五月四日

五月四日

 災難。義母と義兄が私の様子を見に来た。義母の名は柚子と言う。正直に言って私はこの女性が苦手だ。

 牧田が怯えるように身体を縮こませながら、奥様と貴彦坊ちゃまがいらっしゃっています、と私に伝えに来た。今日来た客人は二人とも横柄な人間で、気の弱そうな牧田が怯えるのも無理はない。

 居間に入ると、義母は牧田に淹れさせたのであろう紅茶を嗜んでいた。

 早くお帰りください、と口を滑らせてしまいそうになるのを必死にこらえながら丁寧に挨拶をした。

「うまくやっているようね。顔色が良くてほっとしたわ」

 私に気を遣うような言葉をかけたが、内心はどう思っているかわからないし、相変わらず尊大な態度を取る人だ。それも仕方ないことではあるのだが、心が寒くなってくる。

 今日はお父様はいらっしゃらないのですね、という私の言葉に義母は顔をしかめる。

「あの人はお忙しいのよ。あなたに構っている暇はないの」

 ぴしゃりと言い放たれる。父と違って義母には私をいびりに来る暇はあるのがなんとも皮肉だ。だが、彼女にとって私はそんな存在だから仕方がないのだ。

 そもそも私は、父が私の実母である妾との不貞を働いてできた子どもである。本妻である義母からしたら、私の存在はさぞかし憎くてしょうがないだろうから、冷徹な態度をとるのもおかしくはない。 

 彼女は今日もいつもの通り、化粧に力を入れていた。真っ赤な口紅に、毒々しいぐらいの赤で色づいた目元。白い肌に赤という色は恐ろしくなるぐらい、美しく映える。西洋の御伽噺に出てくる容貌は良いが、高飛車で冷酷なお妃を彷彿とさせるようでもある。

 何年か前、瞼のあたりを色づける化粧(アイシャドーとかいったか)が鮮やかで、目元をじっと見ていたところ、私の視線に気づいた義母はきつく繕った目元で睨んだ。

「私を睨んでるの? 何よその目は!」

 そして、細く白い手で私の頬を打った。

 続けて、化け物みたいな目のくせしてと毒づいた。私の目の色がそれぞれ違うことを言っていたのだろう。私は目の片方が黒く、もう片方は緑という奇異な体質をしているのだ。これがあるから余計に疎まれていたのかもしれない。

