花嫁は、必死に逃げました

 必死に首を動かして、頭の向こうの方を見る。

 棺の中から伸びた細い手が蓋を押し上げている。

 ホラー映画の墓場から出てくる死人の手のようにゆらゆらと動いているのが見えて、ぎゅっと目をつぶった。

 彼女は何のつもりなんだろう。

「どうかした?」

 気づいているのは私だけらしい。

「出てきてる」

「何が?」

「棺だよ。聞こえなかったの?」

「まだ、そのこと気にしてるの? さゆりは動かないってば」

 彼は臆面もなく蓋を開け、覗き込んでいた。

「何もないよ。ちゃんと、あの子は眠ってる。君も見る?」

「……そう」

「あの子のことはもういいでしょ? ほら、こっち向いて」

 首を真上に向けさせられる。

 周囲に置かれた蝋燭の明かりを受けた瞳は、完全に常軌を逸していた。

「最後に、今の由梨花の顔を見ておきたくってさ。魔法にかかる前と後じゃ違うだろうから」

 ふふっ、と微かに笑い声が聞こえた後、唇に熱くて柔らかいものが押し付けられた。

「僕たち、今までキスとかしたことなかったね。これがファーストキスだ」

 最悪だ。こんなファーストキスは。

 続けて、鼻と口に近づけられる濡れた布。強烈な薬品の匂い。

「由梨花、おやすみ。愛してるよ」

「もっとちゃんときつく縛っとけばよかったね」

「えっ?」

 油断しきった顔に向けて、自由になった右手を思い切り突き上げる。

 声にならない声をあげながら、千秋くんは殴られた綺麗な顔を苦痛に歪めながら崩れ落ちた。

 やり方は汚いけど、背に腹は変えられない。

 ベッドの上で跳ね起きながら、自力で緩ませた縄から右手を抜く。

 さっき「あっ」と声をあげたのは、棺の異変を見たからじゃない。一か八かで両手を動かし続けた結果、何とか縄がゆるんだからだ。もし、そのことがこの男にバレていたら再度きつく締められるところだったろうけど、タイミングよく棺の方に注意を逸らせられた。

 薬品を吸わないように息は止めていたけど、完全に吸わないことは不可能だったようで頭が痛い。それでも足を出口の方に動かす。

 後ろから漂う乱暴な気配。

「寝てろよおおおっ」

 血走った目の東雲千秋が突進してくるところだった。

 まだ、しぶとく麻酔の布を手にしていた。

「いやっ」

 とっさに手で払うと、冷たく重い布が勢いよく飛んでいった。運悪く火のついた燭台の方へ。

 もしかしなくても麻酔剤とかここにある薬品は火気厳禁のはずだ。

 案の定、勢いよく火がついた。

「……あーあ、燃えちゃったじゃないかあ。はははっ」

 東雲千秋の乾いた笑いが響く。

「じゃあもう、このままさあ、全部燃えちゃってもいいかもね。ねえ?」

 そのまま肩をぐいとつかまれ、抱きすくめられる。

「何すんのよっ」

「もういいや、君は永遠にならなくても。ここで燃えちゃえば、それでいいんだよ。死ねば魂は一緒になれるんだ。二人で燃えよう、ね?」

「意味わからないから」

 こんなところでこんな男と朽ちるのはごめんだ。

「だから、僕の言うことを聞きなよっ」

 あっはっはっはと高笑いしながら、私の全身に圧をかける。

「ふざけるなっ、この変態がっ」

 必死にもみ合い続け、右足が硬いものを蹴った。

「ぐうっ」

 東雲千秋は、苦しそうな声をあげて足の間を抑えてうずくまった。急所を蹴ってしまっていたようだ。

 気の毒なことをしたかもしれない。でも、ある意味当然の報いだ。

 今だ、逃げるなら。

 地上への唯一の出口へ向かって走り出す。燭台は手に持ったまま。

 私が逃げ出せるはずはないとたかを括っていたのか、鍵はかかっていなかった。

 あっさりと地下の出入口を抜け、階段を昇る。あの男に着させられたドレスの裾が重くて走りづらく、苛つく。

 息切れしながら、回転扉を押す。まだ火のついた燭台で燃やしてしまわないように気をつけながら。

 ゆっくりと開いた。最初に感じたのは新鮮な空気。風を感じるのは、窓が開いているかららしい。

 扉をくぐり抜けながら、地上の書斎に一歩踏み入った。

 彼女がいた。


 白いワンピース。細い手足。

 同じ黒髪なのも、顔立ちもよく似ていた。

 笹野佳弥子が私と間違えた、本当の「お姫様」。

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