第14話 「出来るかな?」じゃねえ、やるんだよ

「こ……コンニチワ」


 どうにか陽気な挨拶を捻りだせた俺の顔面へ、大熊は咆哮と共に無慈悲な鋭利な切り裂きを振り下ろされる。

 死。


「ン死にませんッ!!!」


 絶叫と共に飛びのいた直後、俺が一瞬前にいたその場所が薙ぎ払われた。


「ほ、ほおおおっ! あぶねえ!」


 全身に木片を浴びながら土の上を転がり、俺はどうにか立ち上がって新たな木の裏へと己の身を潜めた。


 いったい今日、あと何回生きた心地をしなければ終わるのか。

 いや、生き残ることができるのか。

 熊のヤバさは話に聞いていたが、こんなヤバいなんて直面しなけりゃ理解できるわけがない。 


「逃げないと……いや、逃げられるんか?」


 かつて、ダンジョンがまだ生まれる前の世界における人類は、最高速度で45kmと言われていた。

 これは魔力による補助なく、極限まで瞬発力を鍛え上げた選りすぐりの人間が、わずか100メートル、時間にして十秒弱にすべてをかけたうえでどうにか出せる速度だ。

 一般人ならその半分の速度を出せれば上出来、といったところか。


 俺は多少探訪者として毎日体を動かしているとはいえ、5しかないレベルの身体能力における恩恵は誤差と言っていいので、かつての人類の最高到達点にはかすりもしないだろう。


 一方で熊の走行速度は50km/hを軽々と超すと言われている。

 もちろん十数秒に届かぬ一瞬ではない、この速度で一分は軽々と走り続けられる持久力を兼ね備えた上での話だ。


 背を向けて逃げるという選択肢が愚かであり、どれだけ絶望的かということがよく分かる。

 猟師だったじいちゃんは熊の危険性を、それこそ酒が入ればいつでも俺に繰り返し説いてきた。


「ほかの探訪者ってマジでこんな奴倒してるんか……!?」


 天を衝く巨竜、不可視の霊王、壁画に眠る天使。

 誰でも一度は聞いたことがある、精鋭による討伐報告の上がったダンジョンボスはきっと、この熊など歯牙にかけないほどの化け物ばかりなのだろう。

 どいつもこいつも狂ってるとしか思えない、恐怖のネジを一体何本なくしたらそんなやつらに挑めるのか。


 今の俺には生き残るだけで精いっぱいだ。


 熊に襲われた時の対応は二つ。

 一つは首を手やカバンなどでひたすらに守り、ほかの部位に噛み付かれようとひたすら丸まる方法。

 しかし獲物とみなされている場合、幾度も転がされ、隙を突かれ、いつかは殺されるだろう。


 そしてもう一つは――


「――う゛るぅああああああアアアッ!!!」


 手のひらを大きく広げ、両腕を突き上げ唸り叫ぶ!


 瞬間、熊の動きがぴたりと止まった。

 獲物、あるいは好奇心の対象から、俺の存在が危険を孕む外敵へと変わった瞬間だ。


 自分は凶暴な生物だ。

 近づけば必ずや手痛い反撃を受ける、攻撃すべきではない。

 獲物はいくらでもいるのだから。


 決して熊の目から視線をそらさず、ひたすらに大きく唸り叫び、暴れまわりながらの後退。

 未知の怪物になり切って俺はひたすらに木刀を振り回した。


「……!」


 だが、それも長くは持たなかった。


 一度止まった熊の体が、のそりと闊歩始める。

 この『西スライム丘』に天敵など存在しなかったのだろう。命の危険を感じたことのないかの王者にとって、未知の存在による威嚇などさした脅威に感じえなかったらしい。


「あ゛ああああッ!! る゛ァアアアアアッ!!!」


 それでも俺は威嚇を続けた。

 おそらく威嚇をやめた瞬間、獣がわずかに感じていた危機感は完全に消え失せる。

 そうなれば全力疾走からのワンパンKO、来世を楽しむ羽目になるだろう。


 出入口は……まだ先か。

 200、いや300m近い、走って逃げるのは無理か。


 一瞬だった。

 俺がほんのちょっと周囲に気をやったその瞬間、ついに奴が走り出したっ!


「ああクソッ!」


 草をなぎ倒し駆け寄る巨体。

 もはやその顔に戸惑いはない。この隙を逃すかと目を見開き、鋭い瞳でこちらをねめつけている。


 ――速い! 速すぎるっ!


 察知した時点で俺の体は行動に移っていた。

 俺はこの後退を続ける間、常に熊と自分自身の間に障害物を挟むように動いていたからだ。

 直線が生まれた瞬間終わる。それを理解していたからこそ、今の俺は木の裏へと飛び込むことができた。


「いぃ……っ!!」


 ズガァッ!!


 背にした木が激しく揺れ、盛大に木片が飛び散る。

 けれど呆けている暇などない。薙ぎ払われたと同時に俺は再び木の裏を飛び出し、熊が次の行動へ移るより一秒も早く、全力で次の木の裏へと飛び込んだ。


 捕まれば即死な楽しい鬼ごっこのはじまりだ。


 頭がおかしくなりそうだった。

 焼けつくような喉と、緊張を超え消えかけた恐怖。

 木から木へ飛び込み距離をとるその間、鋭い生存本能だけが俺の体を動かしていた。


「……はぁっ! はぁっ!」


 しかし精神は昂ぶりでごまかせようと、体力の限界はどうしようもなかった。

 多少鍛えていようとあの巨体から生み出される体力に、常人一人で対応などできるはずもない。


 このままだと……殺される。


 俺の頭の片隅で静かに大きくなっていた考えが、今確信をもって胸の奥に居座ってしまった。


 動けば動くほど、体力が無くなれば無くなるほどにこちらの動きは大ぶりになり、余計に無駄な体力を消費するばかり。

 消耗戦では決して敵わない。

 出入口は遠く、撤退は叶わない。


 それなら――



「――ここで狩るしかねえ」



 靴ひもを一本抜き取り、俺は静かに息を吐き出した。

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