挿話5 老人の懐古

 子どものころ、植物の図鑑を持っていた。両親が与えてくれたものだ。

 日本にはない珍しい世界の植物が色刷りの写真や図で載っている図鑑。当時七歳だった俺の両手が持つには少し重く、大きかった。

 ――私が持ってあげる。大丈夫、全然重くないよ。

 ――だって私の方が手だって大きいし、お姉さんだもん。でしょう?

 俺の手よりは大きかったものの、細い手首をした彼女の両手が持ったとしても大きな本だった。

 図鑑はいつも俺の部屋にあった。

 彼女が遊べる時間になると、大抵は俺の部屋に来た。

 紙飛行機を二人で作って飛ばす競争をしたり、あやとりをしたり。

 長く飛ぶ紙飛行機を作るのは得意だったが、あやとりは何回やっても下手なままだった。俺は簡単な「ほうき」しかできるようにならなかったが、彼女は複雑な「はしご」なんかを易々と作った。器用だった。

 それでも彼女が一番好きだったのは、図鑑を開いて俺と一緒に眺めることだったようだ。

 独特な形の花や、食虫植物など奇異な生態の花の解説を読むたびに、彼女はうわあ、とかすごいねえ、とか声をあげて驚いた。

 ――ゆーくん、見てみて。こんなに大きいお花。ラフレシアっていうんだって。

 ――本当にこんなお花があるのかしら。信じられないわねえ。

 いつだって、彼女の笑顔は眩しかった。

 楽しい思い出はいつまでも続かないものだ。何事にも終わりがある。

 よく晴れた日だった。

 学校から帰ってきたときの玄関はものすごい騒ぎだった。

 火がついたような勢いで泣き叫びながら、非難の言葉を繰り返す母親。

 彼女の前で立ちすくみ、真っ青になっている使用人たち。

 ――どこに行ったの? ねえ、あの子はどこに行ったのよ?

 ――あなたたち、あの子がどこに行ったのか誰も見ていなかったの? 何をしていたの?

 ――誰一人、役に立たないわね!

 やめろ、使用人に当たり散らすな。

 そんなことで非難する権利はあんたにはないんだ。

 鍵をかけ忘れたのは、あんたの方じゃないか。うっかりしていたのはあんたの方だ。

 そもそも、彼女をいつも部屋にとじこめていなければ、こんなことは起きなかったと考えたことはないのか。

 なぜだ。なぜあんたってやつは。

 怒りがふつふつと沸いてくる。

 俺は叫んでいた。子どものくせして大人に楯突いた。

 この後、どうなるかわかる。俺はヒステリーを起こした母親にこっぴどく叱られるのだ。

 がちゃり、ばたんという音。廊下の方から聞こえてきた。

 目を開けて見えたのは、テーブルの上のマグカップ。中にはまだ俺の飲みかけのほうじ茶が入っていたはずだ。

 右手の人差し指は、本のページとページの間に挟まれたままだった。

 ソファに座って文庫本を読んでいたつもりが、いつの間にか船を漕いでしまっていたらしい。懐かしい光景の夢を見るほどに。

 夢に出てきたのは皆、俺がなくしてしまった人間たちだ。

「ただいま」

 水色のランドセルを背負った子どもがとぼとぼと入ってくる。今年、ようやく小学校に入ったばかりの俺の孫。

 この子が帰ってきたから、嫌な夢から目覚められたようで安堵のため息が出る。

「おかえり。ちゃんと勉強してきたか」

 孫は何も言わずこくりと頷いた。

 口数は少ない方だが、いつも以上に元気がなさそうに見えた。

「顔色が悪いな。大丈夫か?」

「……うん、大丈夫。ちょっと疲れただけ」

「まだ若いのに今からそんなんじゃ、心配だな」

「子どもだって、疲れるときは疲れるよ」

 孫は不満そうに唇をとがらせながら、俺を見上げた。

「それもそうか。悪かったな」

 言い返す気力があるなら、元気なんだろう。

「待ってろ、今お茶入れてやる」

 読みかけの本を開いたままテーブルに乗せたとき、本の間から薄い紙っぺらがひらりと飛び出し、孫の足元近くに落ちた。

「おっと、すまんな」

 本の栞代わりに使っていたものだ。 

 大丈夫、と言って孫が先に拾い上げてからすぐ、目を見開いて手の中の紙をじっと見ていた。

 無理はない。ただの白紙ではないんだから。

「古い写真だよ。カラーの写真が当たり前になる少し前のものだ」

 マンションとして建て直す前の古い家から持ち越してきたアルバム。それを今日整理していて、出てきたものだ。

 かなり古いものだし、取っておいても仕方がない。

 しかし、俺は処分しきれずに読んでいた本の栞なんかにしていた。もうただの紙切れ同然だ。

「この子、見たことあるよ、ぼく」

 写真をじっと見つめていた孫の言葉に、俺は声を失うことしかできなかった。

「どこで見た」

 ようやく言えたのはそれだけだ。

 孫は首を傾げて、少し考えるような素振りを見せた。

「この近くの家。黒い門があるお家だよ」

 黒い門がある家。

 あの家しかない。しかし、そんなはずはない。

「この女の子だろう。本当に見たのか」

 見たよ、と孫は頷いた。

「今年の夏休みだよ。髪はもっと長かった気がするけど」

「だけど、それは何十年も前の写真だぞ」

「でも、見たんだもの。え、でも、それじゃ」

 孫は喉をひゅっと鳴らした後に、沈黙した。

 そうだ、お前が見たのはそういうことだ。

 俺の身体からすうっと熱が引いていく。

 ――見えるのか、お前は。

 さすがにこの言葉はかけなかった。

「誰なの、この子?」

 写真を俺に渡しながら問いかける声は震えていた。

 教えてやった方がいいんだろうな。俺はこの子に少しでも関係する話を聞かせるのをずっと避けてきた。

 数か月前の夏もそうだった。辻岡先生は話したそうにしていたが。

 しかし、どこから話すべきなのか。

「今日、これから時間はあるか」

 孫は、あると答えた。

「じゃあ、出かけようか」

「どこに?」

 俺は、あの家だよと答えた。

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