F/治療

「先ほど病院に到着し、治療を受けているそうです」担任の女教師が語る言葉は、教室に淡々と響き渡る。いつもは騒がしいHRも、今日ばかりはしんとしていた。「少なくとも半年は入院しなければならないと、ご家族の方がおっしゃっていました」

「あの、田辺先生」クラスメイトの一人が尋ねる。「藤宮さんはいったい……」

 どうして、あんなことをしたんですか?

 いまは、どこで何をしているんですか?

「詳しいことは、まだわかりません。今日は家で親御さんと話し合ってもらっています。今後については、ほかの先生方と相談中です」

 教室には、空席がただ二つあった。

 猿山へ転落した男子生徒と、彼を突き落とした女子生徒と。


   □□□


「セックスは文化的な行為ですか?」

 中学に入ったばかりの頃、綾瀬遙花は唐突にそんな言葉を聞いた。授業中、後ろの席の女子生徒が教師へ投げかけた疑問だった。周囲は一瞬静まって、それから生徒のささやき声があちらこちらから聞こえ始める。困惑と多少の嘲りを含んだ、嫌らしい陰口の類いだった。

 綾瀬からして、藤宮京子はどことなく浮ついた少女だった。それは単に青白い肌やゆったりとした上品な所作が、外見上の浮世離れした印象を与えたばかりにとどまらない。同級生がアイドルや漫画といった俗っぽい娯楽を話題にしている一方で、西洋の何とかという哲学者の思索とか、中国の白昼夢めいた逸話とか……どこか抽象的な言葉ばかりを藤宮は饒舌に口にするのだ。それでいて、具体的な現実の話を持ちかけてみると、不機嫌そうにひょい、と視線を逸らしてしまう。現実を見ていない——というよりも、現実から目を背けているといった風で、ふわふわと形而上の世界ばかりに焦点を当てているのだ。そしてその抽象的な語彙に関して、藤宮の右に出る者は、教師でさえそうそうなかった。

 綾瀬はしばしば、いったいこの子はどこからそんな知識を仕入れてくるのか、と訝しく思うことさえある。常識的に考えるならネットの中を探すのだろうが——しかし今どき珍しく本だの図書館だのというオールドメディアに依っているのも、また、藤宮京子という人間を思えば妥当であるような気がしてくるのだ。

 だから、だろう。

 彼女があまりに、現実から遊離していたせいだろう。

 いつだって、綾瀬を除けば誰も彼も、生徒はみな遠巻きに彼女をじっと眺めていたのだ。おそらくは、自分とは異質な何かを感じて、本性的な警戒の視線を浴びせずにはいられなかった。どんなに騒々しい教室も、藤宮が扉を開けた瞬間、ほんのわずかにしん、と静まりかえってしまう。室内の目が一斉に彼女へ向けられて、微かな恐怖と畏怖の念がさざ波のように広がっていく。藤宮が我関せずと踏み入れて、いつもの仕草で自席にストン、と腰を下ろすと、ほっとしたように少しずつ喧噪が戻るのだった。

 その光景は綾瀬にとって、ひどく滑稽なものに見えた。大勢の人間が、ただ一人の華奢な少女を扱いかねて困惑している——ちっぽけな人間ただ一人に、集団の平穏がひどくかき乱されている。藤宮自身は、ただそこに『いる』だけなのに。刃物を持っているのでも、他人に暴言を吐くでもない。だというのに、誰も彼女を無視できなかった。反応せずにはいられなかった。

 まるで世界中の人間が狂気の中に陥っている中、ただ一人正常を保っている——綾瀬にとって藤宮京子は、どこか『孤高』の人に見えた。疎まれ蔑まれる自分とはまるで正反対の場所に立ち、けれど同時に一番親近な感情を湧かせる。そういう人だ。

 今に思えば——と、綾瀬はしばしば思い返す。

 彼女の『孤高』は、入学早々に発せられた件の『質問』に端を発した。


 ——セックスは文化的な行為ですか?


