五月七日~五月八日
五月七日
書斎自体が恐ろしいところに思えてしょうがない。
一階の本が置かれた空間や本たちには何の罪もないということは理解しているつもりなのだが、一歩でも入ったら昨日の恐ろしい記憶が蘇ってしまいそうなのだ。あの地下室は、相当に私の精神を打ちのめしたのである。
なので、書斎の扉の前を五分ほど睨んでいただけで私は入ることができなかった。
そのとき何となく裏庭の扉のドアノブを回したところ、鍵が開いていた。思えば今まで、この庭を一人で見に行こうと思ったことはなかった。踏み入ったのは、この家に初めて来たとき、父と家の見回りをしたとき以来か。庭といっても西洋のガーデンのような、金と時間をかけて整えられたものと比べるといくらかは劣るだろう。
だが、辺りを柵で囲まれ、道端では見ることのない花が生えているところを見ると「庭」といっても差支えないのではないかと思う。
本家の邸宅は、満氏の建てた家よりも大きかったが庭はなかったので、この光景はとても新鮮なものだ。
「おや、こんなところにいらっしゃるとは珍しい」
石でできた通り道を踏みながら、花の世話をしていたらしい笹野に会った。相変わらず、口元には薄笑いが浮かんでいる。
「いつもここで花の世話をしているのか」
「ええ、あの子にやっていただくのも申し訳ないのでね。それに、草花をいじるのはわりかし嫌いじゃないので」
「もしや、ここに来た時からずっと?」
この家に来てからすでに一週間以上経つが、庭のことなど気にもしていなかった。
「そうですよ。ここに来た当初は満さんが亡くなってから世話がされていなかったからか、枯れていたのもありましたがね。二三日水をやったら、ずいぶんと元に戻ってきた。大したものです」
せっかくだから坊ちゃんも見てあげてください、と誇らしげに告げる笹野。非常に楽しそうに見えた。
今日も笹野は汚れのない白いシャツに、黒いズボンにズボン吊りという出で立ちである。いつもこの使用人はそういう恰好だ。
白いシャツを来て土いじりなどしたら汚してしまわないんだろうか、と余分な心配をしていると、名前もわからない赤い花に水をやりながら笹野はふっと笑った。
「白いものというのはいずれ汚れてしまってもしょうがないものなんですよ。だから構わないんです」
この男に向けていた視線だけでこちらの考えがすっかり伝わってしまっていたらしい。羞恥で顔が熱くならざるを得なかった。
しかしこの庭はすごいですねえ、と笹野の感心したような低い声が響いた。
「雑草だらけかと思ったら意外にもそんなことはないんですよ、種類は少ないんですが」
「そうなのか」
「ええ、例えばこれとか」
そう笹野が指さしたのは、赤く大きな花だった。
「アマリリスですよ。園芸用に改良されたやつです」
聞いたことがある。童謡の題名にもなっている花ではなかったか。
「あと、これがアネモネ。そっちのまだ咲いてないのが、マリーゴールドですね。秋の花だから、これからが楽しみだ」
「詳しいんだな」
この男が楽しそうに花について喋っているのは聞いたことがない。
笹野は照れくさそうに笑った。
「この家の書斎の本に書いてあったんですよ。坊ちゃんが学校に行ってるときにたまに寄ってるんで」
あ、休みの時間だけですよと慌てて付け加える笹野。
この男もあの部屋に立ち入っているのか。
「その、書斎のことなんだが」
「どうかしました?」
庭の端の花まで水をやりにいっていた、笹野が振り返る。
「あの部屋で何か気づいたことはなかったか?」
「気づいたこと、ですか。例えば、どんなことでしょう」
壁の隠し扉の仕掛けに気づいたか、と言えるわけはなかった。
「他の部屋とおかしいところ、とか。そういうのはないか」
そうですねえ、とじょうろを持っていない手で、ひげの薄いあごを触りながら笹野は真剣な顔をする。
「あいにく鈍感な人間なもんですからねぇ、特別気づいたことは何もありません。お役に立てず申し訳ないですが」
