第21話 星は光ぬ
赤野優作は、慌てていた。社のホームページに、また謎の投稿があった。
投稿主以前と同じ。おそらく兄の周作だろうと思われる数字のハンドルネーム。
優作にだけ通じる暗号の名前だ。
投稿内容は、ネット上の動画へのリンク。リンク先は、『星は光ぬ』を熱唱するオペラ歌手の動画だった。
『トスカ』の最終幕の有名な曲。主人公の歌姫トスカが、恋人のカヴァラドッシが囚われている時に、恋人を思い出して歌う曲。
絶望に打ちひしがれながら、これほどまでに人生を愛したことは無い、と歌い上げる。
やっぱり周作だったと優作は確信する。
こんなメッセージの残し方をするのは、周作以外にしないだろう。
「どうしよう。俺たちが見つける前に、幕がすすんでしまった」
優作は、焦る。
周作の探索は、ずっと続けていた。
だが、松岡が警告した通り、あまりにも有益な情報は少なく、残念ながら虚しく時は過ぎてしまった。
スマホが鳴って優作が目を向ければ、松岡からの電話だった。
「山石周という名前の男が、検疫で引っかかったという情報があった」
開口一番に松岡はそう言った。
松岡の話では、空港の検疫から永井に連絡が来たのだという。
以前、ジェイコブの事件の時に、永井は空港警備を担当している人物と仲良くなっていた。
だから、裏から周作の特徴を流し、それらしい人物が通れば、連絡をくれるように頼んでくれていた。
その永井から、松岡に連絡が来た。
「山石周……仙石と周作から人間を抜いた名前。兄が使いそうな名前ですね」
優作は、周作の心理状態を考察する。親しい仲間と離れて、自分は人間でなくなってしまったようだと悲嘆にくれている周作が目に浮かぶ。
「俺もそう思う。ああもう。元子の作戦、全く駄目だろ」
全く情報もなく策もなかった優作達に元子か提案した作戦は、どうやら周作を追い詰めてしまったようだ。
松岡と元子の偽装結婚。
松尾は元子と入籍までして結婚の情報を流した。松岡と元子の結婚と聞いて、周作は、自分の居場所はなくなったと思い込んでしまったのかもしれない。
元子の読みでは、こちらの状況が大きく変化することで周作に動きが出るだろうということだつた。
周作に動きがあれば、そこから居場所も読みやすくなるのではないかと。全く情報がないのであれば、こちらが動くことで向こうに揺さぶりをかけるべきだと元子は強く主張した。
「お祝いの一つでも贈って来るんじゃない? あわよくば、何か言いに一瞬でも姿を現すかも。大切な姉替わりの結婚だもの」とは、どや顔をした元子の言い分。
「作戦名は、『幼馴染の結婚は、当然祝うものでしょ!』よ!」
よ! ではない。
元子の作戦により周作側に確かに動きはあったが、事態は良からぬ方向へと進んでしまったではないか。
偽装結婚の相手として、優作とあおいはなんのインパクトもないし、加茂には頼みにくい。
では、彼女いない歴を年齢と共に重ね続けている松岡なら後腐れもないし、周作と仲が良い松岡なら、周作が反応する可能性も高くなるだろうと、元子が勝手に決めた。
戸籍に傷がつくとか、そういうのは良いのかと元子に聞けば、今時バツの一個くらいは、どうってことないしむしろ勲章でしょ、というのが、元子のなんとも理解に苦しむ意見だった。
周作が見つかれば、直ちに解消だからね。一瞬でも結婚してもらえるんだから有難く思いなさい、とは、松岡には全くどこが有り難いのかさっぱり分からない元子の主張だった。
「幕がすすんだってことは、赤野は死を覚悟しているってことだろ? どうするんだよ。これ。今から空港近くのオービスや防犯カメラ確認して……聞き込みして……何日かかるんだよ。間に合うのか?」
電話の向こうで松岡がぼやく。
「優作っ! これっ!」
バタバタとあおいがノートパソコンを持って優作の元に走ってくる。
あおいの手には、あの母の墓で見つけたUSBメモリ。
「母が、母が仙石の隠れ家を記録していたの!」
母のUSBの中身は、母が仙石と過ごしていた時の克明な記録だった。
仙石の隠れ家がいくつか記録されている。仙石と母が行った犯罪行為まで記録されている。
犯罪事態は、すでに時効になっている物もあるし、起訴するならば、さらに話の裏付けをとる必要がある。
重要なデータだが、今すぐに仙石を追い詰められるような速効性はない。
今すぐ気になるのは、やはり仙石の複数の隠れ家の場所だ。その中のどれかに周作を囲っている可能性は高い。
あおいの母の残した記録を、夜通し解析したのはあおいだ。現在でも使われていそうな場所を、一件一件ネットの情報と照らし合わせることで絞り込んだ。
仙石と直接対決するには弱すぎるあおいなりの戦いかた。ITに詳しいあおいが、自分のの得意分野を生かして、仙石を追い詰める決定打を探したのだ。
「何年も前の記録だ。それが今も正しいかどうかは分からねえが……」
