T/殺された少年一家について
人間を相手にしないのであれば——などと恐ろしく怠惰な言葉を臆面もなく口にしながら、赤尾は車を降りて一軒家の扉を開けた。自分勝手にもほどがある。神崎はすっかり呆れて、もはや文句をいう気力もなかった。
「見つかった死体は」タブレット片手に居間へ足を踏みいれながら、彼は淡々と口を開く。「両親と次男、それから犯人の計四つだった」
もっともそのうち完全な形で発見されたのは次男のそれただ一つで、残りは原型を留めないほど『ぐちゃぐちゃ』にされたあとではあったが。発見した警官二名は、精神に疲弊を認めて現在休職中であるという。
神崎は話に耳を傾け、半ば無意識に目の前の光景と重ね合わせた。
そもそも。
近隣住民から発せられた「何やら妙な匂いがする」「呼び鈴を押しても返答がない」「ゴソゴソと物音がするようである」などという怪談めいた一一〇番通報がそもそもことの発端だった。大家に鍵を開けさせて中を覗き込んだ二人の巡査は、腐敗した肉の臭いに顔をしかめ、ゆっくりと足を踏みいれる。電灯は消えていた。埃が積もっているわけではないにしても、ここ一週間ほど生活された気配のない、やけに陰湿な空間である。
板張りの廊下を慎重に進み、いくらか声を張りながら扉を一つ一つ開けてまわる。誰かいらっしゃいませんか——などとお定まりの文句に対して、言葉が返る気配はなかった。便所、物置、応接間……そして居間の扉を開けたた途端、部屋いっぱいに散乱した『肉』が見開いた目に飛び込んでくる。家族四人で座るにしてはやや大きめのテーブルに、腐敗し溶解した赤茶や灰色がべったりべったり貼り付いているのだった。
ぶぅん、と蠅が鳴った。
テーブルの周囲を無数の蠅が旋回している。鍵はかかっていたはずなのに、こいつらはいったいどこから家内へ侵入したというのだろう? 警官は現実逃避にも似た思索と共に、ゆっくりと『肉』に近づいていく。テーブルの下には真っ白い骨が山のように積まれていた。赤と白との対照が、チカチカと網膜に焼き付いて離れない。
警官の一人がしゃがみ込み、胃の中身をぶちまけた。
黄色っぽい液体に、摂ったばかりの昼食がいくらか入り交じっている。
もう一人は口元を押さえ、やはり青い顔をしながらも慎重な面持ちで辺りを見回し——そして、おや? と首を捻った。微妙な違和感。何かがおかしい。猟奇的な状況ではない、もっと単純な事実の部分に多少の狂いが生じている。
——ああ、少ないのだ。
肉が少ない気がする、というのが状況を眺めた第一の感想だったのだという。のちの現場検証や司法解剖を鑑みても、やはりその所感は間違っていない。床いっぱいに散らかった肉を残らず拾い集めてみたとして、ただの十キロにも満たないだろう。けれどテーブルの下に積まれた骨を人の形に組み上げたなら、立派な人体骨格模型が二つ出来上がってしまうのである。
「法医学者の話によれば」タブレット端末に表示された捜査資料に目を落としながら、赤尾は淡々と言葉を続ける。「組み上がるのは男女一対の標本で、どちらも立派な成人らしい。まず間違いなく父親母親の成れ果てってとこだろうな。骨には細く鋭い傷跡がびっしりと刻まれていたらしい」ほら、と端末の画面を神崎に向ける。「包丁で肉を削ぎ落とした上、部屋いっぱいにぶちまけたってのが一応の結論だ」
事件の起こった一軒家は今や綺麗に掃除され、どことなく陰鬱な空気を除けば、かつての惨状を欠片も匂わせはしなかった。居間にあったろうテーブルや棚、その他『肉まみれ』になった家具たちは一つ残らず処分されてしまったらしい。ただ真新しく張り直された壁紙に囲まれ、がらんとした空間が箱のように広がっている。寒々しい風景だった。
窓の外から小さく雨音が漂ってくる。先ほどよりも、いくらか勢いが和らいでいるような印象を受けた。
壁に据えられた電灯のスイッチに手を触れるものの、明かりがつく気配はない。パチン、と軽く虚しい音が空っぽの部屋に響くばかりだ。カーテンのない窓の向こうに、雑草の繁り始めた小さい庭とやや粉っぽい灰色の空が陰鬱な様子でたたずんでいる。
「死因は……」問いを半ば口にしながら、神崎は自嘲した。「いや、そんな状態じゃとても断定できないでしょうね」
「まあな」と赤尾は頷いた。「だが、何もわからないってわけでもない。ごちゃ混ぜになった肉片一つ一つのDNAを鑑定にかけ、三日三晩徹夜で分別した結果——父母の肉にはちょっとした違いが発見された」
分別を担当した人間に、神崎はほんの少し同情した。
「違いというと……腐敗、ですか」
「一つにはそれだな。父親の肉はほとんどが灰緑色に変化していて、一部はドロドロに溶けてたらしい。比べて母親はまだ辛うじて赤の色味を残していた。同じ室内でこれだけの差が生まれるなんざ、死んだ時期が違うとしか考えられねぇ。父親が死んでから母親があとを追いかけるまで、少なくとも一日は差があった——」それから、と彼は続ける。「見つかった違いはもう一つ、肉の量だ」
腐敗のより進行した——つまり父親のものと思われる肉は、収集されたうちわずか一キロを占めるばかりであったのに対し、母親のそれは九キロであったと報告される。
「腐敗していた分、溶解が早くて床に染みこんでしまったとか……水分がより蒸発した、なんてのも考えられるかもしれませんけど」
「どちらにしたって、合わせて十キロじゃ少なすぎる。一人当たり五十と見積もったって残り九十はどこに行ったって話だろ? 捜査員は床下だの天井裏だの、庭まで掘り返したそうだがただの一グラムも見つからなかった。無論、下水にだって見当たらないし、トイレの便器を当たってもルミノール反応一つ出ない」
奇妙な話だ、と神崎は思った。
いや——安易に『奇妙』などと口にすべきではないのかもしれない。それは単なる思考の放棄だ。謎を謎としてあるがままに受け止めるのが『奇妙』という言葉の性質であり、それは『謎の解明』を職務としている警官にとってもっとも縁遠くなければならない。
何よりも——
神崎自身、心の底では『奇妙だ』などと思っていない。
削ぎ落とされ部屋いっぱいに散らかった肉は、否応もなく凄惨な連想を喚起する。
自分はただ、目をそらそうとしているだけなのではないだろうか?
