第15話 手負いの獣こそ

「――ここで狩るしかねえ」


 靴ひもを一本抜き取り、俺は静かに息を吐き出した。


 考えろ、今のこの環境で何が使える?

 武器はもう決まっている・・・・・・・・。だが武器だけじゃ話にならない。

 どう生かす? なにをどう使って、どうしたら奴を狩れる?


 加速する思考の中、自分の鼓動すら馬鹿みたいによく聞こえた。

 じいちゃんに連れられた狩りのようだ。目をつむればきっと、今でもあの風と葉擦れが聞こえるだろう。


「ふぅ……」


 熊からは決して目をそらさず、腰に下げた小袋をひっくり返し、中に詰まっていたそれを手のひらへとじゃらりと広げる。

 これだけで数千円の価値はあるだろう。以前の俺が命懸けで駆けずり回って集めたそれを、ためらいもなく……いや、ちょっとだけ躊躇って投げ捨てる。


「もったいねえけど、命よりもったいないものもねえからなぁ」


 俺は同時に足元に転がっていた数個の何の変哲もない、けれど少しだけどんぐり状に鋭くとがった手のひら大の石をおもむろに拾い上げた。


 ちょうどいいのがあってよかった。

 本当は金属の塊の方がいいが、こんな状態でわがままは言っていられない。


「――! 本っ当に!」


 獣はその一瞬を逃さなかった。

 低い嘶きと共に軽快な足取りで接近、瞬く間に俺との距離はわずか数歩程度にまで縮まってしまう。


 予想はしてたけど本当に速すぎて困っちまうな!

 どうせ飛びつかれるなら犬かかわいい妹の方がいいんだけど!


「ぅおおおっ!!」


 無意識に飛び出した叫びに合わせ横に大きな跳躍。

 熊の巨体から生み出された衝撃がこちらにすら響いてくる。


 どうにか命を拾いあげることに成功したらしい。


「こんなのやってらんねえぞ……!」


 緊張に顔をこわばらせ、ゆっくりと額の汗を拭いとる。


 まず前提として俺がどれだけ必死に木刀を振ろうと、あの熊に痛みすら感じさせることはできないだろう。

 熊という生き物はとかく頑丈なもので、何発も体に銃弾をぶち込まれたうえで平然と疾走するほどの耐久力がある。

 仮に10万の探協初心者向け武器を握っていたとして、多少傷をつけられるかどうか。


 正面からの戦闘に勝ち目はない。


「――よし」


 紐の先をぎゅう、と強く結びつけ俺は熊をにらみつけた。

 俺が作り上げたのは糸の両端に小袋を結び付け、輪に仕上げたひどく単純な武器。

 つまり簡易的な投石器、スリングだ。


 ただの投石と侮ることなかれ。

 鉛など比重の重い金属を使用した古代の投石兵は、その一撃で屈強な軍馬すら即死させた話も残っている。

 古代より投石とはもっとも単純で、最も省エネで、そして最も手軽な高火力の技だった。


 そう、正面からの戦闘に勝ち目はない。

 故に一点突破。

 今の俺が、この何一つ持っていない俺があの熊を倒しうる武器はこれしかない。


「どうした……」


 手首を回転させると同時、ヒョウ、ヒョウと耳元で風切り音がはじける。

 一回転のたびにエネルギーを蓄えた投石器スリングは、瞬く間に己が速度を高めていく。


「こいよ」


 風切り音が一段と音階を上げたその瞬間、ヤツが動き出した。


「――!」


 一直線だ。

 今、この瞬間俺と奴の間に障害物はない。

 この一撃必殺の突進を妨げるものは何一つとして存在しない、もはや逃げも隠れもできまい。


 でもそれはお前だって同じだろ?


「――ッシャァ!」


 ついにスリングから石が放たれた。


 回転によって蓄えられたエネルギーが解き放たれた瞬間、ただの石ころが灰色の閃光に姿を変える。

 目にもとまらぬ勢いで空を切り、石くれはただひたすらまっすぐに突き進んだ。

 前へ、前へ――熊の鼻っ面に突き刺さるまで!


