぐらついた内心を見透かすように、落ち着いた調子の声が響いた。渦を巻き始めた煩悶が、瞬く間に静まっていく。

「何、お願いって……」

「植物園に行きたいんだ」藤宮はいった。「今度、一緒に」


 背後でゆっくりと扉が閉まる。

 鍵がかかった。

 ——また、一人になってしまった。

 ——また、あの家へ帰らなければ。

 ぼんやりとした寂しさが胸にわだかまっている。

 ほとんど消えかけた夕暮れの下を、綾瀬は自宅へと歩き始めた。


 藤宮家は、駅からほど近く住宅街の真ん中にある。

 お世辞にも栄えている町とはいいがたく、最盛期の四割近い人口を過疎化と高齢化の波にさらわれていた。活気があるのは駅周辺の地区ばかりで、少し離れれば廃墟と空き地ばかりが大きな顔をしているのだった。人通りのないそうした土地にはバイクだのスポーツ・カーだのに乗った不良が夜な夜なたむろしていると聞くし、最近では妙なクスリの売人などが街角に突っ立っているという噂もある。

 綾瀬は、直角に交わった碁盤目状の道を進んだ。この辺りは、ちょうど過疎化した地域と駅周辺との境目に当たる地域といえる。立ち並ぶ家々の合間から、遠く、大福のような白いドーム状の建物が見えた。〈なかよしセンター〉というのだったか——仏教系の流れを汲んだ新興宗教の施設らしい。町の住人にとってみれば、道に迷った時のちょうどいい目印である一方で、うさんくさく実態のよくわからない不安材料でもあるのだった。

 ——あの大福と反対に向かえば、まず迷いようなく駅に着く。

 なるだけのんびりと歩きながら、綾瀬は色彩を失っていく空を見上げた。ゴミに埋もれた我が家まで、あと二時間は穏やかな心持ちでいたかった。彼女はスンスンと鼻歌を歌い、それからあの日——最初に藤宮家を訪れた日——に借りた本の一節を、小さな声で暗唱してみる。記憶力にさほど自信はないものの、印象的なごく短いフレーズくらいはそらで口にすることができた。


 一、奴隷になりたくてもなれない時代

 二、しばらく安全に奴隷でいられる時代


 魯迅という小説家は、中国の歴史時代をこの二つに大別できると主張していた。過去、人間は常に国家の奴隷か、それ以下の存在であったのだ——と。そして彼は、最後にこう結ぶのだ。『中国の歴史にかつてなかったこの第三の時代を創造すること、それが今日の青年の使命である』。

 そうだ、と綾瀬は思う。自分は創造するのだ。遺伝子に隷属しない、卑しく下劣な情欲から一切離れた純粋な『意思』による恋……生殖を目的としない、本当の愛……。


   □□□


 外出する際は必ずシャワーを浴びてからと決めていた。自宅の薄汚れた風呂ではなく、半時間ほど歩いた先のネットカフェで入浴するのだ。身体に付着した腐臭が落ちると、駅のコインロッカーに預けておいた外用の服を身につける。靴下から髪留めに至るまで、一切を汚れた我が家から隔離しておかなければならなかった。清潔でありたい。清浄でありたい。そんな強迫観念を植えられたのは、いったいいつのことだったか。

 道行く人が、みな自分を横目で睨んでいる気がする。通りすがった人の誰もが、後ろでひそひそとささやきあっているような錯覚をする。なんだか臭うぞ、とか……ちゃんと風呂に入っているのか、とか……吐き気がするな、とか……辛辣な陰口が聞こえてくるような気がしてならない。この頃は特にそうだった。

 被害念慮とか被害妄想とかいう類いの幻想だろうと、自分でもはっきりわかってはいる。わかってはいるから症状としてはまだマシなのかもしれないが……しかしそれでも、精神の不健康に変わりはなかった。

 思えばこの頃、要らぬ空想にばかりふけっている。

 どうせ考えるなら愉快な事柄にすればいいのに、浮かんでくるのはどうしてか憂鬱なものばかりなのだ。自分が遺伝子の奴隷なのではないか、というのもやはりその一端だろう。いっそ脳みそなどないほうが、どれだけ幸福だろうと思う。

 何がいけないのか——と、自問した。

 考えるまでもない。

 第一には、生活環境のどうしようもない穢れがあった。そして第二には、ひょっとすると忌々しい遺伝子が関係しているのかもわからない。聞くところによれば、鬱病の体質は親から子へ遺伝することがあるらしいから。

 ならば——と、また憂鬱な空想をする。

 いずれ自分も、母のようになるのだろうか?

