第38話 252

「はぁ……っ! はぁ……っ!」


 周囲を何度も振り返り、鉛の様に重くなった体で走った。

 アレ・・は見当たらない。

 でも気を抜いてはいけない、最初もそうだったのだから。


 ダンジョン内では常に気を張っていた、だが『つもり・・』だった。

 三階層には既に一週間以上潜っている。大半の敵は見慣れたもので、パーティメンバーとの協力さえ怠らなければ、どれもそう苦戦する敵ではない。

 きっとすべては傲慢な奢りに対する天罰だったに違いない。


「うぐっ」


 突然視界が真っ暗になって、顔には鈍い痛みが叩きつけられた。

 転んだ。単純な事実を理解することすら、困難を経て疲れ果てた脳にはおっくうだ。


 石畳の小さな段差、それすらもが今は大きく感じた。


 視界がぼやける。

 喉の奥から湧き上がってくる衝動をぐっと飲み込んで、見上げた先。


「っ、ゴブリン……!」


 まだこちらには気付いていない。


 三階層は深く難易度が上がる分、探協や探索者によって配置された魔道具のランプが所々、魔力切れで光を失っている。

 見つける度魔石を触れさせながら何度ため息を漏らしたか分からないが、幸か不幸か、丁度横の路地も同じく魔力切れでくらい。

 地面へと伏せたまま息と音を殺し、壁際の影へと隠れ一層暗い路地へと身を隠す。


「うっ……ミオちゃんたちは逃げられたかな」


 次第に酷くなる傷口の痛みに呻き、思い浮かべるのは先に逃がしたパーティメンバーの顔。


 あっという間だった。

 最初、ミオちゃんがうめき声をあげたかと思うと、突然腕から血を流して倒れた。

 彼女が何かヒラヒラとしたものに巻き付かれていると気づいた時には、自分たちの周りに同じものが蔓延していた。


 その時だ、アレ・・が現れたのは。


 空中を浮かぶ姿には神秘的なものを感じたが、それ以上にその存在の厄介さに恐怖を抱いた。

 そして気付いた、こいつこそがこのダンジョンのボスなのだと。


 以前調べた時、確かにこの地下迷宮のボスは大部屋など一か所に留まるタイプだとあった。

 だからこそ自分たちはあまり気にしていなかった。

 何故そのボスが自分たちの目の前にいるのか、ダンジョン内を徘徊しているのか。


 理不尽に怒りを覚えたが、今すべきことはそれじゃない。

 三人へなけなしの毒消しを飲ませどうにか逃がすことはできたものの、彼女らの元へ駆け寄ろうとしたその時、あのリボン状の物質が張り巡らされ分断されてしまった。


「……遠すぎる、ね」


 静かにポケットから取り出した地図、そして周囲の地形から地点を割り出したものの、その状況は絶望的だ。


 二階層へ上るための階段は遥か向こう。どうにか逃げ惑ったものの、地図上ではすっかり真逆へと進んでしまった。

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 今日、もう何度考えたかもわからない後悔。


「……向いてなかったのかなぁ」


 本当は一か所に留まってすらいけないのだろう。

 それでも一度へたり込んでしまった腰は根が張ってしまったようで、静かに両膝を抱え込み、歪んだ顔をうずめてしまう。


 一人だった皆を一人ずつ誘って、成り行きながら同性・・だけで組んだパーティ。

 最初はみな剣を握っていたけれど、気が付けば自分一人だけが前衛になっていた。

 

 怖かった。

 脚や首元を狙ってくるゴブリンの鋭い爪、腹を撃ち抜く狂い鳥の蹴り、触れれば皮膚がぐじゅぐじゅに焼けるスライムの体液。

 前衛なんてやりたくない、せめて誰か一人でも一緒に前で戦ってほしい。


 でも、みんなの期待に満ちた目で見つめられてしまえば、言い返す言葉など思いつきもしなかった。


「……いっつもそうだな」


 思えば流されてばっかりだ。

 前衛も、しゃべりも、誰かにでも優しく振る舞うのも、きっと髪型も。


 たぶん昔は違かった、記憶の中の自分はもっと違うはずだった。

 でも中学か、それとも高校だったか、誰かが『異性みたい』だなんて言って、周りにはやし立てられるまま、みんなが望むような見た目と振る舞い方になって。


 でも結局自分が悪いんだ。最初はちやほやされるのが気持ちよかったんだ。

 だからどっぷりつかってしまって、気が付けば『それ』が『ボク』になっていて。

 望まれない姿に戻るのが怖かった。


『ボクはいいんだっ! みんな先に逃げてっ!』


 最期の最後まで、きっとみんなが望んでいることを言ってしまって。

 三人の一瞬だけ戸惑って、でもすぐに安堵した表情を見てしまって。


『置いていかないで』


 喉をすべりかけた音は噛み潰してしまった。


 結局三人と別れ一人逃げる最中、何度かあの物質に触れてしまった。

 目にも見えない速度で飛び出す何かに切り裂かれ、今もその傷口たちは痛みが増すばかり。


 痛みによる精神の疲弊、逃走の果ての肉体の疲労。

 どちらも限界で、絶望的。


「――あ」


 ゴブリンだ。

 何匹も暗闇からその目だけを光らせ、自分を見下ろしている。

 完全に囲まれている。


 全然気付かなかった。

 もしかしたらずっとそこにいたのかもしれないし、足音を潜ませていたのかもしれないけれど。


 それを理解したとき、ぼっきり心が折れてしまった。

 逃げる気力も、わめく元気も、もはや湧かなかった。

 ただ、また自分の両膝に顔をうずめて、両耳を覆った手に力を込めた。



「……だれか、たすけて」

「――あー、やっと見ぃつけた」


 大きな影がツムギの体を覆った。

 しばらく体を縮こめていたものの想像した衝撃が来なかったことで、恐る恐る視線を上げた視界に飛び込む、その見慣れた背格好。


「――ようイケメン、祈るのは終わったか?」


 シャツにジーンズだけ、使い込まれたリュックのラフな格好。

 水を纏った刀を傍らに構え、相変わらず少しだけ姿勢と目つきの悪い彼は、ニィ、といつも通り笑っていて。


「じゃあそろそろ帰ろうぜ。ここまで来たからお腹がベリーぺこちゃんでよ」

「シキミ……くん……」

「さすがに今日はお前の奢りな?」


 普段探協で出会う時と変わらぬ態度で、目の前のゴブリンを切り裂いた。

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