「ええと……」教師は戸惑い、問い返す。「どうしたんですか、藤宮さん?」

「ただの質問です」表情を変えることなく、彼女は続ける。「セックスは文化的な行為ですか? 人間的で、知性的で、道徳的で、文明的な行為でしょうか? 人権を認める根拠になるのでしょうか?」

 月曜三限は、法律に関する講義だった。社会科教師の田辺玲子が、教室前方のホワイトボードに日本国憲法を引用している。十年前に改正されたこの国の新しい『人権』について。


 ——国民は、文明的かつ文化的に振る舞うことを条件に、すべての人権の享有を日本国政府によって許される。


 文明的かつ文化的に振る舞うこと——と記された箇所に、マーカーで下線が引かれていた。かつて無条件に認められたという『人権』には、改正以来、ちょっとした条件が加わっている。藤宮にとっては、どうやらそれが重大な論点のようだった。

「いえ」教師は困った風に首を傾げた。「そういうことはあまりないと……」

「では、反対に」彼女はさらに問いを続けた。「セックスは、果たして非文化的な行為でしょうか? 動物的な行為でしょうか? 猿や犬やネズミと同様にわたしたちがセックスをすることで、『人間に値しない』と目されることはあるのでしょうか? 人権が剥奪されることはありえるでしょうか?」

「さあ、どうかな。……ねぇ、藤宮さん」威圧するように、わざとらしくため息をつく。「あなたはどうして、そんなことを疑問に思うの?」

「理由——ですか?」決まっている、といわんばかりに藤宮は小さく笑みを漏らした。ふふふ、といった調子のごく微細な声であったが、それはどこか蠱惑的で、同時に人をあざ笑うようにも感じられる。彼女を嘲笑していたささやき声は、みな一様に微かな戸惑いの色を浮かべた。「そんなの、不合理だからに決まっています」

「不合理って、いったいなにが?」

 教師は、少し苛立ちを含む口調で問うた。

「文明的かつ文化的に振る舞うことで」たとえば、と彼女はいった。「わたしたちは国から人権を認められます。条件に合わなければ一切の権利はなくなるし……権利である以上は自分から放棄し、与えられた『文化的な振る舞い』の義務から逃れることだってできてしまう。動物のように一生を檻の中で暮らすのも、決してありえない話じゃない。けれど法律も〈戸籍省〉も、そもそもいったい何が『文明的』で、何が『文化的』であるのかを、何一つ定義していません。考えてもみてください、」彼女曰く——犬にはヒトでいう二歳児並みの知能がある、と。「だというのに、赤ん坊には人権を認め、誰一人として犬には認めようと考えない。猿だってそうです。イルカも、タコも、ヒトの子供とそう変わらない知能がある。赤ん坊と動物の間に、どんな『振る舞い』の違いがあります? 赤ん坊のどこが『文化的』で、どこが『文明的』だというんですか? あるいはたとえ成人であっても、人間の性交渉と猿のそれとにどんな違いがあるのでしょうか? 動物と同じようにセックスをしたら、人権の条件から外れてしまいやしないでしょうか? どうやったって、人間と動物をハッキリと区別するなんてできっこないんじゃありませんか?」

「それは……」少し考える素振りを見せて、「いや、間違いじゃないかな」呆れた風に教師はいった。「人間と動物とが共通点を持っているのと、両者を区別できないというのとでは、ぜんぜん違う話なんだよ。第一に、赤ちゃんが成長し大人になって、いずれ『文化的』『文明的』な振る舞いをするだろうということは、誰の目にも明らかじゃない? でも、犬や猿はいつまでもそのまんま……赤ちゃん並みの知能のままでしょ。生まれてから、ずっと死ぬまで。だから赤ちゃんには『見込み』で人権を……特に生存権なんかは当然のものとして与えていい。もっともあくまでも暫定だから、参政権や賠償請求権なんかには制限がつくけど。こういう風に考えれば、無脳症の赤ん坊とか……つまりこの『見込み』ができない人がどうなるのかは自明でしょう? 国は、権利を与えない」第二に、と教師は続けた。「この法律は『野蛮であるか否か』ではなく、あくまでも『文化的に振る舞うか否か』という点にのみ注目してる。どんなに粗暴な人間であっても……どんなに野蛮なセックスをしても、ほんのわずかにさえ文化的な営みがあれば、即座に『人権』は認められる。ちょっとした社交辞令とか、ジョークとかね。犬は小説を読まないし、猿はパエリヤを作らない……だから『野蛮な側面を持っている』点で人間と同等であったとしても、彼らに『人権』はありえない。この国の法はそういう風にできてるんだよ」