 本当に、本当に、反吐が出るほどいやでたまらない未来だな——と、綾瀬はシャワーを浴びながら思った。ネットカフェのごく狭い浴室に、もうもうと湯気が立ちこめている。温かな湯が空想に病んだ精神をいくらか癒やしてくれる気した。備え付けの古びたシャンプーは、ほとんど泡立つことなく流れて消える。

 その日も、彼女は一時間かけて肉体に染みついた腐臭を流した。

 ロッカーから取り出したばかりの清潔な服を身につけると、辛うじて『普通の人』になれた気がする。脇だとか足の裏だとかに鼻を近づけ、自宅に充満するあの臭いがもはや残っていないのを確認すると、ようやく、胸を張ってシャワー室から足を踏み出す。

 ネットカフェの廊下には、寝不足らしい男女の組が腕を組みながら突っ立っていた。

 日曜日の早朝である。

 約束の時間には少し早いが、植物園へ行くことにした。


 ……綾瀬の母親が『何もしなくなった』のは、今から一年ほど前のことだ。父親との諍いの末ようやく離婚を果たして以降、部屋の隅に寝そべったきり、排泄のほかにはピクリとも動かなくなったのだった。食事でさえ、綾瀬が口に運んでやらなければまるで取ろうとしないのである。ふっくらと健康的だった四肢は痩せ細り、『何もしない』のではなく筋力の不足ゆえに『何もできない』のではないか——と、綾瀬が空想する程度には病的な様相を呈している。

 父親が毎月よこす慰謝料のおかげで、安アパートの一室に母娘二人で暮らす分には、生活が行き詰まることはない。綾瀬はそれまで通り学校に行ったし、生活に消費されたあとのちょっとした余剰で遊びに行くこともしばしばあった。ただ一つ、問題があるとするならば——部屋と、そして母親が汚れ黒ずんでいくことだったのである。半ば寝たきりの人間を労り、家を清潔に保つなど、綾瀬にはいくらか荷が重かった。

 無論、最初の頃は堆積していく汚れに対し多少の抵抗を試みはした。しかしひとたび『ゴミ屋敷』と呼べる程度に穢れてしまうと、もはや彼女に大規模な清掃を試みる勇気も、また気力も湧いてこなかったのである。

 家へ帰らなければ……家の戸さえ開けなければ、現実から目をそらして生きていくことができるはずだ。一日の大半を学校で過ごし、わずかな睡眠の時間だけをあの忌々しい部屋で過ごせばいい——彼女は、そういう道を選んだ。

 夜半にふと目を覚ますと、室内の至る所からカサカサと虫の足音が聞こえる。うず高く積まれたゴミ袋には妙な菌類が根を張っているし、飲みさしのマグカップを覗いてみれば中で数匹の蠅が溺れている。母親はまる一年風呂に入らず、ゴキブリのような肌をしていた。テカテカと脂ぎった黒い顔で、彼女はじっと綾瀬を見つめる——無気力な瞳だった。感謝も嫌悪も、およそ人間らしい感情のない、死んだような目をしていた。朝夕の食事をスプーンですくって母親の口元へ運んでやるたび、綾瀬はその視線にさらされて、いっそ死んでしまえばいいのに——と内心に呪うのが常なのである。

 部屋には、腐敗した排気ガスのような暗い臭いが充満していた。

 ——これが、

 これが果たして人間の生活といえるのだろうか?

 そんなわけはなかった。

 一年もろくに動かない、風呂に入らない、言葉も発しない、自ら食事をしようともしない。排泄の折には辛うじて——それでもかなり億劫な様子で——立ち上がるものの、この程度なら犬だの猫だのという畜生にだってできることだ。

 そうだ、『ちくしょう』なのだ——と、綾瀬は思う。かつて母親だった真っ黒い『これ』は、もはや人間ではなく『畜生』であるに違いなかった。

 だが——だとしたら、畜生を生かすために餌を運び、畜生の生活に脅かされ、畜生のためにあらゆる苦労を背負っている自分は、その畜生の奴隷ではないか? 人間にかしずくよりもはるかに下等な、奴隷とすら呼べない身分に貶められている『奴隷』ではないのか?


