T/信頼できない語り手による事件前後の記録

 八月も終わりにほど近い夜、Tは一糸まとわぬ姿で動物園へ運び込まれた。警察の要請と、園長が気まぐれに抱いた動物愛護精神による収容である。ほかに行き場がなかったのだ。

 園職員の側からすると、決して歓迎されたことではない。第一、Tは巷にありふれたあまりに無価値な動物であったし……加えて第二に、Tのため新たな檻を設けるには、予算がいくらか足りなかった。そういうわけで、ちょうど空いていた錆だらけの古い檻が急場にあてがわれることとなったのである。

 鉄製の棒を縦横に交えたその檻は、シロクマと猿山に挟まれる形でひっそりとたたずんでいた。監視カメラさえついていない、ひどく無骨な様子をしている。内部には赤土と雑草が敷かれて、木登り用の広葉樹がほんの二、三本植えられていた。入り口は二重扉にしつらえられ、万に一つも動物を逃がさない念の入りようである。Tを迎えるに当たった飼育員の提案で、天井に日よけのトタン板が十数枚敷き詰められはしたものの——地球温暖化の猛威からして、効果があるのかははなはだ疑問だ。その夏は例年通り、観測史上最高の気温を記録していた。以前にこの檻の住人であった三頭のミツユビナマケモノも、みな重度の熱中症で三日前に死んでいるのだ。蒸し焼きになった肉の臭いが、まだ檻のあちこちに染みついていた。

「ほら、早く入って」園長と警官が立ち会う前で、飼育員はTを檻へと放り込んだ。Tの首には真新しい黒い首輪がつけられて、そこから銀色の鎖が伸びている。鎖の一端は、飼育員の掌に固く握りしめられていた。「熱中症には気をつけなさい。具合が悪くなったらすぐに報せること、ナマケモノと違って立派な脳みそがついてるんだから……」

 動物園の営業は終わり、日はとうに暮れている。園内はまるきり暗闇で、夜行性の動物を除けば動くモノは見当たらない。唯一の光源は警官の手にした電灯だった。警官は園長と共に檻の外で並び立ち、飼育員とTとの様子をじっと見つめているばかりだ。乾電池の柔らかな明かりが、蒸し暑い夜気を白く円く切り取っている。

 Tは首輪を鬱陶しそうに弄りながら、じろりと鋭い目つきで周囲を見回し……痩せた警官とぶくぶくに太った園長、そして緊張した面持ちの飼育員に目をやったあと……赤土だとか雑草だとか、鉄格子の錆だとかに一つ一つ触れて回った。自分の寝床にふさわしいかの確認らしい。やがてTは「ふふん」と満足げに鼻を鳴らし、地べたをごろごろ這いずり始める。

 やれやれ、どうやら気に入ってくれたらしい——と、飼育員は息をつき、Tの首輪から鎖を外した。知能が高い動物は、少しでも気に入らない点があればとことん反抗的になる。餌をやろうとして噛みつかれたり、唾を吐きかけられたりするというのは、御免被りたいものだった。

「ふむ……ところで、園長先生」警官は懐中電灯を檻の中のTへと向けつつ、何やら興味深げに問いを発した。「こいつの名前は、なんでしたっけね?」

「ええっと、」園長は突き出た腹を揺らしながら、口ごもり、関心なさげに首を傾げる。頬から滴った大粒の汗が、茶色い背広に染みを作った。「いやはや、記憶にありませんな」

「どうだって構いませんよ」二重扉から出た飼育員は、檻の入り口に南京錠を引っかけていった。「どうせ一匹しかいないんですから、名前なんてわからなくても困ることはないでしょう?」それから檻の表へ回り、以前から掲げてあったミツユビナマケモノの看板を外して、代わりに新しい板きれを据えた。真新しいその看板には、Tの名前が大きくゴチック体で記されている。

 警官は、十字に交わった格子の向こうへ「おーい」と控えめに声をかけた。「おーい、君の名前は何だっけね?」

 返事はなかった。Tはいかにも暑苦しそうに小さく喉を鳴らした。それから不意に檻の隅へと四つ足で駆け、片足を犬のように上げながらチロリ、チロリと放尿を始める。透き通った放物線が勢いよく地面へぶつかり、細かな飛沫を散らかした。そこにはちょうど、飼育員があらかじめ掘った用足しのための穴がある。暗がりに浮かぶ小さな尻が、排尿の心地よさにか、細かく揺れた。