「そうね。でも松岡さん、仙石が好むような条件の場所は、そう多くはないの。このデータにある場所は、逃走経路の確保しやすさ、周囲の住居との距離感とか、一定の法則があるわ。日本中の地形を解析してみても、このデータに矛盾はないの」
「スゲェな。あおい」
「でしょう? 彼女は天才なんです」
「もう、優作ったら。違うわ、天才なんかじゃないの。でも、そんなこと言っている場合じゃないわ。で、松岡さんの言っていた空港の位置情報から考えて、導き出せる予想では……」
あおいの弾き出したデータは、たった一つの建物を指し示す。
「ここよ。この海沿いの建物。これが、今、周作さんがいる可能性が限りなく高い場所」
松岡のスマホにも地図が送られてくる。
赤く印の入った場所を松岡は睨む。
「俺が行く」
優作と青野では、罠だった場合に対処できないだろう。元子のいる場所は遠い。援軍を頼むには、時間がかかりすぎる。
松岡は、一人車に乗って、住所の場所へ向かった。
◇◆ ◇◇◇◆◇ ◇◆◇◇ ◆◇◆◇◇
周作達の車は、目的地にたどり着く。
海のそば。周囲に家はない。
コンクリートの土台の上に木造の平家が立っているから、通りすがりに覗かれることもない。
解放的に見えて隠れ家としての特徴はきっちり持っている古い建物。
一階部分のコンクリート部分の駐車場で運転手にドアを開けられて周作は降りる。
「ねえ。せっかく頑張って仕事したんだから、何かご褒美をちょうだい」
周作が悪戯っぽく微笑めば、仙石の目尻が下がる。
「珍しいね。少しは表の世界を諦めて私を受け入れる気になったかい?」
「ふふ。どうだろうね。さっき意地悪な仙石に泣かされたからね。それに……友達の幸せを密かにでも祝いたいんだ。元子も松岡も、大切な友達だからね」
「なんだい? どうやって祝う? シャンパンでも買ってこようか?」
「どうしょう。……そうだな。モンラッシェが欲しい」
「ああ。あの時そんなことを言っていたね。あれは、あおいを救い出そうと君たちが悪戦苦闘していた時だね」
「そう。松岡のやつ、結局僕にワインは買ってくれなかったから」
「あの男が買う約束だったワインを、私と飲もうっていうのかい?」
大袈裟に目を丸くして見せる仙石。
周作の顔には切ない笑顔が浮かぶ。
「相応しいだろう? 友人達の結婚を祝い、表の世界と決別する瞬間に飲む物として、これほど相応しいものはないよ」
「ああ。確かにそうだね。叶えてあげよう」
おい! と、一言仙石が合図すれば、運転していた男が慌てて車に戻って、周作の我儘を叶えるために車で行ってしまった。
仙石の隠れ家は、限られた人間しか知らない。だから急な出来事には、ここまで車を運転してきた腹心の部下が対応せざるを得ない。それも、これまで仙石の横で生活してきて確認済みのことだ。
「君の初めての我儘だ。聞いてあげよう」
「そう? 嬉しいな」
嬉しいと言いながら少しも晴れない周作は、得意なはずの作り笑いも忘れてそっぽむく。
ちらりと本音が表情に浮かんでしまいそうになるのを隠して、仙石に背を向けて先を歩く。
周作自身、どう扱って良いのか分からないくらいに暗くポッカリと空いてしまった心の穴に、どうしても上手く対応出来ない。
周作と仙石の二人きりで隠れ家に入れば、閉め切っていた部屋の空気が澱んでいる。
周作が窓を開ければ、心地良い海風が入ってくる。
「何を狙っている?」
「何のこと?」
「私を嫌う周作君が、どういう風の吹き回して可愛いらしいことを言うのか」
「嫌われている自覚はあるんだね。……しかし、信用ないな。まぁ、当然だけれどもね。僕らの関係性では」
海風に髪を遊ばせながら、周作が答える。眼下では、周作たちを乗せてきた車が、海岸沿いの道を走って遠ざかるのがみえる。
今なら二人だけだ。
刺し違えて死ねば、向こうも死んだ仙石に義理立てして周作の友人達をわざわざリスクをで負ってまで狙いはしないだろう。
シビアな弱肉強食の世界。
死んだ相手に執着はすまい。新しいボスが生まれてその支配が始まるだけ。
何分持つかは分からないが、これはチャンスだ。おそらく最初で最後の。
仙石が、キッチンでコーヒーを淹れ始める。コーヒーの豆の香りが窓辺の周作にも届く。
「こんなに心を尽くしているのに」
「残念ながら、それは全く信用できない。僕の大切な人たちに刺客を送って見張らせて脅迫で成立した関係。死と隣り合わせの仕事を命じて、僕の手を血で染め上げる」
鼻で笑う周作に、仙石は眉をひそめる。
「それこそが、キミへの愛の証なのに。賢いキミなら分かると思うが。……どうしたら、脅迫せずにキミを手元に置ける? 死と隣り合わせの状況に置かなければ、キミの手は、血に染まらないだろう? 血で染め上げなければ、キミは、元の生活に戻れるなんて幻想を抱くだろう?」
狂人の暴論を当然のように仙石があげつらねる。