「おい、行くぞ。次だ」
気がつくと、赤尾はいつの間にか居間に背を向けていた。迷いなくさっさと進んでいく彼を追い、神崎も慌てて歩き始める。廊下の天井に目を向けてみると、装飾のない電球が暗い顔をしてじいっとこちらを見下ろしている。窓がない分、居間よりも廊下のほうがやや陰鬱な空気を濃くしていた。
「全体のブレーカーが落ちてるんでしょうか」
電灯をつけたらどうか——と暗に提言したつもりだったが、赤尾は別段気にしてはいないらしい。
「困るほどの暗さじゃねぇだろ」にべもなかった。その上「勝手につけちゃ大家に悪い」と、続く言葉には神崎も反論の余地がない。電気代を支払うのは何しろ自分ではないのだし、調査時間は何分ですからいくらの代金を置いていきます——などとはした金を渡したところで先方の時間を無駄に取るばかりであろう。
しかし、気分は陰鬱になる一方だった。
暗く、湿っぽく、その上ここは殺人のあった家屋なのだ。
「赤尾さん……やはり……食べさせたんですかね?」
恐る恐る神崎が尋ねると、
「だろうなぁ」呑気な口調で赤尾は答えた。「わざわざよそに投棄したってのも考えづらい。人間の胃袋を除いたら、ほかに肉の行き先なんかねぇだろう? 骨を何かに活用するってわけでもないしな」それから唐突に立ち止まり、前方に見えた扉を指さす。「死体は四つ。うち二つはリビングにあった。残りが——」
風呂場で見つかったのだという。
扉を開けると、人ひとり立つので精一杯なごく狭い脱衣所がある。右側に鏡付きの手洗い場、そして反対側に浴室へ続く磨りガラスの引き戸が配置されていた。正面奥の床面には洗濯機用の排水設備がうっすらと埃を被っている。居間と同じく、かつてあったろう家具の類いはことごとく撤去されていた。
伽藍堂である。
がらん、という音が耳に聞こえてくるようだ。
「ここの死体も、やはり……」
「いや、比較的カタチははっきりしていた」
赤尾はタブレット端末を神崎に向ける。表示された現場写真は、なるほど確かに、居間と比べればさほど凄惨ではないようだった。未発達な少年と七十近い老齢の男は、白黒のタイルを背景にして並び横たわっている。すぐそばに、血を吸ったネクタイと二つに折れた浴室用の物干し竿が転がっていた。
赤尾は引き戸に手をかける。
金属質の開音と共に、磨りガラスの向こう側が露わになった。
壁と床とに、びっしりと白黒タイルが貼られている。天井ばかりは乳白色ののっぺりとした様子をしていて、中央部分には電灯があった。スイッチに触れても、やはり明かりはつく気配がない。
入って目の前には縦長の鏡が据えられていて——事件後に新しいものがつけ直されたに違いない——水垢一つない綺麗な面が二人の刑事を映している。浴室の面積は目測するに四畳半で、その半分をミルク色をした安っぽい浴槽が占めていた。建物全体の広さからすると、やや控えめな印象を受ける。浴槽の上にできた空間は、洗濯物を干すためにしばしば活用されたらしい——物干し竿を引っかける金具が、あらかじめ壁に埋め込まれているのがわかった。
長いこと風呂に入る者はなかっただろう——一見して、水気はない。神崎にはそれがどうしても気味悪く思えてならなかった。雨音の聞こえる湿っぽい居間と、ここひと月ほど使われた形跡のない乾いた風呂——本来あるべき姿から、なにもかもがズレている。
雨だ、雨がいけないのだ。
雨を吸って重くなったから、心がどこまでも沈んでいくのだ。
彼は軽く頭を振って、目の前の風景に集中する。
「犯人は、年寄りのほうなんでしょう?」
赤尾は「おう」と、うなるように返答した。「そこまではいい。ところがここで少々厄介な問題が出てくる。居間にあった肉と比べて、二人は総じて『腐敗』の度合いが低かったんだが、ただ——」
両者の間にもまた、無視できない『違い』があったのだという。
曰く——犯人と目された老齢の男は、ネクタイを物干し竿に巻き付けて首吊り自殺を試みたらしい。もっとも、これはうまくいかなかった。竿の強度がいささか以上に不足していたからである。落下した男は浴槽の縁に頭部を強打、打ち所が悪く死亡したものと推測される。首吊り自体には失敗したが、自殺そのものには成功した、というやや間抜けな格好だった。
「それじゃ次男のほうは、自殺前の男に殺されたわけですか?」
いや——と、赤尾は首を横に振った。「犯人の自殺後に、ここで餓死したって話だぜ。よほど腹が減ってたんだろう、年寄りの大して肥えてもいない屍を一生懸命に食べながら……あんまり夢中で食いついたせいか、骨やなんかを乱暴に噛んで前歯のほとんどが欠けちまったみたいだな。それで何にも食えなくなった。ドロドロになった腐肉をすすって数日は耐えたらしいがね、腹を壊して下痢するわ、脱水症になるわ、最後には栄養不良で御陀仏ってわけだ。……まったく、くだらねぇ死に方だぜ」
「そんな——」そんなバカな、と神崎はうめく。「だって、犯人が目の前で死んでいたわけでしょう? なら警察に通報するか……でなければ外に助けを求めてしまえばいい」
「出られるんなら出たろうさ」と、吐き捨てるように赤尾はいう。「実際、生き残った長男のほうは犯人の自殺後に家を飛び出していたんだろうな。もっとも、助けを呼びはしなかった……というよりできなかったわけなんだが」この時すでに、少年は自身を動物と思い込んでいたのだろう。人の言葉をすでに失っていたのだという。「近所を素っ裸でうろついて、虫だの鳥だのを食いながら野良犬みてぇな生活をした挙げ句、身元不明の精神異常者として警官にあっさり保護されていた。……家の死体が発見される二日前のことだがな。この時点で、長男はすでに自分を『動物』だと思い込み、一切の人間的な仕草を拒絶している。与えられた服を着ないし、食事の際も箸やらフォークやらを使わない、無論言葉も口にしない……」それから、と付け加えた。「腹の調子がおかしいらしい、ってんで医者が胃洗浄を一度やってる。鳥の肉やら猫の肉やらに混じって、どうも『人の肉』が出たらしいな」
ああ、やはり食べたのだ。
胸の奥に、嫌悪感が渦を巻いた。
膨れ上がった嫌悪の念で、気がおかしくなりそうだ。
「それは——」
誰の肉です? と恐る恐る問うてみた。
「母親だった」
簡潔に、赤尾はいう。
神崎は脳裏に、事件の経緯を整理した。
——家族四人が揃ったところへ、老齢の犯人が唐突に押し入る。彼は自作の『人権委譲契約書』に家族全員のサインを要求。そして父が、次いで母が殺された。両者の身体は解体され、肉をナイフで削がれた挙げ句に、部屋へ散らかされた一部を除いてほとんどはどこかへ消えてしまった。次いで犯人が自殺した。残された二人の息子のうち、長男は外へ脱走し野良犬のような生活を送った。このときすでに、彼は自分を『動物』と認識していたのだろう。保護されたのち、彼の胃からは母親の肉が発見された。次男のほうはどうしてか家内に居残って、犯人の死体を食べながら死んだ……。
「父母の肉を削いだという、ナイフは? 台所ですか?」
「いや、犯人のポケットの中だった。元々この家のキッチンにあったのか、自前で用意してきたのかはわからないがな。骨についていた傷跡がほぼ百パーセント合致しているから、まず間違いないだろう。ナイフの柄から出た指紋は唯一犯人のものだけだった……」ああ、それから——と、赤尾は思い出したように付け加える。「ポケットには、例の『人権委譲契約書』も一緒に入っていたらしいぜ。記されていたサインは四つ、つまり一家全員分だから、作られたのは殺人より前だろう」
「変ですね」神崎は首を傾げる。「次男が脱走しなかったのもそうですし……ナイフを使おうともしなかったわけでしょう? つまり、自殺した犯人の死体から肉を切り取るわけじゃなく、直接に噛み千切ろうとしてたってことは」やはり、どう考えても変だった。「目の前で死んでいる犯人のポケットを、ちょっと探れば気がついただろうに……」
「ま、一見して不可解だよな。そもそも人間を食らうほど飢えてたってのも納得いかねぇ。家中あちこち……それこそ冷蔵庫なんかを開けてみりゃ、缶詰めだの袋入りの菓子パンだのがいくらでも転がっていたんだからよ」実際、と彼は続ける。「近所に一人暮らししていた女が——こいつは中学の教師だったか——犯人の滞在中と思われる時期に、大量の食材を買い出しに行く長男の姿を見かけている。子供には釣り合わない大量の荷物を、せっせと引きずっていたんだとさ。両親やら弟やらを人質にして、犯人が行かせたんだろう。買い物ができるくらいだから、このときはまだ『動物』ではなかったんだな……いや、与えられた仕事を従順にこなすって意味じゃ『犬』といえなくもないわけだが」ともかく、と赤尾は話を締めくくる。「この家には、そうそう飢える心配がないほど大量の食い物が蓄えられていたってことだ」