「どうして〈戸籍省〉に通報しないの?」


 入場ゲートを横目で見ながら、藤宮は怪訝そうに首を傾げる。

 開園まで、あとほんの十五分だった。

「それは……できないよ」

「だって、あなたのお母さんはもう人間じゃないんでしょう?」

 植物園は、駅前に建てられたビルの上層を丸ごと借り切って設置されているらしい。なんとかという巨大資本が、この不況にしては珍しく社会貢献の一環として運営を担っているという話だった。夏休みもとうの昔に終わった今、客足は今ひとつ伸びない様子で、入場ゲート前のエレベーター・フロアには人の姿一つない。

 ただ、二人だけぽつねんと並んでいる。

 それがたとえようもなく心地よかった。

「通報してしまったら、だって」当然〈戸籍省〉だって多少の治療は試みるには違いない。健全な人間として社会に貢献できるのでれば、それに越したことはないのだから。しかし綾瀬にしてみれば、精神科医の忠告だとかアルミに包まれた錠剤だとかが、あの『畜生』の姿を変えてしまうほど重大な要素とは思えなかった。「母が人間ではなくなってしまう……施設に一生閉じ込められて、家畜に……本当の『畜生』になってしまう。そうなればわたしの親権は父のものになるわけでしょう? それは、それは、」

「いやなの?」

 いや、などという生ぬるい言葉では表せなかった。

「寒気がする」綾瀬は吐き捨てるようにこう口にした。それでもまだ、嫌悪を語りきるには不足している。「何かを『する』っていうことは、何も『しない』ことよりもずっと面倒で厄介なんだよ……」

 思い出したくもない思い出が、脳裏にふと蘇った。

 母に欲情する父の姿……若々しかった母の美貌が少しずつ衰えていくにつれ、その代替を綾瀬に求め始める姿……じっとりと、舐めるように綾瀬を見つめる父の視線……。

「そっか」藤宮は何かを察したような、けれど同時に何もわかっていないかのような、微妙な表情で頷いた。「じゃ、仕方ないね」

「うん、仕方ない」

「お母さんのことは? 嫌い?」

 どうだろう、と自問してはみるものの、今ひとつ答えは定まらなかった。畜生となった母の姿はとてもおぞましくて見ていられない。ただただ純粋な嫌悪感をかき立てられているだけだ。だが果たしてその感情は、『母親』に対してのものなのだろうか? それとも『畜生』に対しての?

 いや——

 そもそも、畜生となった母親を『母親』と呼んでよいものだろうか? 娘を父親から救い出すためすり切れるまで戦った『母親』と、あの醜い『畜生』とが、いったい連続したものといえるのだろうか? 人間としての中身を失い、死骸同然の抜け殻となった畜生は、もはや見てくれだけ母親によく似た、けれど別の存在なのではないか? あたかも人間の肉体に犬の脳を移植したかのごとく……

 なら、話は簡単だ。

 何も悩むことはない——ただ自分は母親を愛し、また母親に感謝しながら、同時に目の前の不潔な畜生を憎めばいいだけのことなのだ。『親不孝だ』という自責の念も利己心への自己批判も、なにもかもが徒労だったと安堵できる。

「わたしは——」

 けれど、喉を出かけた返答は何となくうやむやになったままどこかへ消えた。不意に鳴り響いた開園のブザーが、騒々しく彼女の言葉を遮ったのだ。ぶぅぅぅぅん、という膀胱に響くような低い音がフロア一帯に反響している。

 入場ゲートが、ゆるりと開いた。

「楽しみだね、きっと面白いよ」藤宮は軽やかな足取りでさっさと中へ進んでいく。「新しく植物園ができたってずいぶん前に聞いてから、来てみたいとは思ってたんだ。でも、自分一人で見物するんじゃなんだか物寂しくていけないでしょう? 特にここのところは停学のせいで、ずっと家に一人きりだったし……綾瀬さんを除いたら、もう長いことマトモに人と話してないよ」だから今日をとても楽しみにしていたのだ——と。

「一人きり?」綾瀬は一呼吸遅れて追いかける。「家族は家にいないの?」

 植物園は広かった。

 無数のガラスケースが陳列された、だだっ広い空間である。ちらほらと係員の影がある以外、まるで人の姿はない。案内板に目をやれば目算三百平米はある展示場が、五つ階を重ねているらしい。入場ゲートを入ったところはちょうどその最下層で、汚れ一つないガラスケースが所狭しと並んでいた。

