五月十六日~五月十八日
五月十六日
さゆりが我が家に隠れるようになった日から、食事を用意することは私の仕事になった。
「夜の勉強の夜食にするから」と言って牧田から夕食の残り物を少しもらったり、今日の昼食は「間食が欲しい」と訴え、握り飯と煮物や漬物をもらってきた。これを二日ほど続けているので、笹野からは、精が出ますねと感心されたが、真相を伝えたらどんな顔をするだろう。
私が持ってくる食べ物はいつも大したものではないが、さゆりはとても美味そうに食べる。満足には与えてやれないから常に腹が空いていることだろう。
さゆりはここに来るまで、切り干し大根を食べたことがなかったという。生まれ育った家では、今までに何を食べて生きてきたのか気になるところだ。
窓から外の景色を眺めながら、小さな口で白米をほおばるさゆりを横で眺めていると得も言われぬ感情が湧き出てくる。
私が少しでも食事を与えることを忘れれば、彼女は飢え、苦しみ悶えるかもしれないのだ。
彼女の命は私の掌の上にあり、干渉できるのは私だけ。異様だ。これ以上、異様な状況が他にあるだろうか? この生活をいつまで続ければいいのだろう。このままさゆりの存在を隠し続けるのはまず不可能だ。
夕食が終わり落ち着いた夜間、忍ぶように風呂に入れてやった。
シャツやズボンは私の小さくなって履けなくなったものを渡した。
下着は代用品になるものはないかと物置を探したところ、洋服ダンスの中に婦人ものの下着やら女もののブラウスやらスカートやらネグリジェやらが二、三着あったのでそれを拝借した。牧田が自分用に買っておいたものかもしれないがばれたらばれたで、その時考えればいいことだ。
今はさゆりがなるべく音を立てずに入浴(と洗濯)を終え、私の部屋から書斎に運んできた布団に彼女が入ったのを見届けてから、部屋に戻ってきたところである。経験したことのなかったことが矢のように過ぎて行った。
彼女が入浴を終わらせるのを浴室の扉の廊下で待っていたのだが、風呂から上がった彼女を一目見てどれだけ驚いたことか、とても書ききれるものではない。
淡い水色のネグリジェに身を包んださゆりは、熱と石鹸の香りを辺りに漂わせていた。
「この寝巻、とても可愛いわね。気に入ったわ」
さゆりははしゃいだ様子で笑うと、月明りしか差してこない暗い廊下で服を見せびらかすように、くるりと回ってみせた。
御伽噺の姫のドレスのように、ネグリジェの裾がふわりと私の目の前を舞った。
五月十七日
午後の時間、部屋で勉強をしていると笹野が妙な顔をしてやってきた。それまで外が騒がしかったが、近所の人間と話をしていたようだ。
「この周辺に宮内家っていう家があるでしょう? どうやら三日前から娘さんが行方不明になっているそうですね」
関数の計算をノートに書きつけながらそうか、それは大変だなと言った覚えがある。
「坊ちゃん、何か知りませんか?」
机から視線を動かさない私に、笹野は食い下がった。私が何かを知っているのではないか、とでも言いたげに。
「本当に何も知らないですか? 学校の行き帰りに黒髪の女の子を見かけたりはなかったですか?」
「まるで僕がそのことに関わってるみたいな口ぶりだな」
笹野が青い顔になって口をつぐむ。少し言い過ぎただろうか。
「しかし、この辺の話ですし。意外と世間は狭いもんですから」
「そうだとしてもないよ。一人で勉強したいから、この話は終わりでいいかい」
そう言ってすぐ、筆記用具やノートを携えて部屋から出てしまったが怪しまれただろうか。勉強をする気になどはとてもなれなかった。なれるわけがない。
部屋を出て一瞬振り返ったときの、私の部屋の中であっけにとられている笹野の顔が夜になった今でも鮮明に思い出せる。怪しまれただろうか。だとしても、牧田も笹野も何も言わない。書斎に誰がいるかなんてきっと気づいてなどいないだろう。
さゆりはいつでも元気で明るいが、夜は特に活発的な気がする。愛くるしさも増しているような気がする。
五月十八日
学校からの帰路で、様子のおかしい女を見た。力なく両手と長く伸びた髪をだらりと垂らし、背中をぐにゃりと曲げたまま私の目の前を通り過ぎて行った。
長く伸びた髪に隠されて、どんな顔をしているのかは見えなかった。
女は質の良さそうな白いブラウスに青いスカートという出で立ちだったが、着ているものはどれも薄茶色く汚れていた。前日からずっと身に着けたままだったとしても、そこまで汚れないだろう。いくら汚い場所だろうとも、ところ構わず通り、洗濯もしていない。そんな汚れ方に見えた。
一番おかしかったのは、目だ。近くを通りすがるときにわかったが、ぞっとした。
げっそりと落ちくぼんだ顔は正面を向いているが、何を見ていたのかわからない。ああいうのを「据わった目」と言うのだろう。
すれ違うとき、女がか細い声で何度も呟いているのが偶然聞こえた。
「さゆり、さゆり」
呪文のように、何度も何度も繰り返していた。
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