神崎は顔をしかめた。事件の全貌がわからないのも気分が悪い——だがそれよりも、この家で起こった出来事そのものが生理的な嫌悪を喚ぶのだ。居間で行われた死体損壊は食肉の解体を連想させるし、風呂場は言い訳のしようもなく食人の現場であったわけだ。そして何より冒涜的なのは『人権委譲』など題されたあまりにバカげた契約書で……。
「赤尾さん、犯人は精神異常者だったのでしょうか?」
そうとしか思えない。
神崎がこれまで遭遇してきた殺人は、どれも『殺す』という行為によって何か目的を達成しようという——つまり、ある意味では合理的といえなくもない例がほとんどであった。しかし今回の事件はまるで違う。ただ殺すのではない、人間の尊厳をとことん踏みにじってやろう——などという、邪悪な意思を感じさせる。それがたまらなく不愉快なのだ。
「おいおい、『異常』なんて言葉を軽々しく使うもんじゃねぇよ」赤尾は呑気な口調で答える。「人間てのは誰だって他人と違う性質を持ってるもんだ。それを『特徴』とするか『異常』とするかはあくまで恣意的な目線であって、客観性なぞ欠片もない。十九世紀にでも遡れば同性愛は立派に『異常』と見なされていたが、現在じゃ平凡な一嗜好でしかないわけだろう?」同じことだ、と。「少なくとも、事件そのもの、起こった出来事そのものと客観的に向き合うべきときに試すべき論理じゃないだろうよ」
「しかし、しかし——」納得がいかなかった。「そもそも世の中の人間は、大抵が人殺しなどしないまま一生を終えるわけでしょう? だったら殺人犯はこの上なく少数派で——つまり異常だ。だから法で裁くのでしょう。それだって『目的があってやむなく殺した』というならまだわかる、正常な人間の理屈からそれほど乖離しているわけじゃない。しかし——しかしこの事件は、」
常人の理解を超えている。
これは立派な、犯人像の策定ではないのだろうか?
「確かに——」と、赤尾は少し考えるような素振りを見せた。それからスタスタと浴室を出て、脱衣所の床に腰を下ろす。「ある集団の平均を『正常』と定義するやり方はある。日本では石原忍博士などが熱心に提唱したやり方だったか……その意味じゃ確かに殺人は『正常』ではありえないし、中でもこんな事例は特別に『異常』といえるかもしれない」
「そうでしょう!」いいながら、神崎も赤尾のそばに腰を下ろした。「やはり犯人の精神には異常があったとしか思えませんよ。まっとうな、理性的な人間であればこんな事件を起こすわけがない。それもちょっとやそっとの異常……金に目がくらんだとか、恨みが積もって抑えられなかったとか、ちょっとした錯乱じゃないでしょう。よほどの病気でもない限りとても説明はつけられない……!」
「バカ、少し落ち着け」赤尾は、じぃ、と目を細めた。いくらか不機嫌そうな面持ちである。「集団の『平均』を『正常』として、甚だしく逸脱したものを『異常』と定義するやり方には、一定の実用性があることにはある」
「でしょう、だったら——」
「だが、やはり客観的ではありえねぇんだ。第一に平均を取る『集団』の範囲をどこに設定するかという問題がある。日本の中じゃ日本語を話すのは『正常』だが、全世界ではあまりにも少数派なわけだろう? 日本国内の平均を取るか、世界全体での平均を取るか——ここにどうしたって恣意性が生まれる」第二に、と彼はいった。「ある特徴が『正常』か『異常』かを判断するとき、その『特徴』をどのように定義・分類するかが問題だ」
「……な、なるほど?」
神崎は首を捻った。
どうやらまた、赤尾のややこしい長話が始まったらしい。
「世界中の人間の中で『日本語を読み書きできる』人の割合と『言葉を読み書きできる』人の割合とを調べるがいい。平均的な日本人——日本語を読み書きできる日本人——を世界から見た『異常者』に仕立て上げたいのなら、前者と比較すればよいわけだ。日本語を操る人間なぞごくごく少数派なんだからな。一方で後者のデータを引けば、一転、『正常』と結論づけることもできるわけだ。ある特徴をどう定義するか、どの程度に抽象化するか、そこにどうしたって恣意性が生まれる」
「しかしそれじゃ、世の中に『正常』も『異常』もないことになってしまうでしょう? たとえば……そう、骨折だとか癌だとかの病気はどうなるんです? 明らかに治療が必要な『異常』も、あなたの見方からすると定義によっちゃ『正常』『健康』といえてしまうことになります」
赤尾はふん、と鼻を鳴らした。
「そいつはお前の勘違いだな。病は治療しなきゃならんだろう、健康といい張るわけにはいかねぇよ」
わけがわからない。
神崎はぽかんと赤尾を見つめ、ひょっとすると自分はからかわれているのじゃないだろうか——と、多少の苛立ちを表情に浮かべた。
「さっきからなんだかおかしいですよ。正常も異常もないといったり、いやあるのだといい始めたり……もっともらしい理屈を並べて、ペテンにかけてるのじゃありませんか?」
「おかしくなんかねぇよ」彼は憮然とした顔でこう口にした。「実際に『病気』と呼ばれる状態があるのは本当だろう。『骨折』という言葉で括られるような状態を、色々な患者が呈しているのもやはり本当だろう。だがな、そういう個別の状態に『病気』だの『骨折』だのと余計な言葉を付け加えて、分類を始めるのが嘘なんだ。それはあくまで便宜的なものでしかない。医者が治療を始めるのに一から病状を分析するのは大変な手間だ、だから統計と類型によって『過去にあった一連の事例とだいたい同じだろう』と分類してしまう。つまり手抜きだ。何かに名前をつけて分類するということは、それそのものを理解するのではなく、ほかのものと『だいたい同じ』だと早合点してしまうことなんだ。早合点でも概ね正しければ実用上に問題は生じないわけだからな」だから病気はあるのだ——と、赤尾はいう。「医者によって『病気』と名付けられたある種の『状態』なら、それは確かにある。だが無数の患者が呈した様々な状態を収集し、どれを『病気』と名付けどれを『健康』と断ずるか——ここには明らかな恣意性がある。俺がいっているのはそういうことだ」
わかったようなわからないような、煙に巻かれたような気分だった。
「ええと、つまり」神崎は少し考えて、自信なさげに問うてみる。正常だの異常だのという便宜的な分類やレッテル貼りはよそにして、まずは目の前の事件にだけ集中しろ——と、つまりこういうことですか?」
「ま、概ねそんなところだわな。『手抜き』といったが、『分類』それ自体が悪いわけじゃない——俺だって今日『自殺の分類』を試みたばかりだろう? だが、今この事件に向き合うべきとき、起こった出来事を客観的に分析すべきとき、それを初めから放棄して分類ばかりを先行させるのは考え物だぜ。分類——つまり『解釈』ってのは、まず出来事を完全に把握したあとですることだ。基礎と応用でいうのなら、出来事の正しい理解が前者で、解釈や分類が後者といえる。俺たちはまだ応用の段階には達しちゃいない」
いったいどれほど面倒な男なのだろう、と神崎はうめいた。長々と厄介な理屈を展開しておいて、いいたかったのはただそれだけの結論なのか。迂遠にもほどがある。
同僚からのけ者にされるのも納得だった。
しかし——と、神崎は考える。こうして結論だけを拾ってみると、もっともだと思わなくもない。犯人が精神に何か病を抱えていても、あるいはそうでなかったとしても、重要なのはただ法に反したという事実だけだ。人間は法に従って生き、反した者は罰せられる——神崎にとって問題なのは、そして彼の信念に関わってくる部分といえば、畢竟、そこだけなのである。
人間とは、法に従える生き物を指す。
彼はそう、思っている。
「分類や名前が手抜き、か」神崎は肩から力を抜いた。「それじゃあなたは『人間』なんて言葉にもやっぱりケチをつけるんだろうな。目の前の存在をただ見つめろ——とかなんとかいって。どうも、抽象的な議論は苦手ですよ。なんだかよくわからない、僕には無関係の事柄みたいに思えてきて」
「——————む、」
赤尾は少し難しそうな顔をしてから、返事もせずに立ち上がった。
気がつくと、先ほどまで聞こえていた雨音がさっぱりと消えている。止んだらしい。静寂が家いっぱいに充満する中で、がらんとした脱衣所は一層その寂しさを増していた。
「どこへ行くんです?」
「帰るんだよ。……しかし、『無関係』ね」赤尾は振り返りもせず、不機嫌そうにこういった。「どこまで自覚がないんだか……まったくバカだよ、お前は」
自分は何か、気に障るようなことをいったのだろうか?
