第三十五話 裁判
ジッグラトから悲痛な顔で走り去るリリーを見届けたミミエルはゆっくりと尾行を開始した。
とはいえ警戒はしていない。今のリリーに背後を振り返る余裕はないと確信していたからだ。
ジッグラトを飛び出たリリーは携帯粘土板で連絡を試みた。
だが。
「何で誰も出ねえんだよ!」
怒りのあまり携帯粘土板を握る手から血がにじむ。
諦めて走り出す。
城門付近であらかじめ手配しておいた馬車に乗り込む。御者は自分だ。立場や賃金のこともあるが今はとにかく都市国家の人間の手を借りるのが嫌だった。
手綱を握る手が震えていることに気づかないままぶつぶつと独り言をこぼす。
「別に大したことじゃねえ。信者どもが死んだところで何だってんだ。また信者を増やせばいい。それだけだろうが」
乱暴だが、自分に言い聞かせている口調だった。無論、自覚はしていない。
彼女は手綱を握りながらもこれから起こる未来と今までの過去に思いをはせる。その二つをつなげることは苦痛だったのか、何度も思考を止めようとしたが、嫌な予想とささやかな追想を止めることはできず、長いようにも、短いようにも感じる時間は終わりを告げた。
馬車の上から泥に埋もれた川岸を見る。
もうそこは廃墟だった。
天幕も、水瓶も、普段なら不愉快なはずの生活音でさえも、人が生活していた痕跡が押し流され、砂漠に育つ樹木のように細った何かがあるだけだ。
それが天を目指すように伸ばされた腕だと気づくのにしばらく時間がかかってしまった。
メソポタミアにおける洪水は日本人が想像するような豪雨による増水が原因とは限らない。
アナトリアの山の雪解け水が川を増水させ、大氾濫を起こすことがしばしばある。メソポタミアはその名の通り川の間の地域であり、川の状態と文明は切り離せない関係にあったのだ。
だが、この時期にこれだけ突然の洪水が起こることがあり得るのかどうか。しかし実際に洪水は起きてしまった。
ならばこれこそまさに神意ではないか。
少なくともこのウルクの人々はこれが神の行いであると判断した。
そしてリリーは。
「あ。あ……あ」
自分の頬に手を当て、かきむしる。爪痕は痛々しい紅色。しかしリリーはそんなことを気にしていない。
「あ」
言葉にならず、嗚咽だけが喉から零れ落ちる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
叫びと同時に走り出す。
(ちくしょう! あいつらはただの道具だったはずだ!)
彼女の脳裏に浮かぶのは。
(別に代わりなんざいくらでもいる)
花を摘んでくれた子供。
(そもそもうっとおしかっただろ!)
まだ一人だけだったころ、説法の手助けをしてくれた男。
(そちゃ、ちやほやされるのは嬉しかったけどさ)
空腹で倒れそうになったところでパンを分け合ったこと。
(でもそれだけだ。なのに……)
戦士の岩山を探るための手段を手に入れたこと。
(なんでこんなに苦しいんだよおおおおおお!)
ゼイゼイと息を荒げ、それでも肺一杯に空気を吸い込んで叫ぶ。
「誰か! 誰かいないのか!? 生きている奴は!?」
その声に反応するようにぴくりと地面が動いた。
すぐさま地面に飛びつき、そこを掘る。
腕が見つかる。もっと掘ると頭が現れた。こほ、と泥を吐きながら呼吸を再開した。
どうやら地面に埋まっていたというよりは泥が被せられていたような状態だったらしい。そして埋まっていた人物は見覚えがあった。
「み、『耳なし」! おい、返事を……ああ、くそ! こいつ、耳が聞こえねえんだ!』
震える手で携帯粘土板を操作しようとするがうまくいかない。
異常な状況は彼女から平常心を奪っており、それがより一層手の震えを激しくさせていた。
その手を優しく包んだのは『耳なし』の手だった。
「そんなに焦らなくても構いませんよ。初めから全部聞こえていますから」
普段とは違う流暢な言葉がリリーの耳に届く。
その言葉の意味と、誰がしゃべっているのか理解するまでに少し時間が必要だった。
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