笹野の様子は何かを隠しているようなものには見えなかった。
しかし、何かを思い出したのか、あ、と固まる。
どうかしたか、と聞くと、これって言っちゃあいけないことかもしれないんでと口をにごした。どうも歯切れが悪い。良いから聞かせてくれと急かすと、笹野は強張った顔で笑った。
「……満氏の幽霊とでも出くわしましたか」
笹野も義兄と同じことを言ったのが少しだけ気に食わなかった。
「僕も繊細な方じゃないから、別にそういうものは見ていない」
「そうですか。なら、それ以外に思い当たるものはないと思いますよ。何か気になることでも?」
心配そうな視線が刺さるように私に向けられる。
「……いや、大丈夫。気にしないでくれ」
そうですか、と笹野は明るい顔になる。
「でも、何かあったら言ってくださいね。俺とあの子だけですけど、何かしらのお役には立てるでしょうから」
それだけ言い残すと、笹野はじょうろを持ってすたすたと水場に戻っていった。ズボン吊りをつけた大きな背中は、頼りがいのある大人の肉体に見えた。
この親切な男にとってはさほど大きな意味などない言葉だっただろうが、隠し事をしている私には深く、強く刺さった。
私も自分の部屋へ戻り、このことをノートに書留めながら頭を整理している。
あの地下室のことを笹野や牧田に教えたらどんな反応をするだろうか。
きっと、地下室に降りることだろう。そして、あの薬の瓶たちとノートを本家に伝えるに違いない。そうなれば、あの部屋は立ち入り禁止やら取り壊しやらの処置がとられることになる。
そうすべきなのだろう。事実、昨日それらを発見した私は心底慄いたから、大して困ることにはならない。
しかし、書斎の地下室への対応が入るということは、外部の人間の手が入ることを意味する。私の静かな安寧の妨害と同じことだ。それは避けたい。
あの部屋をどうするかで私は迷い始めている。
いや、正しく言い換えよう。あの部屋に興味を持ち始めている。恐ろしくもあるが、同時に魅力的。おかしなものだ。
だが、明日だ。あの地下室にもう一回潜るとしても今日ではなく。
五月八日
私がこの家に住むようになってから早いもので一週間が経つ。
たかが一週間、されど一週間だ。
たったの七日間の間でたくさんのことが起こりすぎた。現時点で私の精神は破裂寸前である。
昨日の私の日記を読み返して、また地下に戻ろうかと逡巡した。
そして、十分ほど前にそれを遂行した。
再び戻った地下室は、何も変わっていなかった。私ぐらいしか立ち入る人間はいないだろうし、当然だ。
自分でも不思議なことに、入ってみるとそれほどの嫌悪感にはとらわれなかった。昨日までの恐怖が嘘のようだ。
滞在していたのはどれぐらいだっただろうか。せいぜい五分ほどだったように思う。
そして、私の目的である、あのノートを無事持ってくることができた。それらは今、私の目の前、机の上の本と同じように立てかけてある。
中身は、全てではないがざっと読んでみた。前にも言った通り、これは満氏の「研究ノート」である。
ただ、普通の研究ノートと違うのは、書かれている内容が一般に知られでもしたら猟奇犯罪計画だと疑われてもおかしくないものだというものだ。
満氏が持っていた資料の文などを引用したものに、彼の意見や考えを付け足したものだ。
テーマは「美しい死体」について。本文にはっきりとそう書いてあったわけではないが、中身を大体理解した後の私の心に浮かんできた言葉だ。
以下に概要をざっとまとめておく。
『生物を永遠に腐らせないために必要不可欠なのは、防腐剤である』
『古代エジプトでは、死者の内臓と脳味噌など水分を体外へ取り出した後、植物性の油脂や樹脂を用いて防腐処理を施した。これらの処理を施した遺骸は『木乃伊』と呼ばれている』
『現代では植物性の成分に代替するものとして、化学薬品が用いられる。イタリアの共同墓地では、薬品を用いて木乃伊とした遺骸が多数埋葬されているという。実に興味深い話だ』