神崎は首を傾げながら、その背中を追いかけた。
扉の外に踏み出すと、湿ったアスファルトが日の光を反射している。先ほどまで濁っていた空模様は、すっかり青に変わっていた。透き通るような薄い雲が、ゆったりとどこかへ流れていく。
快晴だった。
雨の匂いがまだ涼しげに漂うものの、夏の日差しは早くも町一帯を容赦なく熱し始めている。駐めていた車は、まとった水滴のほとんどをすでに蒸発させている。
フロントガラスから差し込む光で、座席がほんのりと温められているようだ。
神崎はハンドルを握った。
住宅街を抜け、再び大通りに出る。
人通りのない道を、署へ向かってまっすぐに進む。
雨が、水がないせいだろう——とても気分がいい。
何号線だかよくわからないやたら直線的な国道に入った。
不意に、
「なぁ——お前は『人間』をどう定義する?」
赤尾が口を開いた。
「法を守る者が、人間でしょう」
それは彼の信念だった。
「もう一つ、質問だ」赤尾はまた問うた。「人間にとって、果たして『人間』であることは幸福だろうか?」
彼は、答えなかった。
□□□
署の駐車場に到着すると、エンジンを止める間もなく赤尾はさっさと降りてしまった。どうせ喫煙所に向かうのだろう、と神崎は思う。放っておけば捜査会議さえすっぽかしかねない。赤尾の『喫煙所好き』は、同僚の間でも有名だった。煙草は高い、だが若い頃に散々吸っていたせいでニコチンを切らすと胸がむかついてたまらない——曰くそういうわけで、彼はもっぱら受動喫煙にふけっているらしい。他人の咥えた煙草から出る副流煙を目一杯吸う——喫煙者ではない神崎からしてみると、どうも気分がいいとは思えなかった。もっとも他の愛煙家からもあまりよい評判は耳にしないので、あながち間違った感覚でもないのだろう。変わっているのは、きっと赤尾のほうだった。
「実用の面からいうと、あながち間違ったやり方でもないらしいですがね」
自動車を降りて何となく休憩でもと署の裏手に回ったところで、不意にそんな言葉を耳にした。神崎ははてと首を捻る。赤尾を擁護するようなことを口にしたのは、目の前の巡査が初めてではないだろうか? 大抵は疎んで、無視するか罵るかの二択であるのに。
「そうかなぁ」
「そうですよ。主流煙と比較して、含まれてるニコチンは二十倍くらいになるそうですから。まあ旨くはないでしょうけど、単純に化学物質の摂取と思えばタダだし早いし……」非番だという私服の巡査は、こんなことをいいながら自販機のボタンに手を触れた。冷たい缶コーヒーが二つ、受け取り口に落っこちてくる。「それで先輩、実際のところどうなんです? ほら、例の事件ですよ」
缶を取り上げて、片方を神崎に放ってよこした。よく冷えているらしい、コーヒーは早くも汗をかき始めている。無数の水滴が缶の表面に貼り付いて、しとしとと掌に心地よい。
署の裏手、職員用の駐輪場にほど近く配置された自販機は、利用者が少ないおかげなのか、よく冷え温かく品切れがない——と、一部の職員に評判だった。しかしいくら冷えたコーヒーがあるとはいえ、この暑い中をわざわざ署の外へ出るよりは、建物の中で涼んでいたほうがはるかに経済的なのは誰にでもわかる事実である。周囲を見る限り、神崎と巡査以外にひと気はない。
すぐそこに見える屋根付きの駐輪場で、鍵のかかった通勤自転車がゆらゆらと微風に揺れていた。ストッパーが中途半端になっているらしい、今にも横倒しになりそうだった。
「どうといわれても——石沢、なんだってお前がそんなことを気にするんだよ」
巡査は「いや、まあ」と言葉を濁す。
「はっきりいえよ、どうしたんだ」そもそも、と彼は続ける。「非番だってのにお前が署まで出しゃばってくるのも妙な話だ。何か隠してるだろう、間違いない」
石沢という男は、神崎の警察学校時代の後輩である。サボり癖やら収集癖やら、性に関していくらかだらしなさがあるようで、しばしば教官にこっぴどく叱られていたのをよく覚えている。
赤尾に似ているといえるかもしれない。
自分はよくよく、こういう連中に縁が深いらしいぞ——と、神崎は少し悔しくなった。
「何といいますか、その」石沢巡査は少し考えてから、意を決したように「殺されたっていうあの少年は、つい昨日、動物園に収容されていたでしょう? 職員と園長、それから警察からも一人立ち会わせることになってたんですが——つまり、それが自分だったんです」
「何ぃ?」神崎は缶コーヒーのフタを開け、ぐい、と中身を一息に飲み干した。冷涼な苦味が、心地よく喉を流れていく。「それは初耳だったなぁ。しかしやっぱりわからないな、だからって何でお前が事件を気にかけるんだよ」
「そりゃ——あの少年が、変なやつだったからですよ」
「変? 変って、まあそれはそうだろうさ。自分を『動物』だと思い込むなんてなかなかない事例だからな。その上それが、殺人犯の『調教』だって話だし……」
「違いますよ!」巡査は妙に深刻そうな、それでいてどこか好色そうな表情を浮かべた。「その……あいつ、アレをおっ勃ててたもんで……」
「勃ててただぁ?」
神崎はのけぞった。
そうだった、そういえば石沢というのは昔からこういう男だった。警察学校の寮内である種のポルノ写真を流通させていた犯人は、何を隠そう石沢現巡査なのである。その事件に巻き込まれ、神崎まであわや退校処分となりかけたことを今でもよく覚えている。
「いやね、ただ単におかしくなっちまったってんなら別にどうということもないんです。ただ、勃ててるとなると話は別でしょう? 興奮してる、喜んでるってことですから。まさか本当の動物じゃあるまいし、発情期なわけはないですからね……となると、いったいあいつは『何に興奮していたのか』という問題が……」
「下らないよ、石沢」ため息をつきながら、空き缶を自販機の脇のゴミ箱へ投げる。「低俗なのが悪いとはいわないけどな、これは殺しなんだ。少しは被害者に敬意を払うべきじゃないのか? それだからお前は——」
「それだから出世できないんだ、ですか?」巡査はちびちびとコーヒーで舌を湿らせた。「別にいいでしょう、出世ばかりが人生じゃありませんよ」それに、と彼は胸を張る。「人間てのは低俗なもんです。自分はポルノが好きだし、先輩だって好きなはずだ。男はみんなどこかしらエロに興味があるもんだと思いますがね」
「そりゃそうだけどな……生殖の機能が備わってる以上、興味を持つのはごく自然な話だよ。しかし僕は、理性でもってそれを抑えろといってるんだ。場面によっちゃ『自然』な性質も『不適切』になり得るんだから……」
わかってないなぁ、と石沢は呆れたように神崎を見る。
「生殖機能なんて、猿にも犬にも魚にだってありますよ。大事なのはそこじゃない、自然に備わった機能じゃなくってもっと高等な……つまり、生殖を目的としない性衝動にこそあるんだな。ポルノなんてその代表です。SMなんかの倒錯したエロティシズムだってやっぱり同じ意味で反自然的、文化的といえるでしょう? 文明的、とさえいったっていいかもしれない。優れた文明にはいつだって優れたポルノがつきまとうんです」
乱暴な話だ、と神崎は思った。