「いないよ。平日は二人とも仕事に行ってる」

「休みの日は?」

 展示場は碁盤目状に区分けされ、直線的な細い通路が縦横に長く走っている。両脇に並んだ汚れ一つないガラスケースには植物が一つ一つ収まっていた。奇妙に思えたのは、そうやって展示されたオジギソウやハエトリグサといった無数の植物の配列が、通常の植物園にあるような『種』や『科』といった基準に少しも沿っていない点である。一見して何の脈略もないような順番で、ただ雑然と置かれている。ケースの表にはプラスティックの説明板が貼り付けられて、細々と専門用語を並べていた。

「金曜の夜から月曜の朝まで、二人ともセンターに泊まってるんだ。だから家にはずっとわたし一人だった」

「センター?」

「大福みたいな形をしてる、例の……」

「大福……」

 ああ、〈なかよしセンター〉のことか——と綾瀬はやっと合点する。何とかという宗教団体がこしらえた、どことなく胡乱な施設である。藤宮家からそう遠くない。

「二人とも『信仰の自由』なんて題目でわたしをのけ者にしているんだ。成人するまでは、だから絶対にセンターに連れて行って貰えない……『自立してから、自分で信仰を選びなさい』って。娘を洗脳してしまうのをきっと怖がっているんだよ。ま、それでも本棚にはたっぷり教祖様の本があるし……だからわたしも、『ニルワヤ』なんていうものを知っているわけなんだけどね」

「ご両親のことは、好き?」

 返事はなかった。それきりじっと押し黙ったまま、どことなく悲しげな顔をして、彼女はスタスタ足を進める。両脇に陳列された植物に視線をやる素振りすらない。

 空調から溢れ出る冷気が、ごう、と軽やかに頬を撫でた。

「わたしの両親の話は」少しの間があって、藤宮はいう。落ち着いた、どこまでも静謐な声色だった。冷淡、といってもいいかも知れない。「よそうよ、別に面白いものでもないんだしさ」それより、と彼女は続けた。「植物の話をしよう、せっかくここまで来たんだから」

 ふと、綾瀬は握ったままのチケットに目をやる。安っぽい長方形の感熱紙に、金額だとか券種だとかが事務的な調子で長々しく連なっていた。そしてその一番下に、この植物園のコンセプトらしい文字列が控えめな様子で小さく配置されている。

 ——知性ある植物たち。

「結局、どういうことなの? これ」

 藤宮がずんずん先へと進むせいで、周囲の説明板には何一つ目を通せていない。この園が何を目指しているのか、脈略のない植物の列がどういう意味を持っているのか、綾瀬には何一つわからなかった。

「文字通りに取ればいいんだよ。植物神経生物学、っていうんだけど」事もなげに彼女はいう。「ここにはね、植物の知性に関する研究が——その歴史が——もっぱら展示されているんだ。オジギソウやハエトリグサ、コーニッシュ・マロウやインゲン豆、トマト、ヤクシマソウといったたくさんの植物たちが『知性』の研究を推し進める上で大切な役割を担ってきた……」こうした主題を持つがゆえに、ほかの園が従うような『種』や『科』といった基準が、あまり意味をなさないのだという。「ねぇ、綾瀬さん」藤宮はガラスケースの一つに目を留め、ピタリ、と唐突に足を止める。「本当に、植物が知性なんて持つと思う?」

 この少女にしてみれば、自分はひどく頭の弱い人間に見えているに違いない——と、綾瀬は少し憂鬱になった。しかしそれも、仕方のないことだろう。父親といい母親といい、彼らの血を受け継いだ自分がろくな人間になれないだろうということくらい、想像するのは決して難しい話ではなかった。

「わからない」正直に答える。「でも、植物が笑ったり悲しんだりするなんてとても信じられないけど……」

「あなたの感覚は間違ってないよ」藤宮は意外にも頷いた。それからじっと、興味を抱いたらしいガラスケースに透き通った瞳を向ける。「そも、問題なのは『知性』という言葉なんだ。『心』といい換えてもいいかもしれない。定義があやふやなまま議論ばかりが先行して、その言葉が何を意味するのか誰にもはっきりとはわからない……人間が『ある』と思い込んでいて、けれど今まで一度だって証明できていないもの……きっとそれが『心』なんだ」

 藤宮の視線を辿った先に、分厚いガラス板の向こう側で細長い葉が茂っている。内部に据えられた電灯に照らされ、植物はじっとたたずんでいた。説明板には簡潔に『大麻草』と記されている。

