第三十四話 神明

「お初にお目にかかる。わしがアトラハシスじゃ。これは名であると同時に役職でもある」

「お初にお目にかかります。アトラハシス様。トラゾスの教祖、リリーと申します」

 もちろんアトラハシス以外にも書記官や役人が控えているのだが、口を開くどころか身動き一つしない。完全にアトラハシスに任せるつもりなのだろう。

「まず、貴女が戦士の岩山を占拠していることについてじゃ。申し開きはあるか?」

「滅相もございません。あの迷宮は発見者が特定不能だったはず。誰がどこに住もうとも咎められないはずです」

 戦士の岩山のように広がる性質が強い迷宮はいつの間にか目に入っており、たまたま立ち寄った人間が迷宮の魔物に襲われてその場所が迷宮だったと気づく事例が多い。

 そのため発見者が不明のまま事態が進むことも珍しくない。

 リリーはウルクの法についてそれほど詳しくはないが、自分が利用できる規範については十分に調査していた。

「よかろう。では、複数のギルドが迷宮攻略中に不可解な魔物の行動があったと報告されておる。これについて知っていることは?」

「申し訳ございませんが、何も知りません。お力になれそうもありません」

 もちろん嘘だ。

 あれらはすべてトラゾス、ひいてはリリーの仕業である。

 だが尻尾は掴まれないと踏んでいた。もちろん目の前の賢者アトラハシスが常人ならぬ頭脳を発揮すればどうなるかはわからない。

「そうか。だがあまりにも不可解な事象が多すぎるのも事実。残念じゃがこのまま放置はできん」

「偉大なる賢者様のご裁可に従います」

「ではここに宣言する。トラゾスは神明裁判を受けるべきであると」

 やっぱりか、と唇をかみしめる。

 神明裁判とは人が行う裁判ではなく、神の意志を伺うために行われる裁判である。

 都市国家などによって異なることはあるものの、ウルク近辺では容疑者を川に流すのである。

 川には神の意志が顕れると言われ、川に流されても助かれば神が許したとされる。

 リリーの脳裏をかすめるのはかつての記憶。

 故郷や両親から引き離され、見たことのない都市国家に連れてこられた苦しみ。鼻持ちならないボンボンの子供に虐げられ、笑われた屈辱。

 挙句の果てに神明裁判だ、などとうそぶかれ、強引に川に投げ捨てられた。

 あの坊ちゃんの捨て台詞だけは耳から離れない。

『神の加護があれば助かるだろうな』

 ふざけるな、と心の中で吠える。

(私が助かったのは必死で泳いだからだ。神? エンリル? イシュタル? そんな奴らは助けてくれなかった。上等だ。何度だって泳ぎ切ってやる!)

 ぐつぐつと身を焦がす憤怒の炎を、それを上回る憎しみで押さえつける。

「承りました。どうぞ、わが身を川に流してください。神の裁きに身を委ねます」

「何か勘違いしておるようじゃな」

「はい? 勘違い?」

 アトラハシスの言葉に他の意味があるのだろうかと自問する。

 そして、それを見つけた。

 憤怒は消え、氷のような焦燥だけが心を包む。

「トラゾスを裁く……まさか……」

「そうだ。お前が裁きを受けるのではない。トラゾスが裁きを受けるのだ。そう託宣があった」

 裁判は普通個人を対象に行われる。だが、神の託宣があったとなれば話は別。ありとあらゆる組織、団体が裁きの対象になる。

 だが、トラゾスという組織そのものを裁きにかけるなどどんな方法があるのか。

「託宣によると、ユーフラテス川で洪水が起こる。警告を発する義務がある。もしも巻き込まれたものがいるのならば、これをもって神明裁判とする」

 リリーから温和の仮面も、憤怒の内面も、すべてが崩れ落ち、ただ絶望だけが残った。


 謁見の間から体を震わせながら去るリリーを見届けたアトラハシスはすぐに部下たちを下がらせ、自室で連絡を取る。

 相手はエタだった。

「エタリッツ君。情報提供に感謝するぞ」

『いえ。こちらも神明裁判についてお話していただいたことに感謝します』

 アトラハシスは普段以上に硬い様子のエタに何があったかを察した。

「エタリッツ君。やめたくなればいつでもわしが相談に乗ろう」

『いえ……これは僕が始めたことですから』

「そうか。じゃがたまには休むように」

『はい。アトラハシス様こそお気をつけて』

 自分の携帯粘土板をしまい、深くため息をつきながら椅子に腰かける。

「やはりこうなったようじゃな。未来のためとはいえ……前途ある若者が苦難の道を歩むことを止められんのは何とも面はゆいのう」

 未来さえ見通すとされる賢者アトラハシス。

 常人ならざる力を持つからこそ、人の身を超えた苦悩を持つことを、誰も知らない。

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