S/エスは桜田のエス

 小脇に抱えた鞄が、やけに重たい。

 桜田誠二は電車を降りてから、うねうねと曲がりくねった細い路地を、もう二時間半も一人で歩き続けていた。家を出立したのが午前十時で、腕時計の短針はすでに一時近くを指している。天頂を過ぎたばかりの太陽は、粘っこい日差しを彼の頭上にぶちまけていた。両脇を民家の外壁とブロック塀とに挟まれて、日陰もない中だらだらといつまでも歩き続ける。スマホの地図アプリが正しいのなら、あと十五分はこのまま進まなければならないらしい。もう六十を過ぎた桜田にとって、目の前の平坦な道のりはけれどひどく険しかった。

 路地は大人一人がやっと通れるくらいの幅で、『道』というより『隙間』と表現したほうが適切だろう。地面を覆うアスファルトはところどころひび割れて、その隙間から痩せ細った雑草が控えめに顔を覗かせている。芽を出したはいいものの、連日の酷暑に耐えきれず半ば枯れているようだった。

 路地の片側に立ち並ぶ家は、どれも古ぼけた一軒家である。この辺りはバブルの頃に開発されたいわゆる新興住宅地で、少子化と住民の高齢化にあえぎながらも辛うじて家並みを維持していた。そのせいだろう——暇な老人が野良猫の餌やりに精を出してでもいたのだろう、つらつらと続く狭い路地には、点々と猫の死骸が転がっていた。開きっぱなしの目が破裂している。眼窩には破れた網膜と、——灼熱の陽光が水晶体に圧縮されでもしたのだろう——ぶくぶくと沸騰する房水が見えた。

 見て気持ちのいいものではない。桜田は視線を逸らす。


 天は、青く透き通っていた。

 夏は始まったばかりである。


 以前には町のあちこちを徘徊していた野良猫も、この頃はめっきり数を減らした。地球温暖化の影響で例年の酷暑がその度合いを増していく中、涼む場所のない野良猫が熱中症でことごとくやられてしまったという。それでもこうして、餌やら水やらを恵んでくれる奇特な人物の家の近くに、辛うじて一群の猫が生き残っている場合がある。

 今年の夏を乗り切れるのは、いったい何匹になるのだろうか?

 そんなことを考えながら、桜田は猫の死骸を避けて歩いた。踏んづけていかなかったのは単に衛生上の問題もあるし、死体を冒涜したくないという漠然とした宗教的観念に基づくものでもあったろうし、彼が案外と猫好きであったというのも一因として挙げられるだろう。もっとも近頃に関していうと、その猫好きには若干の陰が差してもいたが。

 猫の特質は、第一に『奔放』である。

 飼い主のいうことをまるで聞かず、好き勝手に、奔放に振る舞うものだ。あちらに寝転びこちらに寝転び、飼い主にじゃれつくこともあれば、どんなに愉快な玩具を見せてもちらとさえ振り向かないことがある。少年時代、彼はしばしば近所の野良猫に餌をやり、あるいは抱きつき、仕舞いには引っかかれてべそをかいた。

 以前の桜田にとってみれば、こうした猫の特性は十分に魅力として機能していた。彼は決して他人に振り回されるのが嫌いではなかったし、そういう自分勝手にいちいち付き合う自分の姿は、ある種の優越感を喚起しもする。

 桜田はこうした性格を自認しながら、しかし一度もまともに飼育できたためしがない。少年時代を過ごした家では、母親の動物アレルギーが原因で諦めねばならなかった。大学時代に一人暮らしを始めた折は数匹の猫を一年ほど育てたものの、ちょっとした失敗を犯したせいですべて野に放たざるを得なくなった。そうこうしているうちに猫への愛着はやや薄れ、東京の新聞社にやっと就職を果たした頃には、別の方向へと関心が移っていたのである。

 それは女だった。

 猫への愛着は、奔放であるとか自分勝手であるとか、そういう『性格』そのものに対する愛好へと移り変わっていたのだった。彼は猫を飼う代わりに、猫のような女を探したのだ。奔放で、自分勝手で、自分を振り回しコロコロと笑うような可愛らしい……。

 彼女は、美代子というやや古くさい名前をしていた。

 尻に柔らかな産毛の生えた、華奢で甲高い声の女だった。

 猫のように笑い、猫のように鳴き、猫のように丸まって寝る。

 その姿を見て、桜田は瞬く間に夢中になった。本物の動物なぞを飼うよりも、この女と結婚するほうがはるかによい——と、心の底から思ったのだ。

 何しろ、ペットには何かと手間がかかる。病気になっては大変だから予防注射を頼まねばならない。勝手に繁殖しては困るから、去勢の手術にかからねばならない。便所の場所を教え込み、壁紙で爪を研いだら叱りつけ、人語を解さない畜生と懸命に対話を試みなければならないわけだ。はっきりいって、面倒だった。その上、ペットそれ自体が何か役に立つのかといえば、ただそこに生きているのを愛でる以外に仕様がない。なら、近所の野良猫でも眺めているほうがずっと簡単でやりやすい——と、彼は考えたのである。