「よしよし」飼育員は微笑みながら、そっとTに語りかける。「これからも、なるだけそこで済ませること。あっちこっちにぶちまけられると、なにかと掃除が面倒だから……」

 檻は、異臭に包まれている。ミツユビナマケモノの蒸し焼きの臭い……錆びた鉄格子の赤茶けた臭い……半ば枯れかけた雑草の臭い……Tの身体からする獣の臭い……そして小便の水たまりから漂ってくる、半透明なアンモニア臭……。

「改めて見ると」警官は再び、園長に問いかけた。「やはりまだ子供ですね。いったい、何才でしたっけ」

「さて、ね」園長はやはり関心なさげに首を捻る。気まぐれに抱いた動物愛護の精神は、Tの収容を決めた時点でとうに過去のものとなっていたらしい。「わたしはどうも、そこまで気が回りませんもので。や、それにしても今晩はやたらと暑苦しいな」ハンカチを取り出し、せわしなく額の汗を拭った。肉付きのいい柔らかな頬が、心なしか熱っぽく桜色に染まっている。「いや、暑い。まったく暑いですよ」

「十二才です」飼育員が代わりに答えた。「あと二ヶ月で十三才になるようです」

 警官は「ふむ」と満足げに頷いて、なおも檻の中を覗き続けた。懐中電灯の円い明かりが、Tの股間をしつこく照らす。警官の関心は、もっぱら皮を被った小さな陰茎にあるらしい。明かりの中で、勃起したペニスが揺れていた。Tは「我関せず」といった風で、大便と放屁を交互に三度繰り返したのち、中央に植えられた木の根元でふつふつと寝息を立て始める。

「や、暑苦しいですね。暑苦しい、暑苦しい」口調は平静を装いながらも、山と積まれた大便を前に、園長は脂ぎった顔を不快に歪めた。「まったく、暑くて叶いませんよ」そろそろ帰りませんか? といいたげに、警官をチラチラと横目で見る。彼は重度の肥満症で、酷暑はめっぽう弱いのだった。

「まったくです。ひどい気温で」飼育員が頷いた。「今年は特にですよ。ペンギンなんかは、とてもじゃないが耐えられません。極地の寒さを乗り切るために、熱を逃がさない体質で……体脂肪率が五〇%もあるんです。こんな酷暑は命取りですよ」

「ははあ」警官はため息に似た声を出す。「動物園てのも大変ですな」

「ペンギンに比べればわたしの肥満はずいぶんマシだよ、きみ……」

「そりゃそうでしょうとも」大げさに肩をすくめながら、飼育員は言葉を続ける。「ペンギン、あれは相当ですね。体内に熱がこもるせいで、油断してると簡単に百度を超えてしまう。ひどいときには皮下脂肪に火がつくんだもの……ほら、水面が虫眼鏡のレンズみたいに作用することがあるでしょう? 反射の具合で太陽光が何倍にも増幅されて……それを浴びたペンギンが、とうとう発火点に達するんだす。こうなれば、とても命はありませんよ。脂肪っていうのはいうなればある種の油ですから、つまるところ燃料でしょう? ペンギンが丸ごと、生きたまま燃えてしまうんです……蝋燭みたいに……」いいながらポケットへ手を突っ込んで、一枚の紙切れを取り出した。ガムテープを四隅に添えて、檻の表へ、目立つように貼り付ける。

 Tを園へ迎えるに当たって、ひとまずはそれが最後の仕上げだ。


   ——————

 当園で展示中のヒトは

 正式な手続きによって

 収容を認可されています

          ——○○動物園 園長


注:写真撮影やSNSへの投稿はお控えください。

   ——————


 突き出た腹を揺すりながら、園長が先立って歩き始めた。やせっぽちの警官はなおも名残惜しそうにTを眺め、飼育員に急かされながら、しぶしぶ、といった風に背を向ける。懐中電灯の円い明かりが、せわしなく揺れながら遠ざかり……やがて辺りはすっかり暗闇に包まれた。動物園は、どんよりとした夜の熱気に満ちている。遠くで不眠症のアフリカ象が、ぶふん、ぶふふん、と鼻を鳴らした。