しかしその雑さが石沢という男の美点でもある。清く正しい道徳などからはほど遠く、警官としては少々不適格ではあるものの、『不徳である』という一本の筋だけはまっすぐ通っているのだった。だからこれまで、免職にならずに済んでいるのだろう。無論、同時に決して出世もできないわけだが。
「ともかくさ」コーヒー代くらいは話してやろうか、という気分になっていた。「それでお前はどうしたってんだ? 勃っていた、だから何かに興奮していた、ここまではいい。だがそこから話がどう続いてくんだよ」
「先輩は、何に興奮していたんだと思います?」
「何にって——」
わからなかった。
返答に窮する神崎を見て、石沢はまた呆れたような顔つきをする。
「ダメだなぁ、先輩は。いいですか、アレは単に裸になったんで興奮してたわけじゃない。警察に保護されるまで何日も、素っ裸で『動物』みたいな生活を続けていたんですから。何よりわたしは、動物園へ輸送中にあいつが勃起してるのを一度も見てない。つまり、」
檻ですよ——と、石沢はいった。
「そんなバカな!」
「ほかにないでしょう。勃起するかしないかの違いは、檻に入るか入らないかの違いでもあった。少なくともここには相関がある。なら、こいつを因果関係と解釈するのはそう難しい飛躍じゃない——自分は、そう思います。あれは檻に入れられて興奮していたんだ、喜んでいたんだ!」石沢の語調が激しくなった。唇の端から、細かな唾液の粒が飛んだ。「間違いない! ありゃかなりの変態ですよ! 頭では自分を『動物だ』なんて思いながら、その実、下半身はいかにも人間らしく倒錯した興奮を物語っていた! とんでもない矛盾でしょう、だから、だから、」
——だから、その行く末が気になるのです。
神崎は、わからなくなったぞ、と思った。
今まで自分は、あの少年がまるきり完全な『動物』として振る舞っているものと考えていた。しかし必ずしもそうでないなら、少年の振るまいはどのような基準によって決定されていたのだろうか? 人間的な常識はなく、しかしかといって完全な動物でもないのなら——
「檻に入れられて興奮するなんて、そんな話があるだろうか?」
「まるきりないわけじゃありませんよ」石沢はいう。「ほら、マゾヒズムの延長線上なら十分ありえる気がしますけどね。人間としての尊厳をまったく失う証ですから……その意味じゃ、殺人犯に書かされたっていう『人権委譲契約書』なんてのもやはりSMのような印象があるし……犯人に痛めつけられるか何かして、それに適応し耐えるために『自分は動物だ』『動物であることが幸せだ』なんていうマゾヒスティックな自己暗示をかけたって可能性はなきにしもあらず、かな……」
となると、犯人の側もサディストであったということになるのだろうか?
いや——これではいけない。
赤尾に説教されたばかりではないか。
こんな論法は、精神異常を疑うのと大差ない。
妙なレッテル張りや先入観は、捜査の邪魔になるばかりだろう。
「ま、考えたってわかりっこないさ。本人に聞いてでも見ないことには……」
しかしそれは、もう永遠に叶わないのだ。
神崎は、いくらかの基本的な捜査状況を石沢にかいつまんで話し聞かせた。
一家惨殺事件——居間にあった肉の量が人間ふたり分に達しないこと、次男の死亡状況が不可解なこと、犯人のポケットにナイフと『人権委譲契約書』が入っていたこと。
動物園での少年殺害事件——上方に突き出た木の枝に喉を貫かれて死んでいたこと、死体の腕に『ニルワヤ』という真新しい刻み痕があったこと、排泄されたばかりと見える湿った大便が落ちていたこと、大便は警官の到着を待たず職員に片されてしまったこと、大便の存在を前提にすると死亡推定時刻が発見の直前に絞られること、発見者の飼育員が現れる前すでに女性教諭が檻の中を覗いていたこと、女性教諭が立ち去ってから飼育員が死角にあった死体を見つけたこと、飼育員が来た時点で鍵は確かに閉められていたこと、鍵は八時半から飼育員が持ち出すまでに誰も手を触れていないこと——
つまり、少年の死亡当時に檻は密室であったこと。
「証言の裏は取れてるんですか?」
「どちらかというと、ほかの刑事が集めてきた証言を裏取りしている立場かな……ほら、僕も赤尾さんも仲間はずれにされてるわけで。発見者の飼育員なんかに事情を聴きにいったのも、結局はほかの連中が忙しかったってだけのことだから……」
情報収集の一線からは、やや退いた位置にいるのだ。
署の内部ネットワークには、すでに監視カメラの映像や関係者の証言が続々とアップロードされている。神崎が聴取した内容は、それらの内容が間違いないことを保証するものでしかない。さして新しい情報はないのだ——それこそ、『自殺する動物がいるか』などという雑談めいた話を除けば。
改めて自分の待遇を思うと、赤尾がやる気を出さないのもなんだか頷けるような気がしてくる。真面目に働くだけ損かもしれない。官給のタブレット端末を両手に抱え、データベースの捜査資料を斜め読みでもしていれば、神崎が今日手に入れた情報のほとんどすべてがあらかじめわかっただろう。事件を解決するだけなら、聴取などせずとも用は足りる。
「しかし、密室ですか……」石沢は我関せず、といった様子で反芻した。「大変ですね。刑事課は何かと細々とした形而下の事項に悩まされてばっかりだそうで……」
どうやら『けいじか』で掛けているらしい。
「下手な洒落は人を苛立たせるばかりだよ。警察学校で何度も忠告したはずだけど」
刑事課に比べて、巡査は形而上のことにかかりきりだとでもいうのだろうか? それこそ赤尾でもない限り、この職場で抽象とは無縁であろう。
石沢はへへへ、と決まり悪そうに頭を掻いた。
「それはそうと、結局のところ密室の種はなんだったんです?」
「わからないよ。わからないから密室なんじゃないか」
神崎は件の檻を想起する。二重の扉を破るのはちょっとやそっとの手間ではないし、鍵を使って入るのも無理、まして隠し扉などあるはずがないし……。
「地下に穴を掘ったってのはいかがです?」
シャーロックホームズにそんな話がありましたかね——と得意げにいう。
「さすがにそれはないだろうな。僕や赤尾さんの検分はいい加減だったかもしれないけど、刑事課のほかの連中だとか鑑識さんなんかはかなり徹底してたはずだから」
そんな大胆な痕跡があれば、とうに気がついているはずである。
「それじゃ自殺ですか?」
「いや——」
違う、という結論を神崎はすでに出していた。
「はっきりしないなぁ、どうしたっていうんですか? まさか透明人間なんかがすり抜けたってわけもないでしょうに」
不可能犯罪が本当に『不可能』であるのなら、それはそもそも犯罪ではない。不可能なものはこの世に存在し得ないからだ。だからあらゆる密室は、それが現実の物理法則に従う限り必ず解かれる必要がある——神秘的で不可解な『謎』は、必ず世俗のつまらないトリックに引きずり下ろされる宿命なのだ。
そう、だから本当の意味では『密室』などというものは存在しない。
密室のように見えた『何か』というのが、その実態だ。
もしかすると——と、神崎は思う。『密室』という言葉がいけないのかもわからない。赤尾の言葉を借りるなら、そういう『名前』や『分類』はみな早合点の手抜きなのだ。事件そのものを正面から見つめる上で、そんなレッテル貼りは何の役にも立たないのだから。