 その点、人間は便利だった。

 容易に言葉が通じるばかりか、便所の場所などはわざわざ教えるまでもなく自分で見つけてしまうのである。去勢の必要はないし、予防注射なども重要なものの大半は幼少期に済ませてあった。その上、自分が留守をしている間には、家族の飯を作り、衣類を洗濯し、家の手入れまで勝手に済ませておくという。

 単に愛でるにとどまらない、労働力として有益だった。

 彼は猫のようなその女と、だから結婚することを決めたのである。

 美代子はコロコロと猫のように喉を鳴らし、彼の結婚指輪を受け取った。

 幸せそうに見えた。当然だろう、と桜田は思う。東京の新聞社に勤務する知的探求者である記者などは、妻の側からしてみれば誇り以外の何物でもない。

 だというのに。

 いったい、なぜだ?

 なぜ、あの女は——

「ええい、クソ暑いな」桜田はぼやきつつ、ハンカチで額の汗を拭った。「殺人的だよ、まったく。ふざけやがって……」どうせ金などいくらでも余っているのだから、駅前に門を構えればよい——彼は毒づき、足を進める。「俺の給料を散々かすめ取ったくせして、ええい……クソ暑いな。まったく殺人的だ」

 路地の道幅は、心なしか徐々に広まっているようだった。何にせよ、ともかく目的地は近いらしい。彼はため息をつき、歩き続けた。汗を目一杯吸ったハンカチは、天日に干されたせいだろう、端のほうに真っ白い塩を浮かべている。桜田はその部分を口に含んで、くちゃくちゃと前歯で噛みしめた。やや臭みのある塩味が、舌先にじんわりと広がっていく。少しでも熱中症を和らげたかった。頭の奥でズキズキと断続的な痛みが走る——それはどこか、除夜の鐘を連想させた。


 ごうん、ごうん。


 鐘が鳴る。


 ごうん、ごうん。


 頭蓋の奥に痛みが走る。


 ごうん、ごうん、ごうん、ごうん——


 違う、と彼はやっと気づいた。

 この音は単なる錯覚ではない。

 立ち止まり耳を澄ませると、どこからか本当の鐘が聞こえた。

 彼は少し足を速める。

 路地はずっと先まで続き、五十メートルほど先で右に折れた。そのあと、さらに百メートルでまた右に曲がった。道の左右に立ち並ぶ家々が、やがてぷっつりと不意に途切れ、しばらく雑草まみれの空き地が続く。

 その先に、やっと目的地がたたずんでいた。


 ごうん、ごうん。


 鐘は、まさにその建物の内部から鳴り響いているのだった。


   □□□


「ちょっとサクラさん! まだ書けないんですか?」デスクの怒鳴り声を聴くたびに、桜田の胃は腹立ちでグルグルとうなりを上げた。「ネタも写真もあって、大まかな筋も決めてあるっていうのに、何だってこんなに時間がかかるんです!?」

「へへ、いやちょっと下痢気味でして」

 桜田は胃薬の瓶を掲げながら、中途の原稿を慌てて仕上げる。人気の女優がタイで奔放な性生活を営んでいる……という、およそ知的探求からはほど遠い、下らない三文記事だった。とはいえそれでも、あられもない女優の姿を現地記者が撮影しただけ、桜田が日頃手がけるものよりずっと高等であるのは間違いなかった。何しろ彼が『自分の力』で書き上げるのは、ネットで見聞きした情報を単に貼り合わせただけという、ひどい代物だったのである。

「まったく、困ったもんだねサクラさんには……」

 デスクは、まだ三十にもならない青年だった。自分の息子でもおかしくない年齢である。その若い声帯から発せられる『サクラ』という呼び名を聴くたびに、まるで嘲笑されているような心持ちがして、桜田はひどい屈辱を感じるのだった。

 部署で最高齢に近い彼に対して、他の同僚はほとんどが丁重な素振りを見せている。名前を呼ぶには『さん』をつけるし、文句を口にするときもさほど声を荒立てはしない。しかしそれが決して敬意なぞではないのを、桜田の側も勘づいていた。

 仕方ないことかもしれないな——と、彼も思う。

 自分の仕事が若い頃と比較して、ひどく雑になっているのを、理解できないわけではない。しかしそれでも、老いは身体ばかりでなく精神の深くまで侵食していた。なにもかもネットが悪いのだ、と彼は思う。電子の空間が急拡大し、新聞やテレビなどが『オールドメディア』と屈辱的な名前で呼ばれ始め、購買数もその権威も右肩に下がり続ける中——入社当社に抱いていた『知的探求者』の自負はあっけなく崩れてしまったのだ。

 いつの間にか、新聞は知の象徴ではなくなっていた。賢しらな口ぶりをした匿名の誰かが、今日も新聞をくさしている。曰く——政治的な主張に偏りがある、とか。統計の取り方に問題がある、とか。