 翌日、開園直前の午前八時頃。飼育員が朝食を持ってTの檻へとやって来た。下剤混じりのシリアルが、餌皿に山と盛り付けられる。食べ終わってしばらくすると、入場門が開いたらしい、ぞろぞろと見物客が姿を見せた。子連れの夫婦……手を繋いだ男女のカップル……校外学習でやって来たらしい私立中学の生徒百名……。立ち並ぶ檻へ無遠慮にカメラを向けながら、ペットボトルの飲み物を片手に、園内を気ままに闊歩する。太陽はジリジリと天球を昇り、その熱を一層増していった。


 午後九時になる頃、Tの身体は茂みに埋もれて、外からはほとんど見えなかった。檻の内部にはひどく乾燥した熱気がこもり、気温は上昇の一途を辿る。無論、天井に縛り付けられたトタンの屋根は確かに日差しを遮っていた。近所のホームセンターから仕入れられた、灰色の〇・一九ミリ波板だ。軽量で扱いやすく、何より安価。けれど飼育員の気遣いは、直射日光を防ぐ代わりに通気性を阻害していた。ただでさえ、今年の夏は風が少ない。檻の中には、むせかえるような嫌な臭いが充満している。


 食後から数時間が経過しても、客のほとんどはTに関心を示さなかった。何かの気まぐれで足を止めても、漂う異臭に顔をしかめ、ろくすっぽ見もしないまま逃げるように背を向けるのだ。Tの身体は木々の陰にひっそりと隠れ、檻の外からはよほど目を凝らさなければ見えそうにない。昨晩の警官を除くなら、Tに対して何かしら興味を示したのは、今朝早くから校外学習の引率で来ていた女教師くらいなものだ。

 彼女は、おろしたての灰色のスーツを汗でぐっしょりと湿らせていた。連れられてきた生徒たちは数人ごとのグループに分かれ、各々の計画と関心に従い自由に園内をうろついている。「いいですか、自由時間が終わったら遅れずここに集合なさい!」「はーい先生」「わかったよ」「わかりました先生」それからただ一人、手持ち無沙汰に辺りを見回し——ひときわ古びて薄暗い、陰気な檻に目を留めたのだ。それはほんの、偶然だった。

「ねぇ、そこのあなた」降り注ぐ紫外線に汗をひたひた滴らせながら、彼女は少しばかり声を張る。「あなた、人間でしょう? 珍しいわ、まだ子供じゃない……」それから、木々の合間で見え隠れするTの顔に視線をやって、「うん?」と怪訝そうに目を細めた。「ねぇ、どこかで会ったことなかったかしら?」

 枝葉の隙間から顔の上半分だけをそっと覗かせ、Tはじっと沈黙していた。教師はしばらく言葉を続け、彼がやはり答えないのをいくらか不満げに見つめていた。

 Tの肌は焦げ茶に焼けて、灰色をしたトタンの日陰に迷彩めいて沈んでいる。耳孔から、巨大な垢の塊がチラチラと顔を覗かせていた。四肢の関節部分を覆うように、汗疹がびっしり浮いている。毛穴から溢れ出た粘っこい汗は、太陽の熱で水分を失い、煮詰まって、タールのように糸を引いた。

 気温は天井知らずに上昇を続ける。

 夏である。

「返事を期待しているんなら」ちょうど餌やりに来た飼育員が、背後から教師に声をかけた。「まったくの無駄ですよ。生物学上はヒトであっても、人間からはほど遠い——少なくとも、こいつは自分で自分のことをそう考えているんですから」

「でも、まさか全然しゃべれないってことはないはずでしょう?」

「そりゃ、実際のところはそうでしょうがね。一応、檻へ入る前には初等教育を受けてますから。しかし言葉っていうのは文明の証で、つまり人間の独占的な権利ですよ。我々は言葉を用いるがゆえに動物ではない……逆をいえばこいつが動物である以上、言葉を話すのはルール違反ということになる」

