五月十四日~五月十五日
五月十四日
昨日から私の城には、新たな住人が暮らし始めている。
麗しい姫は元いた城には戻りたくないと言ったから。
美しい庭のあるこの家にずっといたいと言ったから。
だけど僕の家にも君をおいておく場所なんかないよ、ともちろん言った。さゆりは悲しそうな顔をした。
「お願い、どこでもいいの」
今にも泣きだしそうな瞳で懇願されて、大いに戸惑った。
「それに、使用人にばれたら大変なことになる」
「だったら、静かにしているわ。私、得意だから」
「だけど、帰る家があるんだろう?」
「家」と言った途端、さゆりの顔からはさっと血の気が引き、おおげさなくらいぶるりと大きく身体が震えた。
「嫌よ、私あの家には帰りたくないの。あんなところ、家じゃないわ」
何か嫌なことを思い出したのか、さゆりはいやいやをするように首を何度も横に振りながら、しゃがみこんでしまった。そのまま、しくしくと膝に顔をうずめて泣き出したさゆりを見ていると、どうにもいたたまれない気持ちになった。自分の家で何をされたか知らないが、よっぽどのことがあったのだろう。
だが、この家には、もう空いている部屋はない。
物置は狭いし、笹野も牧田もよく出入りする。
可哀そうだが、私の部屋に入れるのもどうかと思う。そもそも自分の部屋に私は他人など入れたくない。
「書斎ぐらいしかないな」
「しょさい?」
初めて聞いた言葉だったのか、彼女は長い髪をゆらりと揺らしながら首を傾げた。なぜかその仕草を見て複雑な気持ちになった。
「本がたくさんある部屋のことだ。奥の空いたところに布団とかを持ってくれば、なんとかなる、かもしれない」
渋々出した提案に、さゆりは瞳を輝かせた。
「それでいいわ。私、あなたの家の書斎でいない振りをしているから。そこにいさせて」
今現在、この家の書斎は私しか入れない。さゆりを匿っているからだ。
これからしばらく一人で静かに読書がしたいから、入らないでほしいとあの二人には言ってあるうえに、用がないときは鍵をかけることを忘れない。
食事は食事の残り物か何か持っていけばいい。
風呂は人が見ていないときを見計らって入れればいい。
寝床は、物置にある来客用の布団を持ってくるなどして何とかしよう。どうせ、この家に泊まりにくる人間はほとんどいないんだから、宝の持ち腐れにならなくて済む。
彼女の存在が誰にもわからないように、私にできることはそれだけだ。
五月十五日
なぜ、自分の家に帰りたくないのか、とさゆりに聞いてみた。
「君の家」と私が言っただけで、また彼女は文字通り震えあがった。だが、慣れてきたのか、ぽつりぽつりと話してくれた。
「お母さまが恐ろしい人だから嫌なの。死んでもあんな人がいるところ戻りたくなんかないわ」
私とさゆりしかいない書斎の片隅で、小さく抑えられた声だったが「絶対に帰りたくない」という強固な意思が感じられた。
「君のお母さんは、ひどいことをするの? シンデレラの継母みたいに?」
さゆりは一瞬ぽかんとしたが、僕の冗談の意味にようやく気づいたのかおかしそうに笑った。
「ちょっと、違うんじゃないかしら。シンデレラをいじめる継母はただこき使う人でしょ。そういう人も怖いけど、私のお母さまの恐ろしいところは違うの。私を部屋に閉じ込めるの」
半ば信じられない話だが、世間にはそんな母親もいるのか、と私はショックを受けた。
そして、こうも気づいてしまった。
「閉じ込めるっていうんなら、今だって変わらないんじゃないのかい」
私だって、古い書斎に姫君をこうして閉じ込めている。
彼女は、全然違うわと首を振った。
「ここには窓からお日様の光がちゃんと入ってくるもの。退屈になっても本が読めるわ」
「本当の家ではそうじゃなかったんだ」
床を見つめながら、さゆりが頷く。
「本も窓も何もないの。あるのは、蝋燭のあかり一つだけ。怖くて、出してと戸口を叩いて叫んでも、誰も出してはくれなかった」
お母さまに怒られるから。
どうしてそんなことを、とは聞けなかった。
「じゃあ、君のお母さんは、ラプンツェルを育てた魔女だ」
魔女は、男と妻が盗んだ魔女の庭のかぶと引き換えに、夫妻の間に生まれた子どもであるラプンツェルを預かり、育てる。
そして、彼女は魔女に幽閉される。
ラプンツェルの髪が、魔女の高い住まいを上り下りするための綱にできるほどの長さになるまで。
そう、ラプンツェルね、とさゆりも納得する。
「私も、七歳の頃から髪を切ってないもの。もっと伸ばしたら、ラプンツェルと同じことができるかしら? でも、髪を掴んで登るって、下から強く引っ張られるってことでしょう? 痛いかもしれないわね」
彼女がそう笑いながら指で弄ぶ黒くつやつやとした髪は、腰まで長く伸ばされている。
さゆりが座り込むと、黒い髪が華奢な身体を包み込むように垂れ、書斎の床を毛先が這う。
美しいと思う。
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