五月五日~五月六日

五月五日

 満氏の書斎は本当に素晴らしい。近頃はそこに入り浸ってばかりいる。あの部屋に憑りつかれてでもいるんじゃないかと自分でも心配になるほどだ。

 私を夢中にさせているのはもちろんグリム童話の本たちだ。文自体は日本語に訳されているが、物語はグリム兄弟が採話したものと変わらない。だから、一般的に知られているものよりグロテスクだ。当時は子供向けの話でも、平気で残酷な描写をしたのだ。

 例えば「白雪姫」。あの物語で一番狂っているのは、年端もいかない少女の美貌に妬む女王でもなく、王子ではないかと思う。

 棺に入れられた白雪姫の近くを偶然通りかかった王子は、棺の中身を一目見て「私におくれ」という。

 わからない。意味がわからないのではなく、なぜそんなことを思うのかがわからないのだ。

 動かなくなった姫を欲しがる王子など、異常でしかない。棺桶に入れられた少女などただの死体だろうに。よくあんな話を童話にできたものだ。

 しかし、死体に熱情を抱く性的嗜好も世の中にはあると聞いたことがある。あの王子はきっとそれに類する男だったのだろう。おぞましい。

 少々可笑しな話になった、この話題はここまでにしておこう。後から読み返して、過去の私は何を考えていたんだと気恥ずかしくなりそうなことだから。

 それよりも忘れてはいけないことがあった。書斎に行って一つ疑念に思ったことを記録しておく。

 入って、一番左奥の壁。貴彦が「薄気味の悪い本」と評したミステリや童話などの文学が並ぶ本棚がある。

 その隣にあるのが化学や理科系統の本が集まった棚だ。配置が妙だと思う。本が詰まっているのは中央から下の部分だけだ。上から詰めてもいいと思うのだが、何か意図があったのだろうか。上に置いたら取り出しづらいのは確かだが、足場になる台や梯子などを用意すればいいのだ。

 これも妙だと思ったが、それ以上に妙なことがある。

 さっき「ミステリが並ぶ本棚の隣に、化学の本棚がある」と書いたが、それは正確ではない。

 正しくは「本棚一台分の空白を開けた隣」だ。

 二つ続けて並べればいいのに、真ん中に何もない空白があるのだ。詰めればもう一つ分、本棚が置けそうなものを。

 向かって右の壁の本棚には三つ分(歴史、地理、美術だった)の本棚があるから違和感は猶更のことだ。

 あまり置きすぎると床が抜けてしまうと氏は危惧したのだろうか。それにしても、真ん中だけ空けるというのも不思議な気がする。

 気になるから、書斎の空間に並んだ他の本棚をそこに移動させても良いような気がするが、大がかりなので私一人でできることではない。

 今度、暇なときにでも笹野に頼んで手伝ってもらおうかとも考えているが、どうすべきか。

 不自由するわけでもないから、もう少しゆっくり考えてみようと思う。


五月六日

 あまりにも衝撃が大きすぎて何から書けばいいのかわからない。私は何を見たんだろうか。

 書斎から部屋に急いで駆け付け、上がった息を整えながら書いている。手が震えているからいつもより字が歪んでいる。

 だが、それ以上におぞましいものを見たという恐怖と気味の悪さに襲われている。

 話を順から書いていこう。

 今日は学校から帰っていつものように、満氏の書斎に向かった。

 入口から向かって左手の本棚、昨日、何もない空白を挟んで二つの本棚があるのがおかしいと言っていた箇所だ。

 昨日読みかけていた童話集を取り出し、ふとある考えを思いついた。

 そして、この本棚だけ本が少ないのは、本棚を動かせるように軽くしておきたかったのではないだろうか。

 あることを試そうと思った。

 右端の本棚を真ん中の空いた空間に向かって押してみた。本棚はあっさりと動いた。

 中央の空間まで動かし、文学の本棚の隣に寄せると、想定したものを発見した。

 何もなかった茶色い木材の壁から数十センチ、理科系統の本棚が隠していた壁。

 横幅一メートル、縦幅二メートル。ドア一つを切り取ろうとしたような切れ込みが入っていた。

 押してみると、扉の片側は壁の向こうに向かってくるりと回転した。隠し扉だ。建築家だった満氏なら、このような細工を入れることも容易だったはず。

 今度はちゃんと戸を押した。

 暗闇が見えた。微かな埃の匂いも鼻孔をくすぐった。

 眼前には下へと伸びている階段を見てすぐ、私は窓際の洋机へと急いだ。

 洋机の引き出しの一段目に入っているマッチ、そして夜でも作業ができるように机上に置いてある、携行できるランタンを持って壁際へと戻った。

 マッチを擦り、ランタンに灯を灯すと、私は壁の中の階段へ一段足をかけた。壁を回転させて何事もなかったように見せることを忘れずに。

 この空間の存在が知られているなら、事前に父などが騒ぎにしたはずだ。だが、誰もそんなことをおくびにも出す人間は我が家にいなかった(知っていて隠していたものがいるかもしれないが、隠す意味はないようにも思う)。