『ここで私はある論考を示したい。薬品処理により腐敗が食い止められ、生前とほぼ変わらない形をとどめた死体。平たく言ってしまえば、人間の剥製である。言ってしまえば、条件が揃えば、人間の剥製が今でも作れてしまうということだ』
『主に防腐の効果があるとされる薬品。エタノール、ホルムアルデヒドの水溶液であるホルマリン、塩化亜鉛など』
『動物の剥製などは瓶に入れて作るものが主流だが、同じ薬品を人間の遺骸内に注入すれば、内側から腐敗を食い止められ、容器を使わずとも剥製を作ることが可能なのではないだろうか』
『機会があれば大いに試してみたいものである』
『……(中略)こうは考えられないだろうか。白雪姫は死体である。それも、美しい死体だ。物語の結末では生き返る。しかし、それまでは死体だ。まるで生きているかのような、安らかな眠りについているだけのような死体だ』
『そして姫に接吻する王子は死体愛好症である。御伽噺にとやかく言うのも野暮なことかもしれないが、いくら美しいからと言って動かない人間に接吻は尋常ではしまい。現実の世界でそんなことをやってしまえば、異常者として非難されて当然だ。だが、彼の登場によりあろうことか物語は幸せな結末を迎えるのである。実に奇妙な物語だと思う。白雪姫は世にもおぞましい『死体へ求愛する』物語なのだ。現代のエログロナンセンス小説も顔負けの筋書である』
『人には決して言えないが、書き記しておきたい。これぞ究極の『禁忌の美』! 『背徳の美』!』
以上が、満氏の残したノートの中身である。
おぞましい、あまりにもおぞましい。
私も以前、白雪姫の王子は尋常ではないという考察に至り、この日記の何頁か前に似たようなことを書いた覚えがある。
同じようなことを叔父も考えていたようだ。しかも、何やら怪しげなたくらみにも発展しかけるように書いてはいなかったか。
このノートに書かれた薬品は、地下室にあった瓶のレッテルと一致する。満氏が、情報を知った上で集めたものだろう。彼がどこで手に入れたのかは推測しかできないが、私の父の会社は化学薬品を多く取り扱う。その弟である叔父は何らかの手段を使って、手に入れたのかもしれない。正当な方法ではなくとも、不可能ではないはずだ。
もし、満氏が不慮の死を迎えていなければ、彼は更に計画を練り、恐ろしい犯罪に手を染めようとしていたのだろうか。背筋を悪寒が走る。
今まで私は、満氏の人柄への理解に関しては、私以外の親族が間違っていると思っていた。悪い人間ではないと思っていた。
しかし、もう私の考えは変わっている。
満氏は、性癖異常者だ。兄である父などとは違うだけでは済まされないことだ。
あの二冊のノートは、正常な感性と感覚では書けまい。あのノートが叔父の、私に楽しそうにミステリの話をしていたときには見せなかった本性を暴いたのだ。
彼は、狂っていたのだ。しかし、その狂気を誰にも見つけさせないよう、見事に隠しきったまま彼は鬼籍に入った。
(ページ右半分に大きく書きなぐった字。判読不能)
一旦、落ち着いて考えねばならない。
満氏がノートにおかしな記述をしていたとしても、それ自体は犯罪ではない。どれだけ異常なことでも、紙面に書きつけるぐらいは何ら問題ではない。
あの棚にあった薬品。寝台。
あれはどう説明をつけたものだろう。
やはり、彼は美しい死体を作る計画を立てていたのだろうか。
どこからか美少女の誘拐か死体の持ち帰りを考えていたのだろうか。
わからない。
他人の考えていたことなど、いくら私が考えたところでわかるわけがない。親戚といえど、叔父は所詮他人だ。
ましてや、相手はもうこの世にいない。もう東雲満が自分の脳内を詳細に語る機会はない。
こういう時にふさわしい言葉がある。
「死人にくちなし」だ。
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