 このとき、睨んでいるのはそっちではないでしょうかとでも言えばさらに面倒なことになっただろう。

 頬を打たれたという衝撃と恐怖は一瞬で消え去ったが、口の中が切れたらしく、しばらくの間食べる度に塩辛い味のもので口の中がつんと痛んで、食事が難儀だった。

 話が逸れた。義母が何をしに来たのかの話に戻ろう。

 義母は、実の父親はお前に構う暇などないとせせら笑った後、今日は挨拶をしに来たの、と紅茶の入ったティーカップをテーブルに置いて言った。

「わざわざ来てあげたんだから、感謝しなさい」という本音が顔に書かれているようだった。

「本当に良かったわよね、こんな立派な家に住まわせてもらえるなんて。満さんのおかげね」

 死人が出た家に住むだなんて気の毒だこと、と以前私に言ってきたのは彼女だったということをその時なぜか思い出した。

 義母は音を立てず品よく紅茶を一口飲んだ後、将来はどうするか決めているの? と私に問うた。

「いえ、まだ特には。ただ」

「ただ、何?」

 言い淀んだ私の言葉を耳ざとく聞きつける。私の答え次第で彼女の態度は豹変するだろう。

「文学に興味があるので、そういった仕事に就いてみたいです」

 嘘だ。全て心にもない適当で、なぜあんなことを口走ったのかわからない。

 義母はしばらく、ぽかんとした顔で私の顔を見ていた。だがすぐさま、はっと馬鹿にするように笑った。形の整った口元を歪めながら。

「そう。実の父親が薬品会社の社長だから取り入って、後を継ごうって気はないのね。なら安心だわ」

 わかりやすい嫌味が飛んできた。私が「化学に興味があります」とでも言えば、容赦ない罵倒が浴びせられただろう。

「貴方にその気はないのはわかってるけど言っておくわね。後を継ぐのは貴彦よ。そこは忘れないようになさい」

 わかりました、とだけ答えた。これが一番いいのだ。

 貴彦は私の三つ上で、今は大学に通っている。どう見ても聡明な男とも思えないのだが。

 しかし、正当な嫡子というだけで実の母であるこの女性に溺愛されつくしていることだろうから大学を卒業したら、父の会社で早い時期から良い役職として働けるだろう。

「まあ、巌さんはそこまで貴方のことを嫌いではないようだから、死に物狂いで勉強すれば平社員として働けるかもしれないわね。頑張りなさい」

 義母は嫌な臭いを払うように、私の前で片手をひらりと振る。

 さあ、行きなさいという合図。これ以上ここにいても良いことはないので、ごゆっくりと一言伝えてリビングを去る。

 ここは私に与えられた家、居場所だというのに、なぜ私の方がこんな態度をとらなければいけないのだろうか。

 ようやく解放されたという心地で書斎に入ると、だらしなくネクタイを曲げた青年が私を待っていた。何がおかしいのかにやにやと低俗な笑いを顔に貼りつけながら。

 本棚に肩を寄りかけた義理の兄は、本の背表紙を取り出したり、しまったりという仕草で弄んでいる。

 並べた本が奥に入り込んでしまうから寄りかからないでくださいともし言っていたら、この男は癇癪を起こして私を殴ったに違いない。そういう男だ。

「よう。元気そうだな」

 お久しぶりです、と頭を下げる私を見て、義理の兄はふんと鼻を鳴らした。

「ここにある本、全部読んだのか?」

「いえ、まだです」

 それはそうか、と貴彦はあざけるように笑った。

「全部読んだら、正気じゃいられなくなるだろうなあ。薄気味の悪い本だって多いようだし」

 兄の視線は書斎の左奥に向けられている。

 満叔父が集めていた、探偵小説が集められた棚だ。私がいない間にじっくりと書斎を眺めていたようだ。不快だった、非常に不快だった。

 ここは貴様のような愚劣な人間が入っていい場所ではない。

 本をいじるのには飽きたのか、貴彦はきょろきょろと

「ところで、お前、満叔父さんの幽霊は見たか?」

「幽霊?」

 急に何の話をしているのか、わからない。

「知らないのか? あの叔父はここで死んだんだ」

「だから幽霊が出ると?」

「ああ。満叔父さんが亡くなった後に沼田がここの状態確認をしに行ったのは知ってるだろ」

 沼田というのは、東雲家の財産管理をしている弁護士だ。

「その時に書斎を覗いたら、いたらしいぞ。本人から聞いた」

 兄は私を脅かすように、両手の指を下に向けてみせた。日本画などで見る幽霊の手つき。

「そうですか。ですが、まだ満叔父さんの霊にはお会いしたことは僕はありません」

 貴彦は、本当か? とにやにやしている。

 何がおかしいのか全くわからなかった。

「まあ、これから出るかもな。それで、ここから出ていけ! ってお前のことを追い出すかもしれない。何しろお前は、違うんだからな。そうだろう?」

 はっはっは、と高笑いする貴彦。

「違う」というのは、わかりきったことだ。

 私は正式な東雲家の跡取りではない。

 この男も、その母親もいつもそうやって私を蔑む。

 今更そんなことを言われたところで痛くもかゆくもないのだが。

「そうでしょうか」

「は?」

「満叔父さんは僕のことを追い出さないと思いますよ」

「何だと?」

 私が口答えしたので、兄の顔が赤く上気し始める。

「満叔父さんの霊が未だにここをさまよっているかはわかりませんが、彼と僕は趣味があったので、きっと受け入れてもらえるんじゃないでしょうか。少なくとも、彼に微塵も興味のなかった貴方よりは」

 お前、と貴彦は怒鳴るようにすごんだが、言葉は続かなかった。頭に血が上って反論の言葉など出てこないのだろう。いい気味だ。

「お、お前強がってるんだろ。俺にどうのこうの言われたから」

「強がる? 何を強がる必要があるんでしょうか。そもそも、貴彦兄さんは幽霊なんて非科学的なものを信じているんですか? 大学に通ってまともに学問を勉強しているはずでしょうに。……ああ、ちょうどそこですよ」

