第8話 長湯の考察
周作は温泉を楽しんでいた。
早い時間帯で、皆は湯に関心が向かないらしく、いたって静かだった。
誰もいない時間帯を狙っての一人だけで楽しむお湯。
さすがに温泉の良さで売っているだけあって、快適だった。
ほのかに漂う硫黄の匂い。源泉かけ流しの透明で少しだけねっとりとした粘度を感じるお湯は心地よく、まだ日の光のさす露天風呂は、寒すぎず、居心地が良い。
ゆっくりと楽しむためにわざと温度を下げられた露天風呂で、小鳥のさえずりを聞きながらゆっくり足を延ばす。濡れた白い皮膚の上を反射する日の光が温かい。
腕に残る傷跡が、肌が桜色に染まれば赤く目立ってくる。昔、仲間と共に生き抜くために自らナイフでつけた傷跡。加減が分からずに切ったものだから十年以上経った今でも残っている。
まだ十九歳の訓練兵だったのだから加減が分からずとも仕方ないだろう。あの時は、銃の扱いも慣れておらず、ナイフで戦ったから、返り血がすごかった。
この傷を見れば、あの時の戦場を思い出す。
傭兵の訓練場。
傭兵を生業としていた父の赤野イサクが、戦場で使い捨てにされる仲間たちを想って作った施設。ある程度の知識と技術を身につけることで戦士たちの地位の向上を図ったのだ。
そこへ半年の間、周作は所属していたのだ。
まだ高校生だった周作の才能に目を付けた仙石から逃れるため、自らの身を守れるようにと家族が下した決断だった。周作を犯罪者にしないため。そのために護身を身に付けさせるのが目的だったから、前線には赴かず、訓練のみの予定だったのだ。
それなのに運悪く、周作は負傷兵のサラとジェイコブと一緒に戦場に取り残されてしまった。
作戦は、前線から遠く離れた施設から負傷兵二人を救護施設に運ぶ、どれだけだったはずなのだ。それが、奇襲にあって仲間の訓練兵は即死。運よく生き残った周作は、負傷したサラとジェイコブを抱えて数日間、味方が来るまでの間を生き延びなければならなかったのだ。
我ながら良く生き残れたもんだと思う。
こんなにのんびりと温泉に浸かれる日々が戻ってくるなんて、思いもよらなかった。
昔に想いをはせていれば、傍に置いていたスマホが鳴る。
電話の相手は、サラ。
傭兵時代に、周作が窮地を助け出したことから仲良くなった戦友。
「やあ、サラ。丁度、キミのことを思い出していたところだよ」
のん気な声で周作が電話にでれば、サラの不機嫌な声が飛んでくる。
「私の警告を無視しやがったな」
「そう怒らないでよ。仕方ないでしょ? 僕にだって都合ってものがあるし」
ジェイコブから気持ちの悪い手紙が来たところで、周作は隠れることができない。今は仙石があおいを狙っているのだ。あおいを守ることが優先されるべきだ。
「お前はいつだって、自分の命を後回しにする。そんな奴がよく生き残れる」
「本当だよ。いつだってギリギリ、僕だって自分が生きているのが本当に不思議」
あの時だってそうだ。騙されて孤立した周作が二人を見つけた。
サラと一緒に救出したのが、ジェイコブ。
あの時でもかなり年配の老戦士だった。
深い経験から、トラップや戦略を考える名手だったのを、周作は覚えている。
何も知らない周作に、付け焼刃でトラップの技術や射撃を教えたのが、ジェイコブとサラだ。
「メサイヤだっけ?」
「サラまでそんなこと言わないでよ。本当に、ジェイコブには、困っていたんだから」
サラが、フフッと笑う声が聞こえる。
当時は、笑いごとではなかった。
救出されたことで、周作をメサイヤと呼んでジェイコブは付きまとった。周作が男と話せば、メサイヤが穢れるとジェイコブが邪魔をした。
周作に触れてくるでもなく、ただ、周作に執着する様は、「狂信」という言葉が相応しかったのかもしれない。
そして、ある日とうとう事件は起こった。
ジェイコブが、周作に言い寄っていた男を殺したのだ。
その結果として周作は日本に帰ることになり、ジェイコブは訓練所を離れてどこかに消えた。
「残念ながら、ジェイコブの現状について詳しくは私は知らない。何故今ごろ動き出したのかはよく分からない」
「そう……だよね。噂の一つでも、耳に入っていないかと思ったんだけれども……」
「何かあったか?」
「たぶん、動き出したよ。あれは、ジェイコブだ」
ユダの接吻を示唆するメッセージカード。聖ヤコブの十字架で封印された封筒に入っていた。
ジェイコブの綴りは、国を変えれば、ヤコブになる。イサクがアイザックになるように。国によって同じ綴りが同じでも読み方が変わるのだ。
自分を聖ヤコブになぞらえて、ジェイコブが自分を示してきたとして、何の不思議もない。そして、ユダの接吻。ここにキリストがいるのだと示すために、ユダはキリストに裏切りの接吻をするのだ。
周作がジェイコブにとってのキリストであるというならば、ユダは誰で、誰に売り渡したというのか。思いめぐらせて、周作は苦笑いする。
「……まぁ、昔の知り合いを当たってみてやるよ」
「助かる」
電話を切って、周作は思わぬ長湯にフウッと大きな息をしながら風呂を出た。
浴室には、若い女性の無邪気にはしゃぐ声が響いていた。
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