 教師はペンを右手に握って、ホワイトボードにいくつかの文章を書き連ねた。


①文化的な振る舞いをし、かつ非文化的な振る舞いをする。

②文化的な振る舞いをし、かつ非文化的な振る舞いをしない。

③文化的な振る舞いをせず、かつ非文化的な振る舞いをする。

④文化的な振る舞いをせず、かつ非文化的な振る舞いをしない。


「④は現実的にないとして、人権が認められるのは①と②の場合かな」そもそも、と教師はクラスを見回していう。「条文にある『国民』って、要は伝統的な『人間』のことなの。国が十一条を改正した目的は、一般的に『人間』とされてきた国民の一部を、例外的な事情において『人間扱いしなくてもよい』……と、こういう風に定めること。認知症の老人だとか、治りそうにない病人だとか……いってみれば経済的な『お荷物』のことね。彼らを『人間ではない』と定義すれば、社会保障費なんかの削減に繋がる。社会のリソースを節約して、より国の利益になる分配が可能になるでしょ? つまるところ、そうやって『人間以外』を定義するのがこの憲法の意味なんだ。だから、そもそも『人間』が何なのかを議論するのは十一条の問題じゃない。それは世間一般に流布している『常識』の問題……この法律の『前提』部分の問題なんだよ。だから、何も不合理な点はないと思う」それから、と声を落として付け加えた。「藤宮さんに、ほんのちょっとした忠告だけど。……あまり性的な言葉をみだりに口にしないほうがいいと思うな」

「そう、ですね」

 気をつけます——彼女はあっけなく謝罪を口にし、ストン、と席へ腰を下ろした。ヒソヒソとしたささやき声が、あちらこちらから漂ってくる。数十と連なった奇異の視線が、藤宮の一挙手一投足に注がれていた。綾瀬はチラリ、と彼女の横顔へ目をやって、「ああ、この子は先生に失望したんだ」と内心に呟く。教師が満足げに次の話題へ移ったとき、藤宮が漏らしたため息は、それくらい大げさで、悲壮だった。


   □□□


「結局のところ、わたしが先生にいいたいのはさ」綾瀬が部屋の戸を開いたとき、ベッドの上へ腰掛けたまま彼女はこう口にした。「矛盾してるってことだったんだよ」

「矛盾?」

 藤宮の私室は、一人で過ごすにはいくらか手広い、白を基調としたモノトーンの空間だった。置かれた家具に華やかな色彩など欠片もなく、安っぽい木目や乳白色が憂鬱そうにたたずんでいる。北欧風の勉強机、やたらと軋む小さいベッド、床には白いカーペット……備え付けのクローゼットからベージュの下着がほんの少しはみ出していた。ベッド脇には小さな植木鉢が据えられていて、紫外線に色あせた造花が中で茶色く縮れている。

「ねぇ、綾瀬さん。そもそも『人権』って、ヒトが動物でなく『人間』であるために必要な権利を指す言葉なんだ。『人権』があるから『人間』でいられる……それ以外に人間と動物とを区別する方法なんてないんだよ。だっていうのにこの国は、『人間』であることを条件に『人権』を容認しようとしてる。これってとんでもない嘘でしょう? 順番がまるきり逆なんだから」

 綾瀬は曖昧に頷きながら、入ってきた扉を閉める。「そう……かな」学生鞄を傍らに置いて、カーペットの上へと腰を下ろした。一段高いベッドの上を——そこに腰掛けた藤宮を、ちょうど見上げる格好になる。「そういうもの、かな」いいながら何気なく目をやれば、床には細かな埃とか、黒く細長い髪の毛などが、ぽつり、ぽつり、と転がっていた。あまり熱心に掃除されていないのだろう。

