第三十六話 祈り

「耳が聞こえたのかよ……?」

 ようやく絞り出した言葉がそれだった。

 しかしよく考えれば当然だ。先ほどリリーの叫びに反応していたのだから耳が聞こえていなければおかしいのだ。

「ええ。実は私、嘘つきなんです。あなたと同じで」

 思わずリリーはあっと叫びそうになった。

 つまり彼女はリリーが毎日叫んでいたことをすべて聞いていてもおかしくないのだ。

「じゃあ、私の本性にとっくに気づいていたのか?」

「はい。私やトラゾスのみんなを罵る声をいつも聞いていましたよ」

 こんな状況なのに思わず赤面しそうになる。聞かれていないと思っていた独り言を聞かれるのは誰だって恥ずかしい。

 しかしそれ以上に疑問が先に立った。

「じゃあ、なんで私なんかについてきたんだよ?」

 トラゾスが噓っぱちで、リリーは教祖にふさわしい人間でもない。

 そのすべてを彼女は知っていたはずだ。

「気づいていませんでしたか? あなたはいつも嫌なことがあった日には必ず独り言が増えるんです。だからね、あなたにとってあの独り言はきっと自分は大丈夫だって言い聞かせるための愚痴なんですよ。つまり、あなたは」

 一度言葉を区切った『耳なし』は吐血した。

 それを見たリリーは休めと言葉をかけようとしたが止められた。

「いえ、最後まで言わせてください。私はもう長くありませんから。ええと、そう、あなたはきっと心の底ではみんなの幸せを願ってた。でも、自分は悪人だって言い聞かせて、何も感じていないふりをしていたんですよ」

「そ、そんなこと……」

 否定しようとしたが自分の耳で聞き、今にも命の灯が吹き消えそうな彼女の言葉を否定する気迫はなかった。

 あるいは、彼女自身心の中でそう思っていたのかもしれない。

「悪ぶるなとは言いません。でもいつまでも自分を責めなくていいんですよ。それと……みんなで協力して小舟に子供たちを乗せました。運が良ければ下流に流されているかもしれません」

 苦しみながら、他者に思いを馳せ、そっとリリーの頬を撫でる彼女こそ、本物の教祖にふさわしいのではないか。そんな感想をリリーは抱いた。

「なあ。お前の本当の名前、教えてくれよ。名前も知らないまま死なせたくねえよ」

 ぽろりとこぼれた本音に彼女はちょっと困った顔をした。

「ごめんなさい。それは言えないんです。私の名前は都市国家の神の名前から来ているから」

 当たり前の話だが、わざわざ自分の子供に自分が全く関係のない神の名前を付ける親はいない。

「おまえ、もしかして奴隷ですらなかったのか? いや、都市国家の市民だったのか?」

 彼女は微笑んだままだった。

「言ったでしょう? 私、嘘つきだって。でも本当にね、トラゾスにいた日々は楽しかったの。けれど嘘をついているのはやっぱりつらかった。だからあなたの気持ちもわかるつもり。このまま死んでもいいなんて思ってた。ああでも、思ってただけね。自分の掟……『死者のように眠る』掟を使ってまで生き延びようとするなんて……あさましいわね」

 どうやらそれが彼女だけが生き延びた理由らしい。

「いいじゃねえか。あさましくても嘘つきでも。なあ、私と一緒に生きようぜ」

 その言葉にも微笑んだが、その表情は水に溶かされた絵の具のように薄まっていく。

「ありがとう。でも、無理なの。さっきからどんどん感覚がなくなっていくの。私の掟は血のめぐりを遅くするみたいだからまだ意識があるけれど……掟の効果が完全に切れたら血が出ていってしまうわ。ああ、そんな顔しないで」

 リリーは自分がどんな顔をしているのか想像できなかった。つまり、リリーが叫ばなければもっと生き延びられたかもしれないのだから。

「ねえ。あの祈りをしてくれない? 死者への祈り。あなたの祈りが聴きたいの。私はトラゾスの一員だと確信して死にたいの。あなたは気づいていなかったと思うけれどあなたが祈っているときは、本当に真摯な顔をしていたのよ」

 リリーは震える手で腕を組み、祈りの言葉を唱える。

「あなたの罪の許しと、恵みを与えてください。あなたが楽園への道を安らかに歩めますように。永遠のひ、光が、あり、ますように」

 涙と嗚咽をできる限りこらえて最後まで言い終える。

 その言葉がすべて聞こえていたのか、リリーには確信できなかった。

 彼女はもう、息をしていなかった。

 リリーはずうっと、あるいはほんの一瞬だけ、どちらだったのか本人にはわからないが、身動き一つせず固まっていた。

 背後に、泥をかき分けるような足音が聞こえるまで。

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