『ギャンッ!!』


 それは獣が初めて見せた苦痛の声だった。


 直撃の瞬間、鼻っ面に石ころが突き刺さったその時、獣は大きく体をそらしふらりと頭を揺らした。

 けれどそれで終わった。

 ひっくり返ることすらなく奴は二本足で耐えきると、四肢を地面へしっかり突き付け……俺を睨みつけた。


 ぽたりと熊の口元から垂れた血が足元の草を揺らす。

 にも拘らずその姿は瀕死には程遠い、むしろ先ほどより怒りによって膂力に満ちているようにすら思えた。


「あー……マジか」


 想像以上にダメージ入ってねえわこれ。

 後ろを・・・チラ見し、テンションがガタ落ちした俺の声が風に溶ける。


 流石森の王者、石ころごときで死ぬ貧弱なヒューマンピーポーとは基礎スペックが違うらしい。

 頭を抱え込んで叫びたいところだがそうもいかない、既に奴はこちらへと疾走を始めているのだから。


 とはいえさすがにワンパン行けるとも思っちゃいない、石を投げた直後に走り出していた俺は、ちょうど目の前にいた鉄鋼虫の背中をパルクールよろしく飛び越え、後ろの鉄鋼虫にエールを投げた。


「ごめんっ! 君なら耐えられるはずだ!」


 流石にあの鉄鋼虫だ、熊さんのパンチもへじゃ……


 ドゴッドゴッ!!!! 


 淡い期待は後ろから聞こえる生鈍い二発の音で潰えた。

 まるでゴミクズの様に俺の正面へ吹き飛んでいく鉄鋼虫さん、どうやら車を吹き飛ばす熊の膂力に耐えるポテンシャルは持ち合わせていなかったようだ。


「うそん……」


 せめてもう少し壁として頑張ってくれよ。

 スライムでキマってるし、この二日で俺の中の鉄鋼虫君の評価は爆下がりである。

 これじゃただのクソザコダンゴムシだ。


 丁度俺の目前へ落ちてきた鉄鋼虫、押し潰されてたまるかと思わず走る足が止まってしまう。

 迂回するにも飛び越えるにもその一瞬が命取りだった、行動する余裕もなく熊はすぐそこへ迫っている。

 次の木や岩は近くに見えず、たどり着く余裕はない。


「……もうこれしかねえか」


 俺は目の前で倒れている鉄鋼虫に体を突っ込み、えぐれて見えている噛み付いた。

 即座に口内へ猛烈な苦味が広がり、嚥下と同時に食道から全身が灼熱に包まれる。


 スリングは手軽に誰でも威力を出せるが、最高威力は回転の速度と物体の重量に比例する。

 そして回転速度は紐の長さと回す本人の筋力に依存する……が、今は紐を伸ばせないし、石以上に質量を出せる物はない。

 よって威力は完全に俺の筋力に依存することとなる。


 最後の切り札だ。

 鉄鋼虫の肉を食らったことで昨晩は筋力が増強されたが、それはおそらく肉中に含まれる毒の成分が微弱に残っていたからだろう。

 なら毒抜きをしていない生肉なら?


 高濃度に含まれる毒を直接摂取すれば、それはきっと激烈な症状を生み出すに違いない。


「ふぅ……」


 ぶっ飛びそうな味に飛びそうな意識を必死に抑え込み、再びスリングへ石を装填する。

 今自分の腕がどうなっているかすら怪しかった。

 だが確かに聞こえてきたのは、さっきよりなおのこと高くなった鋭い風切り音。


 木が、手が、熊が多重に分裂して見える。

 違う、獲物は一つだけだ。

 落ち着け……落ち着いて……


 息を吐き切ったその時、俺の視界には一つの的だけが見えていた。


「――あァッ!」


 入った。


 ぐじゃりという水っぽい音が響き、確信が俺を貫く。

 俺の切り札は明確に奴の頭蓋を砕いた。

 くらんだ視界でもよく見える、べっこりとへこみえぐれた熊の右頭蓋。



 だが奴は止まらなかった。

 それほどになろうともその足取りは決して精彩を欠かず、まっすぐにこちらへ突き進み――


「か……は……っ」


 ふらついた体じゃよけきれなかった。

 服に爪先が引っ掛かり、子供が投げたボールくらい馬鹿みたいに軽々と、俺の体は空中へ吹き飛んだ。

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