 それでもまだ、政治や経済を担当する者には誇りが残っているのかもしれない。けれど桜田は、何にもならないゴシップ記事を——それも本紙に載らないネット記事ばかりを、あの青年に任されるのだ。そんなのは自分にふさわしい仕事ではない。桜田は、もはや新聞社というものにすっかり失望していたのである。

 あと一年の定年を今か今かと待ち望み惰性で続けるばかりであっても、いったい誰に自分を責める権利がある? 彼は内心にこんな風なことを呟きながら、のんびりとパソコンのキーを叩くのだった。

 だから、だろう。

 彼の心情を周囲もそれとなく察していたから、であったろう。

「休暇? ああ、別に構わないですよ。何なら今日も昼までで帰っていただいたって……」

 長期の休養を申し出たとき、誰一人として文句を口にする者はなかった。当然といえば当然だろう。誰も桜田などにハナから期待していないし、むしろ目障りといったほうが誠実だった。ひと月の間あの怠惰な仕事ぶりを見なくて済むなら——と、少なくない同僚が考えているのを、彼自身、わかっていないわけではない。

 午後、桜田はため息をつきながら新聞社をあとにした。案の定、その背中に声をかける人間はただの一人もいなかった。もしも誰か一人でも「どこへ行くのか」と問うていれば、彼は多少のはにかみと共にそっと告げてやるつもりだったのである。


 ——俺は、ニルワヤへ行くんだよ。


   □□□


 ニルワヤに着いた。それは、駅前から三時間ほどうねうねと歩き続けた先に位置する、白いドーム状の建物だった。大福を地面へ叩きつけたような格好をして、やや平べったい天井が陽光をテカテカと反射している。

 桜田は、建物の外縁に沿って敷地の周りをぐるりと回った。大福を囲うように青々とした植木があって、心地よさげに葉を揺らしている。水と栄養が潤沢に与えられているのだろう、この酷暑でものびのび枝を伸ばしている木は、そこら辺の街路樹ではなかなか見られるものではない。ことに周囲は、枯れ草にまみれた空き地ばかりだ。その対照からして、建物を所有する団体がどれだけ富んでいるのかは、端から見ただけでも明らかだった。

 半周ほどすると、やがて清潔な自動扉が姿を見せる。開放感の演出か、入り口の全体はガラス張りになっていて内部の様子がよく見通せた。入ってすぐ正面に受付のカウンターが設けられ、白い法衣を身につけた女性がぽつねんと微笑みを浮かべながらたたずんでいる。その奥に、今度はガラス張りでなく白色不透明の扉が見えた。

 入り口の脇には、丸っこい字体で施設の名称が記されている。


 ——なかよしセンター

   主催:〈人類調和のための宗教学および総合哲学研究会〉


 桜田はハンカチを取り出して、べったりと汗にまみれた額を拭う。布の表面に付着した塩が、ジャリジャリと皮膚を不愉快に擦った。睨めつけるような太陽の視線を、頭頂と背中にハッキリ感じる。暑かった。熱中症のせいだろう、頭の奥がズキズキ痛んだ。しかしもう、先ほど耳にした鐘の音はどこからも聞こえてくる気配がない。

 センターの入り口に足を向けた。

 ぬるり、と不気味なほどになめらかな動きで扉は彼を迎え入れる。

 空調がよく効いていて、汗まみれの桜田にはやや寒すぎるきらいがあった。施設の外観と同様に、内装も白を基調としている。白い壁、白い天井、そして受付嬢の白い法衣……。なにもかもが白かった。色つきの服を着た自分一人が、俗っぽく汚れた人間に思える。どこからか、微かにお香のような匂いがした。

「どのようなご用件でしょうか?」

 受付嬢は来客の姿に目を留めて、うっすらと笑みを浮かべ問いかける。妙なしゃべり方だ、と桜田は思った。ほとんど唇を動かさないまま、喉の奥から声を響かせているような……それでいてくぐもったところのない、やけに澄んだ声色である。腹話術のように、あらかじめ録音された音声に合わせてただ口元を動かしているだけなのかもしれなかった。そういえば、確かに声は受付嬢からというよりも天井のどこかから響いてくるように思われる。どこかにスピーカーが隠されているのかもわからなかった。この団体なら、そんなわけのわからない歓迎の仕方も「ありえない」などと断言はできない。

「いえね、事前にご連絡差し上げていたと思うんですが」彼はハンカチをポケットに押し込み、代わりに懐から名刺を出した。「帝都新聞の熊沢といいます」

 熊沢というのは、件のデスクの名前だった。名を騙ってもよいか——などとは、本人に問うてなど無論ない。

「熊沢様、ですね」受付嬢は一瞥し、受け取る素振りもなく「ただいま問い合わせますので、少々お待ちくださいませ」と口にした。それからカウンターに置かれていたタブレット端末に手を触れて、何事か細々と操作する。