 四メートルほど下まで降りていくと、新たな扉が見えた。

 装飾のついた書斎の扉と比べると無機質な扉。隠し扉の奥の更なる扉。まるでロシアの民芸品、マトリョーシカみたいじゃないかと思った。中が空洞になった大きな人形の中に、同じ構造の小さな人形が入っているような。

 当然ドアには鍵がかかっていたが、鍵のついた金属製のリングがノブにかかっている。外して鍵穴に差し込んでみるとすんなり解錠した。

 広い部屋だった。灯のない空間にランタンをかざしてみると、丸い光がぼんやりと暗闇に浮かぶ。

 灯をかざしつつ、部屋を探ってみる。地下室は暑いというイメージがあるが、ある程度の広さがあるからか、涼しく感じられた。

 この空間は何と言うのだろう。一言で言えば、そう、実験室だろうか。

 学校の実験室を想像してみる。

 広い空間の中央には大きな机が三台。端の壁には薬品や実験器具などを置いておく棚があると思う。まさにこの部屋にはそれがあった。左の壁だ。ガラス張りの戸がつけられたもので、戸の中には太い瓶のような容器がいくつか入っているように見えた。

 近寄って覗いてみる。

 棚は、中央に挟まれたスチール製の仕切りで上下左右四つに別れている。

 左側には、今私が書いているのと同じぐらいの大きさのノートが一冊入っていた。

 ぱらぱらとめくってみると、満氏と思われる字で書かれた何かの資料の写しと思われる文、資料の切り抜きなどが貼ってある。叔父なりの研究資料ノートということだろうか。

 ページを捲っていると「剥製」「死と童話」「木乃伊」という言葉が登場した。昨日考えていたことが見透かされているように感じた。

 ノートを元に戻し、仕切りを挟んで右隣にあったのは青いゴム製のコルクで蓋をされた三本の瓶だ。中に液体が入っているのが見えた。

 戸を開けて容器の中身を確認しても、誰も咎めない。そう思った矢先、私はランタンを床に置き、さっそく戸の中を改めた。

 親切なことに、取り出した容器にはどれも中身を示した白い紙のレッテルが貼られていた。

 満氏が書いたものらしいレッテルには、少し癖のある太字でそれぞれ「エタノール」「ホルマリン」「塩化亜鉛」とあった。「エタノール」とあった容器の蓋を軽く開け、手で仰いで嗅いでみると、確かな刺激臭。換気されているかわからない空間でこれを嗅ぎ続けるのは危険だと思い、すぐさま蓋を閉めた。離れた先の何もないと思った壁の足元に、通気口らしき管がついていた。少し経てばこの匂いもここから出ていくだろうか。

 なんのためにこんなものを叔父は所持していたのだろう。そう、この部屋も、部屋にあるものも叔父のものだ。ここは叔父が自らのために考え、立てた家なのだから。私の父も母も兄もこんなものを必要とはしないはず。

 振り返って先、棚の向かいには寝台があった。私よりもう少し大きい人間でも横たわれそうな寝台。掛け布団も敷布団も敷かれていない、真っ白な寝台。もしや、まだ誰もこの上で眠ったことはないのではないだろうか。何のために、誰のためにここに置かれたのだろう。

 そこまで考えてとうとう気分が悪くなってきた。貧血を起こしたかのように、手足に力が入らず、頭がふらふらした。

 地下室を離れようとゆっくりと階段まで戻った。ずっとここにいたらただでは済まないような気がする。

 一階の元いた書斎に戻ったとき、どれだけ安心したことか。窓を開け、深呼吸して新鮮な午後の外の世界の空気を自分の身体にとりこんでようやく、身も心も浄化された気分になり、気分も良くなった。

 その後、洋机に書斎の鍵が置いてあるのを見て、はっとした。

 この部屋に立ち入るときは、必ず施錠してはいるのだが、私が秘匿された地下室にいたことが笹野や牧田に知られていないか全く気にも止めていなかった。

 が、書斎の入口のドアの鍵はちゃんと内側からかかっていた。鍵穴から中を覗くこともできるから、用心するに越したことはないのだが。あの二人を中に入れることは今後ないとは思うが、これから先もあの地下室の存在は私だけが知っているものであるべきだろう。

 その後、洋机でグリム童話集の続きを読もうと開いた。

 偶然か否か、読みかけだったのが「こわいことを知りたくて旅に出た男の話」だったのだ。

 物語の終盤、怖いものを知らない男との力比べに負けた化け物が、城の地下室から金貨を男に渡して消えるという場面に差し掛かったとき、本を閉じてしまった。

 ここでも、地下室である。またあの光景が思い出されてそれ以上は集中できそうになく、日記を書きにこの部屋に戻ってきたところである。

 童話の中の男は地下室から宝を得るが、私が得たものは何だ? 後悔と嫌悪だ。

 書く、という行為は嫌なものも含めて吐き出すことに変わりないからか、精神が疲弊している今でもできる。

 とにかく今はあの地下室のことを記憶からすっかりなくしてしまいたい。

 おそらく私は、あの本棚を好奇心で動かすべきではなかった。

「好奇心は猫をも殺す」というのだから。

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