五月十一日~五月十三日

五月十一日

 学校から帰ってきたら笹野に、ご気分でも悪いんですかと聞かれた。

「いつも青白い顔をなさってますが、今日はいつも以上に悪く見えますよ」

 別にどこも悪くはない、と言ってさっさと書斎へ引き上げた。

 どうも私は表情に出やすい性質のようだ。気をつけねば。

 シャルル・ペローの童話集を開くが、文を追っていても目が滑るだけで何も頭に入ってこないので、一頁も読めずとうとう閉じてしまった。

 書斎を出たときに、急いでいる牧田とぶつかった。何かそこそこ大きいものを大事そうに抱えていたから、それは何かと聞いてみるといつかのように真っ赤になって俯いてしまった。

「……これは、その、はくせいです」

「はくせい?」

「簡単に言ってしまえば、薬品で処理をした動物の、死体です」

 観念したような顔で牧田が見せたのは、ぴくりとも動かない猫だった。牧田の両腕の中で、尾を下に向け、四つ足で直立したまま明後日の方を向いている猫。

「訳あって殺処分直前だったのを哲司さんが引き取って、剥製にしたんです」

 哲司さんというのは、笹野の下の名前だ。

「笹野が?」

「そ、そうです。元々、研究のために作ることが多かった方なので。今は、私のために作ってくれてるみたいなものなんですけど」

 宝石のついた指輪ではないが、笹野なりの恋人へのプレゼントというわけなのだろう。

「……私の部屋にもっとありますよ。ご覧に、なりますか」

 消極的な牧田から誘いを受けるのはこれからはもうない気がしたので、断らなかった。

 牧田の、いや、女性が普段使っている部屋に入るのは今日が初めてだ。私の殺風景で乱雑な部屋とは違って、整えられている。

 その中に、異質というわけではないが一風変わったものが、動物の剥製だ。手の中に収まりそうな鼠、メジロ、リスなど。壁際の小さな棚に飾ってあった。

 餌を探すように両手を揃えた姿勢で止まったままの鼠、翼を広げ今にも飛び立ちそうなメジロ。動く瞬間、時を止めたような状態だ。

「さっきの猫以外は、哲司さんが研究員時代に作ったものなんです。よくできてるでしょう」

 哲司さんはとても器用なんですよ、と自分のことのように笹野を誇る牧田の声に、ああ、と生返事をすることしかできなかった。

 圧倒されていた。どの動物も毛や羽の質感が美しかったからだ。

「作るのとても大変なんですよ。恐ろしいぐらい手間も時間もかかるんです」

 剥製の埃をハンカチーフで払いながら、牧田は語った。

「動物が死んでから時間が経過した後ではもう作れないんです、腐ってしまいますから。作る際にはまず、口の中、お尻とかの汚物を綺麗にしたりするのが必要です。中から出てきたりした排泄物などで毛を汚したりしてはいけませんから。それから身体を切り開いて、脂肪をとったり眼球の処理もします。あとは立てるように芯を作ったり……」

 うんうん、と頷いてはいたがそれから先はよく覚えていない。用語など私には難しいものだった上に、解剖の話で少し胸が悪くなったからだ。

 牧田は私の様子には気づかず、剥製の作り方がいかに大変かをとくとくと説いたあとに、突如あっと言って顔を真っ赤にした。

「……申し訳ございません。話しすぎたようです」

 後はもういつものおとなしい牧田に戻ってしまった。大丈夫、ありがとうと礼を言って牧田の部屋を出た。

 しかし、牧田が抱えていたあの猫には何かがひっかかる。


五月十二日

 思った通りだった。

 一週間ぐらい前、窓の外から見た猫だった。牧田が剥製として抱えていたのは。

 休憩中の牧田にそれとなく聞いてみた。昨日の剥製の猫は近所に住んでいる三毛に似ているな、と。私が部屋の窓から見た猫も薄茶色と茶色と白の三毛猫だった。

 牧田は顔を真っ青にして、すぐに白状した。殺処分予定だったのを引き取ったというのは大嘘だったのだ。

「……そうです。あの猫は、お隣のお家で飼われていた猫でした。昼間外を歩いていたのを誰も見ていない隙に捕まえたんです」

 牧田さんがやったのか、と聞くと、はい、と小さい声で頷いた。

「そのあとは酒を飲ませて、殺しました」

 牧田のこの行動で、主人公の猫がビールに酔って溺死して終わる漱石の『吾輩は猫である』を思い出したが、酒だけでも猫は死ねるのかと感心した。身体の小さな猫にアルコールは猛毒だろう。 