 教師はじっと、Tの姿に目を凝らした。痩せぎすな身体に、ひょろりと伸びた細長い手足。身体のあちこちにくっきりと骨の輪郭が浮いて、いかにも不健康そうな印象を与えた。唇はひび割れ、黄ばんだ歯にはところどころ抜けがある。伸ばしっぱなしの髪の毛が、顔の上半分を覆っていた。風が髪を揺らすたび、ぎょろりと見開かれた両の目がちらり、ちらり、と見え隠れする。

「ねぇ、飼育員さん。あの子はどうしてこんなところにいるんです?」

「珍しいでしょう。普通は労働施設に押し込められて、役に立たなきゃ殺処分でおしまいですから。いくら『動物』園であるとはいえ、ヒトを見たがる客はいません。洗面台の鏡があれば、簡単に用は済むわけですしね」しかし、と続けた。「こいつの場合は、いささか事情が特殊なんです。つまり……なんていうのかな……」飼育員は少し考え、それから慎重に言葉を発した。「こいつは事実上『動物』ですが、しかし法律の上ではそうと決まったわけじゃない。人間なのか動物なのか……どうにも微妙なところなんだな」

「それはいったい——」

 教師は怪訝そうに瞬きをし、なおも質問を続けようと口を開いて——話はそこで中断された。バタバタと騒がしい足音がして、真っ青な顔をした数人の生徒が息を切らしつつ駆けてきたのだ。

「先生!」と、一人が叫んだ。「猿山の中に落っこちてしまった子がいます……」女教師はほんの数秒首を傾げ、言葉の意味をやっと咀嚼し、立ち上がり慌て走り出した。

「誰が落ちたの!?」

 駆けてきた生徒は、何か男の子らしい名前をいった。

 教師の背中を見送りながら、飼育員は小さく笑う。白昼とまるで似合わない、ひどく嫌らしい笑みだった。

 猿山は、Tの檻からほど近い場所にある。周囲を囲うやや背の低い鉄柵には、あちこちに『登るな危険』としつこく張り紙がされていた。それでもやはり数年に一度は、こういうアクシデントが起こるものだ——と、彼は長年の経験で知っている。当然、救出にかかる手間と時間も。落ちたのが子供である場合は、なおさらだった。

 唐突に転がり落ちてきた新参者と、見物客から上がる悲鳴とで、ほとんどの猿は半ばパニック状態へ陥ってしまう。ここで飼育されているのは、スペインボノボと呼ばれる種で——普段は臆病でいるくせに、ちょっとした恐慌をきっかけに驚くべき残虐性を発揮するのだ。彼らの流儀に従って敵意がないことを示せればいいが……専門家でもない人間にそんな知識があるはずもない。だから猿山に落っこちた者は、まず大抵がボスに襲われる羽目になる。顔をめちゃくちゃに引っ掻かれたり、尻に木の棒を突っ込まれたり、ともすれば鼻を食いちぎられたり。決定的なトラウマに至るまでそう長くはかからない。たっぷりと痛めつけられた新参者は、奴隷のように猿たちにかしずくことになる。そうして恐慌状態が収まるまでは、たとえ飼育員でもそうそう手が出せないのだった。

 救出には、いくらかの手順が必要だった。大騒ぎして猿山のパニックを助長する見物客を、一人取り残らず追い払い……完全に人目がなくなったところで担当の職員を呼びつける。苛立った猿たちが『戦い』をすっかり終えるまで、一時間ほど様子を見守り、それからようやく傷ついた中学生を引き上げるのだ。

 一連の光景を空想しながら、飼育員はクツクツと下卑た笑みを浮かべた。可愛らしい顔をした中学生の男の子が、群れた猿に引っかかれ、蹴飛ばされ、噛みつかれ……服をズタズタに裂かれた上、素っ裸のままボスへの服従を強要される。白日にさらされた小さな乳首は先端を千切られ流血し、おそらくは湿っぽい朱に染まっているのだ。破れた下着の断片が腰の辺りに辛うじてまとわりついている。彼は猿たちに促されるまま、四つん這いになり、ボスの尻を舐め始める。舌先を小刻みに揺らしながら、太ももの裏から肛門までをチロチロ、チロチロ……。