「証明できていないものが、どうして植物に『ある』といえるの?」

「単純な話だよ。人間と動植物との明確な区分が、どこにも存在していないから」

 本当だろうか? と綾瀬はいくらかいぶかしんだ。

「そんなの、嘘だよ。植物は動かないし、言葉も話さないし、人間や動物なんかとはぜんぜん違う生き物に見える……」

「嘘じゃない」藤宮は視線を大麻草へ向けたまま、よどみない口調で話を続ける。「植物は動くし、言葉も話す。ただそれが、動物には理解できないだけなんだ。つまり、文化が違うんだよ」

「文化?」

「動物の根本にあるのは『移動』でしょう? 餌や恋人を求めて広い大地を歩き回る。一方で植物は特定の場所に腰を下ろし、拠り所を求め蔓を伸ばしたり栄養を求めて根を伸ばしたりする。自らの身体を『変化』させることで生きていくんだ。この『移動』と『変化』という決定的な文化の違いが、人間が植物を理解できないゆえんなんだよ」たとえば、と彼女は続ける。「動物が間違った行動を起こしたら、すぐに引き返してやり直せばいい。だから『思い立ったが吉日』なんていってあっちへ行ったりこっちへ行ったり活発に素早く動き回れる。けれど植物の場合はどうだろう? 一ヶ月も掛けて蔓を目一杯伸ばしてから、失敗だったと判明しても、やり直すにはかなりの時間がかかるわけだね。つまり時間の感覚が違うんだ。動物の時間感覚からすると『動いていない』ように見えるけれど、植物は植物のペースで『動いている』し、そうした文化の違いによって知性が左右されるとは思えない」

「でも、植物が言葉を話したことがある? 第一、脳みそがないじゃない」

「あるんだよ、それが!」藤宮は愉快げに目を細めた。「言葉……これも文化の違いだろうね、動物は音声によって他人に上方を伝えるけれど、植物は揮発性の『化学物質』によってこれを行う。テルペノイドやベンゼノイドなんかを組み合わせた総計一七〇〇種類もの『言葉』があるんだ。刈ったばかりの芝生の匂いなんか、わかりやすい例でしょう——あれはね、身体を傷つけられた植物が近隣の芝生に対して発した『警告』『悲鳴』の一種なんだ。同種間だけじゃない、ほかの種との間にさえこうしたコミュニケーションは発生する。その上、学習能力、記憶能力、判断力……植物にはほかにも複雑な能力がたくさんある。これを可能にする細胞間の電気信号の伝達や、生成される化学物質には、動物や人間の脳で起こるものと質的な違いが認められない。人間の脳が興奮状態でドーパミンを生成するのと同じように、やはり植物もドーパミンを出しているんだ。植物の動物によく似た機能は、維管束の複雑な多層構造に集約され……」

 ——その多層構造が、人間の脳と同様に『知性』を産んでいる可能性は否定できない。

「そん、な」

 そんなばかな、と綾瀬は思う。植物のどこをどう見たって、人間や犬猫と同じように『悲鳴』を上げているようには思えなかった。自分が道ばたの草を踏むたびに、草はひっそりと激痛にもだえていたというのか——それは、いやな空想だった。

「面白い実験があるんだ」彼女はようやく大麻草から視線を逸らし、じっと綾瀬の顔を見つめた。「手術に使う『麻酔』ってあるでしょう? あれを食虫植物の入ったケースにたっぷり充満させるんだ。すると、」

 まさか、と悲鳴に似た声が漏れる。

 周囲にずらりと陳列された数千数百という植物たちが、みなじっとこちらを睨めつけているような——不意に、そんな錯覚をした。空調から溢れ出る冷気が、にわかに温度を下げた気がする。ガラスケースの内側に風など少しもないはずなのに、どうしてかざわざわと葉擦れの音が聞こえる気がした。

 何か、得たいのしれない魑魅魍魎に四方を囲われているような。

「植物が、眠るの……?」

「そう。人間や動物が麻酔で眠るのと同様に、植物もやはり眠ってしまう。麻酔にかかった食虫植物は、どんなに餌をちらつかせてもピクリとも捕食しようとしなくなる。『眠る』ということは逆説的にいつか『覚める』ということでもあるでしょう? 人間が目を覚ますように、動物が目を覚ますように、やはり植物も『目を覚ます』……つまり、麻酔が切れたあとに『覚める』のは『意識』に類似した状態だと推測できる」もっとも、と彼女は続けた。「こういう説を唱える人は、一つ重要な視点を欠いてはいるけど」