 話が逸れた。

 どうしてそんなことをしたのかと問うと、彼女は荒い息をしながらしばらく俯いて考えていた。

「私が欲しかったからです、あの猫を。それで、出来心で捕まえてしまったんです。いけないことをしたのはよくわかっています。ただ、私が勝手に考えて哲司さんにお願いしただけなのであの人は何も悪くありません。あの人のことは」

「待ってくれ、佳弥子ちゃん」

 二階からバタバタと大きい身体が近づいてくる音が聞こえてきた。笹野だ。佳弥子ちゃん、というのは牧田のことらしい。それまで下の名前など知りもしなかった。

「すみませんね、坊ちゃん。二階の階段で途中までお話聞かせてもらってたんですが、彼女は嘘をついてます」

「そんな、嘘なんか」

 首を振る牧田に笹野は、憂うような目を向ける。

「いいよ、俺のために嘘なんかつかないでくれ。坊ちゃん、猫が欲しいって言ったのは俺の方です。俺がここに来てからずっと隣の猫のこと、いいなぁとか、猫の剥製は作ったことなかったなあ、とか彼女の前で何度も独り言言ってたんです。だから、結果的に俺が佳弥子ちゃんのことを唆したってことなんですよ。わかります?」

 涙を浮かべながら、牧田が反論する。私と笹野両方に対して。

「それは違うでしょう、哲司さん。あなたは、盗んできてとまでは言いませんでした。一線を勝手に超えたのは私の方です。責任は私にあります」

 もういい、わかったからと私が遮って二人はようやく黙った。この二人は互いをかばいあおうとしている。

 私が知りたかったのは、剥製にされた三毛は隣の猫だったんじゃないかということだけだったのだ。

 夕食を終えた後、笹野が私に耳打ちしてきた。

「……今後、どうなさるおつもりですか」

 あんな風に聞いたのは、脅しだったのだろうか。内心不安に思わないわけはないだろう。私が警察や隣の飼い主に伝えるとでも言ったら彼はどうしたのだろう。

 別に何もしないと答えたときの、笹野の顔は一生忘れまい。驚いていいのか、喜んでいいのかというような顔をしていた。

 それから、感謝しますとだけ言って仕事に戻っていった。

 私にはどうでもいいのだ、隣の飼い猫がどこでどうなろうが。

 もし、隣が猫を探しに聞きまわりに来たとしても「何も知らない」と言い通すつもりだ。

 しかし、普段あれだけおとなしい牧田が、好きな男のために飼い猫をさらってくるとは。あれが恋の力というものなんだろうか。昨日の剥製の作り方を語る饒舌ぶりと言い、本性を普段は隠しきって生活しているのだろう。

 人間は面白い。


五月十三日

 彼女はどこからやってきたのだろうか。

 どうやって入ってきたかはわかっている。庭についた裏口からだ。

 いつもは用がなければ、施錠されるが、今日は笹野か牧野がうっかりしたのだろう。だから、そこから入ってきた。

 書斎で本を読み、気分転換にでもと庭に出ると彼女はいた。

 黒く美しい髪を、日の光でそれはそれは美しく輝かせながら。

 彼女は、笹野が前に教えてくれた花の花弁を前にしゃがみこみ、物珍しそうにつついていた。

 彼女の姿を初めて見たときの自分の感情は今でもよく理解できていない。

 レースがついた上等そうな半袖のワンピースに身を包んだ姫君が私を見上げる。

 そして、目を見開く。

「ごめんなさい、この家、誰も住んでいないのかと思ったの」

 立ち上がり、弁解の言葉を告げた彼女の声は、心地よいハープの音色のようだった。

 驚いて声も出せない私に構わず、名も知らない少女は庭全体を嬉しそうに眺めていた。

 唇の左下には、小さなほくろがあるのが見えた。

「このお庭、素敵ね。ヨーロッパのお城の庭園みたい」

 お城の庭園。

 ああ、わかった。

 彼女は、どこかの国から逃げ出してきた愛らしいお姫様だ。

「君は、誰」

 白雪姫? オーロラ姫? マレーン姫? 千匹皮?

 少女は恥ずかしそうに微笑う。

 血塗られたように真っ赤な唇が動く。

 さゆり。

 確かにそう言った。

 そうか、さゆり姫か。

 それが、私とさゆりの出会いである。

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