 監視カメラには、それらすべてが克明に記録されているだろう。警備員にちょっとした小銭を支払えば、映像を横流しさせるのはごく簡単な話だった。動物園でしばしば起こる流血沙汰の一部始終は、物好きな少数の職員にとり、ちょっとした楽しみになっている。

「さて、死んでしまわなきゃいいけどね……」

 教師の姿が視界からすっかり消えてしまうと、飼育員は独りごちながらTの檻へと踏み入れる。片手に持った水色のバケツに、ツナ缶三つと水のボトル、下剤の入った薬瓶と濡れた雑巾が無造作に放り込まれていた。立ちこめる臭いと蒸し暑さに、チョッ、と小さく舌打ちをする。

 地面へ置かれた空っぽの餌皿にツナ缶の中身を開けながら——彼は三年前の記憶を辿った。以前に起こった転落事故も、やはり猿山でのことだったっけ。落っこちたのは、大学に入ったばかりだという田舎から出てきた女の子……腰まで届く長髪は淡く金色に染められて、レースの入った白いシャツに、青いジーンズを身につけていた。SNSへ載せようとあれこれの写真を撮りながら、鉄柵の映り込みをしきりに「邪魔だ」とぼやいたらしい。柵のてっぺんへ軽やかに昇り、カメラを構えた両手を伸ばして——

 パシャリ。

 同時に、女の身体は転落を始める。救出を担当していた係の男が腹痛で便所にこもっていたから、およそ三時間、状況は放置されていた。ボス猿は彼女の髪の毛を掴んで、自分の尻を舐めさせ続けた。夕方になってやっと引き上げられたあと、転落者は心神喪失の状態で近場の精神病院に詰め込まれたのだ。その後、退院の噂はとんと聞かない。

 ——バカだよ、まったく。

 ——柵を越えなければいいのにさ。

 職員たちは、そうした事故の当事者をあざ笑うのが常だった。警備員から受け取ったメモリカードをパソコンに挿し、昼食のサンドイッチを食みながら見る。一人のありきたりな人間が、悲鳴を上げ、逃げ惑い、押さえつけられ、服を剥がされ、猿たちにこびを売り始め……一時停止。巻き戻しのボタンに触れて、繰り返し繰り返し映像を眺めた。サンドイッチを食べ終えた頃、ある獣医は怒張した陰茎を擦り始め、またある事務員は湿った小陰唇をこねくり回す。

 けれどもその誰も彼もが、絶頂ののち、動画の終わりで不可解そうに首を捻った。服を剥がれ、猿の尻を舐める屈辱……そのさなかにありながら、転落者はみな妙な表情を浮かべているのだ。頬を歪め、唇の端からよだれを垂らし、ヒクヒクを腰を痙攣させて、どこか恍惚とした……。


「ほら、昼飯だぜ」飼育員は、ツナでいっぱいになった餌皿に薬瓶から数錠の下剤を振りかける。「味は悪いが、栄養に関しちゃ折り紙付きだよ。……そんなに睨まないでくれ。園の経営状態からして、これでも精一杯のもてなしなんだ」

 Tは木影にひっそりと隠れ、やはり何も答えなかった。飼育員は、ため息をつきながら歩み寄る。微かな風に、下草が揺れた。ミツユビナマケモノの遺した死臭が、ツン、と微かに鼻をつく。檻の端っこにある用足しの穴には、大便が山と盛られていた。どこからかやって来た無数の蠅が表面にびっしりと貼り付いている。蠅が、う゛ーんう゛ーん、と痺れるような羽音を鳴らした。便の表面が、ぬらぬらと嫌らしく濡れている。一見して、排泄されてから三十分も経っていない。頭上に敷かれたトタン屋根に小さな穴が開いていて、円く差し込んだ陽光が、スポットライトのように便を照らした。

 不意に遠く猿山のほうから、何事か大きな悲鳴が聞こえる。断末魔に似ていた。落下したという中学生は、果たして一命を取り留めるだろうか? 飼育員はわずかに意識をそちらへ向け、それから再びTを見た。木々の枝葉に隠れるながら、彼はじっとたたずんでいる。

 暑苦しく乾燥した、不愉快極まりない夏だった。時刻は昼をやや過ぎた辺りで、太陽は限りなく天頂に近い。飼育員はTの目の前に餌皿を置き、食べないのか? と口にしかけ——それからぎょっと息を飲んだ。

 不眠症のアフリカ象が、遠くでぶふふん、と鼻を鳴らす。

 飼育員はおぼつかない足取りで、背後へゆっくり後ずさった。その頬を、生ぬるい風がねっとりと撫でる。排気ガスの気配に満ちた、嫌な夏の風だった。

 ——なぜ?