「どういうこと……」

「簡単な話なんだ。動物と植物が類似した神経構造を持っているという説は、ただ一つ『動物と植物の知性に本質的差異がない』と述べているだけからね。人間の隣に植物を置くか、植物の隣に人間を置くか……両者はどちらも平等に扱われるべきだろう?」

 導き出される結論は本来二つであるはずなのだ。


 一、植物は動物と同様に知性を持っている。 

 二、動物は植物と同様に知性を持っていない。


 人間が『心』だと信じずにはいられない『何か』は、電気信号の集積によってふと芽生えた幻想でしかないのだろうか。人間も犬猫もみな動かないあの植物たちと同じ存在に過ぎないとしたら、どうなるだろう。食虫植物が虫を自動的に捕らえるように、人間の覚醒時の行動も自我も自動的な反応でしかないのだとしたら……。

 ああ、それでは——と、綾瀬は小さくため息をつく。

 やはり知性など、意思などないのだ。人間が『心』だと思っていたのは、傷つけられた植物が化学物質を発するような、遺伝子によって刻み込まれた、自動的なプログラムでしかなかったのだ。

「知性なんてものはないのかな?」

「だろうね。結局のところわたしたちは、どこまでいっても遺伝子の奴隷なんだもの。この研究は、ただそれを科学的に裏付けたというだけのことだよ。少なくともわたしは、そういう風に解釈してる」

 遺伝子に逆らうしかないのだ——と、綾瀬は胸の内に呟いた。

 本当の自由意志を手に入れるには、それ以外に思いつかない。

 確信がより、深くなった。

 だが、頭のいい藤宮にはきっと違う意見がある。自分にはとうてい理解できない、とてつもなく深い考えが——あるのだろう。それがどういう理屈なのかは、さっぱり飲み込めないわけだけれど。

「アミノ酸になれば……ニルワヤに行けば……なにもかも解決するんだっけ?」

「そうだね、少なくとも自由にはなれる。そこに『心』があるかは問題じゃない。ただ遺伝子への隷従を脱して、何かを行動したのなら……きっとそれは本当の意味での『自由意志』と呼べるんじゃないかな」

 そのためには『考えることを辞める』のだ——と、以前に藤宮は語っていた。

「でも」率直な疑問を口にした。「考えない、なんてなんだか難しい気がするけれど」

「そうだね」と、彼女は微笑む。それきり黙って、ガラスケースに視線を戻した。「だから道具を使わなきゃならない。それも、お金を掛けずに用意できるような……自分の部屋で育てられる……」

 大麻草——。

 道具というのは、よもや、麻薬のことなのだろうか?

 麻薬を、自分で作ろうとでもいうのだろうか?

 綾瀬には、やはり目の前の少女の考えていることがどうにも理解できなかった。植物を眺める藤宮の姿を、彼女はじっと、愛情なのだか畏怖なのだかわからない目つきで眺め続ける。流れるような黒い髪、なだらかな曲線を描く細い首筋、透き通るような青白い皮膚……。線の細い整った横顔はどこか現実離れしいてて、やはり『仙人のようだ』という感想が浮かんだ。

「ねえ、何を——」

 考えているの、などと口にしかけたときである。藤宮が「うっ」と喉元を抑え、ただでさえ青白い顔を一層不健康に歪めながら勢いよく膝を落とした。乱れた髪の合間から、冷や汗にべったりと濡れるうなじが見える。「ごめん、ちょっとお手洗い」不安定な足取りで、ゆっくりと綾瀬に背を向けた。「ずっと引きこもっていたからさ、身体の具合がよくないんだ……それだけ……それだけだから……」

 それだけだ、とうわごとのように繰り返しながら手洗い場へと向かっていく。

 本当だろうか?

 綾瀬は、ふといやな空想をした。悪い癖だ、と我ながら思いつつ——しかし、一笑に付すことのできない生々しさが、その考えにはあるような気がする。

 ——丸く膨れた腹に、訪れる吐き気。

 ごくごく、単純な連想だった。

 もしも、

 もしもあの少女の腹の中に、新しい命が宿っているのだとしたら?


 手洗いから戻ってくる頃、

 ようやく吐き気が収まったのか、藤宮はいくらか血色のいい顔をしていた。

 そしてぽつり、と口にするのだ。

 曰く——

「ニルワヤの子供なんだ」

 と。

 綾瀬は、ふつふつと湧き上がる怒りを自覚した。


   □□□


 浴室が鮮血に染まっている。

 シャワーヘッドが湯をまき散らす。

 藤宮のうめき声が、やがて聞こえなくなる。

 死ぬ。

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