五月十九日~五月二十四日
五月十九日
消灯時間直前、布団に入ったさゆりから原稿用紙を数枚渡された。
「あなたがいない時に書いてたの。机の引き出しを開けたらあったから」
なるほど、書斎の机の引き出しには原稿用紙とペンと黒インクが入っている。満叔父が残したものだ。
さゆりが布団の中に潜るのを見届けて部屋に引き払った今、彼女が書いたというものを何度も読んでいる。繰り返し読んでいるのは、とても気に入ったからだ。
これは、彼女が作った童話だ。
登場するのはある一国に住む一人の王子。彼は正当な後継者権利を持ち合わせていない第二王子であり、兄である第一王子やその母親である王妃にいつもいじめられていたが、第二王子が大きくなって彼専用の城が用意されてから、幸せに暮らすようになったというもの。
寓話めかしているが、王子の境遇は私が以前さゆりにこぼした愚痴そのままだった。母親や父親はいないの? と聞かれ、正直に打ち明けた話を彼女は覚えていたのだ。
「とても悲しいわ」
曇りのない瞳をうるませながら、私の話を聞き終えた彼女はそっと私の頭を撫でた。気の毒な子どもをなだめる大人のように。
あのとき私が感じた感情は何というものだったのだろうか?
五月二十日
昼間受けた学校の授業の内容はほとんど覚えていない。一晩中一睡もせずに明かした翌日の授業などまともに受けられるわけがない。数学の授業で、この関数の解を求めてみろと当てられた気がするが答えられず、堅物の教師にぶつくさ言われた。だが、そんなことどうでもいい。勉学の遅れならこれからいくらでも取り戻せる。
昨晩眠らなかったのは、童話を書いていたからだ。狂った王妃の手で城に閉じ込められた美しい姫君の童話を。
原稿用紙相手に、一晩中何度も文を書きつけては消し、書きつけては消しを繰り返した。ようやく完成した暁には朝日が昇っていた。
ほとんど身に入らなかった授業を終え、部屋の引き出しに隠していた童話を書斎で暇そうにしていたさゆりに渡す。
読み終わった彼女は、全てを察したようににやりと笑った。
私と彼女だけにしかできない高等なやり取りをしているようで愉快だった。
五月二十一日
夜中、風呂に連れて行こうと書斎に行くと、さゆりは布団の上で眠っていた。起こそうかと近寄って膝をついたが、すぐにそんな気は失せた。
掛け布団の上に身体を横たえ、あどけない寝顔を見せる彼女はこれ以上なく無防備だった。
窓から差す月の光に、彼女の白い肌が照らされ輝いていた。美しかった。
思わず小さな寝息が吐き出される小さな唇に接吻をしたくなったが、何とか思いとどめた。動かぬ姫君にそんなことをすれば、私は変質者の王子だ。そんなものになりたくはない。
長い睫毛のついた目が開く。輝く瞳が動き、微笑んだ。
「頬に何かついてるかしら、くすぐったいわ」
そう言われてはっとした。接吻はせずとも、頬をさすることだけはどうしても止められなかったのだ。
小さな声で謝りながら、すぐに手をひっこめようとしたができなかった。さゆりの細い腕が私のごつごつした手首を掴んだ。
「わたし、変なことをしてるわね」
やろうと思えばその手を振り解けたはずだ。しかし、しなかった。
布団に仰向けになったまま、彼女は私を見上げて笑っていた。私はどんな顔をしていたのだろうか。
お風呂に行かないと、とさゆりは言っていた気がする。しかし、聞き返そうと思ったころには、私の唇は熱く濡れた柔らかいもので塞がれていた。
全身がとにかく熱い。これを書いている今でも。
五月二十二日
学校から帰るなり、すぐ書斎に行った。何の問題もなく、さゆりは机の上で本を開いていたが私を見るなり立ち上がり、駆け寄ってきた。
「おかえりなさい。待ってたのよ」
抱きつかれ、しばらく彼女と抱擁していたが、彼女の首筋から漂う甘い匂いに酔いそうになり、そっと身体を離した。私の様子を見てくすくすと笑った。
悪い気分はしない。だが、何か一つ足りないのだ。何が足りないのだろう。
さゆりと上手く目を合わせられない。あのくりくりとした可愛い目で見つめられると何とも言えぬ気分になる。
五月二十三日
さゆりは美しい。長い髪も、日に焼けていない白い素肌も美しい。動かないときは、長く伸びた睫毛もよく見える。完璧な造形だ。
だが、本当に美しいのは寝姿だ。
小さく口を開け、小さな胸を動かしながら寝息を立てる姿だ。
何が彼女に必要なのか、ようやくわかった気がする。
五月二十四日
美しさを永遠に保たせるには、どんな方法があるだろうか。
全知全能の神になりたい。時を止めれば、私の悩みはすぐに解決だ。しかし、神でもそんなことはできるだろうか。時を思うように支配するのは、誰がやるにしてもご法度のことだったような気がする。
彼女を神にすればいいのか、それも美の女神・ヴィーナスに。神ならば死なないのだ、きっと。私は老いてしまっても構わない。彼女だけが美しければいい。
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