 彼はしばらく呆然と、目の前のTを眺めていた。しゃがれた声が微かに漏れる。

 ——いつ? どうやって?

 Tは答えない。

 再び、ねっとりとした熱風が流れた。今度のはちょっとした強風だった。木々の枝葉が大きく揺れて、隠れていたTの顔が突然なにもかも露わになった。日焼けと垢、煮詰まった粘っこい汗にまみれ、頬はいくらか黒ずんでいる。そして一本の木から伸びた枝が、彼の唇を押し開き、喉から脳天へと深く突き刺さっているのだった。

 直立し、幹へ抱きつくような格好で、Tはいつの間にか死んでいた。

 檻の中に植えられた木は、ぜんぶ合わせて四本だった。端っこにぽつねんと立つ一本は、やや古株で、細く頼りない枝をのびのびと四方へ伸ばしている。残る三本はまだ若く、小さな、けれど肉厚な葉を中央でぎっしりと寄せ合っていた。トタンの屋根が日光を遮っているせいだろう、木々はわずかに元気を失い、やや固くこわばった調子でその場にじっと突っ立っていた。Tはちょうど、中央に位置するその茂みの中で、隠れるように死んでいたのだ。

 飼育員は混乱していた。Tの唇から溢れ出た血が、ひたり、と目の前の地面に染みた。死体の四肢からは力が抜けて、口に突き刺さった一本の枝に全体重が乗せられている。

 幹が小さく、軋みを上げた。

 この薄暗い檻の中、茂みにすっぽりと収まったままなら、彼の死に気がつく者はきっと一人もいなかったろう。

 飼育員はなおもしばらくの間Tの死体をじっと見つめ、やっと我に返って声を上げた。

 ——大変だ!

 通りすがりの見物客が「なんだなんだ」と視線を向ける。やがて、ごう、と風が吹いた。木々が揺れ、枝に支えられていた死体も揺れた。客は甲高い悲鳴を上げて——めいめい、懐からスマホを取り出す。シャッター音が鳴り響いた。檻の中にまばたきのような光が満ちた。騒ぎを聞きつけ、次々と人が集まり始める。

 誰かが警察に通報したのか、やがて、遠くパトカーのサイレンが響き始めた。叫び疲れた飼育員は、その頃になってやっと落ち着きを取り戻し——ふと気がつく。力なく垂れ下がった死体の腕に、妙な文言が刻まれていたのだ。


『ニルワヤ』。


 真新しい刻み痕だった。皮膚を無理矢理掻き切ったようで、いくらか乱暴な様子をしている。刃物だとか針だとか、鋭利な何かを用いたものではないらしい。第一、動物に危険が及ばないよう檻の中からはなるだけ危険物が排されている。木の枝で刻んだのだろう——と、彼は思った。Tの喉へ今まさに刺さっているような、固く、先の尖った枝だろう。

 しかし、いったいどうして?

 誰が? 何のために?

 飼育員は首を傾げた。わけがわからなかった。園で五年も働いていれば、人死にの二、三件には遭遇して当然だ——しかしこれほど奇妙な話は、そうそう聞いたことがない。

 風が吹いて、ミシリ、とトタン屋根が微かに軋んだ。


   □□□


「赤尾さん、そりゃいったいどういうわけです?」神崎は問いかけた。「だって、単純な質問ですよ。こいつが『人間』なのかどうか……」

 二重の扉をくぐり抜けると、檻の中には乾いた熱気が淀んでいる。天井はトタン板で覆われて、四方の格子には見物人よけのブルーシートが隙間なく縛り付けられていた。まばらな雑草を踏みながら、数名の鑑識がせわしなくカメラのシャッターを切る。