つまり——
あの檻は密室ではない。
密室に見える、しかしつまらない仕掛けの産物である。
あるいは仕掛けですらない、単なる偶然を『密室』と錯覚しているだけなのか。
「…………………………あ、」
思いついた。
いや、正確さを期するなら『気がついた』と表現するのが正解だろう。
気がついて当然のことに、今ようやく思い至った。
密室なのだ、という先入観が邪魔をしていたのだ。
ぽかんと口を開けた神崎を、石沢は珍奇な目で眺めている。
「どうしたんです?」
そうだ。
最初から、閉ざされてなどいなかったのだ。
「隙間だよ、石沢」彼はうめく。「密室なんてとんでもない! あの檻は、あんなにも隙間だらけじゃないか!」
□□□
案の定、赤尾は署内の喫煙室にふんぞり返って副流煙に鼻をひくつかせていたらしい。周囲で吹かしていた面々はみな一様に気味悪そうな目で彼を睨めつけ——神崎が扉を叩いた途端、ほっとしたように口元を歪めた。
——おい神崎君、早く彼をなんとかしてくれ!
いわれないでもそのつもりである。
首根っこをむんずと掴み、抵抗の間もなく引きずり出した。そのまま廊下を駆けて署を飛び出し、自動車の助手席に放り込む。赤尾は初めこそ文句を垂れながら、しかし神崎のただならぬ様子を見て口を閉ざした。
「先輩、いったいどうしたっていうんですか!」
後部座席はすでに石沢が乗り込んでいた。
「そうだ神崎、まずはわけをいえ」
「わかったんですよ!」アクセルを踏みながら、叫んだ。「あれは初めから密室なんかじゃなかったんだ!」
日はすでに傾いている。
青かった空は、徐々に赤みを増していった。
緩やかにカーブする県道を進み、自動車は動物園にまっすぐ向かった。先刻のドライブと同様に、人の往来も車通りも見当たらない。あれだけ激しかった雨の痕は、アスファルトのごくわずかな湿り気を残してすっかりなくなっているようだった。
「密室じゃない?」石沢は怪訝そうな顔で尋ねる。「どういうわけです?」
「赤尾さん、考えてもみてください」ハンドルを切りながら、神崎はいった。「そもそもあの『密室』を密室たらしめているものは二つあります。一つは——」
「一つは檻、そしてもう一つは湿ったクソだな」赤尾が先を引き受けた。「あの空間が実は密室でないのだとしたら、考えられる盲点はこの二つのどちらかにある」
「そうです。僕らは二重扉に鍵がかかっていたこと、そして死亡推定時刻に第三者が鍵を開けられなかったことを根拠として、あの檻を『密室』と名付けてしまった。そして極めて狭い範囲に断定された死亡推定時刻は——ごく大まかな法医学的な推測をよそにして——例の『湿った大便』を根拠としている。これは発見者の飼育員やほかの野次馬の証言などからも一応の裏付けがなされています。実際、野次馬の手でSNSに投稿された事件現場の初期の映像にはそれらしい影が映っている……」
「でも先輩、その『湿った大便』は片付けられてしまったわけでしょう?」
「そうだよ、片付けたのが誰なのかも、どこに捨てられたのかもよくわからない。現場は混乱していたからね、しっちゃかめっちゃかだったんだ。だから警察の側では誰一人としてその存在を確認していない……つまり、」
その大便が本当に少年のものだったのか、わからないのだ。
現物さえ残っていればDNA鑑定ができたろうに。
もはや、叶わない。
「なるほどな」赤尾はニヤニヤと愉快げに口元を歪めていた。「それじゃいったい、犯人はどうやってあの少年を殺したんだ?」
市街地を抜けて、自動車は動物園にたどり着いた。閉園間際の駐車場にはほとんど人の姿がない。満杯になれば数百台は入るだろう広大な敷地が、今はただ宙にさらされていた。今から入ってもぜんぶまわりきれませんよ——などと静止する職員を押しのけながら、神崎は警察手帳を高々と掲げる。入場ゲート脇にある職員用の入り口を抜け、無数の檻が並ぶ中をせっせと駆け足で抜けていった。
アスファルトで舗装された見物客用の細い道は、うねうねと曲がりくねって進みづらい。まっすぐに行けばほんの数秒であろう距離を、下手をすれば五分もかけて歩かされるのだ。
左右には檻が配置されれ、収容された動物たちが胡乱な瞳で神崎を見る。
不眠症のアフリカ象が、ぶふふん、と寂しげに鼻を鳴らした。
何か事故でもあったのか、黒焦げになった王様ペンギンを運ぶ飼育員とすれ違った。
見物客はすでに大半が帰ったらしい——動物の蠢く物音を除けば、昼間に訪れたときの喧噪はどこかへ消えてしまっている。
「待ってくださいよ」石沢の声がやや遠く聞こえた。「先輩ってば!」
赤尾の足音はすぐ背後にあるというのに、あの俗な巡査は日頃の鍛錬をすっかり欠かしているらしいぞ——神崎は呆れた。
事件現場である古ぼけた檻は、真っ青なビニールシートで四方をぐるりと囲われている。手間を惜しんだのか必要ないとの判断なのか、天井だけは覆われることなく括られたトタン板を露出していた。青色をした立方体がぽつねんとたたずむ格好は、端から見るとどこか動物園には不似合いである。周囲に立ち並ぶ無数の檻がどれも実用に富んでいる分、何の益にもならないそれが一つだけ妙に目立つのだった。
青い立方体の周囲には、グルグルと『立ち入り禁止』を示すテープが張り巡らされ、野次馬の牽制役に選ばれたらしい数名の警官がじっと怖い顔をして立哨している。
「刑事課の神崎です」失礼、とテープの下をくぐり抜け、檻のすぐそばに駆け寄っていく。それからじっと天井のほうに目をやって、「なんだかよく見えないな」と不満げにぼやく。「赤尾さん、中に入りましょう」それから後ろを振り向いて、汗まみれの石沢を見つけた。「……おい、お前はなんだか情けないぞ」しっかりしろ、と頭をはたいて、さっさと扉のほうに向かって歩く。
石沢は悔しそうな顔をしながら、しかし荒れた呼吸を戻すのに今は精一杯であるらしい、何も言葉を返さなかった。
二重扉に鍵はかかっていなかった。昼間から今の今まで、ずっと解錠されたままなのだろう。踏み入れると、死臭と土の混じった臭いがむっと中に淀んでいる。ブルーシートとトタンに覆われ、密閉とまではいかないものの、通気性は皆無だった。
神崎はひょい、と天井を見上げる。敷き詰められたトタン板が淡い夕日を遮っていて、中はひどく薄暗い。四方のシートを透過した陽光が辛うじて視界を保ってはいるが、それでも明瞭とはいいがたかった。
暗い。
足下に敷かれた腐葉土など、細かな凹凸の一切が薄暗がりに沈んでいて、黒くブヨブヨした得たいのしれない何か——といった印象である。内部に植えられたいくらかの木々が、風もないのに、ぞうぞう、と揺れた。
「なんだか陰気なところだなぁ」
あとから入ってきた石沢が、周囲をぐるりと見回していう。
「それで結局」神崎の横に立ち、赤尾は尋ねた。どことなく面白がっているような、薄笑いを浮かべている。「どうやって殺したというんだ?」
「そうですね——何から話したら良いか、ええと」
密室を成り立たせる要素は二つあった。時間的に不可能犯罪を支える『大便』と、物理的に犯行を阻む『檻』。前者が示唆する死亡時刻は、しかし後者によって犯行不可能と否定される……この矛盾が、つまり『密室』の内実だった。
だが、これらの大黒柱はどこまで堅牢といえるのだろうか?
