花嫁は、なんとか時間を稼ぎます
「何でそう思うの?」
「彼女がうちに襲いに来た日と、薬品が盗まれた日は一緒だった。それに『あんなことまでした』っていうのは、この家に来るまでに、薬品倉庫に忍び入って、あなたに頼まれた薬品を盗んだことでしょ。彼女、手がただれてた。犯行時に焦って薬品の容器を落とすかして中身に触っちゃったんだね」
一部の有害な化学薬品は皮膚につくと、炎症を起こすものがある。すぐに洗えば問題ないけど、犯行を行って逃げるのに必死で、水で洗い落とす暇なんてなかったのかもしれない。
千秋くんは全て観念したように、肩をすくめる。
「……そうだよ。数年前に別れたのに彼女、復縁しろ復縁しろってうるさいから『僕のお願い聞いてくれたら、考えてもいいよ』って頼んだら、持ってきてくれたんだ。都合が良すぎるかなと思ったけど、彼女、あの会社の社員でもあったからね。でも、こっちもびっくりしたよ、あんなにうまくやってくれるんだって」
平気でこんな恐ろしいことをしゃあしゃあと言えることに、恐怖を越えて感動すら覚える。
「よりを戻す気なんてなかったんでしょ」
「あるわけないよ。僕には、由梨花がいるのに。だけど、あの女がこの家に来て由梨花がいるのを見つけるとはね。さすがにやらかしたと思ったな。どうしようかと思って、会いたいって呼び出したら、あっさり来てくれた。ちょっと早めに会社出て、彼女が使ってる電車のホームで待ち伏せしたんだ。自殺ってことで片付いてラッキーだった」
自殺に見せかけて、ホームから線路に突き落とした。
ストーカー行為をしていたのは許せないけど、それ以外の事実を含めて考えれば吉野さんは気の毒な女性だ。
「その薬品で、私もさゆりみたいにするつもりなんだね」
棚を見る。ここからじゃ中は見えないけど、中にはあの薬品の瓶たちが入ってるんだろう。あの中に入っていたのが、吉野さんが盗んで、この男に渡したものだろう。
ホルマリン、塩化亜鉛、グリセリン。シチリアの少女のミイラにも同じ薬品が使われていたという。
「そうだよ。それまでもうすぐだ。楽しみだねえ」
とろけたような顔になる千秋くん。
「さっきも聞いたけどどうして? すでに彼女がいるじゃない」
「ダメだよ、彼女は僕のお祖父さんのものなんだよ。彼女を僕のものにしたら、お祖父さんが可哀そうだろ? だから、僕は僕だけの永遠のお姫様を手に入れなきゃいけないんだ」
千秋くんは不意に立ち上がって、私の前へ歩み寄る。
大きな手を私の首に、ではなく、私のサイドへアーを優しくつまむ。
「僕が見つけたお姫様も、美しい黒髪だったからさ。絶対にこの子を僕のお姫様にするんだ、って決めたんだ。吉野さんと別れたのはさ、付き合い始めたときはつやつやした黒だったのに、髪を茶色に染めたりし始めたからなんだよね。がっかりしたよ。元の方が好きだったんだけど、って言っても戻してくれないし」
髪から手を離せ、と言いたかった。こんな身勝手な男に触られたくない。
でも、そんなことしたら何をされるかわからない。
「ダメだよ? こんな綺麗な髪を黒以外に染めようなんて考えたら。絶対ダメ。ダメだからね」
呪文を唱えるように言葉が繰り返された。
「最初から私のこと殺すつもりでつきあってたんだ」
「だから、殺すっていうのやめてってば。それはいいとして、愛してるからだよ。愛してるからこそ、いつまでも永遠にいたいし、側に置いておきたいんじゃないか」
「それは、ありのままの私を受け入れてくれてるってことではないんだね」
「愛にはいろいろな形があるんだよ」
もうダメだ、この男には何を言っても通じない。
私が信じたこの男は、誰よりも危険な男だった。愚かな私はそれを見抜けなかった。
「さて、そろそろ始めようかな」
私の髪を弄んでいた千秋くんはあっさり髪を離し軽やかに動く。
例の棚へ足取り良く向かい、何かを取り出した。
「もう一回、眠ってもらわないとね。今度はもっと深く」
彼が持ってきたのは、薬品が入っているらしい瓶容器と手ぬぐいのような布だ。
「大丈夫、ただの麻酔だよ。さっきも使っただろ?」
あの布に薬をしみこませて、後ろから私の鼻にあてがう光景を瞬時に想像する。
もう一回、そんなことされたらもう終わりだろう。
長い腕で、ベッドにそっと押し倒され、うっという声が口から漏れ出る。
「ちょっと、やめてよ」
試しにもがいて抵抗するも、ダメだよ、とすんなり抑えつけられる。
穏やかな動きだけど、抵抗できない強い力だった。
「よく考えてみて」
仰向けに寝かされた私を千秋くんが見下ろしている。
「魔法にかかった方が安全なんだ。ご近所さんたちとか、吉野さんとか、うちの里村くんみたいな変なやつらに襲われることもなくなるんだし。そう思わない? 聡明な由梨花ならわかるよね?」
「そうかもね。でもさ」
「でも?」
「さゆりの場合はうまくいったみたいだけど、私にはうまくかかるのかな? その魔法って。失敗するかもって考えたことはないの?」
ゆるみきっていた表情がまた、険しいものに戻る。
「そんなこと君が気にする必要はないよ」
「薬品をどう私の体内に行きわたらせるとかさ、そういうのもわかってるの? かなり大変なんじゃない?」
「はあ、うるさいな。君は素直でいい子だと思ってたのに。残念だよ」
ぷいと向こうを向いた千秋くんは、マスクを素早くつけると、椅子の近くに置かれた小さなテーブルの上の瓶容器に手をかけた。
「もうちょっとたくさん話してようかな、と思ったけどもう始めちゃうね」
つんとした匂いが微かに鼻に届く。布に薬品をしみこませているらしい。
「でも、いいんだ。眠っちゃえば、口うるさいことも何も言わなくなるんだからさ。ね?」
布を持った千秋くんが、少しずつ近づいてくる。
まずい。
カタン、と音がした。
「あっ」
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