 貴彦の背後に目を向けた。

 洋机と椅子が置かれた窓際。

「何がだ」

「満叔父さんが亡くなった場所は」

 ひいっと哀れな悲鳴をあげて飛びのく姿は滑稽だった。

 思わず冷めた笑いがこぼれてしまう。

「本当に怖がっているのは貴方の方じゃないですか。そんなに怖いなら今すぐにでも出て行ったらどうです」

 どうです、と言い終えるか否かという瞬間、右の頬にがつんとした衝撃が走り、床に尻餅をついて倒れてしまった。

 怒りで醜く歪んだ兄の顔が私を見下ろしていた。

「いい気になるなよ、少し頭が回るだけだろうお前なんて! 妾の子どもの分際でぇ!」

 二発目の拳が振り上げられたとき、背後でガチャリと音がした。

 貴彦も私も音のした方を振り向く。

 ハンドバッグを手にし、帰り支度を整えた義母が立っていた。

「二人とも、ここにいたのね。……あら、何をしていたの?」

「……何でもない」

 貴彦は苛立った顔をしながらも、何事もなかったかのように振舞っている。

 私を殴っていたと知っても、母親はこの粗暴な青年のことを叱りもしないと思うのだが、そこそこの分別はついているようだ。

「あら、どうしたの、その顔は」

 熱くじんじんとし始めた私の頬を、目ざとい義母が気づく。

「何でもありません。お気になさらず」

 貴彦が般若のような形相で私を睨んでいたので、そう答えるしかなかった。正直に訴えたところで「悪い」と言われるのは私の方なのだ。

「そう、お大事にね」

 義母のほくそ笑むような顔は、自分の息子が私を殴ったということを知っている顔だった。

 だからと言って、彼女は何も言わない。むしろ喜んでいるだろう。実家でも、私を挑発する貴彦を言いくるめて殴られる私を陰から見て笑っていたのだから。

「用は済んだからこれで失礼するわ。帰りますよ、貴彦さん」

 玄関へと向かう義母の後を追うように、貴彦も続く。義母のように挨拶などしなかった。

「お気をつけてお帰りください」

 玄関で笹野が見送りをしている。

 私も似たような挨拶を口にしながら、高級そうなレースの日傘を開いて出ていく義母の姿を見ると、一気に力が抜けて座り込んでしまう。

「大丈夫ですか、坊ちゃん。……どうしたんです、その顔は」

 駆け寄ってきた笹野は怪訝そうに私の顔を見る。

 痛みはほぼ引いたが、まだ顔は腫れているだろうか。

「殴られただけだ」

「だけだ、じゃないでしょう。また貴彦さんにですか」

 頷く私を見て、全てを察した笹野がため息をついた。つくづくあの親子は人の頬を痛めつけるのがお好きなようだ。

「相変わらずですねえ、あなたがたお二人は。塗り薬持ってきますよ」

「必要ない」

「ならせめて冷やすだけでもしましょう」

 それもいい、と断ったが笹野は私を居間に連れていき、ハンカチーフでくるんだ氷をくれた。

「口の中は切れてたりしませんか」

「平気だ。ありがとう」

 氷を殴られた頬にあてると、とても心地が良かった。

 笹野のものだからか、くるんでいるハンカチーフからは煙草の匂いがしみついている。

「礼を言われるぐらいなら、こういうことはなしにしてもらった方がわたしも助かるんですがね」

 笹野の言葉はごもっともだ。

 貴彦から殴られる私を笑う大人が義母の柚子なら、笹野は殴られた私の傷の手当てをする大人だ。これまでにも何度もこの男には助けられている。

「だけど、何も言わないのも悔しいだろう?」

「そうですね、本音を言わしてもらえばあれぐらいしたっていい。反対に手を出した方が確実に負けです。『自分は言葉で反論できない馬鹿だ』って言ってるようなものですからね」

 火をつけた煙草を二本指で弄びながら、笹野は意地悪く義兄のことをあざ笑った。

「全くだ、何度でも言えばいい。口喧嘩なら僕の圧勝なんだからな」

「あなたも懲りないですねえ」

 笹野はさぞ愉快そうに笑った。

 こんなことで貴彦に勝っても嬉しくもなんともないが、笹野に褒められるのは悪い気分ではなかった。笹野は東雲家に関わる人間の中で、唯一私に一目置いてくれている人間だ。

 義母と義兄が帰ってから二時間ほど経過した。ハンカチーフはもう笹野に返したし、頬にはもう違和感も痛みもない。

 だが、疲労はまだ抜けていない。部屋で一人でこの記録を書いている現在でも、身体の中ではしばらく抜けそうのない緊張状態が続いている。

 もうあの親子が来ないことを願うばかりだ。

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