第13話 挨拶は大事だが、したから良い事が起こるわけではない
「やっべ……ここ
遥か頭上の幹に刻まれた痕に湧き上がる焦燥感を噛み締め、俺は小さくつぶやいた。
ダンジョンは様々なタイプが存在するものの、大まかには二つに分類することができると言われている。
一つは迷宮型。つまり何らかの構造物によって形作られている、ダンジョンと言われれば思い浮かべるような姿。
そしてもう一つはフィールド型。野外など自然の姿を主としている、まさしく今俺が経っているこの『西スライム丘』もそんなフィールド型ダンジョンのひとつと言えるだろう。
どちらのタイプのダンジョンも何らかの境目によって現実区切られ、中ではモンスターが生息していることは共通だ。
しかし違いとしてあげられる点がいくつかある。
その中でも代表的なものを上げると。迷宮型のダンジョンボスは比較的一か所の狭い範囲にとどまり、フィールド型のボスは広めの縄張りを持つことが多い、ということだ。
もう気付いただろう。
この木の幹に深々と刻まれた後は、その『縄張り』を示す証である、と。
スライムや鉄鋼虫がいつもより少ないのなんて当然だ、やべーやつの領域なんだから。
「やっべぇぞこれ……」
脳が焼け付くような恐怖に包まれる。
俺の記憶が正しければ西スライム丘のボスは熊だったはず。
特殊な能力はないはずだが、そもそもダンジョン外ですら熊という存在そのものが脅威だ。
緻密な筋肉で覆われた全身は凶器そのもの。軽自動車ならば容易くひっくり返し、時速六十キロで追いかけてくるため人間ごときではけして逃げ切ることなどかなわない。
何より脅威なのはその執着心だ。
一度獲物と見定めた、あるいは獲物を奪われたと理解したならば、たとえ十数キロ逃げようととことん追いかけてくる。
逃げる方法は二つ、死ぬか殺すしかない。
「まだ、バレてないか……?」
周りの草に動く影は見当たらない。
不幸の中の幸運に少し胸をなでおろし、俺はゆっくりと後退を始めた。
木の上に縄張りを示すマークがある。
ボスが立ち上がって縄張りのマークを付ける際、腕がその位置に来るということ。
その高さおおよそ二メートル。このサイズは現実で最強と呼ばれるグリズリーやヒグマに比肩する高さだ。
当然持ち合わせた力はそれと同等か以上だろう。準備一つしていない俺が立ち向かうにはあまりに危険が過ぎる。
こんな木刀、つまようじと大して変わりはしない。
今はレベル5? ナメクジに殻が付いたところで踏み潰されるだけだろう。
今できることは一つ、逃げ一択だ。
「たのむ……」
俺の呟きが葉擦れに溶けていく。
普段は電車内での腹痛くらいでしか頼らない神様だが、今日ばかりは縋り付かせてほしい。
まだボスの姿は見当たらないあたり、俺の存在はバレていないはず。
幸いこの『西スライム丘』は背の高い草が一面に生えており、平均的な身長の俺ならしっかり屈むだけですっぽりと姿を覆い隠してくれる。
あとはこの木々をうまく抜け、いつもの場所に戻るだけだ。
ダンジョンのボスと言われる奴らはダンジョンのランクから外れた力を持つものの、その代わりに徘徊するタイプは少ない。
迷宮型ならその部屋や広場などから、フィールド型なら縄張りから逃げれば、
「はっ……! はっ……!」
無意識に呼吸が荒くなり、緊張感から体の動きは鈍くなるばかり。
はっきり言って生きた気がしなかった。
もし俺がパーティを組んでいたらまた違ったかもしれない。
切れ味のいい剣を、しっかりとした鎧を着こんでいたら。頼れる仲間と共闘し、ターゲットを分散できれば。
自然を歩くことがこんなに孤独だったなんて知らなかった。
きっと、だから人は群れるのだろう。
だから人は家を作り、逃げ込んだのだろう。
迫りくる脅威から目をそらすには、貧弱な人間はそれ以外の手を持っていなかったから。
この領域内において俺はただの非捕食者に過ぎないのだと、本能的にわからされてしまった。
這って、這って、這って……気が付けば周りの木に傷はなかった。
「た、助かったぁ……!」
木の根元に座り込んで、俺は初めて自分の手が震えていることに気付いた。
「へへ……いやマジでやべえって……へへっ」
緩んだ気のせいでついつい笑いがこぼれる。
生き残ることだけをひたすら考えていたさっきの自分の思考が、すさまじく卑屈なものであったことに気付いたからだ。
いーや、でも誰だってあんなのに気付いたらブルっちまうだろ、仕方ないって!
熊だぞ熊! 蜂蜜舐めてるような軟弱な奴じゃない、血を啜るような生態系ピラミッドの頂点捕食者様だぞ!
逃げてる最中に草に引っかかったのだろう、解け掛けの靴紐を見つけた俺は、未だに笑いながら少しかがみこんで
「へへへ、あはははひぇほあ?」
ズドゴォッ!!!!!
爆音と風がつむじの上を吹き抜ける。
同時に、木の幹へ深さ十数センチはあろうかという三条の痕が刻み付けられた。
「アッ、アッ……ソノッ……」
ぬう、と俺の全身を影が包み込む。
針のように太くとがった体毛、その下で小刻みに震える筋肉の緊張。
縄張りから抜ければ助かる、俺はそう思った。
それは正しい。
しかし既にターゲットとして補足されていれば、前提がひっくり返るというだけで。
「こ……コンニチワ」
どうにか陽気な挨拶を捻りだせた俺の顔面へ、大熊は咆哮と共に無慈悲な鋭利な切り裂きを振り下ろした。
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