「そういうものだよ」藤宮は答える。「見たでしょう? 猿山に落っこちたあの男の子がいったいどうなったのか。結局さ、人間なんかあの程度の生き物なんだ。醜くて、弱くて、群れなきゃ野生で生きていけない……ほかの動物と何も変わるとこなんてない」だから、と彼女は寂しげにいった。「そもそも法律がいう『人権』も、『文明』だって『文化』だって、上っ面だけの嘘なんだ。本当なのは、ただそこに色々なモノが『在る』ってだけで……意味も定義も、そんなのは後付けの作り話なんだから。ただ単に、便利な言葉ってだけなんだから」

 部屋の片隅に据えられた窓から、ボンヤリと陽光が差している。ここ数日でずいぶんと勢いを失った太陽は、秋を通り越しすでに冬の匂いを漂わせていた。水痕だらけの曇りガラスに、埃を被ったアルミのサッシ。

 この部屋は汚れている——と、綾瀬は思った。けれど決して「不潔」ではない。堆積した埃や髪は年月の経過を表しはするが、しかしどれだけ月日が経っても腐敗し悪臭を放ちはしない。汚れた食器や腐敗した果物、膨れたゴミ袋に占拠され、しばしば「ゴミ屋敷」と評される綾瀬の自宅と比べてみれば——同じ「汚れ」でも、まるでこの部屋は廃墟だった。

 生の臭いがしないのである。

 仙人の住処か何かのように、浮世から遠く隔たっている。生活を感じさせない無機質で無感動な室内に、ただ藤宮だけが「生きている」。動き、息を吐き、生命の気配を保っている。それは不思議で、けれど藤宮の在り方を思えばごく当然とも思えるのだった。

 ああ——と、不意に思った。


 この少女は、やはりこの世のものではない。


「ねぇ、結局のところ」綾瀬は少し考えてから、ふと彼女に問いかけてみる。「どうしてあの子を突き落としたの?」

「ふふん」と、藤宮は途端イタズラっぽい笑みを浮かべた。ベッドの上から身を乗り出して、ずい、と綾瀬に顔を寄せる。シャンプーと汗の混じった香りが、湿っぽく周囲に広がっていった。「それはねぇ」柔らかな唇が「練習だよ」と、いかにも愉しげにこう答える。ツン、と酸化した歯垢の臭いが、心地よく綾瀬の鼻を包んだ。

「れん……しゅう……?」

 綾瀬は、どうしてか息苦しくなった。

 目の前の少女の微笑みが、いやに魔的に見えたのだった。


 ——件の猿山は、周囲をぐるりと腰ほどの柵で囲われている。内側はコンクリートで固められ、蟻地獄めいてつかみ所のない壁面が数十メートル傾斜していた。落ちるのは容易でも、這い上がるのは至難の業だ。唯一の扉は飼育員用の出入り口で、それも普段は厳重に鍵をかけられていた。底には岩山が据えられていて、無数の猿たちがあちらへこちらへ往来している。

 男子生徒は、柵から思い切り身を乗り出して、猿山を興味深げに観察していた。綾瀬とも、藤宮とも、特段の付き合いはなかったはずだ。あの日の社会科見学で同じ行動班に括られたのも、単なるくじ引きの偶然であって……だから多分その犯行は、ほとんど無計画で、衝動的なものであったに違いない。

 綾瀬の見ているすぐ目の前で、彼は猿山へと落っこちた。

 藤宮京子に、落っことされた。

 困惑したような太い叫びが、遙か下方へ落ちていく……つるつるとしたすり鉢状の壁面を、ちょうど滑り台のようになぞりながら……やがて苦痛にあえぐ悲鳴が聞こえ、争うような物音がする……猿たちがガチガチ歯を鳴らし、何かを引き裂く音がして……男子生徒のすすり泣きが細く長く漂ってきた。

 綾瀬は恐る恐る、柵の向こうを覗き込む。乱暴に衣類を引き裂かれ、縮れた陰毛をさらしながら、彼は仰向けに寝転んでいた。皮膚のあちこちが深く抉られ、照りつける日の中に真っ赤な血が滴っている。中でも右膝の傷は重症で、白磁のような艶のある骨がぱっくりと顔を覗かせていた。