 受付嬢は、どことなくロボットめいた印象を与えた。唇には始終うっすらと笑みを浮かべて、けれど目元はこれっぽっちも笑っていない。表面上はとことん愛想のいい素振りを見せつつ、しかしあくまでも『上っ面』に過ぎないのだった。つまり、彼女には内面がない。『受付嬢』という役割に沿った振る舞いばかりで、その奥にある本当の人間というものがまるで見えてこないのである。

「東京支部のほうで、確かにお願いを入れておいたはずなんですが……」

「確認が済みました」受付嬢は薄っぺらい笑みを浮かべたまま「こちらにどうぞ」と奥を指した。白色不透明のいかにも丈夫そうな自動扉が、妙に厳つい調子でたたずんでいる。「向こうで、担当の者がお待ちしております」

 促されるほうへ、彼はゆっくりと足を向けた。

 ぬるり、とやはり妙になめらかな動きで、自動扉は桜田を迎えた。


 郊外に位置するこの〈なかよしセンター〉は、東京ドームと同等の面積を持つ巨大な居住施設だった。昨今の少子化や高齢化に伴って半ば廃墟と化していた土地を、十年ほど前に施設の主催団体が破格で買い取ったのである。

 行政の側は当初難色を示したものの、施設計画が明らかになっていくとにつれ、成り行きに身を任せ始めようと考え始めた。廃墟となった旧市街地をそのまま放置しておけば、治安の悪化は免れないし……かといって無人の土地を整備するにも、莫大な、そして無為な費用が要求される。居住施設が建築されれば、住人の存在それ自体が一帯の治安を保証するのだ。その上、当該地区での市営バスを一切廃止して構わない——と、団体側はこんなことまでいいだすのである。居住施設の住人に関して、その交通はすべて主催の団体が一手に担うという話だった。土地管理の費用ばかりか、交通機関の運営費までもをすっかり浮かせてしまえるらしい——こんな話に、行政が乗らない理由はない。

 もっとも〈なかよしセンター〉がすっかり完成した今となっては、果たして行政の選択が正しかったのかはやや疑問である。第一に、施設に入居した人間は年に数度しか外出しない。生活に必要な諸々の物資は残らず業者が搬入し、大抵の用は施設の内部で済んでしまうらしいのだった。だからセンターの内側においては確かに治安が保たれるものの、そこから多少でも外へ出ればすぐ不良のたまり場などが目についた。ことに違法薬物の売人などは、夜間にこの辺りをよくうろついていているようである。そして第二に、市営バスの運営が団体の手に渡ったのち、ほんの数年でこれが廃線になったというのだ。行政の抗議があったおかげで一日にほんの数本ばかりは駅と施設とを今なお往復しているものの、乗り損ねてしまったら、桜田のようにだらだら歩き続ける以外に仕様がない。もっとも施設の側からすれば、入居者が外出しないのだから維持する理由もまたないわけだが。

 いや、それは順序が逆だろう——と、しかし彼は思わなくもなかった。

 外出しないから交通機関が廃止されるわけではなく、むしろ入居者を外へと逃がしてしまわないよう、団体がバスを計画的に廃したのではないだろうか?

 実際のところ桜田自身、またあの細く長くうねうねと曲がりくねった路地を歩いて、駅まで帰らなければならないと思うと——一生この施設にとどまっているのもそう悪くはないかもしれない、などと淡い誘惑を感じていないわけではなかった。

「いいえ、まさかそんな陰謀はありませんよ」案内役であるという丸眼鏡をかけた長髪の女は、ふふふ、と控えめな様子で愉快げに笑った。受付嬢と同様に、やはり真っ白い法衣を身につけている。「でも、結果だけ見ればそうなるのかもしれませんね。ここで暮らす信徒の方がほとんど外出しないのは本当ですし……〈なかよしセンター〉ができてから、バスを利用する方なんて年に……そう、きっと二、三人しかいらっしゃらなかったと聞いています」

 自動扉をくぐった先には、四方を白に囲われた長い廊下が現れた。大福の表面に近いところを、ぐるりと一周する設計なのだろう——どこまでもひと気のない一本道が、緩やかに内側へカーブしつつずっと向こうまで伸びている。五十メートルほど進んだ先で別の道と直角に交差し、ちょうどその交点の位置に施設全体の地図があった。

 大福型のこの建物は、どうやら五つの階層から成るらしい。最上と最下を除く各階の通路は、三重になった回廊と、中心点から放射する直線の通路によって構成される。そして彼の立つ交点からは、一直線にこのフロアの中心部が見えるはずで——

 見た。

 遠く小さく、金色に輝く釣り鐘がある。

 そうか、と桜田は内心に呟く。路地の中で聞いた『ごうん、ごうん』という音色の正体は、おそらくあの鐘だろう。

「あれは?」

「時刻を報せる鐘ですよ。どの階にも必ず一つは設置されています」桜田が問うと、女は事もなげに口にする。「表面には、何とかという立派な芸術家が教祖様のお姿を彫刻しているのだそうです。話によると、全体が黄金でできているとかなんとかって……」