「普通なら、お前のいうとおりなんだがな」木の幹に抱きついた死体を見ながら、赤尾はやれやれ、とため息をつく。彼自身、所轄の警官から説明を聞くまで同じことを考えていた。「しかし今回に関しては、どうも『普通』じゃないらしいぜ。お前も刑事なら噂くらい聞いてるだろう? 一軒家に押し入った殺人犯が、一家のほとんどを殺した挙げ句、最後には風呂場で自殺した……」こいつはその生き残りなんだ、と裸の死体を指さしていった。「自己暗示の類いか、自分を『動物』だと思い込んでいたらしい。留置所に置いておいても持て余すばかりだ、なんて警察が困り果てていた矢先、園長が引き取りを願い出たって話らしいぜ。ま、実際に人権がどうであれ、本人が『そういう扱い』を望んでいるのは唯一確かではあるんだからな」

 赤尾義持は、神崎よりも三回りほど年上の刑事だった。筋骨隆々——とまではいかないものの、身につけた衣類を通してさえ厚い胸板が見て取れる。眉間の皺や気怠げな仕草からして老境にさしかかった風ではあるが、実際のところはもう少し若い。しかし「若い」というほどには若くない——というのが、この男の不可解なところだ。階級に比して、どうも実年齢が上を行き過ぎているようなのである。聞くところによれば、元は二十代の終わりまで大学で人文の研究に勤しんでいたらしい。どうしてそれを中途で辞めて警察などに入ったのか——研究職の実体など少しも知らぬ神崎には、どうにもわからいことが多かった。何しろ端から見る限り、赤尾が警官としての職務を楽しくこなしているなどとは、とても思えないからだ。というよりもむしろその逆で、なにかにつけては気怠げな顔をし、まるで老人のような素振りを見せて、「ああ、年老いて体力も気力もない自分に、こんな仕事はとても無理だ」と、他人になにもかも押しつけようという腹なのではないか——今のところ彼が抱いた印象は、こういう具合だったのである。無論、鍛え抜かれた肉体を見ればとても「老境」などと呼べたものではないのだが。

 ともかく。

「ああ……あの事件ですか」なるほど、と神崎は頷く。噂は彼も耳にしていた。隣の県で起こったという件の凄惨な殺人事件は、そのほとんどが未だ謎に包まれている。「じゃ、僕らはどうすればいいんです? 法律上の扱いがはっきり決定されないことには、捜査するかどうかさえ……」

「とりあえずは、『人間である』と仮定して調べるのが筋だろうな。徒労に終わったらそのときはそのとき。人権問題の議論については、〈戸籍省〉の結論を待つしかねぇよ」まあ多分、と彼は声を落として付言した。「十中八九は『人間じゃない』となるだろうがね。でなきゃ誰も、扱いの定まらないままこいつを動物園なんかに送るもんかよ。大方、戸籍省のほうじゃとうの昔に結論が出てて、残るは手続きの問題なんだろう」

 神崎はポケットからハンカチを出して、額に浮いた汗を拭った。密閉された空間に、湿気と熱と、死体の臭いとが充満している。それにしても、と彼は思った。「早く運び出さないと、こんなところに放っておいたら死体が蒸し焼きになっちまいますよ」

 死体を見ると、腹部がぽっこりと突き出ていた。内部ではすでに腐敗が進行し、発生したガスで内臓が膨らんでいるのだろう。

「あんまり急かすな」赤尾は顔をしかめながら、死体の唇へ刺さった枝にそっと右手の指を這わせた。「どのみち、この暑さじゃ腐っちまうのは仕方ないさ。」

 暑さのせいか木々は固く乾燥気味で、凶器にならないこともない。とはいえ刃物と比べたら、とても『刺しやすい』とはいかないだろう。死に際の痛みは相当のものに違いない。自殺にしろ他殺にしろ、かなり荒っぽいやり方だ——と、神崎は思った。