この男は、本当に、これしか人を繋ぎ止める方法を知らないのだろう。今まで生きていた中で、恐怖こそが人をつなぐ方法であり、誰も信用しないで生きてきたのだろう。
周作は、仙石を憐れに想う。
周囲の素晴らしい物に気づきもしないで、最も価値ある物を自ら捨て去っておいて、何を欲しがり続けているのか。
そりゃ、永遠に欲望なんか収まりもしない。だって、満たしてくれる物を全部否定して捨て去っているのは、自分だ。
あおいやあおいの母の強さが見えないのならば、仙石には、仙石の欲しているものなんて永遠に手に入らないのに、仙石はそのことを、理解することすら否定する。
「相変わらず気持ち悪い思考だね。束縛して支配する。愛なんて綺麗な物ではない。立派な欲望だよ。七つの大罪の一つだよね」
「七つの大罪。どれだろうね。傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰……。どれも身に覚えがあり過ぎる。今更だよ。私の行き先は、既に地獄に決まっているのに」
やはり、周作が何を言っても仙石には響かないのだろう。
一時でも仙石に愛を与えていた、あおいの母すら裏切る仙石だから、周作の言葉なんて耳に入るわけもない。
「まあ、僕だって、人に偉そうには言えない。地獄行きは確定だけれども」
「では、一緒に地獄にいこう。嬉しいね。死しても共にいられるとは」
にこやかに笑う仙石に、周作はため息をつく。まったく言葉が通じない。全てが、丸め込まれて説得なんて芸当はできそうもない。
「じゃあ、もういいでしょ? 僕の友人達から刺客を外してよ。無駄でしょ? どうせ、僕には帰るところなんてないんだし」
できれば、穏便に済ませたい。ここで仙石が引いてくれるならば、新しい道も開ける。
「ふふ。やはり狙いはそこかい? 外してほしいならば、何を差し出す?」
「ええっ。まだ僕から何か取るの? 僕、もう何もないよ? ええと、そうだな。逃げ出しにくくするために、右手でも持っていく? 痛さで悶絶する僕っていうドSの仙石好みのイベント付き」
ヘラリと周作が笑えば、仙石がコーヒーのカップを持って、周作の横に立つ。
「魅力的だが、それも既に私の物だ。勝手に傷つけることは、許さない」
仙石が、カップを一つ、周作に渡す。いつものブルーマウンテンが、周作の手の内で湯気を立てている。
「自分の右手にすら所有権がないの? 困ったな。本当に何もない……」
素直にコーヒーをすすりながら、周作は考え込む。長く伸びてしまった髪。切ることを仙石から許されていない。もはや髪の毛一本、自由にさせないという仙石の意志表明なのだろう。異常なまでの独占欲。
「ならば、心を。キミの愛を」
「愛? ……難しいな。僕と仙石は、そんな甘い関係ではないでしょ? お互いいつ殺されるかとハラハラして抜身のナイフを突き立て合っている関係」
周作が、人差し指で、トンと仙石の胸を突く。心臓の位置。
「互いに少しも信頼できない相手を愛することなんて、できるかな? しかも、僕と仙石だよ? 二人とも、そんな綺麗な感情を持ち合わせてなんていないでしょ?」
ニコリと周作が笑う。
「こんなに想い通りにならない相手は、キミが初めだよ。帰る場所も奪った。肉体の自由も奪った。なのに、なぜ、まだそうやって、強く見つめ返せるのか。普通、怯えて私の慈悲と愛を懇願して膝を折るだろうに」
「ごめんね。普通ではないから。ちっとも怯えていない。慈悲と愛なんてお前にはないことも知っている。無いものを懇願なんてしない」
もうこれ以上失うものはないのに、何を怯えろというのか。
終幕は近いのに。
「そうだ、仙石。一つだけあったよ。僕にあげられるもの」
満面の笑みを周作が、仙石に向ける。無邪気な子どものような笑顔。
「やっと心からの笑顔が見られた」
仙石が目を細める。
「ね。一緒に逝こう。地獄へ。僕の命をあげるよ」
ピクニックにでも誘うかのような軽い口調で周作は地獄へと誘う。その言葉に返事をする前に仙石はコーヒーを落として膝をつく。
「知っていた? コーヒーって、毒を混ぜるには、誤魔化しやすくていいんだよ。まぁ、知らないわけないか。そういう類の薬物に関しては、君の方が僕より専門家だ」
さぁ。やっとだ。
これで何もかも幕が下ろせる。
「遅くなったね。これが僕なりのトスカのキスだ。地獄で、一緒にチェスでもしよう」
やっと幕は下ろせる。
フィナーレに必要なのは、二つの遺体。
それで初めて全てが終わる。
仙石の遺体と、その殺害者と思われる者の遺体。その二つが揃えば、仙石の部下達は、誰にも報復なんてことは考えないだろう。
周作の守りたかった者達は、皆が自由と安全を手に入れるはずだ。
周作は、建物に火を放った。
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