 本当だろうか、と彼は少し疑った。いくら羽振りがよかったとして、あれだけの黄金となれば恐ろしい値になるのは間違いない。各階層に一つずつ配置するとしたら、この施設の建築費さえはるかにしのぐ出費になる。

 しかしそのような疑義を呈すれば、信者の機嫌を損ねてしまうかもわからない。

「そうですか。いや、大したものですな」彼は再び女と回廊を歩き始めた。それから「しかし」と、また先の話題に会話を戻す。「この施設ができる以前には、一帯が過疎化していたとはいえ、まだ多少なりとも乗客はあったわけでしょう? だから赤字路線であったとしても市は運営をやめることができなかった。しかしあなた方が運営を継いで、突然に利用者がなくなってしまった……乗客は〈なかよしセンター〉の建設以降どこへ消えてしまったのでしょうな?」

「この土地に元々あった建物は、施設建設の以前からほとんどが廃墟になっていました。実際に住んでいらしたのはごくごく少数の……片手で数えるくらいで、確か……そう、駅前にわたくしどもが所有するちょっとしたマンションがあるのですけど、そこに移住していただいたはずですよ」

「ああ、なるほど。……そういえば」桜田は忌々しく、灼熱の長い道のりを思い出す。「ここへ来るまでにずいぶんと長い路地を歩いたんですが、あの辺りの家もやはり大半は廃墟というわけですかね?」

「大抵はそうでしょうね。ただ、あそこにはまだ十名ほどが暮らしていらっしゃるはずです。こちらのセンターにお立ち寄りいただければ生活の物資を多少は融通できますので、わざわざバスに乗り込んで駅前に行く必要はないのですよ。どうしても駅まで行きたい方には、タクシー代などを支給することになっています……」

 そうですか、と桜田は呟く。住人がごくごくわずかであれば、バスを運営するよりも、個別に対応したほうがはるかに安上がりではあるのだろう。

「となると、食料だとか衣類だとか必需品の一切は、近隣住人の分までまとめて業者やなんかに搬入させているわけですな……つまり、この施設に」

「そういうことになりますね」案内役の女はやはり控えめな様子で微笑んだ。それからふと、不思議そうな顔をして「あの、メモはなさらなくてよろしいのですか?」などといやに鋭いことをいう。

「ああ、これはいけない! しますよ、しますとも」桜田は懐から取材手帳と万年筆を取り出して、さらさらと撫でるように書き込んだ。諸々の説明をメモしたのでは無論ない。そのふりをして、ただ気まぐれに目の前の女の似顔絵を一つ二つ描いたばかりだ。「ご覧の通り老いぼれでして、この頃は頭が弱っていけませんな」

「でも、そのお歳で帝都新聞のデスクをしてらっしゃるんですから、素晴らしい記事などお書きになるんじゃありません? 東京支部でなくこちらの施設に関心を持ってらっしゃる辺り、やはり着眼点が並外れておいでなんでしょうし」特に、と彼女は心底感心した様子で言葉を続けた。「記者の方自らが〈なかよしセンター〉の共同生活を体験なさるなんて、素晴らしいジャーナリズム精神だと思うんです。教祖様も、きっとその熱意を見込んでらっしゃるに違いありません。取材のお申し込みは決して珍しくありませんけど、許可が下りるのはとても珍しいことなんですから……」

 桜田はばつの悪い気分になって、ふにゃふにゃと曖昧に返事した。自分はデスクなどではないし、書いている記事も『素晴らしい』ものであるはずがなく、何よりハナから取材をするつもりなどなかったのだ。

 仮面を被っている気分だった。

 精巧に作られた、美しい仮面である。

「そのことですが」と、彼は問うた。「生活の上で、何か注意する点はありませんか?」

「ほんの一週間の体験入信なわけですから、特別に気張ることはありませんよ」それから不意に立ち止まり、いや、と一つ付け加える。「初めていらっしゃる方は郷愁やなんかで精神を弱らせる場合がしばしばあります。最上階の一つ下にカウンセラー・ルームがありますから、多少のお悩みでしたらぜひ相談なさってください。薬剤師でもありますので——というよりそちらが本業なのですけれど——ちょっとしたお薬でしたらお出しできますし、体調不良に関してでも、ぜひ」

「相談員の方も、やはり信仰してらっしゃるのでしょうか?」

「いいえ」女は短く答えた。「外から雇われてきています。もっとも、あんまり仕事がないものですから、来客の応接などばかりしていますけど——」つまり、と言葉を続ける。「実はわたしなんです、そのカウンセラーというのが」

「お名前は」桜田は問うた。「何とおっしゃるのですか?」

「これは失礼いたしました。……村井です、村井敏子と申します」それからツイ、と立ち止まり、廊下の片隅にある扉を指した。「こちらが熊沢さんのお部屋になります。夕食の時間にお迎えへ上がりますから、それまではのんびりなさってください」

 桜田は扉に近づいて、小さな金属製のノブを握った。パチン、と静電気の微かな痛みが人差し指を貫いて、消える。

「そうだ、カウンセラー・ルームというのは……」

 どこなのですか、と問おうとして桜田は後ろを振り返った。

 ——おや?