 横たわった彼の顔へと、毛むくじゃらのボス猿が尻をこすりつけている。「舐めろ」とでもいうかのように、キッキッキ、と歯を鳴らしながら。男子生徒は、猿山の外から見下ろしている藤宮や綾瀬を一瞥し——どういうわけか、「ひひひひ、ひひ」と引きつった笑い声を上げるのだった。まるで喜んででもいるかのように、どこか恍惚とした表情だった。

 彼の舌が、ゆっくりと、丁寧に、猿の肛門を舐め回す……。

 綾瀬が見たのは、そこまでだった。駆けつけた職員の数名が、猿山一帯への立ち入りを固く禁止したからだった。設置された三角コーンに『事故・対応中』と看板がかけられ、責任者らしき太った男が右へ左へと行き来する。

 ——それが、今から四ヶ月ほど前の話だ。


「練習って、何の?」

「決まってる。いつか自分が人間をやめるときに備えて、さ」他人を貶めるより、自分を穢すほうがずっと大変なのだ——と、彼女は事もなげに口にした。「簡単なところから少しずつ慣れていくんだよ、ステップ・バイ・ステップで。まずは手近なクラスメイト、次は……せっかくなら家族にしよっか。それで最後は自分自身。段階を踏んでやってかないと、色々と不都合もあるだろうから。ニルワヤに行くのって、きっとそうでもしないと難しいよ」

「………………そっか」綾瀬は、曖昧に頷いた。わからないことは、わからないままに流してしまおう——藤宮と会話をするに当たって、この頃やっと彼女が学んだやり方だった。「でもまぁ、とにかく元気そうで安心したよ」床にべったりと座ったまま、傍らに置いた鞄を開けて分厚いプリントの束を出す。「そのうちまた、学校に来てくれると嬉しいかな。停学も今日で終わりなんだし。……はいこれ、今週の分」

「そだね」プリントを受け取りながら、藤宮は苦笑した。「冬休みが終わる頃には、どうにか行けるといいんだけど。……ほら、ずっと引きこもってたら太っちゃってさ」いいながら、ぽっこりと膨らんだ下腹部を撫でる。「ダイエットしないと、そうそう人前に出られやしないよ」

 冬休みが終わる頃——と、綾瀬は内心で反芻した。ずいぶんと気の長い話である。

 八月の終わりに件の騒動を起こしたことで、藤宮は一ヶ月の停学となった。一時は警察沙汰も予想されてはいたものの、落下した当の男子生徒が訴えに及び腰だったのである。綾瀬にしてみれば意外だったが、「そんなの、分かりきってたことでしょう?」と藤宮はつまらなそうに鼻を鳴らすばかりだった。蓋を開ければ何のことはない、公衆の面前で醜態をさらし、その上、大ごとにして恥を上塗りしたくなかった——と、単にそういう話である。

 男子生徒は猿に散々なぶられたあと、担ぎ込まれた精神科で薬漬けにされた挙げ句、錯乱した言動が「文化的」でも「文明的」でもなかったことで人権の剥奪までささやかれていた。いまだ入院中とはいえ、回復自体が半ば奇蹟のようなもので——そう考えると、一ヶ月間の停学などでは罰としておよそ釣り合わないのではないか、というのがクラス全員の内心である。実際のところ、綾瀬を除けば誰一人として——教師でさえも——藤宮の復学を望んでなどいなかったのだ。

「それじゃ、わたしは……」いつものように、綾瀬は鞄の口を閉じる。「もう、そろそろ帰ろうかな……」いいながら、けれど彼女は一向に立ち上がる素振りを見せなかった。とんだ茶番だ——と、綾瀬自身もいくらかの馬鹿馬鹿しさを感じてさえいる。「お母さんに晩ご飯食べさせてあげないといけなからさ……」

「ダメだよ」遮って、藤宮はいった。「まだダメ。あなた、また寄生されてるもの」

 よかった——綾瀬はほっと息をつく。

 先週とも、先々週とも変わらないやり取りだった。義務的な、あるいは儀礼的な言葉の応酬。合図といってもいいかもしれない。

「でも、もう日が暮れちゃう……」

「ダメ。放って置いたら、明日にでも脳みそを食い尽くされてしまうんだよ」

 有無をいわさない鋭い目つきで、彼女は綾瀬を——正確には、綾瀬の額を——見つめていた。皮膚の向こう、頭蓋に包まれた脳みそを、透視してでもいるかのように。綾瀬は腰を下ろしたまま、こくり、と小さく頷いた。