「どう見ますか?」彼は赤尾の横に立ち、死体をじっと見ながら問うた。「殺しでしょうか、事故ですか、それとも自分で……」

 死因は、頭蓋内の損傷と推察された。口から差し込まれた枝の先が、喉の奥に深々と刺さり、脳に到達したのだろう。傷口から溢れ出た赤黒い血や脳漿は、胸から腹、足へと伝い、あちこちで瘡蓋のように固まっている。体内で流れの滞った血液が、太もものあたりに巨大な死斑を一つ、二つ、と描いていた。死体は突き刺さった枝に支えられ、ゆらゆらと微かに揺れながらも、まっすぐその場に直立している。

 ふと額に目をやると、どこにぶつけたのだかしれないが、新しい大きな傷跡が残っていた。とはいえ——と、神崎は思う。この程度では直接の死因にはならないだろう。痛みに悶絶するか、ひどくても気を失う程度のことだ。

 枝による損傷が直接の死因であることは、おそらく疑いないように見えた。

「さて、どうだか。少なくともこれが事故だってんなら、どういう状況で発生するのか是非ご教授願いたいね」赤尾はポケットから手帳を出して、いくつかの事項を読み上げる。「遺体の硬直や死斑の具合から察するに、死亡したのは午前八時から十一時……もっともこの異様な暑さじゃ、とても正確な時刻は出ないだろうがな……」ブツブツと、言葉を咀嚼し、反芻していく。「朝食が檻に運ばれたのはちょうど午前八時頃……昼のエサやりに来た飼育員が十一時に鍵を開け……異常を察し……通報、か」

「発見者の話では」と、神崎は補足した。「確か、湿った便が落ちていたとか……」それから辺りを見回して、「あれ?」と首を傾ける。「ありませんね」

「見苦しいからって、職員の一人が片付けちまったんだとさ」赤尾はしかめっ面で、檻の一角を顎で示した。雑草に彩られた赤土がごっそりと抉られている場所がある。どうやらそこに、件の大便があったらしい。「ま、気持ちはわからなくもないけどな。野次馬がパシャパシャ無遠慮に写真を撮ってるわけだし。考えてもみろ、もしもこれが自殺だったら……」

「原因が、劣悪な飼育環境下でのストレス、なんて話になりかねない」そうか、と神崎は呟いた。「管理者の責任問題だ」

「それだけじゃない」赤尾は死体に背を向けて、檻の外へと足を向けた。「裁判所のほうでこいつが『人間だ』となった場合、下手すりゃ業務上過失致死さ。この動物園は前々から……そう、猿山か何かで定期的に事故を起こしていやがったんだ。問題がこれ以上増えるのは誰も望んじゃいないだろう? 取り繕うのも頷けるね」ともかく、と彼は続ける。「発見者の言葉を信じるのなら、そこには確かに『湿ったクソ』が転がっていた。……この暑さなら、乾くまでに三十分とかからないだろう? 遺体の死亡推定時刻は、十時四十五分前後に確定する。要するに、こいつが死んだのは発見される直前って話だな」

「でも——」

「ああ、そうだよ」遮って、赤尾はいった。「鍵は発見者が持っていた。そして檻の南京錠は、そいつが入るまで閉まっていたらしいじゃないか。殺人犯が侵入する隙なんてない」つまり、と続ける。「常識的に考えるなら、これは自殺だ。自ら進んで、喉に枝を突き刺したのでした——一件落着、ってな。無論、話がこうも単純なら何も苦労はないんだが。まったくこともあろうに『ニルワヤ』か……教団が絡んでくると面倒だぜ」

 赤尾は汗を拭いながら、檻の外へと出て行った。あとに残された神崎は、『湿った大便』があったらしい檻の一角へと足を向け、じっと間近で観察を始める。屋根の隙間から差し込む光が、真新しい堀り痕をちょうど照らし出していた。

「自殺、か」

 確かに、そうであったらどんなに簡単な話だろう。

 しかしいくら『自殺だ』と頑張ってみたところで、肝心の問題に答えが出ない。

 彼はスマホを取り出して、『ニルワヤ』を検索した。それから、すぐそばでカメラを構えていた鑑識の男をつかまえ、問う。

「あのう、動物って自殺するものなんでしょうか?」

 耳にした答えに満足すると、神崎はひょい、と何気ない様子で天井を見上げた。敷き詰められたトタンの間に、碁盤の目のような細い隙間があちこちいくつもちらついている。夕刻も間近な太陽の明かりに、彼は少し目を細めた。

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