五月二十六日~五月三十日
五月二十六日
絵本の中の白雪姫はどんな服を着て、棺の中で眠っていたのだろうか。「白雪姫」が世に出た時代の服は華美だが、私には重苦しく感じられるし、手に入れようと思って簡単に手に入れられるものではない。服は諦めよう。
私の姫君に今日は、私が物置から持ち出してきた、ベージュの絹のブラウスと花柄のスカートを着せた。何を着せてもよく似合う。
床に就く直前まで、窓から見える月を眺める姫君の横顔をずっと眺めていた。いつまでだって眺めていられたろう。窓ガラスに手をつけて月を見上げる姿のまま固めてしまって、保存したくなった。そうして、そのまま机の上に置いておければ。
これ以上服の心配はする必要はない。彼女の美しさと愛らしさは、服一着だけで失われるものではないのだから。
そういえば神妙な顔をした牧田が、何度も物置を出入りしていた。余計なことだが、どうかしたのかと声をかけてみた。「服を盗んでいるでしょう」と正面から突きつけられたらどうしようかと思いながら。
しかし、杞憂だった。牧田は顔を引きつらせた後、いつものように「何でもありません」と言って去っていっただけ。衣類が足りなくなっていることに気づいて、訝しんでいるのかもしれない。あの時、何も言われはしなかったが疑いはこれから私に向くだろうか。臆病な牧田のことだ。真実に気づいたとしても何も言わないだろう。
そしてこれは、決断を迫られているのだ。早く愛を伝えろとの運命の啓示なのだ。
五月三十日
記憶に残っていることを簡潔に残す。
夜の九時ちょうどだった。
姫君は眠りについた。静かな、静かな眠りだ。
寝顔をしばらく眺めた。完璧な美しさだった。
口元と鼻に両手を当てた。掌から伝わる温もりに人間は熱いのだ、と気づかされた。
そこから手にぐっと力を込めたときの感覚を私は一生忘れまい。彼女は目を開け、低くくぐもった声を漏らした。
口元を抑える左手を離し、喉に手を当てたのは一瞬の天才的な思い付きだったと思う。左の掌に伝わる、ぴくぴくと抵抗するような脈打つ鼓動に感じたことのない感情を覚えた。
幸い、それは決して悪いものではなかった。
どのくらいその状態でいたのだろう。手に力を入れたまま、目を閉じて動けないでいた。どうして、どうして私は最後まで彼女の目を見てやれないでいたのか。
口だけはただ阿呆のように「愛してる、愛してる」と繰り返していたような気がする。
天井を向いた小さな口から途切れるように短く聞こえていた低い音は、私にはとても心地よく聞こえた。
気づけば、口元に微笑みを浮かべたまま彼女は永遠の姫君となった。
私は、ついに、愛を伝えたのだ。
その時、書斎のドアがぎいいと音を立てて開いた。長い間油をさされていない蝶番がきしむのだ。
「本当に殺しちまったんですね、坊ちゃん」
ドアを開け放した廊下に立っていたのは、笹野だ。いつものように怯え切った顔の牧田が寄り添うように立っている。
まくったシャツの裾から鍛えられた腕をむき出しにした笹野は笑っていた。泣くように笑っていた。
そういえば、グリム童話にも忠実な召使を持った王子の話があった。
「忠臣ハンス」だったか。笹野も同じだった。
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