 丸眼鏡も長髪も、そこには跡形も見当たらない。

 彼はただ一人、だらだらと伸びる真っ白い廊下に間抜けな顔をして突っ立っていた。


 扉を開けると、四畳半ほどの小さな部屋がやはり白を基調に広がっている。簡易なベッドと小机があって、扉の内側には等身大の大鏡がボルトで固定されている。生活用品を入れた戸棚が壁の中段にしつらえられて、歯ブラシ、衣類、日記帳、目覚まし時計、香水、儀式か何かに使うらしい細々としたアクセサリー……と、およそ思いつく限りの日用品があらかじめ用意されているのだった。

 東京支部に〈なかよしセンター〉の訪問を申し込んだとき、聞かされていたとおりである。ここでは特別の贅沢品でもない限り、大抵の日用品は無償で支給されるのだった。巨大なスーツケースなど転がしてこなくてよかった——と、彼はほっと息をつく。

 しかし、

 しかしどうして、こうまで白色にこだわるのだろう?

 一見して、それら日用品のほとんどすべてが、やはりきっちりと白に統一されている。ここまでくると『清潔』『潔癖』というよりも『偏執』といったほうが適切だろう。押しつけがましい一面の『白』は、どこか狂気めいたものを感じさせる。

 この空間で『色つき』なのは、唯一、人間だけだった。

 ——汚れている。

 桜田はどうしてか、自分がひどく汚れているような錯覚をした。何もかもが純白な中で、黄色の皮膚をしているばかりか日焼けやら汗やらをだらしなくさらけ出している……。

 鞄を置いてベッドに腰掛け、やや偏執的な手つきで汗の染みこんだ衣類を脱いだ。戸棚に入っていた白い法衣——受付嬢や先の案内役が身につけていたのと同じものだ——を見よう見まねで着付けてみる。鏡に映った自分の姿はどことなくインチキ坊主めいた印象だったが、身分から名前まで詐称していることを思えば今さら恥じるのも妙な話だ。法衣はやたら高級な生地を使っているらしく、さらりさらりと肌触りが心地よい。

 ベッドへゆっくりと横たわり、桜田はボンヤリ天井を見上げた。やや青みがかったLEDの電球が室内を寒々と照らしている。明かりのすぐ隣には、換気口のような網付きの穴が暗くポッカリと開いていた。

 携帯電話を取り出してみるものの、画面には素っ気なく『圏外』と表示されるばかりで役に立たない。どうやら施設の内部では、電波が遮断されているようだった。

 ここへ来るまでの道中で相当に疲労していたらしい——足やら腰やらがキシキシと小さな軋みを上げる。身体が重い。瞼がとろりと、蝋のように溶け始めていた。明瞭だったはずの意識が、いつの間にか不安定に揺らめき始める。

 眠い。


 ごうん、ごうん。


 扉の外から、また例の鐘が聞こえ始める。

 ——あの金色をした釣り鐘は、いったい本当に黄金だろうか? この信仰団体は、果たして真実それだけの富を蓄えているのか?

 わからなかった。

 新聞記者として潜入を試みていたのなら迷わず追求しただろうが、しかし今の桜田にとってそのような『知的探求』は些事でしかない。


 夢で、二人の女を見た。

 暗い部屋に、真っ白い布袋のような仮面を被って裸で寝転がっていた。

 尻には産毛が生えていて、猫のようにコロコロ笑う。

 二人は、どこか美代子に似ている気がした。

 やがて、

 無数の男たちがどこからともなくやって来て、

 ゴキブリのようにうじゃうじゃと二人に群がっていく。

 桜田は、ひどく興奮した。

 やがて男の一人に促され、彼も女たちを抱くことにした。

 精液が管から溢れ出るたび、桜田は盛んに腰を緩く痙攣させる。


 ごうん、ごうん——と、鐘が鳴った。


   □□□


 今日〈ニルワヤ教〉などと呼ばれる宗教団体の前身は、明治の終わりも近くなってようやく文献に現れ始める。

 もっともその起源はさらに古く、元は室町時代に中国から渡来した仏教の一派であったらしい。そこへ日本古来の山岳信仰や西洋哲学などが組み合わせられ、また近代以降インドからの仏典再輸入などを経たのちに〈ニルワヤ教〉として知られる教義が完成した——というのが、昨今の定説である。

 本来は兵庫県の芦屋近くに総本山を構えていたが、これが阪神の大震災で壊滅的打撃を受けて以降、名はともかくも実体としては東京の支部が中心となった。〈なかよしセンター〉がここ関東に設置されたのも、やはりこうした理由であろう。

「教団の歴史をひもといてみますと、信仰の形態が和洋折衷になっているのも頷けるように思います」村井敏子はそんなことを口にしながら、桜田に先立って廊下を進んだ。「仏教の流れをくんでいますからご覧の通りここでは法衣を身につけますし、定時には釣り鐘を鳴らすのです。また教義にある『ニルワヤ』は、仏教における『悟り』の境地——つまりサンスクリット語でいう『ニルヴァーナ』——を基本としてはいますけれど、同時に西洋の虚無主義や個人主義などから強い影響を受けてもいて……」