「そうか、つまりお前は」赤尾は得心したように頷いた。「そのどちらかが偽物なのだといいたいわけだな」
「いえ、片方ではなく両方なんです。まずは——大便の話から始めましょうか」彼はつかつかと檻の端っこに歩み寄り、土中に穿たれた真新しい穴を指した。「発見者の証言や野次馬の話から察するに、『湿った大便』は確かにここにあったのでしょうね。この暑さじゃ干からびるまでそう時間はかからない、だから少年が死亡したのは排泄から間がない頃——発見の寸前であったのだ、と」だが、と彼はいう。「これが本当に『被害者の大便』であったのか、実際のところはわからないんだ」
「それじゃ」石沢が尋ねた。「犯人が殺したあとで、腹痛か何かでも起こしたっていうこと……ですか? 切羽詰まってて檻の中にせざるを得なかった、とか? だったらきっと、警察が来る前に大便を始末したっていう何者かが怪しいですね!」
「まさか、さすがにそれは非現実的だよ。……というより、意味がない」
殺害後いつまでも居残っていては見物客に目撃される恐れがある。いくら不人気の檻とはいえ、それでも日中は大勢の人間が往来するのだ。いくら切羽詰まった腹痛であっても、殺人の露呈よりはよそで漏らすほうが幾分マシだ。
「犯人は——」赤尾がいった。「つまり、死亡推定時刻をずらすためにあとから湿った大便を残した。こういうことか」
「そうです。もしかすると、大便に注意を向けるようそれとなく周りの野次馬にいったのかもしれません——なんだあのクソは、湿っているぞ、汚いな、とか。みんな大便に目を向ける……写真や動画にも残る……つまり、アリバイができる。あとはボロが出ないよう、動物園の体面を気にするフリをして後片付けをすればいい。犯人が本当に飼育員だったのか、あるいは飼育員の格好をしてどさくさに紛れたのかはわかりませんが」
「でも、どうやるんです? 湿った大便を残すには、やはり発見される直前に檻の中へ入るしかない……」
「いや」と赤尾はうなるように声を発した。「いくらでも隙間はあるわけだな」
四方を囲う鉄格子に、めいめいがじっと目を向けた。本来はその向こうに往来が見えるはずなのだが、今は夕日の透けるブルーシートがゆらゆら揺れるばかりである。
「さて——」
神崎は得意げに、赤尾を見た。
「少しばかり時間を遡ることにしましょう。事の発端は例の一家惨殺事件です。少年がそこでどのような経験をしたのかは、正直、僕にはわからない。ただ彼がそこで著しいストレスにさらされ、健康を害していただろうことは想像に難くないと思うんです」
「ま、確かにな」
赤尾は頷く。
「おまけに犯人が自殺したあと、彼は野良犬めいた——動物のような——生活をして、鳥だの猫だのを食べている。ゴミ捨て場を漁ることだってあったはずだ。彼を保護した警察は——きっと健康の不倶を感知したんでしょう——病院で胃洗浄を受けさせて、胃袋の中から『母親の肉』を発見していた」いいですか、と神崎は赤尾に向かっていった。「彼は不健康だったわけです。それも特に、内臓面で何か問題を抱えていた。……これは飼育員も聴取で口にしていたことです。『重度の便秘で、餌に下剤を混ぜるしかなかった』とね!」
「ああ、そうだな」
赤尾は愉快げに、また頷いた。
なんだか、その態度が気に食わない。
ひょっとすると——と、神崎は思う。この男は、最初から自分がいわんとすることをすべてわかっているのではないか? 自信満々で告げているこの推理は、すでに彼の中に展開され、そして否定された『間違い』なのではないだろうか?