 藤宮の顔が近づいてくる。唇と唇がそっと触れ合う。なめらかな舌が口腔の内側へ押し入って、唾液と共に何か——丸い粒のようなもの——を流し込んだ。

 親鳥に餌を与えられる雛のように、自分はただこの身を預けていればいい。

 素直に、すべてを受け入れればいい。

 こくり、と綾瀬は口移しされた何かを飲んだ。


 ——いつものように、そして、治療が始まった。


   □□□


 大半の人間は、脳みそを寄生虫に侵されている——最初にそう告げられたのは、綾瀬が初めてこの家を訪ねたときである。

 その日、うじゃうじゃと戸建てのひしめく住宅街を小一時間も歩いた末に、綾瀬はようやく目的の一軒家を探し当てた。事件から一週間も経たない頃で、舗道の端には点々と蝉の死骸が転がっている。空はほとんど秋の色に染められていた。

 藤宮の家は小ぎれいながらもやや古ぼけた格好をしている。白い外壁は経年のせいか色あせていて、プラスチック製の呼び鈴は紫外線にしっとりと焼けていた。

「どなた——?」

 藤宮は玄関から顔を出し、ぎょっと両の瞼を大きく開けた。綾瀬は最初、目の前の少女が自分の顔を注視しているような気がして、いくらかの照れくささに頬を染めたが、やがてわずかにその焦点がズレているのを感じ取る。顔ではない……いくらか上……目よりも眉よりも少し上……つまり額。そしてその表情は、恐怖と驚愕と嫌悪の混じる、ひどく失礼なものに思えた。藤宮の目つきは、まるで虫か何かに向けられるそれだ。

「あの」と、いくらか不機嫌になって綾瀬は尋ねる。「いったいどうかしたんですか?」

 それから、脂ぎった真っ黒い甲虫がよもや本当に貼り付いているんじゃないだろうか——と、彼女は無意識に前髪をはたいた。ありえない話ではない。自宅に山と積まれたゴミ袋をひっくり返せば、ガサガサと動き回る無数の虫が姿を現すに決まっていた。部屋中を這いずり回るその足音で、何度夜中に目を覚ましたか……。

 けれど、指先は柔らかな髪を撫でるばかりだ。

「無駄だよ」藤宮は目をそらしながら哀れむようにこういった。「はたいたって落ちやしないよ。虫はそこにいるんじゃない」

「そこじゃない? なら、どこに……」

「中だよ」彼女は不意に、人差し指を綾瀬の額にそっと這わせる。湿り気を帯びた指先は、ひんやりとして心地よい。「頭の中……頭皮と頭蓋骨にくるまれた、あなたの柔らかい脳みその中……」虫はそこにいるのだ、と。

「嘘だよ」

「嘘じゃない」

「どうしてあなたに、そんなことがわかるっていうの?」

 頭の中なんて外から見えやしないのに——と続く言葉を、けれど藤宮は遮った。

「わかるんだよ、わたしにはね」有無をいわさない語調だった。「でも、あなたはまだ手遅れではないかもしれない」それから、何やら素敵な思いつきに心躍らせるような調子で、「ほら」と綾瀬に手を差し出すのだ。「入って、休んでいくといいよ。道中、きっと小一時間は迷ったでしょう? この辺りの道はほんの少し意地悪なんだ」

 促されるまま、綾瀬は家へと踏み入れた。玄関には藤宮の靴と突っかけがあって、ほかに人の気配はない。家人はみなよそへ出かけているのだろうか——と、彼女はボンヤリ考えた。

 玄関を入ると、すぐに板張りの廊下があって、その両脇にいくつかの扉が並んでいる。突き当たりには階段が見え、螺旋を描いて二階に続いているようだった。模様のない白壁に、ペンキをぶちまけたような抽象画が二つ三つ飾られている。天井にひょいと視線をやると、花を象った切子電球が淡い光を落としていた。