 桜田は寝ぼけ眼を擦りながら、そのあとについていく。回廊は絶えず緩やかなカーブを描き続けた。こんな道ばかり通っていたら、帰る頃には足に変な癖がついてまっすぐ歩けなくなりそうだ——などと、益体もない感想を抱く。あるいはひょっとすると、それさえ教団の思惑なのかもわからない。いつしか信者の誰も彼もが、外界から隔絶された純白のこの空間に過剰適応してしまう……暑苦しく、色彩にまみれ、直線の道ばかりが続く『外』へ二度と戻ることができなくなる……。

 考えすぎだろうか。

 考えすぎかもしれない。

「みなさんは、日頃どのように過ごされるのでしょうか?」

 永遠に続くかと思われた回廊の外縁に、やがてポッカリと四角い窪みが現れる。そこには下層から上層へと螺旋を描き上っていく、コンクリート製の階段があった。

「お祈りや食事、入浴の時間などは毎日きっかり決められています。それ以外では、自分の部屋で日記を書いたり思索にふけることが多いようです。地下には運動場がありますから、体力を持て余す方はそちらにいらっしゃることもできますが……しかし、あまり多くはないように思います。そういうわけですからご覧の通り、住人の数に比べても人通りがやや少ないきらいがあるのです」

 やや少ない、などというどころではなかった。桜田にしてみれば、この施設を訪れてから

受付嬢と目の前の女とのたった二人しか見ていないのだ。廊下を歩く人影さえない。扉の数ばかりある一方で、こうも閑散としているのはかえって気味悪く感じてしまう。

 階層を一つ上がると、先ほどのフロアと同様の光景が面白みもなく広がっていた。壁の案内板に目を向けると、どうやら各階の構造は、最上層の一つを除いてまったく同様であるらしい。三重になった回廊と、中心に据え置かれた釣り鐘のマーク、そこから放射状に広がって回廊と交わる直線の通路……。

「まだ、上るのですか?」

 桜田は膝の疲労と共に、自分の老齢を自覚した。前方の村井は、すいすいと滑るような足取りで軽やかに上層へと向かっている。比べて、汗ばみ膝を抱えた自分はいったいどれだけ醜いだろう?

「食事は最上層で摂る決まりなのです」

 さらに階層を三つ上がると、それまでの白一色からは乖離した色彩の渦が目に飛び込んだ。壁といい天井といい、何もかもが赤青黄色の渦巻き模様で埋められている。渦巻きの一つ一つは何かの花を象徴しているようであったし、一方で麻薬中毒の患者が語る幻覚を連想させもした。

 階段はぷっつり途切れている。

「これは……ニルワヤ、でしょうか」

 似たような模様を、教団から出された本で以前に見かけたことがある。信仰の最終到達点である『ニルワヤ』を、この絵柄が象徴していた。悟りきった僧侶には、曰く、世界がこのように見えているのだ——と。

「あら、よくおわかりですね」桜田の呟きに、村井は少し驚いた風な表情を見せた。「この階だけは特別なのです」それから壁に貼り付けられた案内板を指さして、「ほら、今までとはまるきり構造が違いますでしょう?」と悪戯っぽく笑みを浮かべる。

 確かに違う——桜田は多少の興味と共にその案内図をじっと見つめた。円いフロアの中央に半月型の大部屋が二つ、ぴったりと弦の部分を貼り合わせるように位置している。それまで三重になっていた回廊がここではただの一つだけ、フロアの内縁に沿うように——半月を貼り合わせて作られた丸をぐるりと囲うように——して設けられているのだった。二つの半月は弓の部分に三つの入り口を開けている。

「右側は教祖様のお祈りや儀式に使われる部屋なので、幹部の方々を除いては平時の立ち入りが禁じられます」

「すると左側が、」

 食堂だった。

 正確には、施設に滞在する信者全員が一堂に会するための部屋だ。食事を含め、みなで行う祈祷の際にもここが用いられるという。

「みなさまお待ちですよ——」

 扉の開く重い音が、半月型の空間に響いた。入って奥、直線を描く弦の部分には、金色の法衣を身につけた男——これは教祖らしい——が左右に幹部らしい灰色の法衣を十も二十も侍らせていた。それらを遠巻きに囲うように、桜田や村井と同様の白い法衣を身につけた者が、何列にも連なっている。これは一般の信徒である。誰も彼もがじっと正座し、言葉一つ、物音一つ立てることなく、じぃ、と目の前の膳を見つめていた。

 人数に比して不釣り合いな静寂が、どこか不気味だ。

 壁面にはやはり無数の色彩があってグルグルと渦を巻いていた。板張りの床はやや温かな感触をしている。通常建築に使うものより、柔らかな材木であるらしい。

 そして何よりも目を惹いたのが——


 巨大な鐘、だった。


 およそ四十メートルはあるだろうはるか高い天井から、人々の頭上に吊り下げられて、微動だにすることなくしんとしている。それまで眠気の抜けきれなかった桜田は、ここへきてやっと覚醒した。驚愕した。