ふと、大真面目に語っているのが恥ずかしくなった。
だが今さら止まれない。
ここまで話し始めてしまった以上、もはや『やっぱりよしましょう』などと切り上げるわけにもいかないのだ。
「朝食が八時に与えられた。餌と一緒に下剤を飲んでいるわけだから、まさか十一時まで効かないはずはないでしょう? せいぜいが一時間だ。もっと短い場合のほうが多いでしょうけど……ともかく、彼は餌を食べて早々に便意を催したにちがいない……」
そこまで聞いて、石沢は「ああっ!」と、大声を上げた。「そうか、犯行直前に『湿った大便』はありえない! もっと早くに排泄していなきゃおかしいんだ!」
「少年のものでないのなら、もはや選択肢は一つだけ——」
犯人の排泄物であろう。
彼はいくらか上機嫌で天井を指さした。深い紺色をした空は、まだ辛うじて夕暮れの気配を残している。あと十分もすれば、檻の中は完全な闇に包まれるのだろう。
日よけのためらしい十数枚のトタン板が、天井いっぱいに括られている。あまり丁寧な仕事ではないらしく、板と板との隙間はあるし、また一部にはすっぽりと四角い空白地帯——紺色の空が正方形に切り抜かれている——さえ見受けられた。
そして、その空白地帯は、
まさに大便があったという穴の真上に……
「それじゃ、犯人は天井の上から!?」石沢が頓狂な声を上げた。「尻を丸出しにして……十一時直前にわざわざひり出したっていうんですか!?」
「ほかにないだろう? 水平方向から放り込むのはさすがに至難の業だろうけど、上から垂らすなら難易度はそう高くない。幸いトタン板が敷かれてるから、下にいる野次馬やら発見者の飼育員やらからはとても見えやしないだろうね」
「じゃあ、それじゃあ、」石沢は困惑した様子で、問いを重ねる。「殺人はどうなるんです? あの少年を殺すのに、中へ入らないでやる方法がありますか?」
「あるさ」神崎は、にやりと笑った。「見ろよ、この檻は隙間だらけだ。鉄格子は壁じゃない、細いものならいくらだって通せるんだ。そして少年は——」彼は植えられていた木の一本、凶器となった枝に触れた「斜め上方へ突き出た枝に、突き刺さって死んでいた。いいか石沢、枝は上を向いていたんだ!」
「上から……」石沢は、はっとしたように目を見開く。「落ちた……いや、落とされた? 天井から、落とされたわけですか!」
手順はそう難しくない。
必要なのは数本のロープと、先端につけるかぎ針だ。トタン板の上に立ち、板の隙間からロープを垂らして、少年の首輪にかぎ針を掛ける。天井近くまで引き上げたら、上方に突き出た枝の上まで少年の身体を移動させる。
「首輪に引っかけるといっても、のそのそ動き回っているところを釣り上げるのはあまり現実的じゃない。おそらくは排泄か食事をしている最中——しばらくの間位置が安定している時——を狙ってのことだったに違いないね」
「釣り上げるまではいいとして」石沢は尋ねた。「枝の真上に移動するのは、具体的にどうやるんです? そのまんまロープを握っていたんじゃ、鉄格子に引っかかってとても動けやしないでしょう?」
「どうとでもなるよ。たとえば——そうだな、最初につり上げた時点で、ロープの端をどこか別の格子に結んでおこう。手を離してゆっくり作業ができるように。それから『釣り』に使ったのとは別のロープを少し離れた格子の穴から檻の中に垂らしたとする。その先端にやはりかぎ針をつけるか、または腕を中に差し入れるかして、少年の首輪にまた引っかけるんだ。第二のロープが安定したら、そこで最初のロープを取り外す——」
「ははぁ、なるほど」石沢はあまり腑に落ちない様子で頷いた。「つまり、ターザンみたいにロープからロープへ移していくわけですか」
「そう。問題の枝の真上に来たら、バンジージャンプのように一息に放してしまえばいい——少年の身体がうまいこと枝に突き刺されば成功、できなければロープを引き上げてまた落とす」神崎はひとまずの説明を終え、ゆっくりと息を吐いた。「考えてみれば、こんなにも隙間だらけなんだ」
密室など、初めからなかった。
だが——
一通りの説明を済ませ、しかし神崎は何か得たいのしれない不安を感じた。
何だろう?
いったい、この納得のいかぬ感覚は。
不可能犯罪は不可能でなくなり、密室は密室でなくなり、謎は低俗なトリックに変わる——それがようやく叶ったというのに、どうして自分はこんなにも、
こんなにも——不満なのか。
何かが違った。
というよりも、足りない気がした。
「それで終わりか?」不意に、赤尾が口を開く。それまで薄く笑っていた表情が、にわかに険しくなった気がした。「なあ神崎、お前は一つ大事な要素を忘れているぜ」
……………………ニルワヤ。
「ああ、そうだ。それです。それだったんだ!」彼は叫ぶ。「道理で……そうか、だからダメなんだ。この『推理』では…………」
足りない。
なぜ例の四文字が刻まれたのか——その理由を説明するには、この論理では不足している。
ようやっと『密室』の先入観から脱することができたというのに、今度は目の前の『檻』に囚われ肝心要な『死体の姿』をすっかり失念していたのだった。
「推理の穴はまだたくさんある。そんなややっこしい仕掛けを施してまであの少年を殺したい理由が、まずわからねぇ。仕掛けを完遂するのに並みの筋力じゃ足りないってのも難しいところだ。首輪にかぎ針を引っかけて釣るなら多少の締め痕——索溝——くらいは残るはずだが、そんな報告はされていないし、それから……そうだな、一番惜しいのは『なぜクソを使って死亡推定時刻をずらそうとしたのか』ってところだぜ」
「大便を落とした理由……ですか」
「違うよ、バカ」赤尾はふん、と鼻を鳴らした。「大事なのは道具じゃなくて目的だ。『なぜ死亡推定時刻をずらしたのか』って話なんだよ」
「……む」
なんだかよくわからなかった。
しかしともかく、自分の推理がどうやら袋小路であるらしいことは、いやというほど実感している。熱に浮かされここまで走ってきた過去の自分が、どうにも滑稽に思えてならなかった。悔しいというより、虚しい。バカバカしくさえある。
思いついた瞬間は、確かに真実だと確信していたのだが——こうしてメッキが剥がれてみると、何のことはない、単なる妄想に過ぎないようだった。
消沈した様子を見てか、赤尾は不意に破顔して「ま、筋は悪くねぇさ」などと神崎の背中を平手で叩く。ばちんばちん、ばちん。「俺も一度その筋は辿った、なかなかいい線行ってると思うぜ。だが少し足りねぇんだよ。少し……そう、あとほんの少しなんだ」だから気に病むことはない——と。「檻の上からクソを垂らしたって辺りまでは、まず間違いないはずだがな……そこから先が、ちとズレている」
叩かれた背中が痛い。
赤尾の手形をなぞるように、ヒリヒリと痺れるような感覚が残った。
どうやらこれでも、励ましているつもりらしい。
不器用な男だ——と、神崎は思った。
——あのう。
不意に扉のほうから声が聞こえる。
赤尾でも石沢でもない、外で立哨していた警官だった。
「もう園が閉まるそうで、本官も署に戻るのですが——」
「おっと、悪いな」赤尾は呑気な口ぶりで、さっさと檻に背を向けた。扉をくぐる際になって、唐突に振り向き「ま、焦るこたねぇよ。重要なのはひらめきじゃない、じっくり考えることなんだ。焦らず、手抜きせず、早合点せず——」と、こう口にする。
赤尾の姿が消えた。
それでもなお、神崎は天井のトタンを見上げ、今なおそこに犯人が隠れている——とでもいうかのように、両眼鋭く睨めつけていた。
やがて檻の中は闇に染まる。空に残っていた最後の夕日が、プツリ、とあっけなく消えてしまった。視界は効かない。風は凪ぎ、木々は微かにも揺れなかった。檻に染みついた死臭ばかりが鼻を軽やかにつっつき回す。
「ねぇ先輩」石沢が急かした。「早く帰りませんか。自分としちゃせっかくの非番なんですから、ゆっくり寝かして欲しいもんですよ」
「ああ——」
そうだな、と呟くようにいいながら、やっと天井から視線を外した。
いつになく頭を使ったせいだろう、疲れている。
石沢のいうとおり、確かに今日は早く眠りたい気分だった。
□□□
動物園で長いこと会話していたせいか、帰りはひどく遅くなった。
待ちくたびれたらしい、自宅に戻ると妻はすでに眠っている。
冷蔵庫にしまってあった自分の分の夕食を食べ、寝室に向かった。
横になったが、眠れない。
疲れているはずなのに、眠気が一向にやってこない。
眠れない夜は、どうしてか余計なことばかり考えてしまう。
檻に収容された少年の姿が、脳裏に浮かんで離れなかった。
勃起していた、と石沢はいっていたのだったか。
檻に収容され、喜んでいた少年——
何が楽しいのだろう?
何が心地よいのだろう?
醜悪な殺人犯に一切の人権を奪われて、
両親の肉を食わされて、
自らを『動物』だと認識し、
とうとう檻に収容され——
あのような最期が、
幸福だったとでもいうのだろうか?
明け方になって、神崎はようやく目を閉じた。
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