 どうしてか、その風景は全体に生活の匂いを感じさせない。

 理由は、よくわからなかった。

 電灯の明かりがいやに頼りないせいかもしれない。廊下の隅に、うっすらと埃が堆積しているせいかもしれない。あるいはまた、上品な内装と比較して、あまりに空気が寒々しいからなのかもしれない……そう、そうなのだ、この家は不思議なくらい静かだった。人間の気配がしない。「生きている」ものの匂いがしない。

 ——まるで、仙人の住処のように。

「いつまで突っ立っているの?」

 おかしげな声が、背後から聞こえた。

 パタン、と軽やかに玄関の扉が閉められた。

 藤宮は先だって、振り返る様子なくスタスタ廊下を進んでいく。その背中を、綾瀬は少しの逡巡ののち、ゆっくり追いかけることにした。

 廊下の左右に並ぶ扉は、木製の枠組みに曇りガラスをはめ込んだ格好をしている。どれもぴっちりと閉められて、中の様子はうまく見えない。ガラスを介して、青ざめた衣類や黄ばんだ机、赤い掃除機の輪郭などが曖昧に把握されるばかりである。

 螺旋を描く階段は、大人ひとりがやっと通れるくらいの幅に、ほとんど垂直かと思えるほどの不親切な急勾配だった。ただ一階ばかりを上るために、いったいどうしてこんな苦労をしなければならないのだろうか——と、綾瀬は少しばかりうんざりする。

 階段を中程まで上ったところで、彼女は少し立ち止まった。背中がしっとりと汗ばんでいる。日頃、運動にあまり熱心でなかったせいだろう——太ももの辺りに、じわりと疲労が沈殿していた。慣れた調子の藤宮が、目の前をスタスタ上っていく。その軽やかな足取りに、綾瀬はやはり思うのだ——ああ、この少女はやはりこの世のものではない。天女だとか仙人だとか、きっとそういう類いなのだ。

「早く来て」藤宮は階段を上り詰め、つい、と唐突に振り返った。「ボンヤリしてると、手遅れになってしまうかもよ」

 藤宮の私室は、二階に上がってすぐそこにあった。階下の扉とは打って変わって、ガラスではなく堅牢な板一枚の引き戸である。金属で縁取られた鍵穴が、じっとこちらを睨めつけている。

「ねぇ……虫って、なに? 何なの?」

 戸を開けようとする藤宮の背中に、小さく問いを投げかけた。


 ——寄生虫だよ。


 愉快そうに彼女は答え、ゆっくりと、私室の扉を開けた。

 ふわり、と甘い汗の匂いがした。

 ひと気のないこの家で唯一、それは「生」の気配を感じさせた。

 シャンプーと汗の入り交じった藤宮京子の体臭が、部屋のあちこちに染みついている。

 彩りに欠けた内装に、埃がチラチラと舞っていた。

 廃墟めいた空間を背に、藤宮ただひとりだけが生々しく「生きている」。


 ふと、

 めまいがした。

 貧血だろうか——運動不足の身体には、急な階段さえ毒かもしれない。

 視界が赤く染まっていく。

 頭からサァ、と血が抜けていく。

 足下がおぼつかない。

 自分が立っているのか、座っているのかさえわからない。


 そのとき、藤宮の声が聞こえた。

「大丈夫、あなたの虫はわたしが取り除いてあげるから」

 よかった。

 安心した。

 綾瀬は微笑みながら——両目を閉じた。


   □□□


 まどろみの中からようやっと上半身を起こしてみると、埃っぽいソファの上でひとり横たわっているのに気がつく。綾瀬はウン、と一つ伸びをして、それから周囲を見回した。電灯の消された広い居間に、ただ一人ぽつねんとたたずんでいる。四人がけのテーブルが部屋の中央に配置され、その傍らに柱時計が鎮座していた。壁には廊下と同様に、ペンキをぶちまけたような抽象画が一つ二つ飾られている。テーブルの向こうに、古い型の分厚いテレビが何を映すでもなくじっとしている。