「やはり、これも黄金ですか?」

「さあ、どうでしょうね」やや確信なさげに村井は答える。「わたしはそう聞いていますけれど……」さすがにこれだけの黄金を用意し鋳造するとなれば、多少の富ではどうにもならない。生粋の信者でないだけに、彼女もこの異様さには気がつくのだろう。「おまけに同じものがもう一つ、隣の……教祖様のお部屋にもやはりあるのだという話です。でも、飾りでないことだけは確かですよ。ほかの階と同様に、やはりこの鐘も鳴るのです」それからそっと部屋の片隅を指さして、「さあ、早く座りましょう」と桜田を促す。「全員が揃わないと食前の祈祷が始まりません」

 示されたほうへ歩いて行くと、空っぽの座布団と膳が二つぽつねんと寂しげに待っていた。夕食の中身はごく簡素な精進料理で、量もさほど多くない。炎天下にうねうねと路地を歩いた身として、桜田はいささか不満だった。

 二人が座すと、唐突に、しかし寸分のズレもなく、信者たちみなが一斉に何事か祈祷の文言を唱え始めた。中身はよくわからない。仏典に関して桜田はさほど詳しいわけではなかった。ただやはり、法事などで耳にする坊主の文言などよりも、いくらか気楽な響きには感じる。食物への感謝とか健康への祈りとか、大方その辺りだろう——などと思いながら、桜田は周囲を観察した。隣に座した村井を見ると、生粋の信者でないにしても割合と溶け込んではいるらしく、意外とサマになる格好でムニャムニャと文言を唱えている。

 桜田の視線に気がついた途端、彼女は少し赤くなった。

「いえ、これはその……ただ格好だけマネをしているばかりなもので……本当は呪文などちっともわからないのです」

 よく耳を澄ませてみれば、確かに「むにゃむにゃ」と文字通り口にしているだけらしい。桜田は破顔して、自分も倣うことにした。


 ——しかし、いったいどこにいるのだろう?


 祈祷が終わると、あちこちで微かに談笑の声が聞こえてくる。それでも喧噪からはほど遠く、全体に大人しい会食であった。桜田はあっという間に料理を平らげ、チラチラと周囲に視線を送る。


 ——美代子は、それに明子はいったいどこだろう?


 見当たらなかった。集っている信者の数があまりにも多すぎる。部屋の端っこに座った彼から、遠く向かい側に並んだ顔はとても判別できそうにない。

 彼は落胆し、ため息をついて頭上を見上げた。

 巨大な鐘が、やはり微動だにすることなくたたずんでいる。いったいこれが鳴ったとき、どれだけの音が響くのだろう——と、彼はそんなことを考えた。鐘の表面には教祖らしい男の姿が、くっきりと浮き彫りにされている。

「誰か、お探しですか?」

 不意に、村井が問いかけた。

「いや、別に——」桜田は「ちょっと気になったことがありましてね」と、話を逸らす。「ここにいらっしゃる方々は、みんなこの施設でずっと暮らしているのですか?」

「いえ、そんなことはありませんよ」意外な返答だった。「大抵の場合、普段は会社などに勤めていらっしゃるようです。住まいも都会のアパートなどで、ここへは休暇のような形で定期的に訪れるのです」

「つまり、夏休みや冬休みのように?」

「毎週末に一泊していく場合もあります。一年働いてうんと貯金し、その翌年にずっとこちらで暮らす場合も。信仰される方々にだって、俗世の事情というものがありますから。本来ならずっとこちらで生活するのが理想ではあるのでしょうけれど……誰も彼もがみなそのようになってしまえば、施設そのものの運営資金も集まらないことになってしまいます。ですから教祖様はともかくとして幹部の方々などからすると、ここにそう長く居座られるのは都合がよろしくないようなのです」

 なるほど、と桜田は頷く。どれほどに浮世離れした教義を語っていたとして、現実の土地に現実の建物をこしらえて、現実の人間を生活させている以上、そこには俗っぽい問題が発生しないわけにはいかない。信者が誰も彼も『悟り』きって俗世から離れてしまったら、献金をする者もお布施を払う者もなく、教団を維持することは金銭の面から不可能になる。

 矛盾だった。

「それじゃこの〈なかよしセンター〉は、人々の信仰を確認し補強するための合宿所のようなところなわけだ——」

「そういうことになります」うまい表現ですね、と彼女はいった。「ニルワヤへの到達を目指すのに、教義からしても集団生活の重要性は明らかですから」

 ああ、確かに——と、桜田は聞きかじった知識を総動員してその言葉を咀嚼する。

「ニルワヤ、ね」


 住人みな集っての食事会は、やがて速やかに終わりを迎えた。

 その夜、桜田は女を抱く夢を見た。

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