 そうだ、自分は藤宮家の居間にいるのだ——と、綾瀬は寝ぼけた頭で思い起こした。また貧血で意識を失いでもしたのだろう。初めて藤宮家を訪れた日もこんな調子だった気がする。栄養のせいか体質のせいか……きっと両方だろう、昔から綾瀬の身体は虚弱である。

 ため息をつきながら、柱時計の文字盤を見た。いったい何時間眠っていたろう? 長針は真下、短針はその正反対を指し示している。ネジを巻かれていないらしい——窓から差し込む陽の光は、赤く夕暮れを思わせた。

 ——この家では、時計さえ死んでいるのか。

 彼女はソファから立ち上がり、無造作に床へ放られていたリモコンを拾い上げる。スイッチを押すと、暗く沈んでいたテレビの画面にパッと芸能人の顔が浮かんだ。スピーカーから流れる音は、あちこちひび割れざらついている。おそらくは、長いこと使われていなかったのだろう。画面の端に小さく時間が表示された。

 どうやら、自分は三時間近く眠りこけていたらしい。

 コマーシャルがしばらく流れ、ワイドショーが始まった。ここ一週間に起こった事件が画面に次々と表示される。異国の麻薬戦争だとか、新種のコンピュータ・ウイルスだとか……その中に、綾瀬はふと見覚えのある文字を発見した。

「ようやくお目覚め?」と、唐突に背後から声がかかる。いつの間に部屋へ入ってきたのか、髪をしっとりと濡らしながら藤宮が立っていた。「ああ、その動物園……懐かしいね」

 綾瀬はその姿を一瞥し、慌てて目をテレビに戻す。

「早く服着なよ。……風邪引くから、さ」

 しなやかな足が、胸の丘陵が、バスタオルのあちこちから挑発的に覗いていた。病的なまでに青白い肌が、瞼の裏に焼き付いて消えない。ぽっこりと小さく膨らんだ腹が、タオル越しにも見て取れる。

「風邪? 大丈夫だよ。だってほら、あなたも寒くないんでしょう?」

 何をいっているのだろう?

 綾瀬は訝しく思いながら、自分の身体に視線をやって——気がついた。混濁した記憶を辿り、意識のない三時間に何が起こったのかを思い出そうと試みる。

 わからない。

 どうして自分は、裸のままにここへ寝転んでいたのだろう?

 濡れそぼった綾瀬の髪から、ひたり、と小さく滴が落ちる。彼女はそっと視線を落とし、自分の身体に、その醜さに顔をしかめた。胸に浮いた肋骨や、脇腹に残る紫の痣、四方に飛び散るような陰毛……藤宮の艶やかな裸体に比べて、あまりにも貧しい外観をしている。いやな気持ちになった。吐き気がした。

「大丈夫だよ」

 藤宮が、自らの身体に巻いていたタオルをそっと綾瀬の身体にかけた。シャンプーと汗の入り交じる、甘ったるい匂いがした。濃厚な香りに、頭の奥がクラクラする。頬が熱くなり、視界に色彩が飛び交って、何だかボウッと夢うつつのようになってしまう。

「……虫は」火照った身体を持て余しながら、綾瀬はようやく言葉を発した。「虫は、どうなったの? わたしの頭の中の……虫は……」

「大丈夫」再び、藤宮は繰り返す。「ぜんぶ、わたしが駆除したから」

 よかった、と息をつく。

 とはいえ、どんな「治療」であったのか、中身がまるで思い出せないのは——いつものことながら、残念だった。どんなに記憶を辿っても、スッパリと切り取られたようにその三時間だけが脳みそから抜け落ちている。今まで五度も藤宮の「治療」を受けたというのに、綾瀬の記憶にはただの一つも残ってはいなかった。


 テレビの中では芸能人が、新設されたばかりだという植物園を紹介していた。綾瀬の自宅からそう遠くない。小難しい単語が並んで内容はよく理解できないないものの、何かが『画期的』であることだけは口ぶりから察せられる。

 ——植物の賢さがわかるほど人間は賢いのか?

 そんな耳慣れない言葉が聞こえた。

 藤宮はいかにも興味をそそられている風で、


 ふふふ。


 と、妖しい笑みを浮かべる。

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